悪役令嬢と執事の新たな関係【4】
続いて彼が語りだしたことは、私にとって今までのすべてをひっくり返してしまうような、そんな話だった。
「あの日、俺があなたの家に買われた日、俺はあなたを利用して成り上がってやろうと思っていました。世間知らずのお嬢様がおもちゃを買う感覚で買ったのだろう、だったらそれを利用して奴隷生活から脱出していい暮らしをしてやる、と」
「それは、知っていたけれど」
「やはりそうでしたか、すみません。もちろん今はそんなことはまったく思っていません」
「ええ、それも知っているわ」
私の返事に罪悪感を滲ませ、それでもホッとした様子の彼に続きを促す。
「初めてあなたに出会った時は驚きました。俺が想像していたようなわがままなお嬢様なんておらず、あなたはしっかりと自分の足で立って前を見ていました。俺たち使用人に対しても見下したりせず、むしろ専門職の人間に対してはその技術への敬意をしっかりと表していらっしゃったので、俺の思い描いていたお嬢様像は綺麗に壊れてしまいましたよ。だからこそ新しい生活に慣れてくると、あの屋敷が、いえ、あの国が不気味に思えて来まして」
少しだけ眉間に皺を寄せたフィロが言葉を探して一瞬沈黙する。
「その、アルディナの奴隷の扱いが良くなったのはリウムさんの発案だと聞きました。奴隷商人の所で過ごしている間、食事すら満足に与えられず、暴力と暴言の中で汚い場所に無理やり詰め込まれるような生活でしたが、ある日を境に食事と部屋の環境が少し整えられて、死亡する人数が一気に減ったのです。商人たちの話を盗み聞きしたところ、この国でも地位の高い家のご令嬢が奴隷の環境を整える様に色々と動き回っていた、と。その時はあなたの名前すら知りませんでしたが、あの屋敷に来てそれがリウム様の発案だったとお聞きしました。ただ……」
「ただ?」
「俺にそれを教えてくれたのは執事の仕事の教育係だったのですが、「君が生きていられたのもリウム様が奴隷の扱いの改善を発案したからだ。プルム様に感謝しろよ」と言われまして。こいつはいったい何を言っているんだろう、と思いましたよ。その流れで俺が感謝するのであればリウムさんにです。プルム様も何かしてくれたのかと聞いても、彼女はこの件には一切関わっていないと言いますし。そんなことがずっと続くので、俺の考える常識は何かおかしいのだろうかとさえ思いましたね」
確かに他国からは気味が悪い国で済まされても、フィロの様にゲームのことも知らず補正も利いていないアルディナの住人にとってみれば、自分の頭の中を疑うような国だろう。
何回聞き直しても正しいことを言っているはずの自分がおかしいような扱いを受けるのだから。
勿論ある程度のフォローは入れていたし、フィロが私の専属である以上、一日の大半を私の部屋で過ごしていたが、やはりあの屋敷で暮らす以上は他の人間と関わらないわけにもいかない。
「自分の頭の中を疑いはしたものの、あなたの専属として本格的に働きだして、やはり自分の感覚は間違っていないと思いました。リウムさんの働きを一番近くで見ていたというのもありますが、その……あなたが、とても寂しそうでしたので」
「……私が?」
「はい、あくまで俺の感覚でしたが、時折寂しそうな瞳をして周りの人間を見ていらっしゃいました。皆の言うことが正しいのであれば、あなたが寂しがる必要なんてない。そしてあなたの外交に付いて行った時、他国の方々と交流するあなたを見てそれは確信に変わりました。やはり、俺の思った通りあの国はおかしい、と。しかし俺が何を言ってもあの国の人間には結局通じることはなくて。あなたがファクルとの外交を成功させたことで俺を買ってもらったと知った後も、使用人たちの間では外交成功の功績は妹君のものになっていて。彼らの頭の中で功績を持つ人間は当然の様に入れ替わってしまう。正直に言って不気味でした。そして何より、とても腹立たしかった」
「フィロ」
「ファクルとの外交成功がどれほど大きなものかなんて、俺たち奴隷の間でだってわかっていたことです。そんな大きな功績なのにその功労者であるあなたがまったく評価されず疎まれるという、訳の分からない事態が永遠に繰り返されていく」
忌々しそうに窓の外の方を見つめるフィロ。
あちらはアルディナの方角だ。
「その頃にはもうあなたはきっと俺の野心に気が付いているのだろうとわかっていました。それでもずっとあなたは俺に優しかった。俺だけではなく、使用人や出入りの業者にも。俺や彼らがなにか失敗をしても、責めるよりも先にあなたは心配の言葉を口にする。俺が来たばかりの頃は逆に不自由はないかと聞いて下さって。それでもなぜか屋敷でのあなたの評判は、あなたがやってもいないことで悪くなっていくばかり。それが不気味で、出歩きたくなくて……いつの間にかあの屋敷で、あなたの部屋だけが俺にとって安らげる場所になっていきました。そうして日々を過ごしていく内に、気が付いたらもっと良いところまで成り上がってやろうなんて気持ちは消えて、みんなが忘れてしまうのならば俺だけはあなたの成した事を覚えていようと、あなたがこれ以上寂しくないようにずっと傍にいようと思う様になったのです。けれど……」
一度うつ向いたフィロ、その表情はうかがい知れず、何か言葉を探している様だった。
「……アルディナという国に馴染んできた頃、あなたが他国から帰ってきた数日後でした。ファクルに比べれば小さな成果でしたが、それでもあなたは外交に成功して帰国された。それがいつの間にか、俺の頭の中でも妹君の功績に置き換わっていたのです」
「……え?」
「あなたの顔を見て、一瞬迷ってから正しいことを思い出したのです。俺は愕然としました、そして恐怖を覚えました。ずっと傍にいようと、俺だけはあなたの味方でいようと決めていたのに、そんな決意をあっさり無かったことにするように自分の頭の中が書き換えられていて。そんな自分に腹が立ってしかたなかった。それなのに、その後も気を抜けば俺の頭の中は書き換えられてしまう。他国にいる間は平気だと気が付いてからはなるべくあなたの供としてギリギリの位置までついていくようにしていましたが、それでもアルディナにいる間は気が抜けない。だから、ほとんどの時間をあなたの部屋で過ごせる専属の執事の座はとてもありがたかったのです。あなたと過ごしている間だけ、俺は何も意識しなくても俺でいられる。あなたのことを忘れなくてすむ」
話し続けるフィロの顔を呆然と見つめる。
彼は何を言っているのだろう?
フィロにも、ゲーム補正は働いていた?
でも、彼は今私の味方としてここにいる。
『……仕方がないわ、ゲーム補正なんて人知を超えたものが働いているのだもの』
身に覚えのない悪意を向けられるたび、成果を取られるたびにそう自分に言い聞かせて来た日々。
頭の中をよぎっていく、苦しくて悲しい日常の記憶。
誰も逆らえないから、だから、だからしかたないって、ずっと、そう思って……
なのに、それなのに、そんな。
あの補正は絶対のものではなかったとでもいうの?
身体から力が抜けて、ただ胸だけがぎゅうぎゅうと締め付けられるように痛い。
鼻の奥がツンとして視界が歪んでいく。
「だから、あなたが国を出てくれたことは、俺を迷いなく連れて出てくれたことは、とても嬉しくて幸せなことだと思っています……っリウムさん?」
視界が本格的に滲み、持っていたカップが手から滑り落ちて軽い音と共に床を転がった。
慌てたように近付いて来た彼の顔がぼんやりとしか見えない。
一度戸惑ってから頬に触れた彼の手で、私は自分が泣いていることに気が付いた。
痛い、痛い、胸が痛い。
しかたのないことだと思っていた。
私を忌むべきものとして見る彼らはゲーム補正、人知を超えた力に逆らえない。
だからやってもいないことで責められるのも。
何度説明してもいつの間にか戻ってしまう彼らの考えも。
道を歩くだけで飛んで来る冷たい視線も。
ひそひそと聞こえる私の胸をえぐるような悪意の言葉たちも。
家でも外でも心の底から安らげる場所がないことも。
しかたないって、どうしようもないって、諦めていた。
でも、違ったんだ。
私が仕方ないと諦めていたことは、決して抗えないものではなかった。
目の前の彼はその証明だ。
私はずっと、フィロにはゲーム補正が効いていないのだと思っていた。
それほどまでに彼は当然の様にいつも私の傍にいて、支えて味方をしてくれていたから。
けれどフィロはずっと私を想って、補正という大きな力に抗ってくれていたんだ。
元から効いていないのと、効いていて抗っているのではまったく違う。
自分の記憶が書き換えられていくなんてどれほどの恐怖だっただろう。
今の彼には生きていく術もお金もあって、逃げようと思えば逃げられたのに、彼はそうしなかった。
記憶のことを私に告げることすらなく、ただひたすら私の味方としてずっと傍にいてくれた。
どれだけ苦しくても、悲しくても、少し視線を動かせば彼がいつも穏やかに笑って、私のすぐ近くに立っていたから。
外交の時も、ユート様に置いて行かれた私を迎えに来てくれた時も、みんながプルムを囲んで笑っている時も、絶対に彼は私を見て微笑んでくれていたから。
心底安らげることはなくても、この人がいたから一人では無かった。
アルディナでの日々を絶望せずに過ごす事が出来た。
フィロが慌てているのがわかるのに、ボロボロと零れる涙が止まらない。
頬に添えられた彼の手に自分の手を重ねて、泣きながら口元だけ少し笑った。
「ねえフィロ、もういいわよね」
自分で思ったよりも小さな声だったが、部屋の中に静かに響いたその声に反応したフィロが私の顔を見たのがわかる。
「もう、アルディナのことなんて気にしなくても、いいのよね」
「……当り前じゃないですか。あんな連中にいつまでもあなたが心を砕く必要などありません」
心の中に残っていたアルディナの人たちへの罪悪感が、涙と一緒にどんどん流れていく。
「リウム様、以前、俺があなたになぜそんなに彼らのために働くのかと聞いたことを覚えていますか? あなたは言っていましたよね。『私は民によって生かされている。この身も、家も、豪華な服や装飾品も、すべて彼らが働いて税を納めてくれているから得られたもの。だから私が国のために生きるのは当然のことで、義務でもある』と。これからのあなたを生かすのがこのファクルの住人ならば、あなたがこれから心を砕くのはアルディナの住人ではなくファクルの住人でなくてはならないはずです。もしもあなたがアルディナの人々に罪悪感を感じているのならば、それは必要のないものですよ。あなたがアルディナで過ごしている間、あの国はファクルからの侵攻に怯えることもなく、あり得ないほどの良い条件で他国からの補助を受ける事も出来ていました。もう十分、おつりが来るくらいにあなたはあの国のために働いた。彼らがあなたを支えた以上に、あなたは彼らに返しています」
悶々と心の奥に溜まっていたどうしようもない感情が溶け出して消えていく。
この世で一番好きな人からの言葉は、私が自分に言い聞かせようとしていた時よりもずっとすんなりと、もう良いのだと納得させてくれる。
ゲーム補正があるから、誰も抗うことのできない大きな力だから。
彼らに罪はないと、そう思っていた。
でも今、目の前にずっとそれに抗い続けてくれた人がいる。
どうしようもない力じゃなかった。
少しでも私のことを見てくれていたら、違和感を覚えて考えてさえくれていたら、抗うことは出来る力だったんだ。
アルディナの人たちに私のことをそこまで想ってほしいとは言えない。
けれどそれでも、同じように補正にかかりながらも私を選んでくれた人がいるのに、彼らのことを大切だなんて思えない。
補正があるからなんてもう言い訳でしかない、無意識だろうが補正があろうが、彼らは自分の意志でプルムを選んだのだ。
私が彼らではなくフィロと過ごす自分の幸せを選んだように。
……フィロが私を選んでくれたように。
屋敷で、町中で、私を見る冷たい瞳。
追放を望んでいたのはフィロとのこともあったが、あの視線を一生感じ続けなければならないのかという苦痛も大きかった。
レオス様の、私の居場所になったファクルという国の王の言葉が頭をよぎる。
彼の言う通りだった。
私はもう、アルディナのことを気にする必要なんてまったく無かったんだ。
アルディナの民は彼らが選択した責任を持って、今日私を捨てた。
そして私は私の選択した責任を持って、今、完全にアルディナを捨てる。
フィロの言う通り、私の自国はもうファクルで、守るべき人達はこの国の魔物たちなのだから。
涙と共に流れ出ていった彼らに対する罪悪感、同時に胸の痛みが消えて体すら軽くなったような気もしてきた。
私の中でアルディナという国の価値は完全になくなってしまったようだ。
これからはもう、何も気にせずファクルの民として、そしてただのリウムとして生きる。
できるなら……この人と一緒に。
「フィロ」
「はい」
「私、最初に追放されるかもしれないと気が付いた時、悲しいと思って、でもすぐに嬉しくなってしまったの」
「嬉しく、ですか?」
薄暗い部屋の中、ランプに照らされたフィロが至近距離で私を見ている。
頬に添えられた手はアルディナにいれば許されなかったことだ。
あの日、フィロと出会った日からずっと私の心からの願いは変わらない。
この人と一緒に生きてみたい。
「ずっと、ずっと欲しいものがあったから。けれどそれは私が絶対に手に入れることのできないもので、最初は諦めていたのだけれど」
「リウムさんが欲しいものですか?」
私の止まらない涙に慌てながらも、驚いて不思議そうな表情に変わったフィロに更に笑う。
「そんなに、不思議?」
「……不思議です。あなたは自分の地位にあったものや外交の時に必要なものを最低限持つ以外は、無駄に欲しがることはありませんでしたから」
「そうね、私が自分からどうしてもこれが欲しいって言ったのは、今まで生きてきた中で一つだけだわ」
「一つ?」
目の前で海色の瞳が揺れている。
私がどうしても欲しいと声を上げたもの。
あの日、両親にこれはどうかと聞かれたものを適当に買ってもらっていた、ファクルとの外交成功のご褒美の買い物。
もう帰るだけになり、薄暗くなってきた市場で見つけたこの海色の瞳。
『父さま、私、あの子が欲しい!』
一目見た瞬間、何かを考える暇もなく初めて出した大きな声。
初めて口にした欲しいもの、それを買ってほしいとねだる言葉。
外交官として働いている間に稼いだお金で、その時のお金はもう父に返してしまったけれど。
それでも唯一欲しいと願ったことに変わりはない。
頬に添えられたフィロの手に触れていない方の手をゆっくりと伸ばし、彼の頬に触れる。
「私が生まれて初めて、そして唯一欲しいって、買ってって、父に願ったの。あの子が欲しいって。それまでずっと、良い目で見ていなかった奴隷市場で、何とかこの市場を止めさせることは出来ないかって考えていたあの場所で、私、どうしてもあなたを買ってほしいってねだったわ」
見開かれた海色の瞳に、ランプの炎の赤い揺らめきが映っている。
滲んでいるのは私の止まらない涙のせいだろうか。
ほしいと願った……一緒に隣り合って生きてみたいと願った人。
「ずっと、あなたと隣り合って生きてみたかった。今日みたいに、一緒の食卓に着いて、並んで歩いて、地位なんて、壁なんて無い日々をあなたと過ごしてみたかった。でも私にはあの家に生まれた責任がある、アルディナの国民を支えるという責任が、あった。けれどずっと、口に出せなくても思っていたの。あなたとの間にあるこの見えない壁がなくなればいいのに、って。でもそんなのは夢物語で、一生叶うことはないって思っていたのに。それが叶う可能性が出て来てしまった」
「追放と、婚約の破棄……」
「そうよ。自分からは捨てることが出来ない地位を、私よりも地位の高いあの王子に強制的に取り上げられる、そんな日がほぼ確定で訪れる。それに気が付いたら、今まで堪えていた感情が止まらなくなって……」
彼の頬に添えた手に、彼の震える手が重なる。
私の手よりも一回り以上大きい、少しかさついた手に少し力が籠った。
「あなたが心配してくれていた追放への悲しみなんて、私はほとんど感じていなかった。ユート様が私に婚約破棄を告げるであろう日が予測できるほど近付いてきた頃にはもう、早く追い出してくれって、早く婚約なんて破棄してくれって、早く、早くって、心の中でずっと思っていたの」
口調が早くなる。
目に溜まっていた涙が頬を伝っていく感覚。
「好きよ、フィロ。初めて会った時からずっと、あなたのことが、好きです」




