31.ガンセン
どちらが上か下かもわからない状態になる前に空を蹴った。2回、3回とするほどに元居た場所へと近づいてゆくが、その入り口はふさがっていった。
「駄目だ。ここで閉じてしまっては」
更に一蹴り。まだ届かない。ここで運も尽きたか。
そう思ったガンセンの身体が少し軽くなった。もう少し浮き上がり、地上へとゆっくり昇っていく。心の中の他の魔法使いが力を貸しているのだろう。魔力を更に得たシカは妖精のように軽やかになり、ふわりと葉の上に落ちた。
安心したのも束の間、再び亀裂が生まれ、こちらに向かってくる。最悪の事態がまた始まった。とにかくまた逃げなければならない。地の中へ落ちていく過程で跳躍を見せてしまったことから、もう相手は自分が野生のシカでないことを知っているだろう。ガンセンは地を蹴り、亀裂の影響を受けない高さに飛び上がろうとした。
しかし、それも無駄だった。その場の空気全体から押しつぶさんばかりの圧を体に感じる。殊更上からの重力が何倍にも膨れ上がり、自身を上から押さえつけられている感じがした。これでは空駆けも不可能だ。ガンセンは一度人の姿に戻ろうとした。今のままではシカの身体でできる範囲の行動しかすることができない。問題は、バラバラになった7人が地割れに飲み込まれ、収拾がつかなくなってしまうことである。
ガンセンは諦め、そのまま疾走した。何か障害となるものがないか、勝機がないかと周囲を素早く見回した。木、木、木、どれも似たような形をしているばかりの木しか視界には入ってこない。場所を替えてまたその繰り返し。それを4度ほど続けたとき、ふいにその他のモノを彼の目がとらえた。
シカだ。彼と同じ程の大きさのシカが同じようにこっちをじっと見つめていた。時間にしてわずか2秒しか、迫る亀裂は与えてくれなかったがガンセンはこの場において気付かなければならない事実に気付くことができた。―そのシカは口角をあげてほほ笑みかけてきたのである。王は直角に軌道を描くとその他の鹿の方へ疾走した。亀裂は獲物の進路に気付いたのか、ますますスピードを上げて迫ってきた。王がシカに向かって最後の跳躍を遂げたとき、亀裂は地割れとなりその地域周辺にぽっかりと穴が空いたような地形になっていた。
ところが、ガンセン本人はというとふかふかの土の上に立っている。相手のシカも同様だ。いきなり、周囲に落ち葉などなかったような、そして亀裂などの形跡を一切感じさせない景色になっていた。あるのはただ柔らかな土。枯れ木の林。殺伐とした空間に、ただ二匹のみが対峙していた。
彼の心は落ち着いていた。もうしばらく、自分に降りかかる災難は存在しないだろうという予感がしていた。名状し難い安心感が彼を包み、その出どころを探ろうとした。目の前の存在は確かに揺るがない穏やかなエネルギーを発し続けていて、ガンセンはひと時の心の休息を得たのであった。この気持ちは何であろうか。この感情の起伏をかつての自分は知っている。その根拠を思い出し、一歩踏み出したガンセンはふらついてそのまま地に臥した。
彼の魔法が解除され、6人がその場に現われた。さっと彼らはガンセンの横に駆け寄り、様子を見た。
「これは・・・」
「体温が高いな。体力的にかなり消費していたのだろう」
上級魔法使いが手を彼の胸にかざし、エネルギーを発している。ガンセンの呼吸はやや荒く、明らかに誰かの助けを必要とするものだった。
「ここら辺の空気を吸いすぎたのよ。それも急激にね。あれだけ走っていれば無理もないわ」
5人が振り向くと、先ほどシカのいた場所に一人の女性が立っている。
「貴様、魔女か」
魔法使い達は構えた。彼らにとって魔女との遭遇は初めての事だった。
「まあね。『廃滅の魔女』。そう言うと怖がっちゃうかしら?」
舐められている。魔法使い達は構えた両手に力を入れ始める。両手が輝き出し、光が彼らの手元へ集まっていった。
「ダメね。全く無駄」
超級魔法使いのマントが燃え始める。後方部が惨事になっていることを知った彼らはパニックになり集中力が途切れた。留めていた光の玉が四方に飛び散ったが、それすらも魔女の近くに到達する前に消滅した。
「あなたは帰れなくなるわよ、このままだと」
魔女の視線の先には上級魔法使いのブーツがある。みるみる朽ちて崩壊し、彼の裸足があらわになった。
「私が用のあるのはそこで倒れている王様だけなの」
一同戦意喪失する中、魔女は王の元へとゆっくりと近づいて行く。
「やめろ、これ以上近付くな!」
彼の治療にあたっていた上級魔法使いが言う。片手は王の胸に、もう片方の手は真っすぐ魔女の方へと向けられ、震えていた。
「あら逃げないのね。殊勝だわ」
と言いつつ全く目もくれない魔女の態度からは、彼の存在など意に介してもいない様子がうかがえる。
「大丈夫。襲いなんてしないから」
そういうと彼女は、ガンセンの胸に手を当てる。
「かなり疲弊しているみたい。無理もないわ。こんな短時間で、それもこれだけの人数を抱えてここまでくるなんて。一体いくつの領域を超えてきたのかしら?」
手を当てた胸が輝きだす。とても綺麗とは言えないくすんだ灰色の光が彼の身体を包み始めた。この間、上級魔法使いは呆気にとられ身動きもできない。
「今は身体の中にある瘴気を亡ぼしているわ。ここでは時間がかかるから私の家に行きましょう」
圧倒的な力量差を前に逆らうことのできない6人と一人を連れて彼女は自分の家へと飛んでいった。




