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悪役令嬢と執事の新たな関係【5】

 お風呂場で感じた緊張や喉の蓋なんて弾き飛ばすような勢いで発した言葉。

 大きく目を見開いたフィロの口が開いて、一瞬の間が開く。

 それが妙に長く感じて、それでも止まらない涙をそのままに彼の海色の瞳を見続ける。

 私が彼の頬に添えた手に重なった彼の手にさっきよりもずっと強い力が籠ったと思ったと同時に、フィロの胸にぶつかる様に体が引き寄せられた。

 重なっていた手は両手とも背中に回り、彼の腕にはぎちぎちと音が聞こえてくるくらいに力が籠っている。

 フィロの胸に埋まる形になって少し息苦しいのに、泣きたくなるくらいの幸福感がじわじわと湧きあがって来て、抱き寄せられた勢いで宙に浮いていた自身の腕をそっと彼の背中に回した。

 薄暗い、静まり返った部屋にお互いの呼吸の音だけが響く。


「……俺は」


 静かに話し出した彼の声が頭上から聞こえて、抱き合ったまま耳を澄ませる。

 声は穏やかで、でもどこか力が入っているように感じた。


「俺は何も持ってはいませんよ。ユート様と違って、地位も金もない。幼い頃の記憶すらなく、自分が何者かもわからない。あなたと出会わなければ、居場所すらなかった男です」

「何もないのは私だって同じだわ。地位なんてもうないし、今までみたいな生活だってもう送れない。アルディナには私が居ても良い場所なんて一か所たりとも無かった。居場所も地位もファクルで働いている内に手に入るかもしれないけれど、それはあなただって一緒だわ。あなたこそ、私で良いの?」

「あなた以外の女性など、それこそ俺には必要ありません」


 その言葉の後、背中に回っていた手がほどけたことを残念に感じる暇もなく、軽く押されてソファに背中が付く。

 私の上に覆いかぶさるように近付いてきたフィロの顔があまりにも近すぎて、顔に熱が集まった。

 私を挟むようにソファについた彼の腕で身動きが取れない。

 前世でも今世でも大好きな色が、あの海の色が目の前にある。

 いつものような穏やかさではなく、いつか私の前でも見せてくれないだろうかと思っていた、どこかギラギラとした雰囲気で。


「ずっと伝えたかったのは俺の方です。どうあがいても俺の立場ではあなたに届かない。だからせめて一番の理解者としてあなたの傍にいたかった。あなたがプルム様のことで苦しんでいることは知っていました。だからこそ先ほど言った通り俺だけは傍にいようと……いえ、俺はきっと、俺だけがあなたの本当の事を知っている優越感に浸っていました。自分の記憶が書き換えられるという恐怖よりも、それに打ち勝つことでその気持ちを感じられる喜びのほうが、あなたが俺にだけ笑ってくれることへの喜びのほうが強かった。あなたの婚約者すら知らないあなたの姿を、俺だけに向けられる表情を。それを知っていたから、あなたのたった一人の男になれなくても耐えられた」


 なのに、と一度言葉を切るフィロ。

 海色の瞳がいつもよりもずっと深い青に見えて、まるで海底に沈んでいくようにようにその瞳から視線が外せない。


「どうして言ってしまうんですか? 言われてしまったら、言葉にされてしまったら、俺の我慢なんてすぐになくなってしまうのに……好きですよ、リウムさん。あなただけを、ずっと、愛していました」


 自分で言葉にするよりも、彼に言葉にされる方が恥ずかしいのだと、私は今初めて気が付いた。

 吐息がかかるほど顔を近づけて来たフィロが目を細めて笑う。


「奴隷商人のところにいた頃に身に染みているんです。たとえどんな気まぐれであったとしても、欲しいものが目の前に差し出されて「お前にやる」と言われたら、躊躇なく手を伸ばさなければすぐになくなってしまう、と。あなたは俺を好きだと、愛をくれると言った。今更「やっぱりなしで」なんて言っても、もう返しませんよ」

「……それは、ないわ。あなたが何を思っていたとしても、何を考えていたとしても、私があなたと出会ってからずっと、ずっと思っていたこの気持ちに嘘はないから」


 フィロ、と小さく呼びかけたことで首を傾げた彼の顔がほんの少し傾く。


「ずっと、味方でいてくれて、傍にいてくれて、ここまでついて来てくれてありがとう」

「……はい」


 細められた目と少しだけ開いた口が近付いて来て、それでもふわりと笑う彼の優しさを見逃したくなくて、少しだけ開けたままの目。

 触れ合った唇から感じる初めての幸福感に、涙が零れた。

 長いような短いような時間、触れ合っていた唇が離れて、それでも至近距離にある彼と目が合って笑う。

 ああ、やっと届いた。

 長い間心の奥底で願っていたことは、想像していたよりもずっと大きな喜びになって私の胸を満たしていく。

 この人と一緒に生きたい、来世なんかじゃなくて今この瞬間に。

 もう一度近付いてきた彼の唇を、今度こそしっかりと目を閉じて受け入れる。

 強く抱きしめなおされて、顔中に降ってくる唇の感触がくすぐったくて笑い声が零れた。

 国を追放されたというのに、地位も、財産も、生まれて来た国すら失ったというのに、こんなにも幸せを感じているのは世界広しとはいえ私一人かもしれない。

 目を開ければフィロも笑っている。


「叶わないと思って、気持ちを持て余していたのは俺も同じです。もう遠慮はしませんよ?」

「……うん」


 今までの穏やかさとは違うどこかぎらついた彼の目を、怖いよりも嬉しいと思ってしまう。

 ずっと感じていた壁はもう完全に消え去って、初めて直接触れ合ったような気すらしてくる。

 私を抱き寄せ頭に顔を埋めたフィロが低く笑って、振動が伝わってきた。


「やっと、俺のところに落ちて来てくれましたね」

「落ちる、って」


 苦笑する私の声と、笑い続ける彼の笑い声が重なった。

 冗談交じりに発せられたフィロの言葉はどういうことなんだろうと、その続きを彼の腕の中でじっと待つ。


「あなたはずっと、俺よりも一段高い位置にいました。俺がどれだけ努力しようとも、あなたの傍に居続けようとも、その段には上がれない。あなたが持つ地位には俺はどうしても届かない。俺はただ、一段下であなたの背を見上げるだけ」


 言葉を切ったフィロの笑い声が本当に嬉しそうなものへと変わる。

 背中に回された手にさらに力が籠った。


「でも、同じ段にいたあの男があなたを突き飛ばした。あなたはそれに抵抗せず、俺のところに落ちて来てくれました。やっと……やっとあなたに触れられる」


 彼との間にあった障害は、私にとっては壁、彼にとっては段差だったということなのだろう。

 生まれた時から持っていたものをすべて取り上げられたとしても、フィロと触れ合えるのならば落とされることに抵抗などある筈もない。

 もう私がユート様と同じ段に上がることはないだろう。

 上がるとすれば、フィロと共に上がることが出来る別の段差だ。

 この国、ファクルの住人になったことで現れた新しい道にある段差。

 これからは彼と一緒に歩を進めることが出来る。

 幸せな生活が始まる予感を胸に、もう一度彼の背に腕を回した。



※普段は読む邪魔にならないように、あまり後書きは書きませんが失礼いたします。

多忙の為、感想返信を一度停止させていただきます。

その分小説の更新は遅れないように致しますので…!

頂いた感想は返信していなくてもしっかりと目を通させていただいております。

いつも本当にありがとうございます!


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