プロローグ
こんなに穏やかな顔で笑う母はいつぶりだろう。
宇崎ももは自分の目の前で、柔和な笑顔でルイボスティーを口に運ぶ母を見ながら思っていた。
ももは今、十年ぶりに再会した母とカフェにいる。
以前はなかった目尻の皺や指や髪の毛が細くなっているのを見て、それだけの時間が経過してしまったんだとももは改めて実感していた。
平屋造りの落ち着いた店内。ゆったりとしたジャズミュージック。
目の前にある木製のカフェテーブルの上には、自分が頼んだホットココアと生クリームがたっぷりと乗ったイチゴのシフォンケーキが二つ並んでいる。
「お仕事はどう? やっぱり東京ってなると、大変なことも多いんじゃない」
カチャン。母は持っていたカップをテーブルに置きながらももに尋ねた。
ももは口の両端を小さく持ち上げると、「そんなことないよ」と笑う。
「確かに運ばれてくる子は多いけど、毎日充実してる――ああ充実してるって言い方はおかしいね。忙しいけど、やりがいがある仕事だよ」
「そうなのねえ。でも、ももが獣医さんか……」
母は物思いにふけるように、カップに入ったルイボスティーに目を落とした。
はっとしたももは、
「やっぱり、嫌だった?」
確かめるようにそう尋ねる。すると母は小さくかぶりを振った。
「そんなことない。すごいって思ったよ。勉強、あんなに苦手だったのにね」
そう言って母は微笑み、ももを見る。
「あはは、そうだねえ。だからあの力が私に宿ったんだもんね」
ももはゆっくりと視線を天井に向けた。くるくると回るシーリングファンと橙色のライトが見える。その景色に懐かしさを感じているわけではなかった。
天井よりももっと上の方――空の上にある、一つの魂のことをももは思い出していたのだ。
白い大福のような小さな生命。大切な友達で分身。そして失われた魂を。
それからももは逡巡する。
勉強嫌いだった小学生時代のこと。かつて『白雪姫症候群』と呼ばれる特異体質の子供だった自分のこと。
「お母さんにはたくさん心配かけちゃったね」
ももは申し訳なさそうな顔で母を見た。
「ううん。私も、もものことを信じてあげられなくてごめんね。ちゃんとしたお母さんでいてあげられなくてごめんね」
そう言って悲しげに俯く母。
その言葉に、ももは胸の奥が温かくなったような感じがした。
よかった。私はまた、会えたんだね。あの時のママに。
「いいんだよ、お母さん。だって今、こうして一緒にお茶ができているんだから。私はこうなる未来をずっと待っていたんだよ」
ももが言うと、母はゆっくり顔を上げ、「ありがとう」と言って笑った。
「あー、もうやめやめ! 今日はそんな暗い話をするためにここへ来たんじゃないんだから! もっと明るい話をしようよ! これからの、私たちのことを」
* * *
約二十年前。私の身体に『白雪姫症候群』という異能力が発現した。そんな特別な力を得た私は、母との間に大きな溝が生じ、そのまま親子関係が破綻していったのだ。
平穏だったはずの日常は、ある日突然音もなく崩れ始める。それまでの人生は一体何だったのだろうと、首を傾げたくなるくらいに。
これは再び私たちが笑い合う今に至るまでの物語である――。