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美しすぎる王太子の妻になったけれど、愛される予定はないそうです  作者: 榛乃


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月夜の畔で

 夕食後は、特別な用事がない限り自由時間とされている。読書に耽ってもいいし、気の置けない誰かを招いてお茶を楽しんでもいい。

 けれどリリアは、その殆どを勉学に費やすことにしていた。その日学んだ内容の復習と、翌日の予習。ダンス以外のすべての科目を、すべからくきっちりと。侍女の姿もない静かな時間は、勉強に集中するには最適だった。


 経済学の予習を終えたところで、リリアはふうと小さく息を吐き、背もたれに身を預けて伸びをする。時計の針はすでに就寝時間を越え、まもなく日付が変わろうとしていた。

 夢中で取り組んでいると、いつもこうだ。侍女の淹れてくれたハーブティーを一口含み、その冷たさに時間の流れを思い知らされる。体感以上に、時間が随分と経ってしまっているらしい。

 モーリスに薦められた歴史学の本も読みたいけれど――。ティーカップをソーサーの上へ戻しながら、リリアは苦笑する。きっと読み始めたら最後、あと少し、あと少しとなって、現実へ戻ってくるのが難しくなってしまうだろう。


 リリアは経済学の本をそっと閉じ、机上のランプに手を伸ばして火を落とす。

 厚手のショールを羽織って部屋を出ると、廊下にはひんやりとした静寂が漂っていた。隅のそこここに、小さな闇が幾つも潜んでいる。


 もちろん、警備の近衛兵は各所に配置されているけれど、あまりに気配がなさすぎて、ふと出くわすたびにぎょっとしてしまう。

 そんなリリアを、彼らは何の反応も示さずにただ静かに見送るだけだ。声をかけてくることもなければ、目で追ってくることもない。

 まるでこちらのことなど見えていないようだ。そう思いながら、廊下の角で出くわした近衛兵の前を、リリアは足早に通り過ぎる。


 決して後ろ暗いことをしているわけではない。けれども、彼らの傍を通る時は、どうしても緊張してしまう。王家の一員として、それどころか王城という場所にすら馴染みきれていない自分が、彼らの警戒する“異物”と同じであるような気がして。


 それでも歩みを止めることなく進み続けると、やがて大きな池を抱いた庭園が目の前に広がった。私室の窓からも見下ろせるそこはリリアの気に入りの場所のひとつで、昼間は散歩がてら乱れ咲く花々を見て周り、夜は池の畔でじっと夜空を眺めたりする。それだけで、気付かぬうちにこわばっていた身体から、ふっと力が抜けてゆくのだ。


 自然の持つ癒やしの力は、本当に凄い。池の畔をゆっくりと歩みながら、しっとりとした草花の匂いを肺いっぱいに吸い込んで、リリアは小さく顔を綻ばす。フローレット家の屋敷にいた頃も、辛い時はよく裏庭に逃げて気持ちを落ち着かせていた。あそこにはたっぷりの陽射しと、四季折々に咲くたくさんの草花があった。あの屋敷で唯一、やさしさと安らぎに満ち満ちていた場所。それを思い出させるこの庭の空気が、とても好きだった。


 今夜はガゼボで少しだけゆっくりしよう。そう思いながら、池にせり出すようなかたちで造られた白いガゼボへとリリアは歩み寄る。濃く深い藍色の空、煌々と輝く幾千もの星々、青白い光を帯びた大きな月。

 ゆるく吹き抜けた夜風が頰を撫で、ふわりと靡いた髪の毛をそっと耳へかける。春の夜はまだ肌寒いけれど、その冷たさがとても心地よい。澄んだ空気が、身体の奥にまで静かに沁み込んでくるようだった。


 白く塗られたガゼボの屋根が、夜の闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。そこは昼間とはまるで違う、夜の帳に守られた、静謐で神秘的な場所だった。あの中に入れば、ほんのひとときだけでも余計なことを忘れられる。そんな気さえする、とても美しい場所。


 けれど、いざ数歩手前まで近づいた時――リリアはぴたりと足をとめた。


 誰もいないと思っていたその場所に、微かな気配があった。ガゼボの白い柱に寄り掛かり、静かに池を眺めているひとつの影。艷やかな銀色の髪の毛が、青白い月明かりに照らされて淡く輝いている。

 目を凝らさずとも、その人影が誰であるのかはすぐに分かった。そうと理解した瞬間、リリアは思わず息を呑む。胸の奥が、ぎゅっと縮んだような気がした。締め付けられるような、息苦しい感覚。


 ――ルイス、殿下。


 時がとまったような気がした。ほんの一瞬だけ。肩に掛けられた上着の袖がふわりと揺れていたし、何処からともなく虫の鳴き声が聞こえてきてもいたけれど。それでも確かに、時がとまったような気がした。


 どくん、と跳ね上がった心臓に現実へと引き戻され、リリアは自分の居場所を確かめるようにゆっくりと瞬く。ルイスは池を眺めたまま、まるで彫像のように微動だにしない。青白い薄闇の中に溶け込むようにして、静かに佇んでいる。


 何故こんな時間に、こんなところにいるのだろう。胸の前で寄り合わせたショールをぎゅっと握り締めながら、リリアは僅かに目を伏せる。明日の正午には、西部へ出立しなければならないはずだ。長旅を控えているのだから、今夜は早めに休むべきだろう。あの忠義深いセドリックがそうさせなかったとは思えない。


 身動ぎすらせずじっとしている後ろ姿に、かける言葉はひとつも見つからなかった。昨夜も結局、彼と交わした言葉は謝辞だけだ。セドリックとは少しばかり雑談をしたけれど、ルイスは視線を合わすことすらしてはくれなかった。そんな彼に自ら話しかける勇気など、リリアにあるはずもない。


 静寂を壊さぬまま、そっとこの場を離れよう。何もかも見なかったことにして。それはただの逃げでしかないけれど、ルイスもまたお飾り妃なんかに、折角のひとりの時間を邪魔されたくはないだろう。


 そう思い、足音に細心の注意を払いながらそうっと踵を返そうとした――その瞬間だった。呆れを滲ませた低い声が、唐突に夜気を震わせたのは。


「――いつまでそこに突っ立っているつもりだ」


 心臓がどくりと跳ね上がり、一瞬、呼吸がとまった。いったいいつから――そう考え、しかしリリアはすぐにそれを頭の中から追い払う。多分初めからだ。ここへ来た時からきっと、彼は気付いていたのだろう。はっきりとそう言われたわけではないけれど。でも、やわらかく靡く白銀の髪の毛を見ていると、何故だかそう思えてならなかった。


 何か言わなければ――。そう頭では理解していても、声が喉につっかえてしまって、言葉はひとつも出てこない。初めて会った時のような恐怖心はないけれど、しかしセドリックやモーリスのように安心感を抱けるわけでもない。

 今もルイスとの間には、目に見えない距離がはっきりと存在している。もしかしたら声さえ届かないほど遠いところに彼はいるのかもしれない、と思うほどの大きな隔たりが。


「申し訳、ございません……」


 散々考え倦ね、慎重に選んだ言葉を、ぽつりとこぼす。思っていたよりも弱々しく、今にも夜風に攫われて消えてしまいそうなほどか細い声。これでは彼に届かなかったかもしれない、と、怯えに似た不安が込み上げて、リリアはショールを握り締める手に力を込める。


 けれど、


「謝れとは言っていないだろ」


 溜息を吐きながら肩越しに振り返ったルイスと、視線が交わった。薄闇の中でもくっきりとして鮮やかな、ルビーのように美しい真っ赤な瞳。その眼と真っ直ぐ見つめ合うのは、謁見の間で初めて会ったあの日以来のことだった。


 けれども視線はすぐに逸らされ、彼は再び池の方へと目を向けてしまった。沈黙が、月明かりを映す水面のように、二人の間にそっと広がっていく。ひと波も立てず、ただ穏やかに。

 それは決してリリアを拒絶するものではなかった。ここにいて良いのだと、そう赦してくれる、不思議なやさしさを滲ませた沈黙。そう感じ取れるのが、リリアには不思議でたまらなかった。今までまともに会話すらしたことはなかったというのに。


 そのまま暫くの間、夜の静けさの中に二人で身を溶かしていた。目を合わすことも、言葉を交わすこともなく。ただただじっと、青白く染まった池を、その周囲で眠りにつく草花を眺めながら。


 どれほどそうしていたのか、わからない。ほんの僅かな時間だったかもしれないし、もっと長い時間だったのかもしれない。感覚が曖昧になるほど渾然一体となっていた沈黙。それを破ったのは、意外にもルイスだった。


「――最近、資料室に足繁く通ってるそうだな」

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