運命は暗闇の中で
森が脈動する――――――。
厳夜は、膨れ上がり巨大な要塞のようになった森を山の上から見下ろしていた。燵夜の傀朧に侵食される範囲は刻一刻と増加し、周辺一帯を飲み込もうとしている。
先ほど厳夜は、大量の植物に飲み込まれる寸前、自身の想術〈星天の霹靂〉により瞬間的に脱出し、今に至る。
(旭灯……)
閉じ込められた旭灯の身を案じつつ、御影が傍にいる安心感もあった。飲み込まれたのはあと一人、法政局長の副島美咲もいるが、彼女なら自力で脱出できるだろう。
「……さて。出てきたらどうだ」
厳夜は背後に目配せを送る。すると茂みから、山に似合わない朝服を着た長身の男が姿を現した。
「長年お前たちの力を使っていると、無意識に頼ろうとする自分がいて嫌になるよ」
「厳夜。どうしてそうも余裕でいられる」
朝服の男、勾陳は細い瞳をさらに鋭くし、厳夜を睨みつける。
「貴公は既に、運命という因果の外に出てしまっている。これからの貴公の運命は、滅びのみだ。予言に従わなかった末路を、もうじき知ることとなる」
「わかっているよ」
「わかっていて、裏切るのか?」
厳夜は勾陳の正面に立つと、堂々と睨み返す。
「今からは一人の人間として、運命を切り開く時間だ」
「無駄だと、わかっているはずだ」
「無駄じゃないさ」
「ならば……引導を渡してやろう」
勾陳は、拳を厳夜の腹に突き立て、そのまま勢いよく貫通させる。大量の血液が噴出し、厳夜の腹に大穴が空くが、厳夜は笑みを浮かべて勾陳の肩を掴む。
「捕まえたぞ」
その時、勾陳の見ていた厳夜の像が揺らぎ、煙のように溶け出す――――――。
驚く間もなく、勾陳の全身を包み込んだ煙は、すべての感覚を遮断していく。
(これは、なんだ……)
真っ暗な空間に、一人ぽつんと立っている――――――そんな状態の勾陳は動揺を隠せない。
「やっと隙を見せたな。辰の剋、南東神将勾陳よ」
「……貴公」
暗闇の中、鮮やかに浮かぶ真っ赤な長髪―――そのシルエットに心当たりのあった勾陳は、遮断された感覚を研ぎ澄まし、その存在を刮目する。
「受肉した其許と相まみえるのは初めてだったな」
「浄霊院、紅夜……!! どういうことだ」
勾陳の目の前に、薄紫色の着物に身を包み、真っ赤な長髪をした若い男が現れる。肌は白く、その目は澄んだ黄金色をしており、存在感のある眼光が勾陳を捉えていた。
「わからぬのは当然だ。なにせこの時のために五十年もの歳月をかけたのだ。練った傀朧の量も質も、其許の想像を絶するものだろう」
「そのようなことを問うているのではない。どのような術を使おうと、〈六壬神課の御札〉が予言した通りになるはず。貴公の登場は、予言には書かれていな……」
勾陳は言いかけた言葉を止める。〈六壬神課の御札〉は完璧な運命を予言する。だが、僅かな綻びが生じた際、細かい運命まで見通すことができない場合がある。そのために浄霊院家が調整役として、運命を決定させる。
これが、千年間変わらなかった構図だった。
「まさか……〈六壬神課の御札〉に干渉したのか」
「流石に鋭い。運命は変わらない。予言は絶対だ。当然、これから訪れる滅びの運命は回避できないだろう。だが、札が示した運命は、果たして本当の運命なのだろうか」
「貴公……!」
紅夜の言葉に、勾陳は焦りと怒りを滲ませる。
「そう悔いるな。其許らなら、わかるな? 私の……いや、私の中にいる戊の剋、北西神将〈天空〉の持つ想術の中で、最も凶悪な術、すべてを騙す蜃気楼、想極、偲雲。それを、〈六壬神課の御札〉に対して使ったまで」
勾陳は全身のあらゆる器官に傀朧を纏わせ、奪われた五感を取り戻そうとするが、上手くできない。
頭の中に、はっきりと紅夜の声が響き続けるだけだった。
「莫迦な! そのような隙は……」
「少なくとも、私にはないな。だが、厳夜にはあるだろう」
紅夜は動けない勾陳の傍までやってくると、憐れむような笑みで勾陳を見据える。
「私と厳夜は定期的に入れ替わっていたのだ。想極、偲雲を身にまとって」
「そのようなことをすれば我々が気づく!」
「偲雲は一度発動すれば止まらない。世界そのものを騙す強力な幻術だ。故に、最初から使用していたまでのこと。五十年前、お前たちが真実を知った私を消そうとした時、私が厳夜に命を救われ、〈天空〉の傀玉を体に埋め込まれた時から、ずっと」
「〈天空〉が、貴公に力を貸したというのか」
「ああ。彼は気まぐれで誰の味方もしない。だからこそ、私たちの無謀な計画について面白がってくれたよ。彼にとっては、退屈こそ悪だ」
「……」
紅夜の姿が移動し始める。やがて勾陳の背後に回り込むと、手がそっと肩に触れる。だが勾陳は、触れられている感覚がない。
「さて、真実は告げた。もう術で世界を騙す必要はない。ここからは、私たちが反撃する番だ」
「……フフ」
勾陳は不敵な笑みを浮かべる。その笑みは、紅夜を称賛しつつも、どこか余裕のあるものだった。
「見事だ、浄霊院紅夜。つまり、我々が唯一把握できなかった浄霊院幾夜の正体は、貴公が創り出した実体のある幻だったというわけか。そして貴公は厳夜と争うふりをしてわざと浄霊院家を貶め、我々に計画を急がせたというわけだ」
「如何にも」
「だが解せんな。運命に抗うだけなら、このように多くを巻き込み、犠牲を払うようなやり方をする理由がない。口ぶりから世界の滅びを回避する気もないようだ。ならば一体、何が目的なのか……」
勾陳は不敵な笑みのまま続ける。
「なるほど。貴公らはそんなに咲夜と風牙を救いたいか」
「そうだ。隠す気はない。偶然この世に生まれ出ることで、運命に翻弄された朧者と、世界の命運を握る凶悪な傀異の器が出会うことで、人間の選別が始まるのは、千年前から決まっていた運命だったのだろう? だが彼らは未来を生きる若者だ。どれだけ不幸になろうと、運命に翻弄されようと、其許らの思惑に従って滅びる義務はない」
「よく言う。それは、貴公らができなかったことを、咲夜と風牙に押し付けているだけだ」
「たとえそうだとしても……私には友との約束がある」
紅夜は暗闇の中から無数の鎖を出現させ、勾陳を拘束する。勾陳は抵抗することなく虚空を見つめ続ける。
「其許には大人しくしていてもらおう」
「……いいだろう。私も貴公らの抵抗の果てに何が待ち受けるのかを見たくなった。だが急げよ? 私を長く拘束できるものなどないし、功刀風牙は未来を生きる気持ちなど、もうすでに失っているかもしれん。他でもない、貴公のせいでな」
そう言い残し、勾陳の意識は闇に飲まれて消える。
暗闇に残った紅夜は、七年前に起こったあの出来事を思い出していた。
炎の中、風牙の父親である雷牙にとどめを刺した時、瓦礫の奥で茫然と立っていた少年の、絶望した表情が脳裏に焼き付いて消えない。
「風牙……私を探しているのか。完璧に別人に擬態していたはずだったのだが……成長したな」
紅夜はそうつぶやき、指を鳴らすと、一瞬で暗闇が晴れ、元いた山の頂上が現れる。
「だがもう少しだけ、殺されてやるわけにはいかない」




