6 もどかしくて死にそうだ
兄貴の婚約が決まったらしい。
その知らせは突然やってきた。
使用人が部屋の扉を叩き、静々と腰を折る。
開きっぱなしの扉を潜って、小さく「失礼致します」と丁寧に断りを入れて足を入れる。
「ジェン様、ロドム様が呼んでおられました。応接室までお越しになって欲しいと言伝を承っております」
「ああ、ありがとう、すぐ行く……」
こんな時はいつも嫌な想像をしてしまう。
時々兄貴とロアは内緒話をしている事を知っていた。それがジクジクと自分の胸を突いて軽やかな痛みを蓄積していく。
兄貴がにこやかに振り返れば、その腕にロアを抱いているのではないか、そんな非情な妄想が脳を揺さぶって落ち着かない。ロアとの婚約が決まったんだ、結婚するんだ、そんなことを言われるのではないかと、胸を騒がせる。
◇
応接室の大きな暖炉の前に置かれたソファに腰掛けて向かい合う様子は、兄弟の話し合いというよりかは、やや仰々しい雰囲気が流れており、少し重々しい。
見知らぬ誰かが見たらお堅い会議でもしていると勘違いを起こすかもしれない。そこにはピンと張った空気が流れている。
そんな中、空気を裂いたのは兄貴の方だった。
「婚約者が決まったんだ」
途端に、息が上手くできなくなる。はく、と言葉を出すのを空振りした唇が震えて、ようやく言葉がうまく出てない事に気が付いた。
「こ、……婚、約? 兄貴と、誰が? もしかして……」
「なんだ、心配するな、ロアじゃない」
ははは、と笑う兄貴の言葉に目を丸くする。
息が止まった。ロアの名前が出ただけで、手の平から汗が滲んで力が入る。
「それで、少し相談があるんだが……」
そんな俺の反応を知ってか知らずか、にこやかなまま兄貴は口を開いた。
相談。
その響きはあまりいい予感はしない。
「俺も、一つ相談がある」
遮ってしまおうかと頭によぎった瞬間に口からすでに飛び出していたのだから、俺の口もどうしようもない。人の話を遮るなど、マナー違反が過ぎる行為だが、兄貴は穏やかに笑みを浮かべたまま「聞こうか」と答えてくれた。
「……ロアの婚約者に選ばれたい」
「ほう」
「彼女をどうか、俺の婚約者に」
婚約者になれれば。
少しでも、彼女を縛る鎖が欲しい。
少しでも固く、少しでも短い鎖が。
ちぎってどこかへ行かない様に、彼女を繋ぐ鎖が長すぎて誰かに心を取られない様に。
———こうして、俺の希望通りに俺とロアの婚約が結ばれた。
◇
名家の御令嬢。エリザベス・テラ。
エリィと呼んでほしいと言われたが、あまり物覚えが良い方じゃないから、名前を忘れてしまいそうなので義姉上と呼ぶことにした。
凍えるほど美しい令嬢だ。
優しげというよりは強かそうな瞳に、儚げではあるものの、どちらかと言えば可愛いよりは美しい。
兄貴はよくふわふわとした綿菓子の様だと言われるが、彼女は菓子の様に甘そうではなく、氷の様な鋭さを持っている様に思えた。ツンとしていて話しかけにくそうな雰囲気。利発そう。その言葉のままの意味だ。
それは第一印象の話でだが。
俺か、兄貴か。どっちかの雰囲気に似ているとすれば俺だろう。俺は愛想は良くないし、人の顔も覚えるのは苦手な方。親しげに話しかけられて、思わず「誰ですか」と問えば泣かせてしまった事がある。やはり顔を覚えるのは苦手だ。しかし義姉上は違った様で、俺やロア、兄貴や家族まで事細かに覚えている様だった。
そして根気強い。気がつけば随分と柔らかな印象になっていった。
それもそのはず。
外見も、冷たそうで、話しかけづらい印象だったのが、柔らかな印象に変わっていたからだった。物理的に。
「ロ、……義姉上……」
「あら、ふふ、ごきげんよう。ジェン」
「…………」
ロアと俺と、兄貴と義姉上交えて何度か会っているうちに、義姉上は段々とロアの真似をする様になっていった。
ついうっかり、ロアの名前を呼んでしまいそうになるほどには、その雰囲気や髪型、服装、匂いまでも上手く真似ていて、ロアに会えない日はつい目で追いかけてしまう。
———俺は、物心ついた頃からロアが好きだった。
いつだって手元に置いておきたいし、目に届く場所にいて欲しい。
俺の囲う箱庭の中で大事に大事にしてやりたい。どんどん美しくなっていく彼女は、まだ自分の美しさをわかっていない。
「自分はモブだから」なんて意味のわからない事を言って卑下するが、いつか誰かに攫われてしまうのではないかと胸が苦しくなる。
ロアはおそらく、兄貴が好きだ。
兄貴もきっと、ロアを好ましく思っている。
婚約者ができた今でもロアにかける言葉は軽やかに甘く、心を揺さぶる言葉ばかりだ。
昔から一等ロアには優しいし、何でも1番だった。悔しいからいつだって話を遮って、ロアに触れられない様に壁になるけれど、そのせいでロアが残念そうな表情を浮かべていたら、と背後にいる彼女の表情は見れた試しがない。
◇
———イライラする。
確かに美しい。義姉上は十分に美しいのに、その上ロアの様な雰囲気を身に纏えば、まるでロアの姉の様にさえ見える。
だから一層腹が立つ。
義姉上のロアの猿真似も、それを喜び兄貴にも煮えたぎる様な苛立ちが目の前をチカチカさせて、もはや抑えているのもやっとだった。
兄貴が見せる笑みも、まるでロアを愛でる様で。義姉上の頭を撫で、愛を囁くのを見るたびに、ロアを取られてしまった様な腹立たしさが腹の奥を燃やす。
顔を合わせば軽口を言ってくる兄貴に、いつもであれば無視を決め込むが、今日ばかりはどうも腹の虫の居所が悪かった。特に最近は、義姉上の格好といい、気に食わない。
窓の外はいい天気だと言うのに、頭が痛い。
今日も義姉上が来ると楽しそうに喋るその口を塞ぎたくて仕方がなかった。
「最近のエリィは本当に可愛くてね……」
「いい加減にしろ……」
「ん?」
「いい加減にしろよ……!」
震える拳を抑えて、殴りかからなかった自分を褒めてやりたい。
「どう言うつもりなんだよ兄貴……! 自分の婚約者にロアのような見た目をさせて……! そんなにロアがいいのか? それは、それだけは譲れねぇからな…!」
「ジェン……何を言うかと思ったら……」
「ごきげんよ……あら、お邪魔……だったかしら?」
そろりと扉を開けて入ってきたのは義姉上、エリザベス・テラ、その人だった。
今日もまるでロアの様な香りと服装。本当に癪に触る。
「そんなことはないよ!エリィ、ああ、やっぱりそのヘアスタイルが君らしいよ。僕の天使」
「あら、うふふ、ありがとうロドム」
「ちっ」
「いけない、いけないよジェン」
あまりの茶番に腹が立って舌打ちをすれば、心外だとでも言う様に兄貴が言った。
その諭す様な物言いに、さらに気が立ってくる。
「ああ、ジェン。勘違いをしてるみたいだね。苦しませてごめんよ。僕が愛しているのはエリィさ。もちろんジェンも愛しているよ?」
「はぐらかすな……!」
「はぁ……放置した僕も悪かったよ。勘違いでジェラシーに燃えるジェンも可愛いものでね。反省する。エリィも、ジェンも勘違いなんだよ」
「は?」
「エリィは、僕がロアを愛おしく思っていると思ったようだ。髪も、服も、香水も仕草まで調べて真似ていたんだよ。僕のために……僕のための可愛い努力だ。可愛いじゃないか。最高だろ? で、放っておこうと思ったんだよ。でもね、ほら」
自分の想い人をジロジロ見られるのは嫌だろ? そう言って兄貴はふふふ、と笑って見せた。「だから今日ここに呼んで、説明してやめてもらおうと思ってね。ジェンにもエリィにも、ね」とウインクを飛ばした。
飛ばした先の義姉上は顔を真っ赤にして「気づいてらしたのね」と蚊の鳴くような声で呟くと、しょんぼりと床へと視線を落としていく。
「え? ……じゃあ、兄貴がロアの真似をさせてたんじゃ……」
「ないない! ないよ! ちゃんと僕はエリィの中身を愛しているんだから。愛がなければ婚約もしないさ!」
「ああ、ごめんなさい……私……。どうすればロドムの心が手に入るのかと考えてつい……彼は私を選んでくれたのに……今よく分かったわ……ごめんなさい……」
「話をすることはとても大事だと言うことさ。僕の様に見通せたら良いが、ジェン、君は少し短気なところがある。鈍いところも可愛いが、ちゃんと口に出さなければいけないよ」
「そっ……れは……」
「ロアを愛しているなら、そう伝えなくては。口上がなくては物語は始まらないよ」
愛おしげに、しかしそこには兄として心配する様な慈愛に満ちた目が俺をまっすぐに捉えている。
「……尽力する……」
口下手な自分に期待などできるものか。
長い時間拗らせてきた思いは今の関係を崩しそうで怖い。拒否されたら。そんな不安が胸に巣食う。
◇
———尽力する。
そう言った。
俺は確かにそう言ったはずだ。
フラッシュバック。
ものすごい勢いで頭を駆け巡る兄貴との会話。そう遠くない過去が頭の中で駆け回る様子はまさに走馬灯の様だと混乱する頭で思った。
義姉上と何かコソコソとしていた数日後、ロアは義姉上の匂いを纏って現れた。
は?
何だこれは。
「ど、どうかな……」
「……」
何を言えば良いのかもわからない。
いつものふわりとした髪はストンと床を向いているし、優しげな瞳に引かれたラインは上向き。
頭がグラグラする。
涙が出そうだ。
そんなにか。
そんなに兄貴に気に入られたいか。
俺じゃあ……駄目なのか?
目の前で頬を赤らめるロア。
どう見たって兄貴の婚約者を真似た姿がそこにあった。
「こい」
「ひゃ」
気がつけば、ロアの腕を引き兄貴や義姉上の静止も置き去りにして、部屋から飛び出していた。