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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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白昼夢

 あたたかな陽の降り注ぐ窓辺で、大きな背中が蹲っている。ベッドの上に横たわる小さな人影を抱き締めるようにして。シーツの上にこぼれたピンクブロンドの髪の毛が、陽光を浴びてきらきらと輝いている。


 部屋の中はとても静かだ。何の音も聞こえない。けれど小刻みに震えている後ろ姿を見ていると――泣いている、と、何故だかそう分かった。

 “分かる”というより、“感じた”と言った方が正しいのだろうと思う。胸の奥底から猛烈な勢いで込み上げる、激しい感情の波によって。

 それは途方もない、底なしの悲しみだった。深い深い、真っ暗な奈落に沈むような悲しみ。目に見えない透明な手に、胸がぎゅっと締め付けられて、とても息苦しい。まるで本当に溺れてでもいるみたいに。


 心が痛くて痛くてたまらなくて、少しでもそれを和らげたくて胸を掻きむしろうとするけれど、身体はびくとも動かない。意識だけがその部屋に存在する――そんな感覚だった。

 或いはそれは、キャンバスに描かれた一枚の絵画を眺めているような、不思議な感覚。


 ――お前なんて産まれてこなければっ……!



 目が覚め、リリアは乱れた鼓動を整えるように、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

 どうやら真昼の春陽に誘われて、うたた寝に耽ってしまったらしい。窓枠にもたせかけていた身体をゆっくりと離し、丁寧に磨き込まれた硝子の向こう側をそっと眺め遣る。

 色鮮やかな花をびっしりとつけた灌木、ゆらゆらと風にそよぐ宿根草。枝葉の隙間から漏れる小さな光の粒が、とても眩しい。雲ひとつない青空を、茶色い羽毛に覆われた愛らしい小鳥たちが気持ち良さそうに飛び回っている。


(本当に、いいお天気ね)


 すっかり冷えてしまったハーブティーを飲み干して、シェーズロングから徐ろに立ち上がる。デスクに歩み寄ると、広げたままだった紙の上に、窓から差し込む葉漏れ日が散っていた。濃紺のインクが、厚手のガラス瓶の中で静かに眠っている。


 椅子に腰掛けてペンを手に取り、リストに書き連ねられたたくさんの名前に目を移す。既に招待状を送った者には印がつけられており、それを頼りに次の招待客の名前を見つけ、淡色の紙の上にすらすらとペン先を走らせる。


 最近は授業の合間に、お茶会の準備の為に時間を割くことが増えた。招待客の選定、お茶会で出すお茶やお菓子、軽食の打ち合わせ、装飾の相談。

 中でも招待客の選定には随分と苦労した。どこかの派閥が多くてもいけないし、交友関係にまで気を遣わなければならない。クラリスと意見を交わしながら何度も何度も案を作り変え、漸くリストにまとめあげた頃には予定よりも時間が過ぎてしまっていた。


 それに比べれば、招待客ひとりひとりに手書きで手紙を綴る作業は楽だ。もちろん内容や筆跡には気を付けなければならないけれど、“人間関係”というものに頭を悩ます必要がない分だけ気持ちに余裕がもてる。


 けれどもそのせいで、さっき見た夢の一場面が、どうしても頭から離れない。身体のそここに、未だ夢の残渣がべっとりとこびりついている。陽が差し込む窓辺、小刻みに震える大きな背中、シーツにこぼれたピンクブロンドの髪の毛。目を閉じれば、瞼の裏の暗闇に、それはくっきりと、まるで今見たもののような鮮明さで浮かび上がってくる。――あの時の、強烈な絶望と悲しみをも引き連れて。


 ――記憶したものを忘れられないというのは、時に、とても残酷なことなのですよ。


 モーリスの言葉を思い返しながら、リリアは認め終えた招待状を脇に避け、新しい紙を一枚引き寄せる。そうしながら、彼の紡いだ言葉が、まるで鉛のように胸の底に重たく沈んでゆくのを感じた。

 見たものを否応なく一瞬で記憶してしまう、という異能を持つモーリスほどではないだろうけれど。それでも人には誰しも、“忘れられないもの”はあるだろう。忘れられず、それ故に苦しんでしまうものが、誰にでも。


 リリアにとってのそれは、不意に見る“白昼夢”だった。

 “白昼夢のようなもの”と言った方が正しいだろう。何の前触れもなく突然目の前に現れるそれが、本当に白昼夢であるのか分からないからだ。夢のようで、夢ではないそれが、“現実のものではない”ということはかろうじて理解出来る。そうと理解出来るようになったのは、ある程度年齢を重ねてからのことだったけれど。


 初めて“白昼夢のようなもの”を見たのは、五歳になってまだ間もない頃のことだった。


 父であるフレデリクは、当時から後妻との娘であるカトリーヌばかりを溺愛していた。まるで天使のような容貌をした彼女はとても愛らしく、その上、産まれた時から異能を発現させていたこともあり、カトリーヌへの愛情の注ぎようはひとしおだった。まだ幼かったリリアでも、異母妹だけが可愛がられているのだと十分に感じ取れるほど。


 それまでも、リリアが父に愛されたことは、一度もなかった。抱き上げられたことも、手を繋いだことも、一緒に出かけたことさえ、全く。


 今であれば諦めることも出来るけれど。しかし、まだ年端も行かぬ当時のリリアには、そんなことなど出来るはずもなく。幼心に愛されないと感じていても、それを必死に否定していた。カトリーヌと同じ様に可愛がられることも、大事にされることもないと分かっていても、頑なに目を逸らそうとしていた。現実を拒んでいたのだ。“もしも”という一縷の期待に、今以上に縋り付いていた。私もお父様の娘なのに、と。私だってお父様に愛されたい、と。


 だからある日、意を決して父の手を握った。半ば飛びつくようにして。小さな手で、幾周りも大きなフレデリクの手を、ぎゅっ、と。廊下のただなかで。何人もの使用人が見つめる前で。


 その瞬間、突然目の前に、現実なのか夢なのか分からない不思議な世界が広がった。たっぷりの陽光に照らされた窓辺、ベッドの傍に蹲る大きな背中、横たえられたままびくとも動かない人影、陽を浴びてきらきらと輝く美しいピンクブロンドの髪の毛。

 はっと我に返った時には、何故か床の上に倒れていた。お尻や膝に感じるじんじんとした鈍い痛みと、片手を上げたまま憤怒の形相でリリアを睨みつけるフレデリクの様子から、払い退けられたのは明白で。


 けれど、そうと理解するより前から、リリアの頰には涙がつたっていた。ぽろぽろと、次から次へと。

 胸が、とても苦しくて、痛くてたまらなかった。目に見えない刃で切り裂かれてでもいるかのように。激しい哀切が胸の奥を貫き、呼吸を奪っていく間も、ただ涙だけが、とめどなく溢れ続けるばかりで。


 行き場のない感情に囚われて、身動きすらとれないリリアに、しかし手を差し伸べる者は誰もいなかった。たくさんの使用人も。唯一血の繋がりのある父も。

 それどこか彼は侮蔑の滲んだ目でリリアを見下ろし、憤激のこもった声で、低く吐き捨てた。


 ――お前なんて産まれてこなければっ……!


 ふと、ペン先に濃紺の沁みが広がっているのに気付いて、リリアは小さく溜息をこぼす。折角半ばまで書き進めていたのに、これでは台無しだ。


 眉間を指先でかるく揉みほぐし、リリアはゆっくりと腰を上げ、真昼の陽光であたためられた窓辺へと歩み寄る。外は気持ちの良い快晴だ。色とりどりの庭園の真上に、澄んだ青色が筆で刷いたように広がっている。


 あの日も――。窓枠にそっと寄りかかり、静かに目を伏せながらリリアは思う。“白昼夢のようなもの”で見たあの日も、もしかしたらこんな眩い青空が広がっていたいたのかもしれない、と。


 ベッドの脇に蹲っていたあの背中は、間違いなくフレデリクのものだった。そしてベッドの上に横たわっていた、あのピンクブロンドの髪の毛をした人影はきっと――母、エレナ・フローレットだろう。微動だにしない彼女は、もう息絶えた後だったのかもしれない。


 もしあれが――あの“白昼夢のようなもの”が、本当のものだったとしたら。フレデリクはエレナの死を、心の底から悲しんでいたのだろう。大きな身体を震わせながら、亡骸に覆い被さるようにして縋り付くほど。それくらい彼は、エレナの死に心を痛めていた。それくらい彼は、彼女のことを愛していたのかもしれない。


(私はお父様から、お母様を奪ったのね……)


 元々病弱だったというエレナは、自身の命と引換えにリリアを産んだ。彼女の強い意思によって。

 けれどもフレデリクは、きっとそれを望まなかったはずだ。大切な女性の死によって産まれる命など。

 しかしエレナは死に、そしてリリアが産まれた。リリアにはどうすることも出来なかったとはいえ、結果的に彼女の誕生がエレナの命を奪ったことには変わらない。


 そんな娘を、フレデリクが毛嫌いするのは当然のことだろう。彼はリリアの誕生よりも、エレナが生き続けることを望んだはずだろうから。しかも、彼女を失うことで産まれた娘には、なんの才も価値もない。そんなリリアを、フレデリクが愛せないのも無理はない。


 ――お前なんて産まれてこなければっ……!


 とはいえ、あの“白昼夢のようなもの”で見た一場面が本当とは限らないのだけれど。深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、池にせり出した白いガゼボへと視線を移しながらリリアは思う。

 フレデリクはエレナを愛していなかったかもしれない。彼女の死を悲しむこともなかったかもしれない。――本当のところは、何もわからないのだ。今やフレデリク以外には。


(殿下は今、何をしていらっしゃるのかしら……)

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