リウムとフィロの新生活【5】
一先ず次に何かあるとすればアルディナが動いた時だ、と言うレオス様の解散の声で広場を後にする。
すっかり暗くなった道を、フィロと手を繋ぎながらゆっくりと家へ向かって歩いていく。
家があるのが国の奥だということもあって、先ほどまでの広場のにぎやかさが嘘のように周囲に人の声や気配はない。
広場にいた魔物たちも今は自分たちの家へと帰っていっているのだろう。
もしも国内で何かあれば誰かしらがすぐに駆け付けるのだろうが、今は気配すらない。
風や虫の声が聞こえるだけで、空には満天の星が美しく輝いていた。
フィロの持つランプで照らされた足元は明るく、初めてファクルに来た時には暗くなる前にと急いでいたことが懐かしく思えてくる。
フィロと二人で始まる新たな生活に、告白するのだという決意に、期待と不安を抱いて緊張して歩いていたあの日。
けれど今は、この道は安心と幸せが詰まった家へと向かうための穏やかな気持ちになれる道だ。
ファクルに移り住んで大変だったこともある、けれど幸せのほうが大きくて、だからこそ失うのが怖いという感情に悩まされている。
アルディナではフィロ以外に失いたくないものなんてなかったせいで、この感情を持て余しているのかもしれない。
笑いかけてくれる魔物たちを、あの帰りたいと思う家を、やっとできた居場所を手放したくない。
それなのに、ゲーム補正という大きな力で私からたくさんのものを取り上げてきたアルディナという国は、私の周囲に関わってくる。
思わず小さなため息が零れた。
「……疲れましたか?」
私のため息を聞いたフィロにそう問いかけられて、彼のほうを見る。
星の明かりとランプの光で照らされて優しく笑うフィロの顔が見えて、見惚れてしまうと同時になんだかホッとした。
「そう、ね。疲れているのかもしれないわ」
「俺に何か出来ることはありますか? やって欲しいことは?」
覚えのある台詞に、じっと彼の海色の瞳を見つめる。
以前彼の出自が明らかになった夜、私が彼に問いかけた言葉だ。
返答に困る私に、優しい笑顔を崩さないまま彼が続ける。
「なにが不安ですか?」
「え?」
「今日、交渉の時はとても楽しそうで生き生きとしていましたが、その前のアルディナの現状を聞いている時……いえ、それ以前にもですが最近考えこんでいることが多いでしょう? なんだか不安そうだなと思っていたのですが、今なら話していただけるかと思いまして。最初はリウムさんから話してくれるまで待とうと思っていたのですが……」
彼は特に私に返事を無理強いしている様子もなく、だからこそ話しやすい雰囲気を作ってくれている。
色々と考えることが増えていたとはいえ、なんだか妙に疲れると思っていたけれど、それは彼の言う通り私が不安だったからだろう。
アルディナのゲーム補正がどう働くか分からなくて、それがこの国にどう影響するのかが分からなくて。
それが不安で、怖いと思う。
「不安と、それに怖いと思っていたわ」
「怖い? アルディナのことですか?」
「ええ」
「アルディナですか……正直俺はあまり脅威には思っていませんでした。たとえあの国が本気でファクルに戦争を仕掛けてきたとしても、レオス様の指一本で国ごと滅亡してもおかしくない国ですし。あの方の怒りのほうがよほど怖いです」
「それは私も同じだけれど」
アルディナ国民全員とレオス様、どちらを敵に回したくないかと聞かれると確実にレオス様のほうだ。
フィロの言葉はこの世界のアルディナ以外のすべての人が同意しそうなことだし、どう考えてもアルディナに勝ち目はない。
それでも不安なのは、怖いと思うのは……あの国にゲーム補正があるからだ。
「あの国はプルムが中心で、何をやっても私は悪役だったわ。当事者の私ですら小さい頃はそれを当然だと思っていたし、人の頭の中を強制的に書き換えるなんてファクルの魔物たちの魔法でも無理なことじゃない? あの気味の悪い力があったからこそ、あの国は他国で何をしても、滅ぼされるどころか攻撃を受けることすらなく存続していたのだと思うの。その力がどう働くかが分からなくて、もしもファクルにまで影響したらって考えると、すごく怖い」
フィロに話すことで自分の頭の中が整理されていく。
アルディナがどうなろうとも構わないと思えるようになった今、それでも私がアルディナを気にして、考えこんでは疲労を感じてしまう理由はきっとこれだ。
あのゲーム補正が、私は怖い。
もしもあの力がファクルのほうにまで強く影響してきたら?
もしも魔物たちに嫌われてしまったら、アルディナの国民たちが向けて来るような嫌悪の視線を向けられたら?
程度の差はあれどずっと私に対して否定的だったアルディナとは違って、ファクルのみんなからは好意的な感情を貰ってしまったから、その彼らに拒絶されるのが怖い。
彼らのことを信じられない自分が嫌になるが、生まれてからファクルに来るまで過ごして来た年月であの国の補正の強さを味わってきた身としては、きっとこの不安が消えることはないのだろうとも思う。
「確かに異常な力でしたね……その、俺は月並みなことしか言えませんが」
スッと彼の顔が私の顔に近付いて、優しい笑顔が至近距離に現れる。
彼の海色の瞳にランプの光が映って揺れているのが見えて、心臓が大きく音を立てた。
「傍にいますよ。何度頭の中が書き換えられようとも、何度だって抗って、すぐにあなたを思い出して。たとえファクルを追われても、ずっとあなたの隣にいますよ」
フィロの少し低いゆっくりと発せられた声は、今まで彼がそうやって傍にいてくれたこともあって、すんなりと私の心に落ちてくる。
優しく笑う彼はきっとこの言葉を違えないだろうという、確信を持つことができる信頼。
「……せっかく自分の祖国に帰れたのに?」
「あの日、あなたは俺に言ってくれたでしょう。俺がどうしてもこの国に居辛くなったら、いっそ二人で旅にでも出るか、と。あなただってアルディナを出てせっかくファクルという幸せになれる国へ来たというのに、何の迷いもなく俺の気持ちを優先してくれました。俺も同じです。もしもあなたがファクルに居辛くなったら、その時は二人で旅に出ましょう。俺も魔法はある程度使えるようになりましたし、これから新しいものも覚えます。たとえ旅に出たとしてもあの時より不便でない生活が出来ると思いますよ」
「……ありがとう。でも、生活はあなたの魔法に頼って、精神的にもあなたに頼って。あなたに依存してしまいそうで怖いわね」
「いいですよ、依存して下さい。俺なしでは生きられないくらいに」
お互いにどこまで本気なのかはわからないまま、冗談交じりでそう言い合ってゆっくりと歩みを進めていく。
何があっても、この強く繋がれた手だけは離さない。
そう決意したところで少し離れた所に家が見えて来て、何となく安心したような気分になる。
星明りの中、青い花の咲くツタの絡む私とフィロの住む家。
ファクルに来てから新生活を始めた数か月、幸せな思い出しかない家。
一歩前へ進むごとに、家の外観の見える範囲が広くなっていく。
ゲーム補正が影響したことが原因でファクルを出るということは、この家にはもう二度と戻って来られないということだ。
この国で出会った魔物たちみんなから嫌われて、そしてまた国を追われて。
「…………どうして?」
かすれるような声が自分の口から零れて、フィロと繋いでいないほうの手でぎゅっと胸元を握り締めた。
後数歩で玄関というところでぴたりと歩みが止まり、フィロが不思議そうに私の名前を呼ぶ。
彼がいてくれればいい、その感情に嘘はない。
でも……
この国が、ファクルが、ここに住むみんなが好きだ。
フィロと一緒に暮らしてしばらく経つこの家が、私が帰りたいと思う場所。
自分にとって都合に良い国を選んだつもりだったのに、今はこの場所を心から好きだと思う。
フィロの手は絶対に放さない、でもファクルのことも諦めたくない。
そもそもどうして、私は自分が出ていくことを前提に考えているのだろう。
「ねえ、フィロ」
「はい」
「私、アルディナではあなたの事以外のすべてを諦めていたわ。追放されると気づいた時には嬉しかったし、あの国に未練も執着心もなかったから、諦めるというよりはもういらないと思っていたの」
そっと空を見上げる。
木々の間から見えるこの空も、聞こえる音も、何となく感じる匂いも、今はもう全部見慣れた。
ここが私の家、私が帰ってくる場所。
そうだ、もう何も我慢する必要なんてない。
ここはアルディナじゃない、ゲームの舞台になった国じゃない。
「ファクルのことは諦めたくない。もしもこの国にあの妙な力が影響しても、今度は最後まで抗いたい。あなたと一緒に生きていけるならどこでもいいって思ってる。でも、もしも場所が選べるならここが良い」
「リウムさん……」
「あの力がもしもファクルに影響したとしても、どうして私が諦めなくちゃならないの? それが当然だと思って出ていくことばかり考えていたけれど、どうしてまたあの子たちに譲らなくちゃならないの?」
パチパチと瞬きを繰り返すフィロの瞳を見返して、じわじわと湧いてくる思いを口に乗せていく。
そうだ、大切なものは複数あったっていいし、それをすべて手放したくないと思ったって良いんだ。
「これからどうなるかなんてわからない。でも、もしもあの力がファクルに影響したとしたら、この国はきっと弱体化するわ。レオス様たちがあの国の人たちの様になるところなんて見たくない。今までの様に、強さと自信を持って笑う人たちでいてほしい。そんな彼らと一緒に、私はここで暮らしていきたい。アルディナのことはもうどうだっていい、でも自国であるファクルのことはどうでもよくなんてないわ」
もしもここにプルムを一番に考えるような補正が働いたとしても、アルディナと違ってファクルはゲームの舞台ではない国だ。
国を自動的に守るような補正が働くとは思えなかった。
ただでさえ力ですべての国の上に立っている国なのに、その力が失われれば他国から総攻撃を受けたっておかしくはない。
冗談じゃない、ファクルの魔物たちが傷つくところなんて見たくもないし、何よりも私はここにいたい、ここがいい。
ならどうすればいいのかなんて、答えは一つしかなかった。
「もしもあの力がファクルにも影響したとしたら、今度は戦うわ。もう諦めない。大切なものが増えたから、ぎりぎりまで抗ってみたいの。あなたのことだけは手放さなかったみたいに、ファクルのことも手放したくない。何もせずに、はいそうですかって、もういらないって、そう言って国を出るのはアルディナの時が最後だわ」
瞬きを繰り返していた彼の瞳が見開かれ、次の瞬間優しさに嬉しさが混じった顔でフィロが満面の笑みを浮かべる。
「……ええ、俺もですよ。あなたと共に生きるならどこでもいい。でも、それがこの国ならもっと嬉しい。俺もあなたとまったく同じ考えです。俺たちが譲ってやる必要なんて、どこにもありません」
ゲーム補正がこの国に影響するなんて、考え過ぎなのかもしれない。
レオス様なんて、プルムが一番だという補正を感じた瞬間に、気持ち悪いと大暴れして補正ごと消しさりそうな人だ。
それでも、もしもアルディナがファクルにまであの補正を掛けて来るのなら、今度は精一杯戦おう。
新しくできた大切なものを手放さないために。
「こうやって、手放したくないと思える場所こそ、居場所と呼ぶのかもしれませんね。アルディナでは感じなかったことで、なんだかむず痒いですが」
「そうね……アルディナにいた時は責任感で国民を守らなきゃ、って思っていたけれど、今はファクルが好きだから守りたいって思うわ。まあ、彼らは私に守られるほど弱くはないけれど……あの力も今まではアルディナの中限定だったし、ファクルの人たちがおとなしく影響されるとも思えないし」
「警戒しておくのは悪いことではないでしょうし、念のためにレオス様に話しておいても良いのでは? あの国でのあなたの扱いを知ってはいますが、詳しく説明しておけばレオス様ならば勘を働かせて、ある程度の対策はするでしょう」
「ええ、話してみることにするわ」
「俺も、何か良い魔法がないか兄に聞いてみます。せっかくあなたを守る手段が一つ増えたのですから」
「うん……フィロ、ありがとう」
すうっと胸の中が軽くなった気がして、繋いでいた手をフィロの腕にからめる。
驚いたように目を見開いた彼に笑って、二人で家の中に足を踏み入れた。
私が感じていた不安や恐怖は、結局のところまだ私の覚悟が足りていなかっただけなのだろう。
アルディナに住んでいた時からずっと感じていた、あの国が関わるのならば諦めなくてはいけないという無意識下の想い。
その想いと、諦めたくない気持ちが混ざり合って怖かった。
でも、それならば抗えばいい、単純なことだ。
そもそもちゃんとレオス様に話しておけばよかった。
今回のことでなくても何か気が付いたことがある時は気軽に報告してくれというのが、レオス様のやり方だ。
国に影響があるかもしれないことを一人で変に抱え込んでどうするのだろう。
アルディナで一人で背負い込んでいた時の癖が抜けていないのかもしれない。
私がこの国を自国だと思っているように、彼らだって私をこの国の一員として見てくれている。
何よりも、唯一絶対的な味方は常にそばにいてくれる。
不安は消えなくても、怖がることなんてない。
先ほどまでの頭の中のもやもやが一気に取り払われて、まだランプを点けていない暗い家の中が、いつもよりも明るく見える気がした。