西浄影斗の回顧
何度も夢に見た。
銀色に光るアンティークナイフ、それを握りしめ、自分が人を殺す夢だ。
七年前の八月十九日。一生忘れることのできないその日。おれは、人を殺した。
あの時の感情が、感覚が、だんだん薄れてきている。それがとても辛くて、苦しい。自分の罪が、消えるわけはないのに。
おれには幸せになる資格がない。
罪を清算し、こんな自分を助けてくれた厳夜様に恩返しがしたくて、これまで辛うじて生きてきたが、もう限界だ。これ以上生きても、おれは誰かのために生きることができないだろう。
鐡夜はおれのせいで苦しんでいる。おれを殺したいほど憎んでいる。
最後に、楽にしてあげたい。おれが死ぬことで楽になるなら、喜んで。
その前に、もう一度だけ、父の墓参りに行きたい。それが終われば、思い残すことはない。
あともう一つだけ。風牙に謝りたいな。
おれのことを、あんなに心配してくれている風牙を傷つけてしまった。
ごめん。本当にごめんなさい。
――――――最後になんとなく、自分の罪深い人生を思い出そうか。
神様がいるのなら、おれを、地獄に落としてください。
※
「影斗。いいか、誰かのために生きることは、とっても素晴らしいことなんだ。お前も、人に優しく生きるんだぞ」
そう言って頭を撫でてくれる。父さんの口癖。誰かのために生きる。
誰よりも優しくて、かっこよかった。自分の身を顧みず、いつも誰かのために行動していた。その背中を、おれはかっこいいと思っていた。
大好きだった。父さんのようになりたかった。あこがれだった。
けれど、父さんは自分が助けていた男に殺されたのだ。
※
おれが物心つく前に、父さんとおれは浄霊院分家―――厳夜様の弟の浄霊院燵夜という男の家にやってきたらしい。
おかあさんは俺を産んですぐに亡くなったらしい。その理由を、父さんは教えてくれなかった。おかあさんがどんな人だったのかもわからない。父さんはおれが寂しくないように、仕事の時以外はずっとおれと一緒にいてくれた。
西浄家は、ずっと昔に浄霊院本家から分かれた分家筋で、ずっと浄霊院家に仕えてきたという話を聞いた。だからか父さんは、使用人として燵夜に仕え、昼はずっと仕事をしていた。
仕事の時は、いつも決まって紺色の手ぬぐいを頭に巻いていた。それが父さんのトレードマークで、おれは真似がしたくていつもタオルを頭に巻いていた。
おれは、父さんがいない間は一人で留守番をしていた。燵夜の屋敷から少し離れにあるアパートには、おれとおんなじ境遇の子どもたちがいたから、世話をしてくれていたらしい。物心ついたころには兄弟のように仲良くなっていた。
おれが五歳になったある日、父さんは疲れたように帰ってきた。訳を聞いたけど、話してくれなくて、心配したのを覚えている。父さんのそんな表情を見たのは初めてだった。今思えば、それが運命の分岐点だったのかもしれない。
※
それからしばらくして、父さんは家に帰らなくなってきた。
徹夜での仕事が増えたらしく、大変なのだという。そのころから次第に、父は笑わなくなっていった。目の下にクマができ、体調も悪そうにして。おれは心配して何度も仕事に行かないように頼んだが、父は「みんなのためだから」と言って、出かけ続けた。
おれは六歳になった時、屋敷に出かけて自分を使用人にして欲しいと燵夜に頼んだ。父さんを助けたくて、父さんに黙って頼みに行った。燵夜は、くすんだ赤い髪をかき上げ、不気味に笑っていた。気味が悪かったのを覚えている。燵夜は、おれを気に入ったらしく、おれを、自分の息子の暁夜と鐡夜の友だちになってくれないかと言った。おれがいいと言うと、父さんの了承を取らずに勝手におれを屋敷に住まわせた。それを聞いた父さんは、これまで見たこともないほど感情を露わにして、泣きながら燵夜に土下座して、止めるように懇願していた。
おれは燵夜の子どもたちと関わりを持つようになった。四つ上の暁夜は、おれに優しかった。人の心をよく理解する人で、頼れる兄という感じだった。将来の浄霊院家を背負って立つ存在になる、とよく言っていた。逆に二歳上の鐡夜によくいじめられた。おれと暁夜が仲良くするのが嫌だったのか、暴力を振るわれることが多かった。
※
――――――七年前の八月十九日。
七歳になった。おれは父から遠ざけられ、会える頻度が大分落ちてきていた。
父さんに会いたくて仕方がなかったおれは、夜に部屋を抜け出した。
父さんがどこにいるのかわからなかったので、誰かにバレないよう屋敷を探索した。そこでたまたま、燵夜が地下室に入っていくのを見た。
おれは後を追った。こっそりと。しかしすぐに燵夜を見失い、途方に暮れていた時、地下で見てしまったのだ。
いくつも並んだ白い部屋。その中にいた、大量の子どもたちは血塗れだった。
そして部屋の外に捨てられていた、血と臓物に塗れた大量の死体。
部屋の中から、燵夜の声が聞こえてくる。
「質が悪い……! やはり陽介がいなければ……いや、そうか」
おれが聞いていることを知ってか否か、燵夜の放った言葉に、おれは戦慄する。
「影斗……よかった……あの子さえいれば、私の研究が完成する」
低い笑い声が響く。俺は恐怖のあまり腰がぬけ、その場を動けなくなった。これは現実で、悪い夢ではない。
「探しに行かなくてはなぁ」
死体の中に見知った顔があったのを見つけてしまう。仲良くしていた、同じアパートの子どもたちだった。彼らはおれと同じく使用人の子どもか、孤児だったと聞いたことがある。そういえば、アパートに入ってきては、いつの間にかいなくなっていることがあった。
彼らは皆、この男に殺されていた。
死体は皆、それぞれ別の方法で痛めつけられた跡があった。この男は狂っている。逃げなければ。そう思ったおれは、咄嗟に近くに落ちていたアンティークナイフを拾ったのだ。人間は追い詰められると、自衛のために思考が先鋭化される。おれの中で芽生えたのは、父さんが殺されてしまうかもしれないことへの恐怖だった。おれは涙でぐちゃぐちゃになった顔のまま、父さんを探して走り回った。見つかれば殺されてしまう。それでも、父を探した。心の中で神様に無事を祈りながら――――――。
地下の最も奥の部屋で、父さんをとうとう見つけることになる。
天井から伸びる鎖で拘束された父さんは、全身をズタズタにされて死んでいた。
斬られた跡、殴られた跡、鞭で何度も打たれ、皮膚が剥がれた跡。
その父さんの前に、返り血で全身を染め上げた暁夜がいた。
もう、その時おれが、何を思ったのか思い出すことができない。父を殺された悲しみと、怒りと、悲しみ。いや、そんなことは後になってから感じるものかもしれない。気づけばおれは、ナイフで暁夜を刺していた。暁夜の返り血か、父の返り血か、わからないが、自分も真っ赤に染まっていた。
これだけははっきりと覚えている。暁夜と父の死体を前に、おれが見たのは、浄霊院燵夜の満面の笑みだった。
影斗――――――。
みーつけた。
おれの意識は、ぷつりと途切れる。
※ ※ ※ ※ ※
「ううっ……」
体が熱い。すごい汗だ。息が、苦しい。
おれは起き上がると、無意識に壁にかかったカレンダーを見る。
今日は四月二十七日――――――これは現実だ。
頭が重くて吐き気がする。ひどい夢だった。昔のことを一から追体験するような、そんな夢だ。日記を本当に書いていたのではないかと思うほどリアルだった。こんなはっきりと覚えている夢は初めてだった。
「……」
おれはゆっくりと布団から立ち上がり、汗でぐっしょり濡れた甚平を脱ぎ、新しいものに着替える。ふらふらと、部屋の小さな洗面台に立つ。ひどい顔だ。鏡に映る自分の顔色は悪く、涙で目が真っ赤になっている。おれはすぐに冷たい水で顔を洗った。
どうしてあんな夢を見たのだろうか。昨日の夜は遅くまでキッチンで料理を作っていた。
父さんがたまに作ってくれたビーフシチュー。それが幼いおれにとっての最高のごちそうであり、目指すべき料理の形だった。牛肉なんて高いものは入ってなかったけど、まるで肉が大量に溶け込んでいるみたいにコクがあって、美味しかった。
――――――おれは、最後にあの味が食べたかった。
父さんは料理や家事がとても上手かった。おれが一度、なぜそんなにできるのかと聞いたら、父は照れ臭そうに笑って、「おまえの母さんが褒めてくれたんだよ」とだけ言った。なぜかおれは、それを聞いてすごく心があったかくなった。
――――――あんな夢を見たからだろうか、父さんの表情や声、思い出がたくさん蘇ってくる。また、涙が出てきそうだ。本当に情けない。おれは泣き虫だ。すぐに泣けば、逃げられると思っている。だからあの時も――――――風牙と向き合わずに、感情だけぶつけて逃げた。
本当に心底自分が嫌になる。風牙は本気で怒っていた。あの時風牙に殴られた頬は、どこか悲しみが溶けるようにひりひりと痛んだ。
謝りたい。
今日は風牙、屋敷にいるかな。きっとどこかで、誰かのために何かをしている。おれがどうして風牙のことが気になるのか、それは明らかだった。
父さんと似ているから。素直で明るくて、誰よりも優しく、誰かのために自分を犠牲にできる。そんな風牙の在り方は、父さんと似ている。
だからこそ――――――受け入れられないのだ。
人のために生きた父さんは、無残に死んだ。助けようとしていた“人”に殺された。あれが人の所業なんだ。
きっと風牙も、同じ目に遭うかもしれない。そうなって欲しくない。だからおれは、余計に風牙を拒絶してしまったのかもしれない。
やっぱり全部、おれのエゴだ。
だから、風牙に謝ろう。ちゃんと助けてくれたことに礼を言わなければならない。
それで全部終わったら、ジコチュウでたくさんの人に迷惑をかけた自分へのけじめをつける。
おれが生きていても何も良いことはない。誰かを傷つけるだけだから。それだけは耐えられない。
もう一度鏡を見た。ひどい顔は変わらない。
――――――白い。
あれ? おれのかお、こんなにしろかったっけ?
しろくて、つるつるで、さわったら、これはおめん?
■■■■■■
「あ、れ?」
おれは気づけば、風牙と言い合いをした縁側に座っていた。ここは、おれの住んでいる離れからはずいぶんと距離がある。何が起こった? 顔を触ってみるが、顔に面はついていない。
おれはいつも仕事の時に身に着ける腕時計を、いつの間にか身に着けていた。今日の予定を思い出そうと頭を捻るが、作業内容が書かれた表を見た記憶がない。
おれは胸騒ぎを覚えながらも、廊下を歩き始めた。
やけに屋敷が静まり返っている。空気がひんやりと張りつめ、どこか不気味だった。
いくつか和室を素通りし、玄関の横を通り、本邸の反対側に出る。こちら側には、崖の上に立つお堂や、洗濯物を干す広い場所がある。誰かいないかな。人の気配が全くないことに、胸騒ぎが増す。
角を曲がり、まっすぐに伸びる南側の廊下を見た時、
「……は」
おれは目を疑った。
真っ赤に血塗られた廊下。全身がぐちゃぐちゃになった死体。それが、五人。
知っている。おれはこの五人をよく知っている。
あの日―――七年前のあの日に、厳夜様が助け出してくれた生き残り。
「あ……れ……おかしい、な。まだ夢見てるのかな、おれ」
つい昨日まで、一緒に仕事をしていた。浄霊院燵夜の屋敷にいる時からの付き合いだ。
目を擦る。まだ夢を見ているのだ。最悪だ。早く目が覚めろ。一刻も早く、目が覚めてくれ。
お願い、だから。
「影斗―。どこに、いるのかな? ここかな?」
横のふすまが、ゆっくりと音を立てずに開く。
そこから現れたのは――――――。
「み~つけた」
一生忘れられない。
顔、声、立ち方、笑い方、顔、顔、顔。
浄霊院燵夜だ。
「やめて……来ないで」
手が、伸びる。おれの、顔に向かって。
「はは……もういやだ。はやく、はやく目覚めて……」
動けない。足が震える。
「うわあああああああああっ!!!」
気づけばまた顔に、お面が張り付いていた。
ちょっとしたホラー回でした。怖い怖い。




