見つけて
最高気温三十四度、ほぼ無風。走るのにはもってこいの天気だ。競技を終えて汗を拭いたのに、上から注ぐ日差しのせいでまたじわじわと汗をかき始めている。
「あ、佐野美好」
隣に座っていた片山がぼそっとこぼして、少しだけ前のめりの姿勢になった。
サノミヨシ?
トラックの方を見ると、女子の四〇〇が始まるところだった。片山があまりにも真剣な顔をしていたので、俺も競技に目を向ける。
パン、とピストルが鳴って、全員が飛び出す。走っている六人の中で、どれが佐野美好なのか一瞬で判断がついた。
尋常じゃなく速く、軽やか。どうしてそう見えるのか考えて、身体がやけに薄いことに気がついた。ふくらはぎも、陸上をやっているとは思えないくらい華奢だ。
サノミヨシは一番にゴールテープを切った。『あっという間』を実際に体験したのは初めてだった。
「……片山、あれ、誰?」
「佐野美好。知らねえの? 俺たちと同い年で、でももう超有名選手。入って三ヶ月でスター選手とかやべえよな。西中だし」
西中も俺たちの中学と同じく公立中だが、陸上部に熱を入れている。足の速い山猿みたいなのを陸上部に誘って、陸上選手として育て上げる、ということを毎年行っているらしい。先輩からそう聞かされた。
「初めて見たなら衝撃だろ」
「大会中に『走るのって楽しくてサイコーです』の顔できる人、初めて見た」
部活として陸上を始めてまだ三ヶ月のペーペーだが、それでも大会で走るとなれば緊張するし、心なしか筋肉がこわばる。ベストタイムが出せなかったり、思ったように身体が動かなかったりというのはままあることだ。
彼女はどうだろう。多分あれは自然体だ。「大会だから」「練習だから」という意識はなくて、本当に、ただ走ることだけを楽しんでいる。タイムがどうとかペースがどうとか、いい意味で一切考えていなさそうだった。
佐野美好に視線を戻すと、彼女はチームメンバーと歩きながら談笑していた。佐野美好は笑いながら、自分より小柄な女子をばしばし殴っている。
当たり前だけれど、普通の中学生だ。そう気づいた途端に彼女が余計まぶしく輝いているように見えて、すっと目を背けた。
中学時代の俺は、佐野美好のファンだったと言ってもいい。俺と彼女で走る長さは違うが、参考にできることは多い。佐野美好の走り方を一から百まで研究して、自分に適用できそうなところはできる限り取り入れた。
中三の夏、佐野美好が二高に行くらしいという噂を耳にして、公立高校である一高と二高、そして県外の私立高校とで進路を迷っていた俺は、二高に進学することに決めた。
どうせどの高校にも陸上部はあるし、走ろうと思えばどこでも走れる。推薦が来た私立ではなく、できれば公立に行ってほしいと親からもお願いされていた。
とうとう、佐野美好と一緒に走れる。中学では話しかけることすらできなかったが、高校では同じ部活で切磋琢磨し合って、あわよくば仲良くなりたい。そんな淡い期待とともに入学をした。
高校に入学してすぐに入部届を出し、陸上部の練習に混ざって、佐野美好の入部を待った。
しかし、――二週間経っても、一ヶ月経っても、彼女がグラウンドに現れることはついぞなかった。
*
教室内で女子と談話している佐野美好を、廊下からこっそり眺める。中学時代にはこんがりと日焼けしていた彼女の肌は、過去に陸上をやっていたなんて想像がつかないほど白い。
「……もう走ってねえのかな」
「誰? あ、佐野?」
「ん。書道部に入ったんだろ」
彼女は陸上部の全員の期待をよそに、書道部に入部した。先輩たちも「あの佐野美好が来る」「四〇〇の女子、うちに全然いないから嬉しい」と張り切っていたのに、肩透かしを食らわされたようだった。
「なんか、書道も小さい頃からずっとやってたらしい。めっちゃ上手いって言ってた」
片山がずずっとパックの乳酸菌飲料を啜る。中身がなくなったらしく、目の前にあったゴミ箱に容器を投げ入れた。
「誰に聞いたの」
「佐野……なわけねえだろ。佐野の書道部の友だち」
「わざわざ」
「……まあ、話題作り的な」
ちらりと横を見ると、片山はうっすら耳朶を赤くしていた。ほう、なるほど。あえてここではからかってやらないことにしよう。
「了は佐野に話しかけに行かねえの? あんなに……ファンだったのに」
ファンだったのに、のところは声のボリュームが抑えられていた。好きだった、とか、憧れていた、よりも、ファンだった、が中学時代の俺の感情としては一番近い。
「ファンだったとか、佐野美好からしたら普通にキモいだろ。だから無理。話しかけられるわけない」
「ファンだ。オタクだ」
「オタクって言うな」
「やーい、佐野オタク」
からかってくる片山の太ももに、自分の膝を強めに入れた。俺は片山のことをからかってやらなかったのに。その書道部の女子と佐野美好のことを話したのは、その子と片山の間にある共通の話題が佐野美好くらいしかなかったからだろう。
つまり、その子は片山にとって、そうやって話題を無理やり引っ張り出してまで会話を続けたい相手ということだ。最近は片山が携帯をこっそり見ている場面もよく見かけるし、そういうことなのだろう。
「太もも逝った、アイシングして」
「あんなのでそこまでなるわけないだろ。大袈裟」
「了ちゃんひどい! 冷酷非道! 悪魔!」
「なんとでも言ってろ」
ようやく飲み終えたパックコーヒー牛乳の容器を捨て、そこでちょうどチャイムが鳴った。片山と慌てて教室の中へ入る。
「せっかく同じ教室にいるんだし、話しかけに行けよ」
「やだよ、話すことないし」
「奥手だよなあ」
「うるせえ」
にやにやと笑う片山にもう一度膝蹴りをしてやろうかと思ったところで世界史の先生が入ってきて、前を向いた。高校最初の席替えで片山と前後の席になるなんて、幸運なのか不運なのか。
どうせなら佐野美好の近くの席がよかった、などと考えてしまった俺は、きっと佐野美好に対して「ファン」という言葉では表せられない感情を持っているのだろう。
板書を写す手を止めて、左斜め前方に座っている佐野美好の背中を盗み見る。
高校で――一方的に――再会した彼女は、中学の頃より髪が伸びて、肩にかかるくらいの長さになっていた。華奢なのは相変わらずだ。
しかし、ふくらはぎは相変わらずしっかりと引き締まっていたので、もしかしたら、万が一くらいの確率で、まだ走ることをやめていないのかもしれない、とささやかな期待を持った。
どうして陸上を辞めたのか、なんて聞けるわけがない。走ることがあんなにも好きそうだった佐野美好のことだから、きっと並大抵の出来事じゃないはずだ。それを今さら、しかもよく知りもしない俺に聞かれたって戸惑うだけだ。
三年間を同じ校舎で過ごしていれば、一回くらいは話す機会があるだろうか。その時に賭けるしかない。
長らく佐野美好ファンとして生きてきた俺は、自分から彼女に話しかける勇気すら持てない。
ぬ、盗み見るな! こわい!