炎の記憶
赫く、黒く、焦げ臭い。
あの日の記憶――――――少年の視界は、煤けていた。
悲鳴、焼けた人の臭い、焼け落ちていく建物。それらがべっとりと、心にこびりついて離れない。
助けを呼ぶ人々の声が聞こえてくる。
近所に住む仲良しな四人家族、八百屋の主人、少し頑固な老人―――見知った人たちが、皆悲鳴を上げながら焼け焦げていく。
少年は、ただひたすらに走っていた。
精神が、燃え盛る炎を前に消耗していく。
焦燥感と恐怖に突き動かされ、体を必死に前に動かし続ける。
――――――逃げろ。
そう言ったのは誰だったか。その言葉を少年は拒否した。
自分だけこの町から逃げることはできなかった。
ただ愛すべき両親の元へひた走った。
一緒に、逃げたかった。
それなのに――――――。
少年は見た。焼け落ちていく教会の中、血に染まった父親の死体。
そこに蹲って泣く、母親の姿を。
気づけば少年は泣いていた。
少年は、決して忘れない。
父親の死体の傍にいた、血の付いた刃物を持った真っ赤な髪の男。
泣き叫ぶ母親の体は、崩落する教会の屋根に潰されて消えた。
炎は、少年からすべてを奪った。
この町も、両親も、思い出もすべて――――――。
「――――――!!」
少年は声にならない声で叫んだ。喉が枯れても叫び続けた。
火の中に飛び込もうとさえした。しかしそれは、駆けつけた祖父の手によって阻まれる。
少年は、決して、忘れない。
――――――あの男のせいだ。
真っ赤な髪の男。あの男が両親を殺した。町に火をつけたのも、きっと。
――――――許さない。
悲しみは、やがて憎悪へ変わる。
――――――許さない、許さない、許さない。
憎悪が募り、殺意が膨張する。頭のフィルムに焼き付いた深紅の髪が、少年を笑っているようだった。
無力で愚かな自分を、嗤っていた。
「殺して、やる……俺が!! 絶対に!! 殺してやる!!!!!」
* * * * *
「……ん」
また、夢を見ていた。片時も忘れたことはないのに、くどいほど夢に見る。
「ついたぜ坊主」
ゆっくりと目を開くと、そこは白銀の世界だった。
ひっきりなしにワイパーが動き、降り積もる牡丹雪を払っている。
メーターに表示されたのは、少年が乗った距離と時間を表す金額だった。
『11570円』
決してタクシーの料金が法外であったわけではない。ごく一般的な料金レートでの計算である。
移動距離約四十キロ。乗車時間にして、約二時間半。
「ったく……こんな山奥に何があるってんだ。ま、こっちとしちゃ金がもらえれば別に構わねえんだけどよ」
無精ひげを生やしたタバコ臭いタクシーの運転手は、ぼそりとぼやくと少年に料金の催促をする。
「……あ。ごめんおっさん! 俺現金持ってねーから、クレカでいける?」
「はあ!? ふざっけんな!!!」
クレジットカード決済は、電波が届かない場所では使えない。運転手が怒るのも当然だった。
「無理に決まってんだろ! 常識考えろ!」
この際、なぜ中学生くらいの少年がクレジットカードを持っているのか、という疑問はどうでもよかった。運転手はどうするんだと言いたげな目線を、少年に送る。
「あ‟―……じゃあここに請求してくれる? “功刀斎牙”宛で請求してくれればいいから」
少年は肩にかけたポーチから取り出したメモに住所と名前を書くと、運転手に渡す。
「チッ! なんなんだ全く……」
「わりぃわりぃ。あとおっさん、車タバコ臭いぜ。マイセンじゃなくてせめてキャビン吸えよ」
「あ‟!? タバコ臭えのは変わんねーだろうが!」
眉間にしわを寄せる運転手をよそに、少年はトランクから大きなリュックを取ると、雪降る山の中に消えていく。
少年の後ろ姿を見ていた運転手は、ハンドルに人差し指を何度も打ち付け、ため息をついた。
「帰るガソリンあるかぁこれ」
窓を四分の一ほど開け、タバコに火をつけると口にくわえる。銘柄は少年が言った通りマイルドセブンだ。
吐き出した煙が冷たい空気に溶け、見えなくなる。
「……変なガキだ」
運転手は、メモに書かれている名前を眺めた。
――――――功刀。随分と珍しい苗字だ。
すらりとした体躯に、黒髪ストレートの短髪。黒いパーカーに、灰色のスウェットズボン、その上から厚いダウンジャケットを羽織っていた。
どう見ても、どこにでもいそうな少年だった。クレカとタバコの知識は除いて。
(ちょっとピリピリしてたな)
少年の纏う雰囲気――――――運転手が感じたのは、年相応の無邪気さの中に隠れる緊張感だった。運転手は、自分の若いころを思い出して、思わず口角を上げる。
「割増しで請求してやろうかね……っと」
運転手はふと、紙に書かれた住所を見る。
『京都府京都市屋梁楽月町1番地』
「……は?」
運転手は仕事柄、京都近辺の住所についてよく知っていた。つまり、そんな住所は存在しない。
「あんの糞ガキ!!! 騙しやがったな!!」
雪の中に消えた少年を探す術はない。
運転手はしばらく一人でぼやいた後、スリップしないように完璧なハンドルさばきで市内に戻るのだった。
* * * * *
七年前。すべてを失ったあの日、少年の生きる目的が決まった。
なぜ、愛する両親が殺されたのか。
なぜ、愛する町が焼かれたのか。
その答えが知りたい。そして全ての元凶である赤い髪の男を殺す――――――。
『復讐』。
それは少年にとっての心の拠り所だった。
それがなければ、心はとうに壊れていただろう。
少年の家は、想術師という職を代々継承する、特殊な家庭だった。
人間の想像から生まれ、社会に潜む化け物―――傀異。
それを祓うのが、想術師の仕事である。
少年は七歳の時に、赤い髪の男に全てを奪われてから、血のにじむような努力を重ねた。
同年代の子どもが経験する勉強や遊び。それらを捨て去り、ただひたすら復讐のために自分を鍛えた。結果、少年は十歳で想術師となる。国家資格である想術師になるためには、実技試験を突破しなければならず、そう簡単になれるものではない。弱冠十歳での合格は、史上最年少記録だった。
「そろそろお前に、言っておかねばならんことがある」
事件以来頑なに口を閉ざしてきた祖父―――功刀斎牙が、少年に赤い髪の男の手がかりを告げたのは、つい二か月前のことだった。
傀異討伐の仕事から帰ると、斎牙は功刀家の食卓に座って少年を待っていた。
「何だよジジイ。改まって」
「……今までずっと黙っておったが、もう七年になる。そろそろお前が知る頃合いだろうと思っての」
少年は、祖父が何を話そうとしているのかすぐにわかった。
喉から手が出るほど聞きたかったこと。あの事件のことだ。
少年の心臓が、ドクンと跳ねる――――――。
「あの日街を襲い、お前の両親を含め多くの人々を殺した男の名前は、浄霊院紅夜」
息が止まる。
――――――じょうれいいん、こうや。
祖父が口にした名前が、何度も何度も頭の中で再生された。少年は拳を強く握りしめていた。抑えていた怒りや憎悪が際限なく湧き出してくる。体が震え、呼吸が荒くなった少年を見た祖父は、ため息をつく。
「……想術師協会に行けば、情報が手に入る。儂から言えるのはこれだけじゃ」
そう言い残して祖父は、席を立った。
――――――浄霊院。
少年は、すぐさま家を飛び出した。全国の想術師を管理監督する組織“想術師協会”は、傀異に関するありとあらゆる情報を持っている。
少年は協会本部、情報統制局が管轄する図書館で、その名前について調べた。
浄霊院家。この業界で名を知らぬものはいない名門中の名門だ。当主は想術師協会会長でもある。
安倍晴明を祖に持ち、千年以上前から傀異と戦ってきた由緒正しい家柄で、最強の想術師勢力と言っても過言ではない。
本家は京都北部の山中に巨大な屋敷を構え、安倍晴明が残した遺産を守っているらしい。
――――――浄霊院紅夜の乱。
事件についての詳細は、情報が破棄されていてほとんど分からなかった。少年は図書館の司書に詰め寄り、他に資料はないのかと尋ねたが、嫌な顔をされるだけだった。
しかし、少年は歩みを止めない。協会職員や想術師に粘り強く聞き込みを行い、情報を知っている者を探した。結果、誰からも相手にされず、徒に時を過ごすこと一週間――――――耳にした噂が、少年に一縷の望みを与える。
浄霊院家が、下働きを募集しているらしい。
聞き込み中偶然、年配の男性想術師からそう聞いた少年は、浄霊院本家に向かうことを決めた。
* * * * *
少年は、山中に足を進める。
轍もないまっさらな雪道が進行を拒む。しかし、一歩一歩力強く雪を踏みつけて進む足は止めない。
雪が、山の風に乗って強く吹雪く。視界は最悪だ。数m先すら見えない。
少年は、顔に張り付いてくる雪を鬱陶しそうに払う。
少年は、寒いとは思わなかった。むしろ、近付いてくる目的地に胸が高鳴り、体が熱を持つのを感じる。
――――――あそこに行けば、あいつの手がかりがつかめるかもしれない。
期待と希望で、少年の進行速度が徐々に増していく。
少し山が開けてきた。木々が消えた分、雪が大量に体に当たるが、少年は気にしない。
少年は、雪の中現れた巨大な建造物に目を奪われ、顔を上げる。
ここが――――――。
少年はようやく足を止める。それは巨大な仁王門だった。
雪に覆われた門の下に、二体の金剛力士像がそびえ立ち、その周りには雪化粧をした枝垂れ桜の木々が並んでいる。
木製の金剛力士像は、訪れる来客を拒むかのように、厳めしい顔つきで少年の方を向いている。
少年は、門へと続く石段の雪を蹴り、上った先で一息つく。
見上げると力強い書体の墨の文字で、『浄霊院』と書かれていた。
ここに――――――“浄霊院紅夜”の手がかりがある。
少年の鼓動が、さらに力強くなる。
少年はリュックを背負い直すと、先へ進もうと門をくぐる。
「待て」
突然はっきり聞こえた声と殺気に身構える。
少年が振り返った先にいたのは、刀を構える和装の男だった。
(誰だこいつ……全然気づかなかった)
首に大きなネックウォーマーを巻いており口元は見えなかったが、鋭い目つきと殺気にあてられた少年は、睨み返しつつゆっくりと両手を上げた。
(やべえ。ここで喧嘩したら面接がパーだもんな)
降参すると男に目配せをするが、和装の男は警戒を解く様子がない。
「誰だ」
「面接に来たんだよ。下働きの。あんだろ今日」
面接、という言葉に男はぴくりと眉を動かした。
「……お前のような子どもの来るところではない。さっさと失せろ」
「だったら……試してみるかよ」
少年は子ども扱いされたことにムッとし、手から青白いオーラのようなものを放出すると、刀を素手でつかんだ。
その力はすさまじく、刀はピクリとも動かなくなる。
少年の手から放たれたのは、傀朧と呼ばれる力だった。
傀朧は、人間が想像することで発生する朧げなエネルギーだ。一部の例外を除いて、傀朧を用いることでしか傀異を祓うことはできない。
想術師はこの傀朧を自由自在に操ることで傀異と戦う。
傀朧で強化された少年の手は力を増し、今にも刀を折る勢いだ。
「……」
男は、ここでもめることによるデメリットを鑑みて、ようやく臨戦態勢を解いた。それを感じた少年は、刀から手を放す。
男は鞘に刀を戻すと、少年を再度睨みつけて告げる。
「……面接に来たと言ったな。ついて来い。案内してやる」
男は踵を返し、門の先を進み始める。それを見た少年は、速足で後に続く。
* * * * *
二人は、石でできた起伏のある道を進んでいく。枝だけの紫陽花、芙蓉、ツツジなどの植物が植えられているのを横目に、少年は視界に現れる建物を観察する。
進行方向の右手に、石でできた階段がいくつもあった。その上には小さな家が点々と存在しており、人が住んでいる気配がある。
針葉樹林の並木の中を通り、五分ほど進んだ先でようやく男は立ち止まった。
――――――枯れた蓮の葉が浮いた小さな池を望む、大きな木造建築。
寄棟造の屋根に雪化粧をした、古めかしい色のお堂が、断崖からせり出している。その粛々とした佇まいは、敵を監視する砦のようにも見える。
「入れ」
男は首をクイッと建物の方へ動かし、少年に合図する。
木でできた長い階段を上った先で待っていたのは、揺らめく松明の明かりだった。
男に促された少年は靴を脱ぎ、引き戸を開けて、畳の間に上がる。
強い線香の香りに包まれた部屋の奥には、大きな仏像が鎮座していた。
(なんだここ)
「ここで待て」
「……おう」
和装の男に言われた通り、少年は胡坐をかいて畳の上に座った。ひんやりとした堂内の空気と線香の匂いが、やけに緊張感を煽ってくる。
男は少年に背を向けると、再び引き戸を開ける。
冷たい空気と雪が室内に入り込む。その風で、松明の火が消える。
「明確な敵意を持った者が生き残れるほど、甘くはないぞ」
トン、と乾いた音で引き戸が閉まった時、消えた松明から流れ出た煙が大きく揺らめいた。
(敵意? 何言ってんだあのおっさん)
少年は暗くなった堂内を見渡す。
大きな線香立てが堂の中央に配置されていた。そこから線香の煙が出ているようだ。
さらに奥を見ると、火が燈っていない蝋燭が仏像の周りに配置されている。しかし、仏像を拝むための設備は何もなく、客を招くにはあまりにも殺風景だった。
「……」
少年は、深く息を吸った。
(おっと、忘れてた。偽名考えなきゃな)
自分の本名は珍しく、少しばかり有名なので使うべきではない。ではどうするか。
(んー誰かの名前使うか? いや、適当にサトウですとか言えばいいか)
少年はすぐに、考えるのが嫌になって思考を停止させる。とりあえず今は面接官を待とう。細かいことはそれからでいい。
――――――その時、不意にすべての蝋燭に火が燈る。
明々と照らされた仏像に目を奪われていると、背後で布の擦れる音がした。
「……っ!」
少年は得体のしれぬ気配に立ち上がり、振り向く。
「待たせたな」
そこにいたのは、黒いロングコートの下に黒スーツを着た、銀髪の老人だった。
読んでいただた方には、感謝を申し上げます……!
本当にありがとうございます!
拙い部分もあると思いますが、頑張って書いていくのでよろしくお願いします。