侵食
――――――ああ、なんで。
風牙は思わず逃げてしまった自分に、深い自己嫌悪を抱いた。
さっきから頭が働かない。あの声が聞こえると、自分の意識が掠れ、自分が何をしているのかわからなくなってくる。
風牙は誰もいない洋館の入り口まで逃げてくると、膝を抱えて蹲った。
これまで感じたことのない得体のしれない恐怖に、目から涙が零れ落ちる。
風牙はこれまで、自分の意志を貫いてきた。故郷を焼かれ、大切な者たちを奪った浄霊院紅夜に復讐するため、すべてを投げ打って想術師になった。
しかし、自分はこの屋敷に来てから何も成し遂げていない。手がかりを掴むという目的も果たせないまま浄霊院家の問題に巻き込まれ、心も体も深く傷ついた。
そんな今の自分を嘲笑うように聞こえ始めたあの声は、風牙をどん底に引きずり込もうとしている――――――。
「俺は……」
雨がまた降り始めた。移り気な天気だった。
勢いを増した雨が、風牙の体に沁み込んでいく。体温が奪われ、冷たく意識が沈んでいく。
自分が自分ではなくなっていく恐怖――――――。
自分は一体何をしにここへ来た。それを何度も自問自答した。
――――――浄霊院紅夜を殺すため。
――――――もう二度と、誰も失いたくなかったから。誰かを救える、強い人間になりたかった。
不意に、たくさんの人々の笑顔がフラッシュバックする。この笑顔を守りたいと思っていた。これらは紛れもない、自分自身の意志だと思っていた。
しかしそれは、本当に自分の意志だったのか。
浄霊院家という巨大な渦に為すすべなく巻き込まれ、立てた誓いも成し遂げられず、浄霊院紅夜に関する手がかりは何も得られていない。
まるで自分は、大きな舞台装置の中に組み込まれた機械人形のようだ。
巻き込まれ、無理やり踊らされるだけの、ただの道化。
(ようやくわかったか。お前が抱いていた意思は、すべて幻想だ。これからはお前の意志なんて必要ない。苦しいことからすべて解放される。オレに体を明け渡せばな)
「……なんなんだよ。もうやめてくれ」
誰だ。
誰だ。お前は誰だ。俺は誰だ? お前は、オマエは、オレは、お前は、俺は――――――。
頭が痛い。意識が飛びそうになる。もし、意識が飛んでしまったら。
(間もなく、オマエはオレになる)
風牙は拳を石段に叩きつけた。痛みで我に返るが、激しい動悸と乱れた呼吸により、その場に倒れてしまう。
存在意義を疑うことは、風牙にとって最も耐えがたい恐怖だった。
今まで自分が見て、感じ、思ったことすべてが、風牙を苦しめる。頭ではなく、心が自然と理解してしまうのだ。自分が強く抱いていた意志は、まがい物だったのだ、と。
「情けない面だな、小僧」
低く吐き出された小さな嘆息が、雨の音にかき消されることなく風牙の耳に入る。ゆっくりと顔を上げた先にいたのは、ぬいぐるみの体がぼろぼろになったすいかねこだった。所々綿が飛び出し、水を吸って重くなった体は泥に塗れている。
「お前……その体」
「ああ、これか。依り代が限界でな。それよりも小娘がうなされておる。汝の名を呼んでおったぞ」
「……ッ」
風牙は歯を食いしばる。
「俺は……咲夜が思ってるような人間じゃねえ。俺は……バケモノなんだ」
「……」
すいかねこの目つきが鋭くなる。
「……今までずっと、誰かを助けたくて。誰かが傷つくとこを見たくなくて。みんなを、守りたくて。でも、あの時……酔骷って奴と戦ってた時に、意識がなくなって。気づいたら俺……」
風牙は震える体を両手で抑える。
「……血まみれで、力をふるうことをすっげー楽しいって思ってたんだ」
また吐き気が込み上げてくる。それを無理やり抑えるように、荒く言葉を吐き出す。
「もう、わかんねえんだよ! 何もかもが。俺は……俺じゃなかった。これまでずっと、生きてきたこと、感じてきたこと。そんなもんは全部、俺じゃなかったんだよ……!」
風牙の目から、涙か雨かわからない雫が流れ落ちていく。嗚咽を漏らし、恐怖で体を震わせる風牙を見て、すいかねこは小さく呟いた。
「そうだな。汝の言っていることは正しいかもしれん。だが、今の余の目に映る汝は、汝しかおらん」
すいかねこは、体から温かい傀朧を放出し、風牙の体を包み込んだ。温かい傀朧が、雨で濡れた風牙の体を温めていく。その温かさが、硬くなっていた風牙の心に沁みていく。
――――――しばらくの間、風牙は泣き続けた。すいかねこはそれを、ただ黙って見守り続ける。
(余は……)
すいかねこは、風牙の姿を目に焼き付ける。
風牙は自分自身の中にいる存在に気付き、悩んでいる。それは、すいかねこの良く知るところだった。
浄霊院家の宿命、世界の滅亡――――――その運命に従わなければならない。
風牙も例外なく、その運命に従わなければならないのに。
(余は、何をしているのか)
すいかねこは、泣いている風牙を放っておくことなどできなかった。




