悪役令嬢と執事の新たな関係【3】
何から話そうか、それとも彼に質問してもらった方が良いだろうか。
そんなことを考えながら一人きりの部屋でフィロを待つ。
私の近くだけがランプで照らされた部屋は、暗い部分の方が多くなった。
闇に包まれ始めた部屋で一人きり、辺りを見回しても誰もいない。
もしもフィロがついて来てくれなかったら、今この家で、この薄暗い部屋の中で、本当の意味で一人ぼっちで過ごしていたのだろう。
それが酷く寂しいことのような気がして、なんとなくフィロの気配を探して耳を澄ませた。
聞こえてきた僅かな水音が与えてくれる安心感に静かに目を閉じる。
しばらくその静かな雰囲気に浸っていたのだが、いきなりバシャンという大きな水音とともに慌てたように彼がバタバタと動き回るような音が聞こえて目を開いた。
今日は本当に彼にしては珍しい行動ばかりだ。
何かあったのだろうかと思い立ちあがりかけたところでその音は止み、後はわずかに彼が動く音へと変わる。
どうしようか悩んでいたところで、少し焦った顔の彼が風呂場の方から現れた。
薄い青色の髪がしっとりと濡れているのが視界に入って何だか恥ずかしい。
私の前ではいつもピシッとしていたフィロのお風呂上りの姿なんて、家にいれば絶対に見る事は出来なかっただろう。
「すみません、考え事をしていたら時間が……」
「時間? ああ、もっとゆっくりしてきても良かったのに」
確かに彼が風呂へと向かってからある程度の時間は過ぎているが、慌てるような時間ではない。
フィロだって、いや、追放などまったく予想していなかった彼のほうが疲れているだろうし、話し合うだけなので外が真っ暗になったとしても何の問題もないのに。
けれどようやく訪れた説明と話し合いの時間だ。
自分は立っているからというフィロを何とか説き伏せてソファに座るように促すと、彼は私が座るソファの前、テーブルを挟んで正面にあるソファに浅く腰掛けた。
二人とも言葉を探して、少しの静寂が部屋に広がる。
とりあえず紅茶を勧めてみると、恐縮しながら口をつけるフィロ。
「ごめんなさい、あなたが淹れてくれる美味しいものとは比べ物にならないでしょうけど」
「いいえ、そんなことはありません! とても美味しいです」
私の言葉を遮るようにそう言ったフィロを見て、とりあえずお願いしたい事があったのだと思いだして、話し合いの始まりにはちょうど良いかと口を開く。
「フィロ、一つお願いがあるのだけれど、いいかしら?」
「はい、なんでしょうか?」
「普通に話して欲しいのだけれど」
「……はい?」
私の発言は彼にとって想定外だったのだろう、少しだけ丸くなった彼の目が可笑しい。
「アルディナを出る時にも言ったけれど、もう私に地位なんてないし、あなたを今まで通りの環境で雇うことも出来ない。あなたが好意で私と一緒にいてくれているのに、私のほうが偉いなんてことはないわ。だからもう今迄みたいに私に遜ったり丁寧な言葉で話す必要なんてないでしょう?」
「し、しかし」
「普通に話してくれた方が私も嬉しいもの。フィロがどうしても無理だっていうのならば仕方がないけれど。でも今、私とあなたは対等の立場だと思うし、今迄みたいに私が座っている時にあなたが横に立っているよりも、今日みたいに一緒に座りたいって思うの。だめかしら?」
私の言葉を聞いて何やら考え出すフィロが口を開くのをじっと待つ。
彼はどういう答えを出すのだろうかと、ほんの少しの沈黙の時間が妙に長く感じた。
「その、私の言動はもう癖のようなもので。ですが、リウム様がそうおっしゃって下さるのなら、時間はかかるかもしれませんが崩しましょう」
「無理はしていない?」
「はい、失礼かもしれませんが、私もあなたと普通に話せるのは嬉しいのです。あなたとこうして同じ目線で話せるのが、共に食卓を囲めるのが……とても幸せだと思っています」
穏やかに微笑むフィロの笑顔に頬が熱くなるのを感じて、それを誤魔化すように笑みで返す。
良かった、普通に話してほしいとは思うけれどフィロに無理をしてほしい訳ではない。
「失礼なんて思わないわ。すぐに私の名前を呼び捨てにするのが無理ならさん付けとかでも良いし、私もあなたとこうして話せるのは嬉しいから」
「はい、リウム様……リウム、さん」
何となくお互いに照れてしまって、少しだけ視線を逸らした。
本当に、今日は幸せに感じることばかり起こる。
「もしあなたが良かったらだけれど、別に俺、って言ってくれても良いのよ?」
「…………え?」
たっぷりと間を空けて引き攣った表情でそう声を出したフィロの顔が可笑しくて小さく噴き出した。
「あなたが私に隠れて、私を利用しようと近付いて来る人たちを追い払ってくれていたことなら知っているわ。屋敷の目立たないところで追い払ってくれていたでしょう? あちらの方が楽ならあの口調で私と話してくれてもぜんぜんかまわないと思っているのだけれど」
言葉にならずにパクパクと口を動かしたフィロが額を押さえて唸りだしたのを笑いながら見つめる。
がっくりと首を落とした彼のつむじ、私よりも背が高くいつも傍で立っている彼の初めて見る部分だ。
「私が見ていたの、てっきり気が付いていると思っていたわ」
「……自分でも不思議ですが、まったく気が付いていませんでした。良いのですか? どう繕ってもあちらが俺の素だということに変わりありません。自分の害になる人間は暴力を振るってでも追い払うのが俺で、執事らしい振る舞いはあなたの傍にいるために身に着けただけです」
額を押さえてうつ向いたまま、絞り出すようにそう言ったフィロに笑顔を向けたまま名前を呼ぶ。
「フィロ」
「はい」
「ありがとう」
「……はい」
「あなたがずっと味方でいてくれたから、傍にいてくれたから、私は寂しくなかった。私の仕事の成果も、あなただけは私がやったと知っていてくれたから耐えられたの。だから、ありがとう」
顔を上げたフィロとまた笑い合う。
丁寧な言葉は相変わらずだが、一人称が俺になっただけでもすごく嬉しい。
ランプの明かりだけの部屋の中、ただひたすら幸せを噛み締めている。
「フィロ、何か聞きたいことはある? 結局この時間まで何の説明も出来なかったけれど」
雰囲気が和やかになったところで、彼にそう問いかける。
フィロは少し悩んだ後に申し訳なさそうに口を開いた。
「すみません、たくさんありすぎて何から聞いたらいいのか……」
「そう、よね。私も何から説明したらいいのかわからないもの。最初から何となく説明するから、もしも疑問に思ったことがあったら聞いてね」
「はい、ありがとうございます」
せっかくの穏やかな雰囲気が壊れてしまうのは勿体ないがしかたがない。
一年ほど前のことを何となく思い出しながら、どこから説明したものかと悩んだ。
「追放される可能性に気が付いたのは一年前くらいだったかしら。ユート様とプルムが二人で出かける様になってしばらく経った頃ね。その前からもユート様にはプルムへの嫌がらせを止めろと言われていたけれど、ちょうど一年前くらいから二人で寄り添って出かけるようになったでしょう?」
「ええ、初めて見た時はいったい何事かと思いましたが。それに、またやってもいない嫌がらせですか?」
「そうね、やっていないと言っても聞く耳持たずだったけれど。二人が親密になっていくのに合わせるみたいに周りの状況も一気に悪い方へ変わって来ていたし、国を追い出されるのも時間の問題だって気が付いた頃、ファクルに来ないかってレオス様が声を掛けてくれたのよ。もちろん悩んだわ。いくらファクルの居心地が私にとっては良いものだったとしても、魔物の国であることには変わりないもの。いつかアルディナを亡ぼすかもしれない国に行っても良いのか、後悔しないか、って。でも周りの環境に耐えられないこともあって、その時に一つだけ決めたの」
あの日、最後の覚悟を決めた日のことを思い出す。
罪悪感だけは残ってしまったけれど、それでも国を出たことに対する後悔は無い。
「きっと一年以内に私は追放される、でもそれまでの間に誰か一人でも……あなた以外に誰か一人でも私を見て、認めてくれたら、もう少しだけこの国のために努力する。でもこの状態が続くなら、追放の罰をそのまま受け入れてファクルに行こうって。結果は、まあこの通りね」
「リウムさん……」
少しだけ悲しそうに私の名を呼ぶ彼に苦笑いを返す。
アルディナを出て周囲からの視線がなくなったことで冷静になったせいか、ファクルに来るとしても他にやりようはあったな、なんて今更ながら思う。
ファクルの人間になる代わりに、期限つきでも良いからアルディナを攻めないでほしいとレオス様に頼むことはきっとできたし、同盟国のご令嬢の中でも特に仲の良い人に一言よろしくと言っておいても良かった。
公私混同をしてくれない人たちではあるが、まったく影響が無い訳ではないだろう。
そんな単純なことも思い付けないくらいに、周囲の環境は私を追い詰めていたらしい。
敵意のない場所で落ち着いて考えることができるというだけで、こんなにも頭の中がすっきりするのかと自分でも不思議なくらいだ。
どのみち私が動いたところで、彼らのきつい視線も態度も変わらなかっただろうけれど。
たとえ交渉が成功したとしても、プルムの手柄になるだけだ。
「それに、ファクルに“行きたい”じゃなくて“戻りたい”って考えるようになった時点で、もう私の心は決まっていたようなものだもの。アルディナにいた時よりも、今こうしてファクルであなたと話している時のほうがずっと幸せだしね。ああ、レオス様がフィロにも会いたいって言っていたから、そのうち会いに行くことになると思うわ」
「わかりました」
頭の中で思い出しながら色々な説明を続けていく。
時折フィロからの質問に答えながら、ある程度の話を終えた時には紅茶はすっかり冷めきっていた。
ずっと話し続けていたので少し疲れてきた気がする。
前世のことは話せないし話すつもりもないのである程度誤魔化しながらだが、国を出るまでの流れはそれなりに説明できたのではないかと思う。
少し難しい顔をしたフィロが、それでもその表情に心配の色をにじませながら口を開いた。
「だからリウム様……リウムさんは追放されたというのに落ち着いて、アルディナへの未練もないのですね」
「そうね、結局あの国には元から私の居場所はなかったんだと思う。まるで国自体から嫌われているように感じていたわ。いっそファクルに外交に来ていた時の方が居心地が良かったくらいだもの」
「……そうですか」
「フィロは? アルディナにいた方が不自由なく暮らせたかもしれないのに、本当に私について来てしまって良かったの?」
「もちろんです。それに、正直に申しますとあの国にいた時は常に気を張っていて、あまり居心地は良くなかったのです」
「え?」
今日はずっとフィロを驚かせてばかりだったが、今度は私が驚く番だった。
彼はそんな素振りを見せたことはなかったが、もしかしてプルムが何か言ったりしていたのだろうか?
プルムは私が使用人に用事があり話をしている時、遠くから呼んで連れて行ってしまうことがよくあった。
使用人も私と話すよりもプルムと話したいという態度が透けて見えていて、声をかけられたのが幸いだといわんばかりに去ってしまっていたし、それに対してはまたかと普通に流していたのだが。
ただ、フィロに関してはそういったことは一度もなかったので、違和感は感じつつも安堵していた。
もっとも彼はよほどの理由がない限り、プルムに呼ばれたからと言って専属である私の傍を離れるような人ではないけれど。
それとも、私の知らないうちに周囲の人たちに何か言われたりしていたのだろうか。
アルディナの人々は私を遠巻きにしてはいても、私の味方であるフィロのことを責めているような様子はなかった。
だから、あくまで悪役なのは私一人だけなのだろうと思っていたのだが。
思わず声を上げた私を見て苦笑したフィロが、少し悩んだ後に静かに口を開いた。