最後の星 その②
暗闇が晴れる――――――。
風牙が傀域から離脱すると同時に、背中から地面に落下し始める。風牙の視界に、真っ黒な球体が広がっていた。その球体が、高密度の傀朧で構築されていることを認識した瞬間、背中が打ち付けられる。
「……風牙くん!」
風牙が傀域から出てくるのを見計らっていたように、風牙の前に永久が駆け付ける。永久は素早く風牙の肩を持つと、傀域から離れるように歩き始めた。
「歩ける? 急いでここから離れないと……」
「でもじいさんが……!」
永久は苦い顔で首を横に振った。
「……君は生きる義務がある。そうでしょ?」
「でも、俺は……何も……返せてねえ!」
永久と風牙は屋敷があった方角へ歩いていく。そこには、意識を失った咲夜を背負うヒカルの姿があった。その傍に、応急処置を施された重症の鐡夜と、その看病をしていたトシミ、そして地面に傀朧で陣を描く見慣れぬ黒スーツの女がいる。
「みんな……」
風牙は意識を失っている咲夜を見て思わず顔を顰める。
〈放浄の儀〉。先ほど紅夜から聞いた儀式で、咲夜の中にある膨大な傀朧は傀玉になった。それを利用して、佗汰羅の傀朧を解放し、すべての人間に傀朧を還元する――――――そうなれば、傀朧に適応できる人間だけが生き残り、そうでない者は死ぬ。世界中の人間が傀朧を知覚できるようになれば、傀異も認識できるようになる。
そうなれば、世界が混沌とした魔窟へと変貌してしまう。風牙は何としても咲夜の傀玉を守り切らなければならないと痛感する。
「傀玉は!?」
「大丈夫。私が持ってる」
永久は小さな箱を風牙に見せる。
「これは……風牙くんに託そうと考えている。でもまだ」
永久が風牙の背後にいた黒スーツの女を一瞥する。黒スーツの女、副島法政局長は地面に魔法陣を描き終わると、永久と風牙を睨みつける。
「事情は避難した後にそれぞれからしっかりと聴取させてもらう」
その言葉に小さな女性、トシミが立ち上がる。
「いえ。私から説明するわ。この家の家政婦代表としてね」
「貴方は一体何者なんだ……」
「だから、家政婦よ家政婦」
「家政婦が漆扇を無力化できるか!」
フンと胸を張るトシミを見て、副島局長は言葉を失う。永久はその場にいたメンバーを確認し、トシミに問いかける。
「これで全員揃いましたか?」
「いや。まだよ」
「お~い」
その時、旭灯に肩を持たれながらこちらに向かって来る重症の中年男性が森の中から手を振ってきた。その姿を見た副島局長は目を細める。
「修臣さん!? 大丈夫ですか?」
「いや~ちょっと困っちゃったよ。まさか森ごと操るなんてね~。でももう大丈夫。倒したから」
御影がやけにニコニコしているのを見て、副島局長はため息を吐いた。
「心配して損しました。それで、その女の子は? 自分で歩けるでしょ」
「いやいや、僕重症だよ?」
「歩けるでしょ?」
「……はい」
御影はしゅんとして旭灯から離れると、旭灯に礼を言った。
「旭灯ちゃん、ありがとね。君と戦えてよかったよ」
旭灯は御影の言葉に、極まりが悪そうに頬を掻いて答える。
「いや、ウチは助けてもらってばっかやった。こちらこそ、ありがとうございました」
それを聞いた御影はにっこりと笑って手を上げ、旭灯に背を向ける。
「それで、今はどういう状況なんだい?」
「修臣さんも見たでしょう。あの圧倒的なプレッシャーと傀朧……その存在と戦う厳夜会長の姿」
「うん。見たよ」
想術師の常識では考えられない傀朧の量、質。そして、一瞬で山を荒地に変えた圧倒的な想術。それを行使していたのは――――――。
「功刀風牙くんだったね。厳夜さんと戦ってたの」
御影はその場にいる浄霊院家の関係者たちの顔を見渡すが、皆目を背けて何も語らなかった。肝心の風牙は、申し訳なさそうに俯いている。
「まあ君は歴代最年少で想術師免許を取った少年だ。割と有名人だから、僕らでも知っているけど……それで、楠野部長は?」
「あのゴリラはいつの間にか気配が消えていました。というか、気にしなくてもいい」
「まあそうだね。あの人は放っておこう」
「〈法政局〉の部隊は、この家政婦のご婦人に無力化されましたので先に上がらせました。周辺を張らせていた何人かは、連絡が取れないですが……」
「フン。軟弱軟弱。修業不足じゃないの」
副島局長は再度ため息を吐く。だが今は、トシミの正体を考えることより、目の前に広がっている巨大な傀域について考えなければならない。
「あの傀域はまずいね」
御影は目の前に大きく広がっている傀域を睨みつける。傀域はゆっくりと膨張しており、すでに山一つ分ほどの大きさになっていた。
御影は目を細め、浄霊院家関係者たちに圧をかける。
「これくらいは、説明してくれてもいいんじゃないの?」
「……わかりました。では、僕から」
ヒカルは懐から太い書簡を取り出すと、御影に手渡す。
「これは、厳夜様の遺言書です。これを御影さん、貴方に渡すようにと」
「……僕が指名されたの? それは嬉しいね」
御影は肩を竦め、書簡に目を通すと、すぐにジャケットのポケットに入れる。
「厳夜さんは、死ぬつもりなの」
「はい。あれは、厳夜様の想極です。風牙くんの身体を乗っ取っていたバケモノごと、周囲を消し飛ばします」
それを聞いた風牙は、驚いてヒカルに詰め寄る。
「それじゃあじいさんは!」
「命を懸けた想極なんです。あれは」
風牙は歯を食いしばり、移動用の陣から出て行こうとする。しかし、ヒカルに肩を掴まれ腕を後ろに回され、拘束される。
「離せ! 俺はまだ、じいさんに……!」
「風牙くん。僕たちにはさっぱりわかりませんけど、これは厳夜様が人生を懸けて選んだ答えなんですって。君は助からなければならない。それは、わかりますよね?」
ヒカルは風牙を睨みつけ、冷たい声で告げる。まるで別人のような冷たい態度に、風牙は腕の力を抜いた。
ヒカルの言うとおりだ。自分の成すべきこと。それは、紅夜に言われた通り、故郷に戻ること。
この事態を打開するための鍵が、屋梁落月にある。
――――――すべて、やり直せる。
紅夜の言ったことが正しければ、その希望に懸けたい。それが、今やるべきことだ。
「皆さん。移動しましょう」
「言われた通り、移動用の術式は出来ている。あとは起動させるだけだ」
「はい。開始しましょう」
「そうだ。お前たちは想術師協会本部に戻れ」
「「「!!」」」
その時、突如陣の中央に現れたのは、永久を襲った朝服の男だった。
一同は男の姿にくぎ付けになる。背筋に悪寒が奔るほどのプレッシャーが周囲を駆け抜け、硬直して動けない。
男は意識を失っている咲夜を抱え、パチンと指を鳴らす。その瞬間、移動術式が起動し、陣の中にいた人間は、光に包まれ、姿が徐々に消えて行く。朝服の男は風牙を蹴り飛ばして陣の外に出すと、空いた手で永久の手を無理やり引いて陣の外へ脱出する。
陣の中にいた者たちは、三人を連れ戻す間もなく皆移動してしまう。後に残ったのは咲夜、永久、風牙の三人と、陰鬱な表情の朝服の男だけだった。
「は、離して!!」
「お前には借りがある。だから、見届けてもらおうと思ってな。お前たちの厳夜が死ぬ様をな」
朝服の男、勾陳は、永久が持っていた咲夜の傀玉を無理やり奪い取る。
「答えろ。浄霊院咲夜から抽出したこの傀玉……一体何に使おうとしていた?」
勾陳は咲夜を乱暴に傍に下ろし、再び指を鳴らすと、永久の足元に筒状の結界が出現する。結界の中に青い電撃が奔り、永久の全身は焼けるような痛みに蝕まれる。
「いやあああああっ!!」
「答えろ」
「てめえ……やめろ!!」
勾陳は殴りかかる風牙の腕を簡単にへし折り、体を地面に叩きつけると、風牙の上に腰を下ろす。
「功刀風牙。以外に落ち着いているな。貴公、もしや事態の意味を理解っているな?」
「!!」
「功刀家の成り立ち、佗汰羅という傀異、そして己の運命もすべて」
「……だったら何だってんだ! てめえらが〈十二天将〉か? 何で世界を滅ぼそうとするんだ!」
「世界を滅ぼす……そう言われたのか。実に不愉快だ」
勾陳は暴れる風牙の身体を重力のような力で地面に縛り付ける。体を何とか動かそうともがくが、びくともしない。
「滅ぼすのではない。人類を、新たな位階へ導くのだ」
「てめえらが……とうちゃんとかあちゃんを……!!」
「そこまで知っているとは……浄霊院紅夜の計画とは、何もできぬお前に悪知恵を植え付けることだったようだな」
勾陳は風牙の頭上で肘杖を付くと、膨張を続ける厳夜の傀域を睨みつける。
「我らが主は、人類が如何に傀朧と相容れぬかを見てこられた。傀朧は、人の想像から生まれるものでありながら、人を害する。ならば、傀朧を支配し、傀朧を用いる人間のみが存在すればどうなると思う?」
「……?」
「傀異の発生を真にコントロールできるようになるのだ! 傀異さえ生まれなければ、我々想術師が身を挺して人を守る必要はなくなる。影からの犠牲はなくなるのだ」
勾陳は声を荒げる。
「浄霊院咲夜の傀朧は、すべての人類との繋がりを創出する。この傀朧を解き放ち、全人類とのパスを形成すれば、佗汰羅の力で全人類に想術を発現させることができる。そうすれば、人類は傀朧に適応という形で進化するのだ!」
「ふざけんじゃねえぞ!」
「何?」
風牙は怒りを滲ませ、重力を振りほどいて強引に立ち上がろうと試みる。
「傀朧に……適応できなかった人たちはどうなるんだ」
「それが最後の犠牲となるだけだ」
「そんな犠牲の上で、人類が進化する? ふざけんじゃねえ!」
じわじわと風牙の拘束が解けていくのを見た勾陳は立ち上がり、目の前の永久がいる結界を拳で叩く。
「娘、もう一度聞く。なぜ厳夜は我らの計画を知っていて、咲夜から傀朧を取り去ることをした。我らに反抗するなら、逆のことをするのが筋だ。さあ、言え。これを使って何をしようとしていた」
勾陳は手に咲夜の傀玉を持ち、挑発するように永久に見せつける。荒い呼吸を繰り返している永久はその言葉を聞いて、勾陳を馬鹿にしたように笑った。
「そんなこともわからないの?」
「何」
永久は勾陳を睨みつけると、訴えかけるように言葉を紡ぐ。
「助けたかったのよ……! 自分と同じ、運命に翻弄された孫を」
永久は勾陳の顔面目掛けて結界を叩き返す。
「アンタにはわかんないんじゃない? 主とか、人類の進化とか、訳の分からないこと言って、傍観者気取って……何様のつもりよ!」
「……言わない、ということだな」
「世界を破壊したいなら、アンタ自身がやりなよ!」
勾陳は、再び永久を痛めつけようと、腕を振り上げる。しかし、拘束を振り払った風牙が勾陳の足を掴んで抵抗する。
「この……」
「返せよ」
ミシミシと音を立て、足を掴む力が強くなっていく。
「傀玉を返せ!」
風牙が叫んだ時、背後の黒い空間が大きく揺れる。
地鳴りのように周囲が揺れ、その揺れは風牙たちを襲い、身体のバランスを奪っていく。
「厳夜め……この傀朧の動きは……!」
揺れと衝撃で、永久の周りに展開していた結界が解かれ、永久は地面に膝を付いてしまう。
(このままだと、厳夜様の爆発に巻き込まれてしまう。今しかない……!)
永久は揺れに抗うように咲夜の元へ這うと、咲夜に呼びかける。
「咲夜様!! 起きて! お願い!!」
「……ぅ」
揺れと呼びかけに応えるように、咲夜は重い瞼を開ける。飛び込んできた永久の心配そうな表情を見て、すぐさま状況を思い出す。
「そうだ……風牙さんは!?」
「咲夜様逃げて! このままだと爆発に……」
「逃がすと思うか!」
勾陳は風牙の腕を踏みつけ、足の拘束を解くと、咲夜の腕を掴んで後ろ手に回し、身動きが取れないようにしてしまう。
「起きたのは好都合だ。今からお前の祖父が、愚かに自爆するところを見るがいい」
「じ、ばく……?」
咲夜の顔が青ざめる。永久は地面の砂をありったけ掴むと、勾陳の顔面目掛けて投げつける。僅かに怯んだところを、起き上がってきた風牙の突進が襲う。
永久は咲夜の腕を掴み、傀域とは反対方向へ全力で逃げる。咲夜もその動きに何とか食らいついて走る。
勾陳は風牙の首を締め上げると、右手の人差し指と中指を重ねて逃げる二人に向ける。
――――――光の粒子が指先から放たれ、まっすぐに永久の鳩尾を貫通する。
永久は力なく前のめりに転倒し、それを見た咲夜は唖然とその場に立ち尽くしてしまった。
「とわ、ちゃん……?」
「だ……め。たちどまっちゃ……」
しかし、永久は口から大量に吐血しながらも、咲夜の腕を掴み、逃げろと訴え続ける。
「にげでッ!!」
その瞬間、永久の頭が打ちぬかれ、あっけなく咲夜の前で頭が弾け飛んだ。
「いやああああああああっ!!」
咲夜は絶望のまま、その場に崩れ去る。全身にべっとりとついた永久の血は温かく、それが咲夜の思考を硬直させていく。
なんで。どうして。わからない。わからない――――――。
「……これほどまでに怒りを感じたのは何時ぶりだろうか」
永久を殺した勾陳は、咲夜の前までやってくると、永久には一瞥もくれず咲夜を見下ろす。
「もうすべて不必要だ。お前たちの死を以って、主の予言を完遂させる。だから安心して死ぬといい」
咲夜は恐怖で硬直した顔を何とか動かし、勾陳の方を向く。その時咲夜の視界に入ったのは、腕や足が不自然に折れ曲がり、地面に倒れている風牙の姿だった。
それを見た咲夜の心は、完全に凍り付いてしまう。
絶望した様子に何の反応も示さなかった勾陳は、腕に高濃度の傀朧を纏わせ、手刀の形を作り、咲夜の上から振り下ろした――――――。




