四月二十七日―不穏
風牙は勢いよく体を起こす。
全身が汗でぐっしょりと濡れている。また、夢を見ていたのか。記憶にはないが、こういうことが割とある。こうした朝は決まって気分が悪い。
――――――遠くで小鳥が鳴いている声が聞こえる。カーテンから差し込む朝日の強さから、日が昇ってからずいぶん経っていることがわかった。
時計の針の音が風牙の耳に入る。くだものをモチーフにした動物のキャラクターたちが、複数体描かれた子ども向けの時計。時刻の印字が大きくて見やすい他、かわいいデザインが風牙のお気に入りだった。
時刻はもうすぐ九時になろうとしている。いつもなら、とっくに起きていなければならない時間。だが今日は起きなくてもよかった。
四月二十七日。割り当てられた仕事がわかるカレンダーには、大きな字で休みと書いてある。
「うえ……気分悪ぃ……」
風牙の目の下には大きなクマが出来ていた。昨日の仕事が深夜まで終わらず、かなり夜更かししてしまったことが原因なのだが――――――それ以外にも大きな原因がある。
この間から、寝て起きても全く忘れられないことが、一つ。
「はあ……」
影斗のことだ。カッとなって強く殴ってしまったあの感触が、拳から離れない。普段、物事を引きずらない性質の風牙は、考えたらすぐに行動する。謝りたいと思えば謝るし、自らで反省すべきところがあればすぐに反省する。しかし、謝りたくてもあれから一度も会えていないのは大きなストレスだった。
そのため、眠れるがどこか眠りが浅い。今思い出したが、今朝は影斗が巨大怪獣になって、風牙を追い回してくるような夢だった――――――ような気がする。
がおー、と言っていたような気がする。
「……違うか。俺、何考えてんだろ」
今日こそは絶対に会って謝る。そう決意する。
すぐさま布団を片付け、着替える。適当にそこらに置いてあった板チョコをバリバリ頬張り、シャカシャカと歯磨きをして、部屋を飛び出す。アテはなかったが、とにかくいそうな場所を片っ端から回る。
本邸の和室を片っ端から開け、トイレ、風呂場、食堂と、近くにあった場所を回る。
庭をぐるりと回ると、お堂や地蔵堂にも行ってみる。
「いねーな……」
やはりどこにもいない。風牙の様子を見ていた使用人の子どもが、どうしたのかと首を傾げている。
「よう! おはよう!」
挨拶を交わし、逃げるように本邸に戻った風牙は、渡り廊下を渡り、洋館に向かう。
大きな扉を開け、中に入る。明かりはどこもついておらず、物寂しい雰囲気である。
(誰もいねーのかな)
人の気配をまるで感じなかったが、本邸と同じように手当たり次第に部屋を探す。
しばらくして、二階の咲夜の部屋の前を通りかかる。咲夜もいないようだ。みんなしてどこかに行ったのだろうか。
「じいさんもいねーじゃん」
口を曲げ、再び一階に戻ると、金属が床に落ちるような音が聞こえた。
どうやら、キッチンの方から聞こえたみたいだ。風牙は急いでキッチンに向かう。
「影斗―?」
風牙はキッチンの明かりをつける。明るくなったキッチンの中に、小さな人影が動く。
床に落ちたステンレス製のボウルを拾い上げ、シンクの上に置いたのは、白い髪に白い肌の少年だった。白黒ギンガムチェックのシャツに、蝶ネクタイ、その上から『DEAD』の文字が印字された青色のセーターを着ている。
「残念だけど、影斗はいないよ。いやぁ僕もね、友人に頼まれて影斗を探しに来たんだけど……結局会えなかったな」
少年は、ニッと邪悪に笑う。鋭い犬歯と、不気味に光る金色の瞳が、どこか人間離れしているように感じさせる。
「誰だお前」
「僕はガロウズ。ガロウズ・フォン・リヒテンシュタット。研究者さ」
ガロウズと名乗る怪しい少年は、キッチンにあった椅子にゆったりと腰かけると、自分で淹れたと思われるコーヒーのような飲み物に口をつける。
「研究者? なんだそれ」
「僕は肉体と生命について研究してるんだ。今日は共同研究者の友人と、一緒に来たんだけど……友人は少し執着心の強い性格でね。影斗を探しにどこかへ消えちゃった」
ガロウズは呆れたようにため息を吐く。風牙は、そんなガロウズの様子を睨みつける。
「なんかさ、すっげー自然な感じで挨拶してっけど、お前侵入者だよな?」
「ククッ。バレた? まあでも安心しなよ。僕は君たちに危害を加えるつもりはない」
ガロウズはコーヒーカップの中身を飲み干すと、口元を付近で拭う。白い布巾に、赤黒い液体が付着する。
風牙は目の前の少年の異常さに、薄々気が付いていた。
「影斗に何の用だ。なんで影斗のことも、俺のことも知ってんだ」
「それ聞いてどうするの? 知ってるから知ってる、じゃだめ?」
風牙の視線が、さらに鋭くなったことを察知し、ガロウズは舌を出す。
「困ったな。君と友だちになりたかったのに」
「無理。てめえみてーに、全身から血の匂いがする奴と、友だちになんてならねー」
「そう。残念」
風牙は瞬時に拳を傀朧で強化すると、ガロウズの顔面目掛けて拳を突き出す。
しかし、拳がガロウズに命中した瞬間、ガロウズの体がはじけ飛ぶ。
「うわっ!!」
赤黒い液体が、風牙の全身にかかる。間違いなく血液だ。だが、ただの血液ではない。
(毒か……!?)
体にかかった個所が熱を持ち、物質を溶かしていく。風牙は傀朧を爆発的に放出し、血液を吹き飛ばす。
「くそっ!!」
そうしているうちに、ガロウズの気配が消える。どうやら逃げられたようだ。
「やべーな。影斗を探してるみたいだし、なんかあぶねー感じだった……」
妙な胸騒ぎがする。風牙は急いでキッチンから出ると、厳夜の部屋に向かう。
先ほどは誰もいなかったが、一刻も早く誰かに今のことを伝えなければならない。
「じいさん!! いねーのか!」
鍵のかかった扉を叩き、声を荒げる。しかし、中から誰も出てくる気配がない。
そんな時、階段を上ってきた老紳士が、焦る風牙を目撃する。
「どうしました」
「あ! 執事のおっさん! やべーんだよ、なんか変な白い髪の子ども! めっちゃ危険な奴!」
「落ち着いてください。ゆっくり、説明して」
風牙は、一呼吸置いてから老紳士に先ほどのことを説明した。
ガロウズの特徴、血の匂い、そして、影斗を探していたことも。
「そう……ですか」
老紳士はしかめっ面で腕を組む。平静を装ってはいたが、目は泳ぎ、指をトントンと腕に打ち付けている。
「……結界に反応はなかった。この間の襲撃で壊された結界は、私が元に戻しました。それも、旦那様の命で前回よりも強力な結界にしてあります。万が一にも壊されることのないように」
ならば、と老紳士は風牙を見る。
「現在進行形で、結界が攻撃されている可能性があります。どんな方法を用いているかわからない。ここは慎重に……」
「わかった。俺が見てくる!」
風牙は、急いで結界のある地蔵堂へ向かおうと駆け出す。
「罠の可能性もある。ここは慎重に」
「大丈夫! ちゃんと慎重に行くからさ!」
走りながら後ろを振り返った風牙は、そのままの状態で曲がり角を曲がる。
ドン、と誰かにぶつかった。しかし痛くない。顔に何か柔らかいものが、当たる感触――――――それが、紛れもない胸であることに気づいた風牙は、顔を真っ赤にして狼狽える。
「うわっ!! ごめん!!」
「ほう……そういうやり方で来るか……この非常事態に。まあ少年もお年頃だからねー」
「ち、ちげーし!! わざとじゃねーから!」
ニヤニヤと笑い、風牙を上から見下ろすのは、大きなサングラスをかけた番匠宙だった。
宙は、かけていたサングラスを外し、長髪をかき上げる。
「申し訳ないけど、話は遠くから聞かせてもらった。侵入者が現れたみたいね」
「いつから聞いてたんだよ……」
「最初から。別に、聞き耳を立てるつもりはなかったんだけど、会話に割って入る空気でもなかったから」
宙は、老紳士を一瞥すると、レザージャケットのポケットから鍵を取り出す。
「どうして宙さんが鍵をお持ちなんです?」
「厳夜さんから預かったの」
そう言って宙は鍵を開け、厳夜の執務室に入り、二人を招く。
ドアが閉まったことを確認すると、神妙な面持ちで淡々と告げる。
「厳夜さんと連絡が取れなくなったの。んで、このタイミングで、侵入者が現れた。これはただ事じゃない」
「旦那様は今朝、どこへ向かわれたのでしょうか。私にも行き先を告げなかったものですから」
宙は二人の顔を交互に見遣る。
「二人にはきちんと説明する。今、この屋敷に迫っている敵が何者なのかどうか」
宙は二人に、厳夜に宛てて送られた幾夜の手紙を見せ、ことのあらましを説明する。
「手分けして行動を開始しましょう。手遅れになる前に」
※ ※ ※ ※ ※
――――――で、では。咲夜ちゃん、と呼んでもいいですか?
誰? 私の名前を呼ぶのは。
――――――見て! あれが北斗七星です。
誰。私を、こんなにも楽しい気持ちにさせるのは。
――――――私の夢……パイロットになって、この空を飛べたらなって。そしたら、死んでしまった弟や両親にも、会えるのかなって。
誰……思い出せない。大切な、大切な、思い出。どうしてこんなに苦しいの。どうしてこんなに辛いの。どうして……どうして……。
――――――死んでください。
消えていく。真っ赤になって、消えていく。
生暖かい血の感触が、手のひらから全身に伝わる。
消えていく。命の灯が、静かに消えていく。それを、ただ眺めることしかできない。
――――――これは、私がやったの?
※ ※ ※ ※ ※
「咲夜様? 大丈夫ですか?」
ビクッと体を震わし、怯えたように永久を見つめる咲夜。その様子が、何やら尋常ではないと思った永久は、咲夜の手を握る。
「急にボーっとしちゃうから、心配しちゃいます。この間から大丈夫? ちゃん眠れてますか?」
「え……うん。ごめんね、永久ちゃん」
咲夜は、真っ青な顔のまま壁にもたれかかる。
「休憩にしましょう」
永久は、チク、タクと動く壁掛け時計の針が、十一時を告げようとしているのを見て、近くにあった手ごろな折り畳み椅子を持ってくる。咲夜をそこに座らせると、自分は持ってきた水筒のお茶を飲む。
今日の永久の仕事は、本邸の離れにある倉庫の整理だった。よくわからない昔の物が乱雑に置かれている倉庫を掃除し、いらない物を処分する。そんな仕事に興味を持った咲夜が、一緒にやりたいと言ったのは昨日のことだ。永久としては、喋り相手がいた方が楽しいし、捗るだろうと思い、快諾した。
しかし、今日の咲夜の調子はすこぶる悪かった。朝から体が熱く、熱はないが倦怠感があるらしい。休めと言ったが、咲夜は聞かなかった。
「最近ね……変な夢ばっかり見るの。とても、こわい夢」
「怖い、夢ですか」
咲夜はぐったりと椅子の上で力を抜く。それを見た永久が、ペットボトルに入った水を差しだす。
「こんなこと言っても気休めにしかならないけど、昔母が、怖い夢は自分がもがいて、成長しようとしている時に見るんだって言ってました。だから今を見るんじゃなくて、その先を見なさいって。その時の母の顔が、すっごく温かくって……あっ、ごめんなさい。私の話ばっかり」
「ううん。すごく、ほっとした」
咲夜はにっこりとほほ笑む。
「永久ちゃんってすごく優しい。永久ちゃんとお友だちになってから、私すごく励まされてる」
「……そんなことないです」
「本当にありがとうね」
永久は、どこか申し訳なさそうに咲夜から目を背ける。
「本当にいい人は、咲夜様の方ですよ」
ぼそりと呟いた永久の声は、咲夜に届いていない。
咲夜は全身に力を入れ、ゆっくりと立ち上がる。
「よし! 元気出た!」
「無理はダメ! 咲夜様は座っていてください」
苦笑いしながら作業に戻る永久を見て、咲夜は口を曲げる。
すると、背後から何かが飛び掛かってくる。咲夜が驚いて背後に振り向くと、それは顔面に張り付き、咲夜の視界を奪う。
「小娘、貴様熱があるだろう」
顔にふわふわしたものが当たり、気持ちがいい――――――しかし息苦しい。
「余のタイミングは完璧だったな」
「ももも……もご」
咲夜が何かを喋ろうとしている。すいかねこは、咲夜の顔から離れ、膝の上に落ちる。
「ぷは! どうしたのねこちゃん」
「だから! ねこちゃんと呼ぶな!」
ちんちくりんの小さな腕で、精一杯咲夜の腹を叩こうとする。
「まったく……可愛さなど、余の人生において一切縁のないものだというのに」
「今可愛いからいいんじゃないかな?」
「良くない」
すいかねこは、ごほんと咳払いし、本題に入る。
「小娘、今から地蔵堂へ向かえ」
「えっ? なんで」
「説明している暇はない。いいか、少々厄介なことが……」
その時、大きな炸裂音が屋根の上から聞こえた。空気が震え、衝撃が床を伝う。何かが屋根に着弾した、そんな音だった。
「なになに!? 何の音?」
永久は驚いて咲夜の近くに寄る。
「ちっ。まずい。今の余では、貴様らを守り抜けん。比較的呼べそうな青龍も朱雀も、今は呼ぶことができんからな」
すいかねこは、咲夜の頭に乗ると、早く行けと言わんばかりに頭を揺らす。
「地蔵堂だ。早く行け。あそこなら安全だ」
「わ、わかった。行こう、永久ちゃん」
「ならぬ」
咲夜が永久を誘ったところで、すいかねこが低く威圧する。
「どうして?」
「……おい娘」
「わ、私ですか?」
「お前しかおらん」
「何でしょう」
「消えろ」
「ひどい! ねこちゃん何でそんなこと……」
ギロリ。鋭く睨まれた永久は、委縮する。
本気の殺気だった。咲夜は混乱する。
「説明している暇はない。さっさと行け」
「……わかりました。咲夜様は地蔵堂に向かって」
「でも……」
「早く。行ってください」
永久に強く言われれば仕方がない。後ろ髪を引かれるような気がしたが、咲夜は地蔵堂に向かって歩き始めた。
「……」
一人残された永久は、本邸の方へ向かって走り出す。




