掴んだ
わたしは昨年までそこそこ有名な陸上部のある中学に通っていて、そこそこ速い選手として走り回っていた。小さい頃から鬼ごっこや木登りが好きで、走ったり跳んだりすることが得意だった。学校のかけっこでは、一位以外獲ったことがなかった。
中学二年の時に、ある大会が開かれた。自分の競技である四〇〇mで一位を獲って、観客席からぼうっと競技を見ていたわたしは、一人の選手に目を奪われた。
それは男子の八〇〇mで、トップを走っている選手だった。すいすいと泳いでいるような、あまりの美しいフォームに、目が釘付けになる。
隣に座っていた同じ中学の男子に慌てて聞くと、「松島了。知らない? 俺たちの同級生で、八〇〇では大抵あいつが一位」と返された。
理想的な走り方だと思った。あまりに速いからがむしゃらに走っているように見えるが、そうではなかったらしく、最後にほんの少しスパートをかけて一位でゴールした。これまで見たどのレース、どの選手よりも、美しかった。
衝撃的だった。あんな選手がいたのに、ノーマークだった。なぜだか、負けたくない、とそう思った。
それからのわたしは松島くんを注視して、彼がわたしと同じ大会に出た時には絶対に見逃さないようにした。もし都合が合わなければ、母に頼んでビデオを撮ってもらった。
今思えば、この時からわたしは彼に恋をしていたのだろう。レース後に中学の友だちらしき男の子たちと笑い合う彼を見て、胸をときめかせていたのだから。でも中学の時のわたしは、闘争心なのだと勘違いをして、気づいていなかった。
彼のレースを見れば見るだけ、彼の走り方はあまりにも美しくて、わたしの指先すら届かないと思わされた。すごく、好みだった。何もかも。
走り出しからペースを落とさず一定で、でもそれすら周りより圧倒的に速い。がむしゃらに、ただただ走っているだけのわたしとは大違いだ。頭を使うことを知っている。
格好いい、勝てない。そう思って、わたしは中学で陸上を辞めた。両親や中学の部活の友だちには惜しまれたけれど、習い事としてやっていた書道を本格的に極めたいのだと言ったら、応援してくれた。
*
とにかく、駅の方へ向かって走る。息が上がって苦しい。こんなに本気で走るのは久しぶりだ。もしかしたら、中学三年の陸上の引退試合以来初めてかもしれない。
後ろから追いかけてくる足音がする。時々「まって」「佐野さん」と声がするけれど、振り向かない。ただ、その声がだんだん近づいて来ているのが分かった。
リュックサックを背負って走っているせいで、ばこんばこんと背中に当たって痛い。それに、とても暑い。梅雨特有のじめじめした空気が肌を撫でている。
「佐野さん!」
ああ、もうだめだ。後ろからがしっと腕を捕まえられて、足が止まった。ひゅうひゅうとか細い息が出る。首元の髪が汗で張り付いて気持ち悪い。振り返ったら、松島くんは涼しげな顔をしていた。
むかつく。わたしはこんなに汗だくで息も上がっているのに、彼はそれほど疲れていない。
「佐野さん、速いよ」
「……うそばっかり。手加減してたでしょ」
「……してないよ」
口籠ったことにわたしが気づかないと思っているのか、彼は平然とそんなことを言う。
怖くて、目を合わせられない。次に彼が口を開いたら、フラれる。
「佐野さ――」
「ごめん、ぜんぶ忘れてくれていいから、これまで通りでいてくれないかな。普通のクラスメイトとして。仲良くしてくれたら有難いけど、無理にとは言わない。わたしがその……松島くんを好きだとか、告白したこととかも、全部なかったことに――」
「なんで陸上やめたの?」
「は」
今度はこちらが絶句する番だった。思わず松島くんを見上げる。
「佐野さん、西中で陸上やってたよね。女子の四〇〇。なんでやめたの?」
あなたのせいで、自分のせいだ。あなたを見て、自分のやり方では到底敵わない人間がいることを知って、それで辞めた。松島了という選手に、わたしには勝てるところが一つもない。
ずっと一位を獲り続けてきたわたしの、最初で最後の挫折だった。
「松島くんがいたから」
「え?」
「松島くんのレースを観て、無理だと思った。美しすぎて。だからやめた。勝てないと思ったから」
腕は相変わらず掴まれたままだ。じっとりと汗をかいていることに気づかれているんだろうか。
「勝ちたかったけど無理だった。速くて綺麗で格好よくて、全部が好きだった。どんなにわたしが頑張っても、努力家な松島くんはつねに先に進んでた」
頭を使って走ることや、フォームを研究した。松島くんの走り方を見てから、よりいっそう陸上に打ち込んだ。
それでもだめだった。松島くんはずっとわたしよりずっと速くて綺麗。タイムが、とかフォームが、とかじゃなくて、全てがわたしの理想通りだったのだ。
「だから、もう一つの特技だった書道の方に進んだの」
いつの間にか、呼吸は落ち着いていた。心臓もいつも通りの速さで脈を打っている。
「知ってたんだね、わたしのこと」
「有名だったから。四〇〇の佐野美好」
「そうなんだ」
彼はなんのためにここまで追いかけてきたんだろう。明日改めて呼び出して断るとかすればよかったのに。自分が突然逃げ出したことを棚に上げて、わたしは心のなかで彼に八つ当たりを始めていた。
追いかけてきて、中学のトラウマを抉られている。思春期の十四歳にとっては苦しい体験で、まだ誰にも言ったことがなかったのに、初めて話すのがよりにもよって本人になるとは。
「俺、佐野さんのこと好きだったんだ」
「えあ?」
唐突な告白に、驚いて変な声が出た。彼は構わずに続ける。
「一年の時からトップ選手で、マジで、ばかみたいに速い。走ること自体が楽しくて仕方ないみたいな走り方で、すげえなって思ってて」
「……うそ」
「嘘じゃないよ。片山に聞いたらわかると思う。中学の時からずっとあいつに佐野さんの話してたから」
信じられない。存在を知られていたことも、話に上っていたことも。
「走ってる最中はメラついてて怖いぐらい速いのに、終わって友だちと話し始めたら普通の女子中学生に戻るのも、なんかいいなって思ってた」
「み、みないでよ」
「見るよ」
恥ずかしい。誰にも注目されてないと思っていた。わたしは少しでも長い距離を走りたかったから四〇〇mを選択していたけれど、陸上の花形は一〇〇mだ。当然、みんなの目が集まりやすいのも一〇〇。
「さっきのことだけど」
「……うん」
フラれるんだ。だって彼は、『好きだった』と言った。高校で書道部に入って陸上を捨てたわたしには、興味がないはずだ。
「こっち向いてよ」
わたしは知らぬ間に俯いていたらしい。重たい首を持ち上げて、彼の目を見つめる。くりっとした松島くんの瞳が、わたしを射抜いているみたいだ。
「佐野さん、俺も好きだから、付き合ってほしい」
「えっ?」
「えっ、って何? え? そうなるだろ」
「でもわたし、陸上やってないよ? 走ってた頃のわたしが好きだったんではなく?」
疑問いっぱいに聞くと、松島くんはけらけらと笑った。
「別に陸上やってなくても佐野美好は佐野美好じゃん。走ってる時の佐野さんを最初に好きになっただけで、そうじゃない佐野美好も好きだよ」
恥ずかしい。またもや耳が熱い。松島くんの笑顔が発光しているみたいに眩しくて、直視できない。かわいい、好きだ。
「付き合って、くれる?」
「は、うん、はい」
「ありがとう」
ありがとうはこちらの台詞でもある。先に告白したのはわたしだ。
どちらともなく、駅に向かって歩き出す。もうあたりは真っ暗だ。時計を見ると、七時二十四分と表示されていた。
「ずっと好きだった人に告白されて、驚いてたらダッシュで逃げられて、どうしようかと思った」
「でも松島くん、本気で追いかけてなかったよね」
「いや、わりと本気だったけど。佐野さんマジで速いね。今でも走ってるでしょ」
ぴくりと肩が縮まる。なんでばれているんだろう。わたしは今でも中学の頃のトレーニングを週に三、四回は行なっている。とにかく走らないと体がむずむずして気が済まないのだ。
それよりも。
「まつ、松島くん、て、手が」
手を繋いで歩いている。松島くんと。こんなのうそだ。
「嫌? 俺たち付き合ってるんだしいいかなと思ったんだけど」
「いやではない、けど、恥ずかしい」
「じゃあ駅まではがんばって」
心臓が壊れそうなぐらい鳴っている。これから松島くんと顔を合わせたら毎回こんなふうになって、いつか破裂するんじゃないだろうか。
明日提出の課題がどうだ、今の数学の単元がどうだなんて話をして、駅に着いた。わたしと彼の家は反対方向にあるので、ここでお別れをしないといけない。
別れ際に連絡先を交換して、改札口に向かう。
「……じゃあ、ばいばい。また来週」
「また月曜日に」
……さっきまで繋いでいた左手がすこし寂しい、なんて恥ずかしいことを考えて、ホームでひとり赤面した。
ポケットの中でスマホが震えたので、急いで取り出す。二件、メッセージが来ていた。
『佐野さん』
『気をつけてね』
うん、ありがとう、と打って返信する。なんだか、恋人っぽい。嬉しいような恥ずかしいような、へんな気分だ。
月曜日に会ったら、『了』と呼んでみよう。熱くなる耳をさりげなく髪で隠して、わたしは家に向かう電車に乗り込んだ。