夜、来たれり その①
地蔵堂を出た老紳士は、講堂があった山頂を見つめる。時刻は二十一時すぎ。講堂に火が上がってから、すでに四時間が経過している。冷たい風に乗って、焦げ臭さが周囲に漂っている。
地蔵堂は、石段を鐘楼の反対側に進んだ山の中にある。浄霊院本家の敷地を守る結界の中心部にあり、いわば結界の起点だ。そのため、使用人たちはほとんど近づかない。
老紳士は、山の闇に溶けるように移動を開始する。足音一つ立てずに、山の斜面を駆け下りる。木々の間をするりと抜け、わずか数秒で仁王門の裏手に出ると、ピタリと仁王門の壁に背中を付ける。
「……外はどうでした、義光」
老紳士が語り掛けたのは、壁の反対側―――入り口を守るように立っていた和装の男だった。
男は、口元のネックウォーマーを下げると、白い息を吐き出す。
ネックウォーマーの下に隠れていたのは、焼けただれた口元だった。
「……内から外に行くことができない。結界が改変されている」
「やはりな」
「結界の術式に変化は」
「なかった。おそらく、外から二重に結界がかけられている」
老紳士は、皺ひとつないタキシードの内ポケットから、煙草を一本取り出す。右人差し指と中指の間に挟み、先を数回、左掌の上で叩く。浅く口にくわえ、指で煙草の先をこすると、火種がないのに着火する。
「旦那様に連絡は取れましたか?」
「取れなかった。携帯回線、固定電話回線、屋敷のWi-Fi、すべて遮断されていた」
「そうですか……」
老紳士はゆっくりと、仁王門の屋根に向かってタバコの煙を吐き出す。嫌な予感が募る。これは明らかに、何者かの計画的なテロ行為だ――――――。
* * * * *
老紳士が、咲夜の住んでいる『夜桜庵』で、風牙を見つけたのが十七時半ごろ。様子見を兼ねて部屋の掃除をしようと訪れた時、破壊されている壁と狼狽する咲夜を見つける。
最初は、本当に風牙がスパイなのではないかと疑った。しかし体を酷使し、倒れている風牙と風牙を助けるように懇願してきた咲夜を見て、その疑いは消えた。
その場で応急処置をし、本邸に連れて帰ろうとした時、携帯が鳴る。
緊急の連絡だった。
――――――西浄昏斗が、講堂に火をつけた。と。
西浄昏斗、もとい風牙が講堂にいたところを、屋敷の使用人に目撃されたのは十七時過ぎ。その噂は、屋敷中に伝染するように広がり、たちまちパニック状態になる。幸い二時間ほどで火は消し止められたが、使用人たちは血眼になって風牙を探し始めた。
老紳士は、地蔵堂に風牙を隠す。そして最も信頼できる厳夜の養子、浄内義光と共に、裏で調査を開始した。
* * * * *
「……これからどうする? 噂を流した犯人が、まだ屋敷にいるぞ」
「旦那様と連絡が取れない以上、下手に動いて使用人たちを混乱させれば、敵の思うつぼでしょう」
咲夜様を守る壁が壊された。
使用人たちの噂の中に、老紳士以外知りうるはずのない情報が含まれていた。このことから、風牙が何者かに誘導され、壁を壊した可能性さえ浮上する。
敵の目的が分からない以上、下手に動くことはできない。
「使用人たちのパニックを押さえます。私が拘束したと言いふらす。もちろん、決して居場所は言いません」
「なら、俺も場所を知らない方がいいだろう」
老紳士は、煙草を地面に落とす。
月明かりが作り出す、老紳士の影が実体化する。タバコをキャッチし、そのまま握りつぶすと、タバコは跡形もなく消えた。
「……そうですね。申し訳ない。貴方を疑うわけではありませんが」
功刀風牙の居場所を知る者は、自分だけである。いや――――――二人か。
「急いだほうがいいな」
これからは時間との戦いになると、老紳士は思った。何者かによってかけられた結界を破壊し、功刀風牙を敷地の外へ逃がすことが最優先事項だ。早くしなければ、噂を扇動する何者かが、再び仕掛けてくるかもしれない。
「義光。貴方からも、私が拘束した、と皆に言っていただけると助かります。本家守備隊あたりに言えば拡散してくれることでしょう。一旦屋敷に戻ります」
「承知した」
老紳士は、壁から背を離すと、再び本邸に向けて移動を開始する。義光も、仁王門から本邸に続く道を走り始める。
――――――コトッ。
誰もいなくなった仁王門の屋根から、木製の面が落下する。
それは、恨みや嫉妬を表す般若の面だった。
地面に落ちた面は、カタカタと音を立て、小刻みに震える。
般若の目が光り、面からどす黒い液体のようなものが噴出する。
液体上の物質は、腕や足を形成し、やがて人型となる。
般若の顔が、ガタガタと動く。開かれた大きな口から、鋭い歯が伸び、ギリギリと歯ぎしりする。
“グヘ、ギェ、グゴ……”
不気味な声を発した化け物は、ゆっくりと本邸の方へ移動を開始する。
それを、屋根の上から満足げに見ていた人影があった。
――――――月明かりに照らされたのは、歯を見せニカッと笑う功刀風牙だった。
* * * * *
縁側に座って星を見ること。それは、一日の終わりに咲夜が楽しみにしていることだった。
しかし、今日だけは違う。
(ふうがさん。大丈夫かな……)
落ち着きがない咲夜は、縁側から庭へ降りる。庭は、四季折々の様々な花が植えられており、花弁がそよそよと風で揺れていた。
風が肌にあたる感覚を感じたのは、いつぶりだろうか。咲夜は、山の上から下りてくる乾いた空気を肌で感じ取る。その風は、白壁の壊された箇所から流れ込んできていた。
気持ちが落ち着く山の香りがする。二年以上ずっと、強固な結界のせいで感じることのなかった大自然の気配に、咲夜はそっと目をつむる。
――――――目をつむると、脳裏をよぎるあの少年。漂ってくる風に似た、優しく、大きな姿。
突然倒れた時は、どうなることかと思った。定期的に様子を見に来てくれる老紳士―――西浄厳太が、偶然やってきてくれたおかげで事なきを得た。
それからずいぶんと時間が経った気がする。夜は更け、いつもならもう寝る時間である。しかし、咲夜は老紳士が戻ってくるのを待ち続けていた。
「咲夜様」
「……!!」
咲夜は、壊れた壁の向こうから現れた老紳士に駆け寄る。
「ねえ厳太。あの人は、ふうがさんは大丈夫なの……?」
老紳士は膝を曲げ、咲夜と目線を合わせる。
――――――咲夜の顔色は良くなかった。
よっぽど風牙のことを心配していたのだろう。老紳士は、安心させようと優しく告げる。
「ええ咲夜様。御心配には及びません。先ほど目を覚ましました。彼は元気ですよ……」
「よかった……私、あの時は……どうなることかと……」
咲夜は、安堵の息を吐き出すと、壊れた壁の残骸を一瞥する。
「あのね、厳太……私、ずっと考えていたことがあるの」
咲夜は、着物の袖をぎゅっと握りしめ、力強く老紳士の目を見る。
「その……私! お見舞いに行きたいの。ふうがさんの」
それを聞いた老紳士は、驚いて目線を落とす。
「それは……なりません。申し訳ありませんが」
「わかってる。私がここから出ちゃダメだって。でも、行きたいの」
咲夜は老紳士の顔を直視し続ける。老紳士はその気迫に心が揺れる。
咲夜はこの二年間、自分の意見をほとんど言わなかった。
才能がないとわかったあの日――――――浄霊院家相伝の式神との親和性がないと告げられた二年前、十歳の誕生日。そこからずっと、咲夜の心は深い絶望の底にいた。
毎日様子を見に来ていた老紳士だからこそわかる、咲夜の心の変化――――――。
(こんな咲夜様を見るのは、初めてかもしれない)
しかし、外に出ることは決して許されない。混乱した屋敷の状況で、咲夜が外に出ればどんな危険が及ぶかわからない。絶対に止めなければならない。咲夜のためにも。
「申し訳ありません……私が咲夜様を、ここから出して差し上げることはできない。お許しください」
老紳士は、咲夜に深々と頭を下げる。それは、老紳士ができる最大の謝罪だった。
「そう、ね……ごめんなさい。私、わがまま言ったわ」
咲夜はつぶやくと、踵を返し、庵に戻る。その寂しげな背中を見ていると、先ほど話に出た、“愚か者”の言葉が脳裏に蘇ってくる。
――――――お前ら、何であいつをあんなとこに閉じ込めたんだよ! さくや……泣いてたんだぞ! 辛い思いをしてたんだろ。なのに何で閉じ込めたんだ!
辛い思いをさせていることなど、言われなくともわかっている。咲夜が泣いていることも、わかっている。すべては、咲夜の身の安全のためだったのだ。咲夜のためである。
――――――咲夜の、ため。
老紳士の体が震える。
「咲夜様」
気付けば、咲夜を呼び止めていた。咲夜が振り返る。
「……申し訳ありませんが、今は護衛がいません。なので、私の想術で貴方をお守りします。ご用の際は、地蔵堂までお越しください。では、ご安心して、お眠りください」
「……わかったわ。ありがとう、厳太」
「お休みなさいませ」
咲夜は、にっこりと笑って、庵の入り口を閉める。老紳士は、庵に向かって頭を下げた。
老紳士は、風牙が破壊した壁の残骸を見つめる。この壁を作ったのも、想術で強固にしたのも、老紳士だった。
老紳士は、煙草を取り出そうと無意識に胸ポケットに触る。
先ほどすでに吸ってしまっているため、もうない。
――――――そもそも、ここで吸おうとするのは、間違っている。
そう思った老紳士は、思わず舌打ちをした。
(私は何をやっている……厳夜様……申し訳ありません)
今、壁をもう一度作り直そうと思えば、可能である。
老紳士は残骸に触れ、傀朧を込める。
老紳士は壁の残骸に込めた傀朧を破裂させ、残骸を霧散させる。
咲夜のために。咲夜を守るために。この壁を、もう一度――――――作ることだってできた。
咲夜のために。そう思えば思うほど、この壁を破壊したくてたまらなくなる。
「この責任は、いずれ」
全ての残骸が消え失せると、老紳士は本邸の方へ消えていった。
「厳太……ありがとう」
庵のふすまから、様子を見ていた咲夜の口から、感謝が零れた。
老紳士こと、西浄厳太が吸っている煙草は、ショートピースという両切り煙草です。
両切り煙草というのは、吸い口が無いので、吸い方が悪いと直に葉っぱが口の中に入ってしまう特殊な煙草です。(私も詳しくはないですが……)
フィルターが無い煙草は、成分がフィルターを通さない分濃いのですが、代わりにゆっくりと楽しむことが出来るそうです。(逆に健康的だとかなんとか)
厳太は、1日に1本だけ、胸ポケットに忍ばせて、落ち着きたいときだけ吸うようにしています。(想術で着火できるので、ライターとかもいらない) 1日に2度、吸いたくなるということは、よっぽど精神的に参っていたということなのかもしれません。