もう大丈夫
――――――堕ちていく。沈んでいく。
どこまでも深く、どこまでも広い暗闇は、風牙の存在そのものを吸い込んでいるようだった。
「よう。楽しかったか? 風牙」
声が聞こえ、風牙の目が見開かれる。漆黒の中心に、和服を着た自分と瓜二つの存在が鎮座していた。全身に黒い文様が夥しく刻まれ、光り輝く赤い瞳をしている。
――――――ピチョン。
風牙は足を動かしたところで水のようなものを蹴った。液体の冷たい感触が足先に広がり、全身に鳥肌が立つ。
「どんくらい楽しかったか、の方がよかったか」
和服の風牙は玉座に座り、黒い山の上から風牙を見ると、肘杖を突いて満足そうに笑う。
「お前は……」
「俺だ」
はっきりと返されたその言葉に、風牙の血の気が引いていく。なぜかはわからないが、この存在を見ていると、頭がおかしくなってしまいそうだった。
「オレは、お前だぜ風牙。お前が望んだ、お前だけの存在。いずれお前になる存在。それがオレだ」
「な……に」
「お前は力を望んだ。あの酔骷を倒す力をな。それは叶えられたろ? 俺が戦う手段を与えてやったからなぁ」
目の前の存在の声が、風牙の意識にこびりつく。風牙は和服の自分をただ見つめることしかできない。やがて暗闇が、風牙の体を包み込み、もう一人の自分が見えなくなっていく。
「お前は目覚める。そしてお前はオレに近づいていく。お前はもうすぐ、この世界を終わらせるんだ。お前の望み通り、浄霊院紅夜を殺せるぜ。よかったな風牙」
「世界を、終わらせる……?」
「さあ、本能のまま壊せ。復讐を望め……!」
和服の自分が座っているモノが、酔骷のぐちゃぐちゃになった死体だと気づいた瞬間、意識が覚醒する――――――。
「はあ……はあ……はあ……」
目が覚めた風牙がいたのは、洋館の一室だった。広いベッドに寝かされていた風牙は、布団と蹴飛ばして跳ね起きる。
もう一人の自分が、言葉を囁く。心が、心臓が、熱い。煮えたぎるように熱かった。
――――――殺せ。壊せ。傀異も、人も、すべて。
まるで自分のものとは思えない衝動に駆られた風牙は、枕元にあった花瓶に拳を叩きつける。ガシャン、という大きな音で花瓶が割れ、その破片を右手でつかむと、自分の左肩を突き刺す。
「ッッッ!!!」
激しい痛みが、煮えたぎる心をわずかに冷ます。風牙は花瓶のかけらを投げ捨てると、血走った瞳で俯いた。血が、着ていた白い寝間着を真っ赤に染め上げる。生暖かい血の感触が、廊下で無残に倒れていた子どもたちの姿を思い出させる。
救えなかった。だから、仇を殺した。殺すための力を願った。
「……俺、は……」
胸を押さえて歯を食いしばる。激しく湧き上がる自己嫌悪が、風牙の胸をじわじわと焼いていく。
「……みんなは」
風牙は、よろよろとベッドから立ち上がり、胸を押さえたまま廊下に飛び出す。
脳裏に最悪の事態がよぎる。
屋敷は。酔骷は。どうなった。咲夜は。無事なのか――――――。
不意に足の力が抜け、バランスを崩す。その時、左肩を壁に打ち付けてしまう。
――――――どうしたよ風牙。そのまま身を委ねちまえば楽になるぜ。
風牙の脳内に耳障りな笑い声が響く。痛みと感覚が次第になくなり、再び黒い闇が迫ってくる。
楽に、なるのか――――――。
風牙はその言葉に流され、全身の力を抜く。
「風牙」
――――――温かい。
その時、温かい人の温度が風牙を暗闇から引っ張り出した。落ちかけた風牙の意識を、かろうじて繋ぎ留めたのは番匠宙だった。
宙は風牙の体を起こし、無言で優しく抱きしめる。
「もう、大丈夫」
風牙の目に涙が溢れる。ずっと堪えていたものが溢れ、声を上げて泣き叫ぶ。
宙は、風牙が泣き止むまでずっと抱きしめ続けた。
★ ★ ★ ★ ★
――――――雨が、降り始めた。
鬱屈とした悲しみを増長させるように雨が降る。焼け焦げた屋敷の臭いは、激しい雨にかき消され、戦闘の痕を洗い流していく。
あれから三日―――浄霊院幾夜が引き起こした襲撃事件は、浄霊院家に多大な傷を残した。
風牙と義光が重傷を負い、番匠宙の手により助け出された影斗も、ショックで意識が戻っていない。生き残った者たちは、唯一無事であった洋館で静養しているが、心に深い傷を負ってしまった。誰も部屋から出て来ず、洋館は静まり返っている。
そして何より、当主であり浄霊院家の柱である厳夜が倒れてしまった。人一倍ショックが大きく、体調もすぐれないようで、老紳士がつきっきりで看病しているという。
そんな惨憺たる屋敷の状況を、咲夜は屋根が辛うじて残っていた渡り廊下の残骸から、何もできずにただ見つめていた。
「……」
半分だけ焼けずに残っていた渡り廊下の屋根の下に、雨が降り込んでくる。柱に寄りかかっていた咲夜の体に、冷たい雨が当たる。
――――――自分は何も、できない。
襲い来る無力感。咲夜は無意識に、すいかねこに絞められた首を触っていた。
何もできない。だから殺されかけた。頭の中でノイズがかかった過去の光景。少しずつ、思い出してきているがこれ以上は思い出せない。いや、思い出したくないと本能が告げているようだ。
『汝が記憶を失ったのは、他ならぬその他人のせいなのだ』
「……風牙さん」
すべて壊された屋敷の中、ひどい状態の風牙を見た時、咲夜の心の糸がぷつりと切れた。誰かを助けるために、誰かが傷つく。そんな当たり前のことに、自分は気づいていなかった。すいかねこは、きっとわかっていて自分を殺そうとしたのだ。この状況を見た自分がどう思うのか。それをわかっていたのだ。
咲夜の目から、大粒の涙が溢れる。
息ができない。嗚咽が止まらない。悔しくて、ただ悔しくて拳を握りしめた。
地蔵堂で、すいかねこと自らに誓った信念は、脆く崩れ去った。咲夜に残ったのは、無力な絶望だけである。
誰も傷つかないで欲しい。でも誰かを守りたい。それは詭弁だ。そのようなことを、心のどこかで願っていた自分に心底腹が立つ。
もう、何も見たくない。あのまま、すいかねこの手で殺されておけばよかったのだ。
そうすれば――――――。
「まったく……誰だい。うちの娘をこんなに泣かしたのは」
「うぐっ……えぐっ……えっぐ……」
涙で真っ赤になった咲夜の瞳―――ぐしょぐしょに濡れた目の下を、指で優しく拭ってくれた。
「辛かったねぇ……悪かったよ。アタシが留守にしたばっかりに」
「おっ……おっがあざま……」
「なんだいその田舎者みたいな言い方は」
ふわりと漂う、優しい香り。
咲夜の目の前に現れた和服の女性は、咲夜を優しく抱きしめた。
「もう、大丈夫だから」




