代償
――――――何度も、何度も、分厚い童話集を読み返した。
その本に出てくる主人公たちは、皆不幸だった。
騙される者、泡になる者、寒さと孤独に震え、天に昇る者――――――。
孤独なまま、たった一人で、この世から消えていくのではないか。
悲しい話を読むたびに、そう思った。
最も読み返したのは白雪姫だった。
城を追い出され、何度も命を狙われ、挙句の果てには毒リンゴで殺されてしまう。
けれど、王子様が現れ、奇跡を起こす――――――。
ストーリーと自分を重ねた。
奇跡を、願っていた。
でも、現実は違う。王子様なんていない。
白雪姫の最後のページばかりに目が行く。
『いつまでも、いつまでも、仲良く幸せに暮らしましたとさ』
――――――涙がぽとりと、本に落ちる。
* * * * *
――――――白壁が崩れる。咲夜を閉じ込めていた檻が、木っ端みじんに吹き飛んだ。
ガラガラと崩れる瓦礫の音が、咲夜の心と意識を溶かす。
咲夜は、時間を忘れ去るほど、その少年を見つめていた。
「あ。えと……大丈夫か?」
風牙は、茫然としている咲夜を見て、決まりが悪そうに頬を掻く。
勢いよく壊してしまったから、驚いているのかもしれない。それならば、申し訳ないことをしてしまった。
瓦礫の上にいる風牙は、少女の方へ近づいていく。
「さくや、っていうのか。よろしくな!」
ガラ。
咲夜はようやく、意識を現実に戻す。
痛々しい血だらけの腕、ボロボロの体。近づいてくる風牙を見て、息を飲む。
早く。一刻も早く、治療をしなければ。
咲夜は、風牙の方へ自分から歩み寄る。
ふらふらで、今にも倒れそうな状態の少年は、それでも自分を心配してくれている。
咲夜は、風牙の手を握ろうと両手を差し出す――――――。
しかし、咲夜が風牙の手を握ることはなかった。
風牙は、瓦礫につまずくと、咲夜の目の前で倒れた。
風牙の体は、度重なる負荷のせいで限界を迎えていた。意識が揺らぎ、体に力が全く入らない。
先日、足を穿った時とは違う感覚だった。まるで生命エネルギーそのものが失われたかのような脱力感。まさに満身創痍。
「……そんな」
――――――せっかく差し出してもらった手を、握り返せなかった。
風牙に対する感謝と罪悪感が溢れ、咲夜の心を狼狽させる。
「……ごめん、なさい」
意識を失う直前。
風牙が聞いたのは、絞り出すような咲夜の謝罪だった。
* * * * *
山の木々は夕暮れで赤く染まり、まもなく冷たい夜が訪れる。時刻は十六時五十五分。
急ぎ足で石段を登る人影があった。
草履の乾いた音を響かせ、石段を蹴る。白い着物に袴姿、坊主頭の少年は腕時計を確認すると、深刻そうに足を速める。
山の斜面に作られた、長い石段。それは、浄霊院本家の敷地中央にそびえ立つ、古い講堂に向かって伸びている。少年は、中腹にある踊り場に差し掛かったところで、左の方へ進む。少し開けた道の先にあったのは、古びた鐘楼だった。
「えらい遅かったね。何してたの?」
息を切らして鐘楼に向かう少年に声をかけたのは、白いシャツに黒のショートエプロンを身に着けた、十代半ばくらいの少女だった。少し癖のあるミディアムヘアで、長めの前髪を髪留めで留めている。少女は、鐘楼の壁に寄りかかりながら少年が来るのを待っていた。
「……鐡夜さんに頼まれたことをしてました」
「またぁ? てっちゃん懲りないなー。年下に仕事押し付けて、自分はどっか、ほっつき歩くとかヒドい先輩だよね。ヒカル、そろそろキレてもいいんじゃない? ガオーって」
ヒカルと呼ばれた少年は、荒く吐き出す呼吸を返事にすると、巨大な梵鐘の前に立つ。
もう一度、腕時計で時刻を確認する。十六時五十八分四十秒。ぎりぎり間に合ったことに安堵する暇もなく、鐘を鳴らすために使う撞木にかかる縄を引く。
「別にいいんです。あの人はあの人なりになんかやってるんですよ」
「本当? てっちゃんこの間、厳夜様に内緒で、京都市内まで遊びに行ってたらしいけど」
あと、三十秒。十七時の鐘の音で、浄霊院家の一日は終了する。各々の仕事を止める合図となる鐘の音に、時刻の狂いは許されない。
ヒカルは、気を引き締めて縄を引き、ピッタリのタイミングで鐘を突く。
――――――重厚な空気の響きを、敷地内に伝える。はっきり伝わるように、力強く鳴らされた音。少女は、耳を押さえて渋い顔をする。
「ふう……」
ヒカルは、額の汗を拭う。万が一にも、鳴らす時間が遅れることは許されない。もし、一秒でも遅れていたらと思うと――――――。
「よかったね、間に合って。間に合わなかったらトシミさんのお説教じゃん」
「その時は、鐡夜さんのせいにします」
ようやく笑みを見せたヒカルを見て、少女も笑う。
少女は鐘楼から離れると、スキップしながら階段の方へ向かう。
「そういう永久さんは、仕事してるんですか? 僕にはそうは見えませんけど」
「私? 私の仕事は今からだよ。夕食の準備とか、洗濯もの畳んだりとか、色々しなきゃなんだけど」
永久は階段を上り始める。今から仕事、という割には仕事場に向かう気がないらしい。
ヒカルの行き先も、階段の上にある講堂だったので、後ろに続く。
「ちゃんと仕事はしなきゃだめですよ」
「いいじゃん。だって、ほっといても全部影斗が勝手にやっちゃうし」
永久は、右手で髪の毛をかき上げると、耳の後ろに乗せる。
「最近は、別に甘えてもいいんじゃね? って思うようになっちゃった。あいつの方が仕事できるし」
「それは……」
ヒカルは、気まずそうに言葉を切る。確かに永久の言う通り、影斗は仕事を過剰にこなす。
誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝ている。傍から見ていて心配になるほど、一日中動き回り、どんな仕事でも嫌な顔せずやる。なぜそこまで仕事をやるのか、正直わからない。
「でも、だからといって影斗くんに仕事を押し付けるのは良くないですよ。あの人よく、目の下にクマ作ってますから」
「ヒカルは真面目だねー」
階段を上りきった先に待っていたのは、巨大な講堂だった。ここは普段、想術の訓練や戦闘の稽古に使われている。
二人が講堂の前に来た時、ヒカルと同じデザインの着物を着た男性たちが、タオルで汗を拭いながら二、三人出てくる。
浄霊院本家に住んでいる者は、大きく二つに分けられる。
一つは、永久や影斗のような一般使用人たち。彼らは、屋敷の雑務や家事を行うことが仕事だ。
そしてもう一つが、普通に住んでいる者たち。学校に通ったり市内に仕事に出たりしている。
ちなみに、今講堂から出てきた者は自称『浄霊院本家守備隊』のメンバーだ。全員で五人しかいないが、彼らは傀異や外敵から本家を守ろうと頑張って修行している。浄霊院本家には、当主が代々受け継ぐ神霊クラスの式神『十二天将』の核が安置されている。それを当主不在の間、守ることが彼らの掲げる理想の使命である。だから日々鍛錬を欠かさないのだが――――――。
――――――げっそり。
永久とヒカルは、出てきた男性たちに「お疲れ様です」と告げる。
訓練でよっぽど疲れていたのか、亡霊のようにふらふらと階段を下りていく背中を見て、心底心配になる。
誰もいなくなった大講堂は、厳かな雰囲気を醸し出していた。訪れる夜の闇と相まって、不気味だ。
「永久さんは、なんでここに? 仕事場は下じゃないんですか」
「ヒカル、どうせ片付けするーとか言ってここに来るだろうと思って。先に向かっちゃった」
永久は、つまるところサボる気満々であった。ヒカルはため息をつくと、講堂の中に入るために、靴を脱ごうと屈む。すると、永久に着物の袖を引っ張られる。
「ねえあれって……」
永久が指さした先、講堂の中に誰かがいる。
二人とさほど年が変わらない、黒いパーカー姿の、見慣れぬ少年。
少年は、誰もいなくなった講堂の中で、一人佇んでいた。
西浄昏斗。影斗の従兄妹で、厳夜が連れてきたと聞いている。
実際に姿を見るのは初めてだった。ここ数日、屋敷の中は彼の話題で持ちきりだった。
見慣れぬ者―――特に浄霊院家では、他人に対する警戒感が強い。彼らは過去に、何かしら虐げられていた経験がある者が多い。そのため、自然と他人を警戒する癖がついていた。
二人は、無意識に柱の陰に隠れる。昏斗にバレないよう柱から顔を出すと、様子を伺う。
「何してるんだろ」
「さあ」
二人の視線の先にいた昏斗は、きょろきょろと辺りを見回すと、入り口の方へ向かって来る。
「ヤバイ。こっち来る!」
「ちょ……押さないでくださいよ」
二人は慌てて他の柱の陰に移動する。昏斗は二人に気づいていないようである。二人がよく見ると、昏斗は土足厳禁である講堂の中で、靴を履いている。ヒカルはそれを見て目を細める。
昏斗は何食わぬ顔で講堂を出ると、石段の方ではなく山の方へ歩いていく。ヒカルは、後を追いかけようと柱の陰から足を踏み出す。
「えっえっえっ!?」
「何ですか」
永久が急に大きな声を出したので、振り返る。
――――――講堂から、火が出ている。
「……」
もう一度、ヒカルが振り返った時、すでに西浄昏斗は消えていた。
* * * * *
ぎい、ぎいと床が軋む音が聞こえる。
誰かが自分のすぐ近くを歩いている――――――ゆっくりと覚醒する意識と共に、部屋に温かみのある明かりが灯る。
視界が、だんだん明瞭になっていく。風牙の目に映ったのは、部屋を囲むように配置された大量の地蔵だった。一つ一つ顔や形が違う。部屋の壁には、地蔵を置くための段が設けられており、床から天井付近までびっしりと地蔵が並んでいる。よく見ると、地蔵の中には、かわいいぬいぐるみも混ざっている。
風牙は、すべての地蔵に監視されているような気がして、気味が悪くなった。
体を動かしてみる――――――力が入らない。強い脱力感と倦怠感で、気分が悪い。その原因は、体に撒かれた太い縄だった。風牙の体は、しっかりと椅子に拘束されている。解こうとするが、びくともしない。
「うえぇ……気分悪い」
風牙の声に反応したのは、蝋燭台に火を灯していた老紳士だった。部屋中に不規則に並べられた蝋燭台の下には、墨で描かれた文様が浮かんでいる。
「……もう起きた。信じられませんね。普通の想術師なら、平均三日は眠り続けるというのに」
低く、無機質な声色。風牙はその声の主に覚えがあった。屋敷に来てすぐ、車いすを押して現れた老紳士。淡々と吐き出された言葉の裏には、疲労の色が見え隠れしている。
すべての蝋燭台に火を灯し終えた老紳士は、風牙の前までやってきた。
「自分が何をしていたのか、思い出せますか」
老紳士は、椅子に座っている風牙の前で立ち止まる。背が高く、姿勢も良い。立ち姿だけで、存在感がある。
「んと……俺」
風牙は、重い頭で考える。
助けを求める声を聞いて―――壁を壊し―――少女を助け出した。
「そうだ……! さくや!! さくやはどうなったんだ!?」
「……呼び捨て、か」
老紳士は風牙を睨みつける。
「あの壁を壊した意味、それを貴方はわかっているのですか」
「お前らがあいつを閉じ込めたんじゃねえのかよ!」
「閉じ込めた、という表現は間違っています」
老紳士は大きなため息をつくと、風牙から目を背ける。
「今の貴方の状況……それは、非常に芳しくない。いや、最悪の状況と言ってもいいでしょう。私は、旦那様ほど優しく状況を説明できません。貴方が壊したあの壁は、浄霊院本家で最も重要な機密事項の一つ。それを、屋敷に来てからたった一週間の貴方が見つけ、壊したとなれば、どういう疑いが掛けられるか」
「意味わかんねえ!」
「少しは考えなさい」
速答する風牙に、老紳士は声をさらに低くする。
「お前ら、何であいつをあんなとこに閉じ込めたんだよ! さくや……泣いてたんだぞ! 辛い思いをしてたんだろ。なのに何で閉じ込めたんだ!」
老紳士は、風牙の言葉に少しだけ目を見開く。口を開き、何かを言いかけて、止めた。
「……貴方が知る必要はありません」
老紳士は風牙に背を向ける。風牙は、拘束を解こうと再度体を動かす。体に力が入らないのは相変わらずだったが、それでも腕に巻き付いた縄を何とか解こうと試みる。結果、縄が腕に食い込み、痛みがあろうとも気にしない。
「……わからん」
老紳士は、ぼそりとつぶやいた。もう一度振り返り、風牙を直視する。
「縄を解いてどこへ行こうというのです」
「あ‟? んなもん決まってんだろ! さくやのとこに行くんだよ! ほっとけねーだろ!」
老紳士は、目の前にいる功刀風牙という少年に強い嫌悪感を抱いていた。
事情も知らないのに、見ず知らずの人間を、自分を犠牲にしてまで助けようとする姿勢。
――――――理解できない。
感情で、傀朧をブーストさせることは、危険な行為だった。爆発的な力が手に入る代わりに、心身に莫大な負荷がかかる。一歩間違えれば死ぬことだってあり得る。そんな危険な行為を、顔も見たことのない壁の中の少女を助けるために、平然とやってのける。
その上、回復しきっていない身体を酷使し、まだ助けようとしている――――――。
「いい加減にしろ……貴方の腕は応急処置しかしていないのですよ!」
老紳士は鋭い殺気を迸らせ、振り向くと、風牙の肩をつかむ。
風牙は一気に体の力が抜け、肩を落とす。
「くそ……力が抜ける……なんでだ」
「ここは、浄霊院本家の結界を司る“地蔵堂”です。
貴方が拘束されている椅子を、浄霊院本家に見立て、疑似的な箱庭を形成しています。 貴方を見つめる百体の地蔵。これら一体一体に傀朧を込めている。外側から内側へ向けて力を注ぐことで、結界をより強固に監視する効果があります。
貴方は今、監視の対象―――つまり箱庭の中の浄霊院本家そのものだ。
結界の効果もあり、先ほどまで拘束を緩くしていましたが、目覚めた貴方には緩すぎたようだ。これでもう、不自由のない程度しか体は動かせない」
風牙は、老紳士の言ったことがよくわからなかった。ただ一つわかることは、自分は拘束されているということだけだ。
「今後、貴方がこの屋敷で働くことは絶望的です。正直、私は貴方とこれ以上話をしたくはない。旦那様に貴方のことを頼まれた以上、最後まで仕事はする。深夜一時、貴方をここから逃がしに来る。貴方のできることは、すべてを忘れ、大人しく家に帰ることだけです」
「はあ!? ふざけんな!」
「それができなければ、貴方はきっと、ここで殺されるでしょう」
風牙は焦った。なぜ、そういう話になっているのか理解できない。だが、老紳士の言っていることは本当のようだ。
「それまで、大人しくしていてください。私は、屋敷の混乱を止めに行きます」
老紳士は、風牙に背を向け、今度こそ小屋から出て行った。
静寂が辺りを支配する。風牙を囲むように配置された地蔵に、一層強く睨まれているような気がした風牙は、下を向く。
(くそ……どうなってんだよ)
咲夜は今、どうしているのだろうか。少女の悲しげな声が、風牙の頭を埋め尽くす。このままでは、また閉じ込められてしまうかもしれない。
助けに行かねば。風牙の本能がそう告げる。
しかし、体に全く力が入らなくなった風牙に、為す術はない。ただ時間が過ぎていくのを待つことしかできなかった。