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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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義務と責任

「――昼間に、フレデリク・フローレットが訪ねてきたようです」


 背後から届いたセドリックの声は、珍しく抑揚のない、とても静かなものだった。怒っているようにも、冷たいようにも聞こえない。まるで波ひとつ立たぬ水面のような、ひどく平らな声。


 しかし、だからこそ彼が、強い憤りを抱いているのだと、ルイスには分かる。軍人には不向きなほど穏やかで、朗らかな性格をしたセドリックが、感情を一切見せぬ声音になる時は、いつも決まってそういう時だからだ。


 普段との落差があまりにも酷いので、妹のクラリスなどは兄を怒らせることを殊更に嫌う。怒鳴り散らされるよりも、冷淡なほど静かな方が却って恐ろしいのだと、いつだったかべそをかきながら呟いていたのを、ルイスはふと思い出す。やさしい人ほど怒らせると怖い、とはよく言ったものだ。


「何も聞いていないぞ」

「ええ。事前の連絡は一切ありませんでしたので、殿下が把握されていないのもしかたありません」


 物言いこそ丁寧だが、その声音は相も変わらず、少しの起伏もない。それは平坦というよりも、まるで分厚い殻の中に籠もっているようだった。その殻を超えて耳の届くまでの間に、全ての感情がごっそりと削られているような。


「それで、用件は」

「“娘に会わせろ”とのことで。リリア様への謁見をご希望でした」


 人気のない静謐な廊下を進みながら、ルイスは苦々しく眉根を寄せる。王族への謁見には、事前の申請が必要だ。その定めは、王太子妃の血縁者であっても同様である。それを、あの狡猾な男が知らぬはずがないだろうに。


「許可がない為、守衛が拒んだようですが……そのことでひと悶着起こしたようです。応対に出たクラリスにも、随分汚い言葉を投げつけたようですから、気が昂っていたのでしょう」


 ああ、だから――。燭台から落ちるあたたかな灯りを見下ろしながら、ルイスは小さく息をつく。セドリックが憤っているのは、許可なしの謁見ではなく、クラリスへの蛮行が原因だろう。


 王太子妃付の女官として務めているが、彼女はれっきとした公爵家の令嬢だ。その上、唯一の息女として、クラリスは両親からも、そして兄からも大層可愛がられている。そんな彼女を貶めるのは、公爵家に喧嘩を売っているも同然だ。そんなことをして、いったい何になるというのだろう。ただでさえ“侯爵”という爵位の維持も危ういほど、没落の寸前に立たされているというのに。


「結局、リリア様がお会いなさったそうですが、何をお話しされたのかはわかりません。……ただ、クラリスの様子を見るに、あまり穏やかな内容ではなかったようです」


 それもそうだろう。守衛やクラリスにまで喰ってかかるような男が、まさか親子水入らずを望んで来たなどとは、とても思えない。

 恐らくは、金の無心にでも来たのだろう。“王太子妃の父”という立場を笠に着て、議会や社交界で融資を募っていたという話は既に聞いている。そしてそれが、なかなかうまくいっていないということも。


 娘の幸せなど、あの男にとってはどうでもいいことだったのだろう。鼻から気にかけてすらいなかった。フレデリクにとって“王家との繋がり”があればそれでよく、その為にリリアを駒として利用しただけなのだから。


 しかし現実は、彼の思う通りにはゆかなかった。その原因をフレデリクは全て娘に押し付けたのだろうことは考えるまでもない。そうすることに、彼は少しも心を痛めないだろう。フレデリクがリリアを、実の娘として可愛がっていないことは、選考の場での物言いから明白だった。


「……お前、俺に何か隠しているだろ」


 不意に足を止め、ルイスは静かに振り返り、背後に佇むセドリックの双眸を見上げた。幼い頃は殆ど大差なかったはずの背丈は、今や頭ひとつ分ほども差がある。軍人向きの屈強な体躯は、同じく軍属である公爵譲りのものなのだろう。


 そんな彼は驚いたように目を開かせたものの、しかしすぐにふわりと笑った。先程までの冷淡さなどまるでなかったかのように。いつもの調子で、穏やかに。


「ええ」


 悪びれた様子もなくそう言ってのけたセドリックを、ルイスはしばし無言で睨みつけた。だが、すぐにそれが無意味だと悟ると、深い溜息をゆっくりと吐き出して、視線を前へと戻す。人気のまるでない、ぼんやりと明るく照らされた廊下の、その先へ。

 この男は、意外にも頑固だ。一度そうと決めたら、梃子でも動かないことはよくある。


「殿下。リリア様をお茶か散歩にでも誘われてみてはいかがですか」


 執務室へと続く廊下の角を曲がりながら、セドリックは唐突もなくそう言った。心做しかとても愉しそうに。


「なぜ、俺がそんなことを」

「リリア様のお立場を守るためです。……恐らく、フローレット卿が訪ねてきた件については、殿下にも一因があるのでしょうから」


 やわらかな口調で紡がれた鋭い指摘に、ルイスは思わず、苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。

 王太子妃はただのお飾りに過ぎない――そんな話が、議会や貴族たちの間で囁かれていることは、既に耳にしている。それが原因で、フレデリクの思惑が外れ、ひどく腹を立てているということも。


 しかし、リリアに“お飾り”であることを求めたのは事実だ。王太子妃、或いは王妃の軽率な行動によって情勢が混乱に陥った前例は、過去にいくらでもある。足場が固まりきっていない今、同じ轍を踏むわけにはいかなかった。それ以外に、リリアに“お飾り”であることを求めた理由は、ない。


 ただ傍で、黙って笑っていれば、それでいい。そうすれば“王太子妃”という座も、彼女自身も守れるだろう、と思っていた。静かにしてさえいれば、まかり間違っても、断頭台送りになることはないのだから。政敵の標的になることも、理不尽に命を落とすことも、きっとない。


 それは何も、彼女のことを愛しているからでも、大事に思っているからでもない。ただの責任であり、義務に過ぎない。“夫”としての、あるいは“王太子”としての。それ以上でも、それ以下でもない。


 けれど――。そっと目を伏せると、記憶の奥から、あの笑顔がふいに浮かび上がった。今もなお、鮮明に焼き付いて離れない、やわらかな笑み。


 レシュ語を代読したリリアに礼を告げた、あの時。彼女はとても嬉しそうに、明るく笑っていた。心から溢れた感情が、そのまま表情に滲んだような、あたたかくて、まっすぐな笑み。それはまるで大輪の花が綻んだような、とても美しいものだった。元々の顔貌がどうのというのではない。彼女の湛えた笑みそのものが、思わず息を呑んでしまうほどとても清らかで、美しかった。


 ――ありがとうございます。


 胸の奥に広がるざわりとした感覚から目を逸らすように、ルイスはくしゃりと前髪を掻き上げ、ゆっくりと息を吐き出す。諦めと呆れをたっぷり含んだ、深々とした溜息。

 背後ではセドリックが、相も変わらず柔和な声で、くすくすと笑っていた。



***



「離宮はいかがでしたか」


 翌日の授業で、リリアは久方ぶりにモーリスと顔を合わせた。

 てっきり学者かと思っていた彼が、実は軍人であると知った時には、さすがに驚いたものだ。どうやらルイスの指示で、その事実を隠していたらしい。授業の度に、彼はわざわざ軍服から私服へ着替えているのだと聞かされ、少し申し訳なかった。


 そんなモーリスは顕聖隊の一員として、ルイスたちとともに西部へ出かけていた。その為、歴史学の授業は随分と久しぶりだった。

 再開は、思わず胸が踊るほど嬉しかった。復習は欠かさず、時には予習までして臨んでいたけれど、書物で得る知識と、モーリスから直接説明を受けて学ぶこととでは、吸収できる深さがまるで違うのだ。


「とても素敵でした」


 真昼の穏やかな陽光にあたためられた廊下を並んで歩みながら、リリアはふっと顔を綻ばす。幾つもある部屋にそれぞれ飾られた、たくさんの肖像画。中には数百年前に描かれたという古いものもあったが、殆どはここ十数年の間に制作された、レオニス国王一家のものだった。


 離宮にはリオネルの肖像画だけでなく、ルイスの幼少期に描かれたものも飾られている――。こっそり耳打ちしてくれたクラリスにそう聞いて以降、どうしてもそれを見たくてしかたがなかった。今はもう見ることの出来ない、遠くに過ぎ去ってしまった幼いルイスを、どうしても。


 それで、モーリスに頼み込んでみたところ、彼は一瞬驚きはしたがすぐに破顔して、快く引き受けてくれた。殿下のことをお知りになりたいのですね、と、まるで子どものような無邪気さでそう言いながら。


 離宮にはクラリスの言っていた通り、小さい頃のルイスの肖像画が幾枚か飾られていた。池の畔で大型犬を抱いている姿。リオネルの奏でるヴァイオリンに耳を傾けている姿。それらよりももっと幼い、まだ産まれて間もない頃の姿。

 今もそれらのひとつひとつを、鮮明に思い浮かべることが出来る。きっと何度見ても飽きることはないだろ、と思った。何故だかは分からないけれど。描かれていた幼いルイスがどれも愛らしかったからでは、多分ない。それよりももっと別の、もっと大きな何かによって――。


「リリア様!」


 階段の手前まで来たところで、背後から唐突に声をかけられたリリアは、思わず足を止めて振り返る。そこには、ドレスの裾を両手で摘み、小走りに駆け寄ってくるクラリスの姿があった。

 彼女はまるで抱きつくような勢いでリリアに近づくと、薄黄色のまるい瞳をきらきらと輝かせながら、リリアの手を両手で包み込むように、ぎゅっと握り締めた。愛らしいかんばせに、心底嬉しそうな笑みを湛えて。


「殿下から、お茶のお誘いが届いております!」


 一瞬、何を言われたのか理解できず、リリアは呆けたように傍らのモーリスを見上げた。彼は、珍しく目を大きく見開き、まるで信じられないとでも言いたげな表情を浮かべていたけれど。やがて、落ちかけた沈黙を払いのけるように、ふっ、とやさしく顔を綻ばせた。


「あの殿下が、ですか? それはそれは、珍しいこともあるものですね」


 そう言いながら、彼はゆったりと笑みを深め、リリアを見下ろす。とてもあたたかな眼差しで。それはまるで、春の木漏れ日に似ている、と思った。


「リリア様、だからでしょうか。……どうぞ、心ゆくまで楽しいひとときを、お過ごしください」

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