29.キンスク
その森の中を、一頭のシカが駆けていた。軽やかな足取りはその地形に慣れているという情報を発信し、その躊躇いのない疾走は森にいつもの平穏が存在していることを伝えていた。鹿の周り、その木々たちも落ち着いて眠ることができ、その森一帯が静けさを保っていた。
森が一度終わり川に差し掛かる。キンスクというこの土地では森がほとんどの大地を占めている。こういった川はそうそう現れるものではなく、それを見た獣たちはここぞとばかりに水分を補給しに行く。一頭のシカもその例に漏れず、川の水面に近づいて行った。それは辺りを見回し、さっと8人の人間に姿を変える。
「急げ。この地に馴染むように張ってはいるが、まだ次がある」
王は他の人びとに水分補給を促した。ここで一度休憩しなければ彼らの体力は減る一方だ。ガンセンは自分達を包み込む結界を張り、外界からの目をシャットアウトしている。森に入れば再び木々の視線をごまかさなくてはいけなくなり、それが目的地に着くまで続く。前を見ても森、後ろを向いても森。気を付けなければ今来た道をそれと気づかず戻ってしまうまであった。この森は住人を選別する。相応しい者に対して相応しい姿を現すということだ。つまり、シカが相手であれば野生の勘、本能を発揮させて地形を把握するのが常であるわけだから、森は容赦なくあるがままの姿を見せているのだ。
「おい、一人いないぞ」上級魔法使いが声を上げた。考え事をしている間に、召使の一人がどこかへ消えて行ってしまったという。
「しまった」王は急いで辺りを見回す。相変わらず閉じられた木々に囲まれているだけで、人の姿など見当たらない。それが問題なのだ。今手の届く範囲に彼がいないということは、どちらかの森に吸収されてしまっている。勝手な行動などするわけもないのだから、何かの手にはまってしまったのだろう。
「早く出るぞ。こっちにこい」6人は王の元へ集まった。
「あいつは諦めろ。探しているうちにとっくに時間切れだ」大きな光が全員を包み、そこには再びシカの姿があった。
まずい。一人の人間の存在を既に知られてしまっている。警戒の体制を敷かれるのにそう時間はかからないだろう。シカは地を蹴って止まらず進んだ。
―同時刻。一人の魔女が空を見ていた。この橙色の空の先に、一瞬だけ空色が映えた気がした。空の色、雲の変化で大抵のことは読み取れる。しかし、この魔女が感じたのは別の事だった。
「これは王家の魔法だね。懐かしい。南の方に何かがいるね」その魔女はにったりした。ただものであれば既に森のここまで深く(深くとはいっても森全体のたかだが1/10にも満たない浅さである)に進んでいくことなど不可能に近い。何か特別な存在がこの先にいることは間違いなかった。廃滅の魔女はゆっくりと腰を上げた。




