第一章 悪が裁かれる時を待ち望み【1】
アルディナで過ごしてきたすべての年月が不幸だったとは思わない。
少なくともフィロと共に過ごした時間は絶対に不幸ではなかった。
けれどアルディナでの日々が幸せだったかと聞かれたら、肯定は出来ない。
私が生まれ育ち、たくさんのことを考えながら生きてきた日々。
きっともうこの国へ戻ってくることはない。
そのせいだろうか、過去のことが妙に思い起こされた。
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「リウム様、紅茶をどうぞ」
「ありがとう、フィロ」
笑みを浮かべながら彼が差し出してくれた紅茶に口をつける。
開け放たれた窓から吹き込んだ風が髪を揺らした。
同時に窓の外から部屋に入ってきた甘さを含む高い笑い声と、楽しそうな低い笑い声。
その声を聞いたフィロが顔をしかめてから窓を閉めた。
気持ちのいい風が揺らしていた真っ白なカーテンが動きを止める。
同時に聞こえなくなった二人分の笑い声。
「……あの方は、リウム様の婚約者でありながら」
彼が小さく呟いた怒りの声に混ざる羨望のようなものを感じながら紅茶に口をつける。
カップにつけた口が笑っているのが自分でもわかった。
外で仲睦まじく手を繋いで歩く彼らは私の婚約者であるこの国の王子ユート様と、私の妹であるプルムだ。
本来ならば婚約者の妹との堂々としたデートなど責められても仕方のないものだし、顔をしかめられるくらいのことはするはず。
けれどこの国では、プルムが相手の場合は許されてしまう。
プルムの立場が特別である訳ではない。
この国ではまるでそれが常識であるかのように、決まったシステムであるかのように、あの子が優遇されるというだけだ。
もっともこの国の中で許されようとも、他国からは白い目で見られているが。
私としては彼らが想いあっていようと、プルムが第二の婚約者としてユート様に嫁ぐことになろうとも何とも思わない。
ただしっかりと筋というか、手続きは済ませてほしいものだ。
正式に二人目の婚約者として発表してしまえば、他国からの失笑を買うこともないのに。
そもそも私が正妃として嫁ぐことが決まっているというだけで、ユート様は何人でも妻を持つことが許されるお方だし、私だって心の中で想っているのは別の相手だ。
窓の外から目を離したフィロが振り返り、私を見てふわりと笑う。
彼の笑顔を見るだけで頬に集まる熱。
彼に笑みを返してから、熱をごまかすように紅茶に口をつける。
私だって、あの二人のようにフィロと手を繋いで歩いてみたい。
まるで内緒話をするように、二人顔を寄せ合って笑いあってみたい。
立場上それが許されない今、私にあるのは日常で見つける彼との小さな関わりだけだ。
彼と視線があった時、わずかに手が触れ合った時、日常生活で彼と関わる時間すべてが幸せで……そして不幸でもある。
好き、と言ってしまいたい。
言葉にする事は許されないその二文字を、フィロと出会った日からずっと胸の中に抱え込んでいる。
まるでくすぶり続ける炎のような、本当ならば叫びだしたいくらいの衝動を抱えたまま生きる日々。
……それでも、想う相手はそれぞれ違っていても、私とユート様の結婚は決定事項。
幼い頃に約束された私とユート様の政略的な結婚は、私たちのためではなくこの国のためにするものだ。
だから心の中に相手ではない他の誰かがいることはお互い様だと思っている。
他の誰に恋をしても、たとえ相手に不満があっても、私はこの国の令嬢として生まれた責任を持って、ユート様に嫁ぐ。
幼少期からそう覚悟して生きて来た私は、前世とよばれるものの記憶を取り戻してもその覚悟を変えなかった。
変わらなかったのだけれど……
前世の記憶を取り戻したのは十一歳の時、まだフィロと出会ってもおらず、両親から初めての外交を命じられた前夜だった。
本来ならば十五歳程度から始まる外交の見習いの仕事。
けれど第一王子であるユート様との婚姻が決まったことから、両親は私に早めに外交の仕事を教えることにしたらしい。
初めての外交先は、魔物たちの国ファクル。
どの国よりも強い力を持ち、ファクルだけで生産のすべてをまかなうことの出来る国。
彼らは同盟を結んだ国とその国が指定した場所を襲うことはしないが、それ以外の場所では好きにさせてもらうと宣言しており、その言葉通りに行動している。
指定場所以外での戦闘で人間が傷つこうとも、自国の魔物たちが殺されようとも彼らは気にしない。
徹底的な実力主義である彼らは、戦いで自分たちがやられても怒ることはなかった。
それでも彼らの力は強大だ。
どの国も多少差し出すものが負担になっても同盟を結びたがっている。
同盟さえ結んでしまえば、国内どころか指定した街道すら無事に通ることが出来るのは大きい。
とはいえ当然のことながらファクルの王は彼らにとって無価値なものを差し出しても同盟を結んではくれない。
そして我が国アルディナには何もない。
これといった特産物も少ないし、立地も悪く土地も狭い。
差し出せるものは何もなく、他国から見ればいつでも攻め落とすことが可能なほど軍事力もない。
何故か他国からも攻められることもなく平和に過ごす事が出来ているが、おそらくそれも時間の問題だ。
ファクルとの同盟を結ぶ事が出来れば、他国からも攻められにくくなる。
だから外交先がファクルなのは納得できる。
問題は私が外交の仕事をするのが初めてだということ、まだ幼いともいえる年齢だということ、失敗してファクルの王に嫌われる、もしくは価値なしと判断されればその場で殺されてしまう可能性があること。
ファクルとの同盟は少し特殊で、ファクルの王が同盟を結ぶのは国ではなく外交官個人。
同盟とは名ばかりで、お気に入りの人間に少し施してやろう、くらいの感覚なのだと思う。
外交官が気に入らなければどれだけいい条件でも断られてしまうし、外交官が気に入らない上に提示した条件が悪ければその場で殺されてしまう可能性もある。
ファクルは決して外交未経験の幼い子供が行く場所ではない。
あの国の外交は従者をつけることも許されない、一人で王の前まで行き、誰の助けも借りずに王と交渉する事を求められている場所だ。
そもそも外交官として働いている両親ですら無理だったのに、国内で勉強しただけの私に成功させる事が出来るはずもない。
記憶が戻る前はそのことに何の疑問も持っていなかったが、私の命どころか下手をすればこの国すら危うくなる外交だ。
何故両親がそんな選択をしたのか、自分の中で答えを出すまではずっと悩むことになった。
自分が死ぬかもしれないと覚悟を決めた外交前日。
家族と共に囲んだ食卓は不気味なまでにいつも通りで。
緊張と死への恐怖で言葉も出ない私のことなど気にもせず、三つ年下の妹の笑い声が響き、その妹を囲む両親も使用人もみんな笑顔を浮かべていた。
一人だけお通夜のような雰囲気の私はそっと席を立ったのを覚えている。
部屋に戻ってベッドの上で膝を抱え、窓から見上げた星空。
流れ星が見えたと同時にまるで天啓のように脳裏に次々と浮かんだ前世の記憶。
もしもあの流れ星を見なかったら、記憶が戻らなかったら、今の私はここにいなかっただろう。