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09 緊急ダイブ


 床にうずくまっていたケインは、よろめきながら立ち上がった。


 ガラス壁越しにミオを見る。

 メッシュベッドが回転したらしく、今は仰向けになって眠っている。

 人形のように表情のないミオの顔を一瞥してから、ケインはゆっくりと隔離病室の出口に向かった。


 ナースセンターで再びIDを入力する。

 退出が承認されドアがスライドすると、石井真樹が壁にもたれて立っていた。

 ケインは一瞬顔を強張らせたが、すぐに皮肉な笑みを作った。


「全部お見通しか」


 腕を組んだ真樹はじっとケインを見つめている。それはあの鋭い視線ではなく、何かをためらっているように揺らいでいた。

 ケインは不審を感じた。


「どうした……?」


 真樹は無言のままケインの前に歩み寄った。

 流れるようにケインの横に立ち、すっと身体を寄せる。それは明らかにケインを保護する動きだった。それも、自分を盾にするような。


 真樹は小さく言った。

「部屋に戻ろう」


 ケインは戸惑った。警護とはいっても、ここまで緊張した様子はなかった。その変化の理由がわからない。


「何か、あったのか?」

 ケインは訊いた。

「真樹さん?」


「歩け」

 痺れを切らしたのか、真樹はケインの手をとって歩き出した。


 通路の先に背の高い清掃スタッフが現れた。

 真樹はバックパックを身体の前面に構えている。それは明らかに襲撃に備えた体勢だ。怪訝そうな顔の清掃スタッフと擦れ違う。

 真樹はケインの背後に位置を変え、遠ざかるスタッフを確認しながら進んだ。エレベーターに乗り込むと、すぐにバックパックからボディアーマーを引っ張り出した。


「着るんだ」


 ケインは何もいわずに、検査衣の上に防弾チョッキを着込んだ。

 とても理由を訊ける雰囲気ではない。


 階下のフロアからリニアカートに乗り込む。

 カートが研究棟を出て空中のチューブに入ると、真樹は身を乗り出して周囲を素早く見回した。


「教えてくれ、真樹さん。何があったんだ?」


 真樹はシートに座り直し、深い息を吐いた。


「情報が不足している」

 真樹は苛立った口調で言った。

「警護に必要な情報はすべて提供されなければならない。しかし斉藤部長はそれを履行していない。契約違反としてアルゴ・エージェンシーには社を通じて抗議する」


 真樹自身も斉藤が何かを隠していると考えているのだ。しかし、カートの中での会話は自動検閲にかけられている。とても詳しい話はできない。


 中央棟のドームに進入したリニアカートは通過車線に移動し、スピードを上げた。長い直線走路の片側はスモークガラスで仕切られ、平行する歩行通路を大勢の人間が歩いているのが見える。


 その中の一人が立ち止まり、通過するこのカートに視線を向けていた。


 室内なのに長いベンチコートのフードを目深にかぶり、顔が見えない。その男の周りだけが照明が落ちたように暗くなっている。


「まさか」


 後方に流れ去るその姿を追って、ケインはシートの上で身体をねじった。


「どうした?」

 今度は真樹が訊いた。


「いや……」

 ケインは言葉を濁した。

「あれは、ダーク・モンク……?」


 真樹は黙っていたが、すぐに思い出したらしい。


「それは『ブレイン・ギア』の名前では?」


「そうだ」

 ケインはシートにもたれた。

「ブレイン・ギアだ」


 仮想世界の姿が現実に再現されたわけではない。しかし、一瞬の印象はあの黒衣の僧侶そのものだった。

 暗黒の雲を頭部に持つ異様なギア。

 アンリミテッドで対峙した戦慄が甦り、ケインは思わず身震いした。


 —あの時、ケインは身が竦んで動けなかった。


 それはケインにとってブレイン・バトルでの数少ない敗北であり、屈辱的な記憶だった。しかしそれは事実だ。

 カートは再び空中のチューブに入る。すぐ前方に宿泊棟が見えた。


「体調は?」

 突然、真樹が訊いた。


「別に、問題ない」


「頭痛、吐き気は? 判断力は低下していないか?」


「ない!」

 ケインは声を上げた。

「いったい何を」


「わかった」

 真樹は接近する建物を見上げた。

「では、残りの検査はすべてキャンセルする」


 ケインは驚いて真樹の顔を見た。


「斉藤さんは了承したのか?」


「了承してもらう」

 真樹は不機嫌そうに答えた。

「今日はもう部屋から出るな」


 リニアカートは減速し、宿泊棟の中に滑り込んで行った。


 ケインと真樹は部屋に戻った。時刻は既に午後になっている。


「昼食は?」真樹が訊いた。


「いや、いらない」

 ケインはボディアーマーを脱ぎながら言った。

「それより、お茶が飲みたい」


「どうぞ」真樹は言った。


「お茶が飲みたい」


 ケインは繰り返した。真樹は眼を見開いた。


「できないのか?」


「……」


「待っていろ」


 真樹は備え付けのポットでお湯を沸かし、ティーバッグを探して紅茶を入れた。デスクチェアに座ったケインの前にカップを置く。

 柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。


「ありがとうは?」


 真樹は片手を腰に当て、ケインを見下ろした。


「……Thanks」


 ケインは呟くと、紅茶のカップに口をつけた。

 真樹は呆れた顔をしている。

 ケインはカップから立ち昇る湯気を見つめた。


「プロのブレイン・バトラーになるため、毎日が訓練だった。何年間もずっと」


 真樹はベッドに腰を落とすと、足を組んだ。


「本当に、休みなく、毎日だ」

 ケインは訴えるように早口に言った。

「だからその、普通のことができないこともある。でもそれは仕方ないことだ」


 真樹は、突然笑い声を立てた。

 ケインはむっとして真樹を睨んだ。


「何が可笑しい?」


「気にするな」

 真樹は真顔になって言った。

「私も料理らしい料理は、一切できない」


「そうなのか」

 ケインは一瞬ぽかんとした。


「コントラクターとして海外を渡り歩いていたからな」


「コントラクター?」


「民間軍事会社の請負人、つまり傭兵だ」


「傭兵? まだ、そんな仕事が?」


「先進各国が軍組織を縮小したせいで、民間軍事会社の需要は伸び続けている」

 真樹はレクチャーするようにゆっくりと言った。

「わからないか? 紛争は今も、世界中で起きているんだ」


「無人兵器が主力になったという記事を読んだ。ブレイン・テクノロジーを使った遠隔操作タイプだ」


「それは米軍の最先端システムだ。実際の戦闘、特に地上戦は昔と何ら変わっていない。つまり、コストの問題だ」


「高価なシステムより、生身の人間が銃で撃ち合う……」


「それが現実だ」

 そういってから、真樹は視線を落とした。

「目の前で人が死ぬのは、もう見たくない」


 ケインは黙って暖かい紅茶を口に運んだ。


 —だからバトルでの突貫攻撃を怒ったのか。


 ブラック・ガンズとの戦いで、ケインは敵への体当たり攻撃を敢行した。

 もちろんアカツキのスピードと斬撃の攻撃力を計算してのことだが、それは真樹にしてみれば無謀で危険きわまりないものに見えたのだろう。

 実際に体当たりをした後、予想もしていなかったナパーム弾による自爆攻撃を受けている。


「そうだ」


 昨晩のバトルの結果を確認していなかった。ケインはデスクに向かい、ディスプレイを起動した。

 ニュースサイトのカテゴリーからブレイン・バトルを呼び出し、開催中のジャパン・カップ最新情報を検索する。


 アクセストップはケインのチームとレイブン達ブラック・ガンズのバトルだった。

 『不可解な乱戦』『またもギア消失』『審査紛糾』『バトラー全員重傷』と大げさな見出しが飛び出してくる。

 ケインは溜息をついた。あのバトルがつい昨晩あったとは思えない。短い時間にいろいろなことが起きすぎている。

 ケインはトーナメント表に飛んだ。


「次の対戦相手は?」


 耳元で真樹が訊いた。

 ケインの肩越しにディスプレイを覗き込んでいる。


「準決勝は、このチームだ」

 ケインはディスプレイを指した。


「ロード・ウォリアーZ」

 真樹がチーム名を読み上げる。


「ベテランチームだよ」

 ケインは指先で四体のギアを拡大した。

「トラップ使いとシューターの基本フォーメーションだが、かなり手強い。このトラップ使いは日本で最強だろう」


「……」


「だが対策はある。風牙のブリザードでトラップを蹴散らし、直後にミストを展開して視界を奪い、白兵戦に持ち込む」


「索敵は?」


「STのソナー・クラスターで位置情報を共有する」


「……独特な、戦術だな」


 それぞれのバトラーが持つ特異性スペシフィシティを駆使した仮想空間でのバトルがイメージできないらしく、真樹は曖昧に言った。


「問題はこのシューターだ」

 ケインは片腕が銀色のライフルになったギアを指差した。

「可変弾丸を使う。命中寸前に属性が変わるんだ」


「意味がわからない」

 真樹は首を振った。


「撃ち込まれた攻撃イメージが予測できないから、どんなに防御していても『不意打ち』に近い強烈なダメージを受ける。逃げるしかない」


「勝てるのか?」

 真樹は眉をひそめた。


「多分ね」

 ケインは顎をなでた。

「判定になるだろう。それでも勝ちは勝ちだ」


「決勝で当たるチームは?」


「この中のどれかだ」


 ケインはトーナメント表の反対側で勝ち進んでいるチームの一つをタップした。

 黒いマスクに長いマントを羽織った、四機のギアが表示される。


「『黒魔天』、幻術タイプか。やっかいだな」

 ケインは首を傾げた。

「知らない機体ばかりだな。前歴不詳……。このチームもフラクタル社か」


 真樹が低く呟いた。

「こいつらは、只者じゃない」


 ケインは椅子の背を倒すと、真樹の横顔を見上げた。

「どういうこと?」


 真樹はちらりとケインを見た。

「嫌ないいかただが、傭兵プロの匂いがする」


「確かに、やけに威圧感があるな」

 ケインは画面を見て考えた。

「ギアのデザインはバトラーの精神力そのものだ。こんな強力な機体が今まで登録もされていなかったとは」


 ケインは黒魔天の対戦内容を読み進み、表情を引き締めた。


「何か異様な強さだな。決勝は、多分こいつらだ」


「去年の優勝は?」


「俺たち」


 真樹は驚いた顔でケインを見た。

「強いんだな?」


「意外か」ケインは苦笑した。


「では、今年も」


「今年は、わからない。ディフェンスの華凛は出場できない。戦術や連携フォーメーションすべてが変わってしまう」


「そういうものなのか?」


「そういうものだ」

 ケインは腕を組んで言った。

「ブレイン・バトルを見たことは?」


「昨晩見た」


「あれが初めてか?」


「ずいぶんと金のかかったバーチャル・ゲームだ」


「誰でも最初はそんな印象だ。だが違う」


 ケインは椅子を回転させて真樹に向き直った。

「ブレイン・バトルは精神力のすべてをぶつけ合う、最高にスリリングでアグレッシブな『バトル・ゲーム』だ。バトラーは文字通り死力を尽くして闘う。面白くない訳がない。だから多くの人がブレイン・バトルに熱狂する」


「疑似戦争としか思えない」


「破壊衝動は人間の本能だ。闘うという本能がどうしても消せないのならば、現実の戦争ではなく仮想の世界で闘えばいい」


 真樹は肯定も否定もしなかった。


 部屋の中に来訪者を告げる柔らかなチャイムが響いた。

 真樹が立ってドアに向かう。小さなモニターを確認し、振り返った。


「パッカードさんだ」


「開けてくれ」


 ドアが開いてジェイミーが姿を現す。疲れきった顔をしている。


「どうした、ジェイミー?」


 ジェイミーはどさっとベッドに腰を落とすと、がしがしと髪の毛をかいた。


「サラと面会してきた」


「本当か?」ケインは立ち上がった。


 ジェイミーは肩をすくめた。

「三分間。しかも監視付き」


「彼女は、大丈夫なのか?」


 ジェイミーは首を振った。

「顔と両手に凍傷。極度の疲労。でも命に別状はない」


「凍傷? ラボ・タワーでいったい何があったんだ?」


「そこまではわからない。でもこれを渡された。監視に見つからないようにね」

 差し出したのは、小さく折り畳まれた紙片だった。

「サラは用意していたんだ。僕たちに伝えるために」


 ケインは紙片を開き、書かれてある乱れた文字を読んだ。

「アイラー……?」


 包帯を巻かれた手で書いた文字は、判読できないほど乱れた個所もあった。


「ちょっとネットを使うよ」

 ジェイミーはデスクに座るとキープレートを素早く操作する。


 ディスプレイにラップ音楽と共に黒人DJのアニメ・キャラクターが現れ、ニカッと歯を剥き出した。

 やたらに長い文字列を打ち込んでログインすると、アニメキャラは3Dモデルの強面の黒人に変わった。


「俺様を呼び出したのは、てめえか?」

 ドスの効いた声で威嚇する。


「やあ、マーカス」

 ジェイミーは画面に向かって言った。

「僕だよ。認証してくれ。ジェイミー・パッカードだ」


「目ん玉ひんむきやがれ!」

 マーカスは叫んだ。


 ジェイミーはディスプレイのカメラに眼を近づけた。


「てめぇの声紋・虹彩パターンを認証したぜ!」

 マーカスは親指を立てた。

「ようジェイミー。今日は何の用だ?」


「アイラー、アラガミ、千年、闇、意識の最深層、障壁」

 ジェイミーは前置きもなしに紙片の文字を読み上げた。同時にキープレートから文字を入力していく。

「アイラー、アラガミは人名を優先」


「いったいなんだそれは?」

 マーカスは大袈裟な仕草で天を仰いだ。

「わけがわからねぇ!」


「アイラーの補足、米軍、黒髪、ラテン系、テレキネシス」


「おいおい、マジかよ?」


 ケインはジェイミーの背後から話しかけた。

「それは、何だ?」


「人工知能《AI》だよ。検索専門の」

 ジェイミーは更に単語を入力した。

「類推アルゴリズムによる半自律思考型検索エンジン。僕の父親ダディの会社が基礎モデルを作ったんだ。今も研究室で日々『成長』している。アンリミテッドステージの認証コードを入手できたのもマーカスの成果だよ」


「そうだったのか」


「このAIには性格があるのか?」

 真樹が警戒する口調で言った。


「性格はないよ。語句選択パターンを変えているだけ。『理解できません』を『わけがわからねぇ!』とかね」


「確かに言葉遣いだけでキャラクターがあるように感じるな」ケインは言った。


「未だに自意識を持ったAIは生まれていないよ。いつかはブレイクスルーするといわれているけど、もしそれが実現したらノーベル賞、いや、ブレインテクノロジーを上回る科学革命になるね」


「そんなに凄いことなのか」

 ケインは感心して言った。


「こんなのが増えたら困る」

 真樹は腕を組んだ。


「ずいぶんだな!」

 マーカスが心外そうに言った。

「姉ちゃん、あんた性格悪いぜ!」


「で、どんな感じ?」ジェイミーが訊いた。


「急かすなよ、ジェイミー! 情報ブツは逃げやしないぜ」

 マーカスは指輪だらけの手をひらひらさせた。

「『アラガミ』『意識の最深層』でいくつかの群ができた。重なる領域は『アメリカにおける初期の精神治療』『ニューヘブンの精神病患者集団死亡事件』『視覚デバイスと夢の採取』」


「関連性がつかめないな」


「なんかヤバい奴だぜ。それにしてもいったい何歳だコイツ?」


 ジェイミーは眉をひそめた。

「何歳?」


「『アイラー』『ラテン系』『米軍』は当たりがついた。たぶん陸軍武器科の電子兵器開発グループにいるこいつだろう。調べてみるか」

 マーカスはなにもない空中を見回した。

「クソッ! これっぽっちの隙間もありゃしねぇ。おっと、シリア駐留軍の司令部から入れそうだな」


「注意しろ」


「わかってるって」

 いい終えると同時にマーカスはショットガンを取り出し、音を立ててコッキングした。

「ジェイミー、すまねぇがここまでだ」


「どうした?」


「アーミーがすっ飛んで来やがった」


「なんだって!」

 ジェイミーは叫んだ。

「すぐ逃げるんだ!」


「もちろんだ」

 マーカスは不敵に笑った。

「サイトデータはすべて消した。だが、俺は戻ってくるぜ!」


 振り向きざまに画面の奥に向けショットガンを連射する。硝煙が立ちこめる中、別の銃声が重なる。いきなり画面がブラックアウトした。


「なんてことだ!」

 ジェイミーは頭を抱えた。

「ダディに叱られる!」


「何が起きたんだ?」

 ケインはベッドに腰掛け、その隣に真樹が座った。


「米軍の検索ロボット、つまりサイバーセキュリティが逆探知して来たんだよ」

 ジェイミーは顔を起こし、ケインたちを見た。

「本部のサーバーにクラッキングをかけたらね」


「米軍……」

 真樹は何かを考えるように呟いた。


「米軍が今回の事件に絡んでいるかどうかはまだ確証はないよ。でもこれは、かなり異常な状況だと思う」

 ジェイミーは真剣な口調で言った。

「この件に関して連盟がどう動くかわからないけど、サラはすぐアメリカへ帰るといっていた」


 ケインはうなずいた。彼女は一刻も早くここを立ち去りたいのだ。


「急いで会わなくてはならない人がいるらしい」


「連盟の幹部だな」

 ケインは声を落とした。

「サラはもう、連盟側の人間になってしまった」


「深刻に考えるのはよそう」

 ジェイミーは言葉とは裏腹に沈んだ顔で言った。

「サラは無事だったんだ。また会えるさ」


「そうだな」


「そう、またどこかで、ね」


 黙り込んだ二人を見て、真樹は静かに立ち上がった。


「会社にメールを送りたい」

 ケインはどうぞ、と手で合図した。


 ネットに再接続してメール画面を開く。

 真樹は『アルゴ・エージェンシー、斉藤部長、経歴、至急』とだけ打って送信した。この文面なら検閲されても問題はない。


 軽やかなチャイムが鳴り、メッセージアイコンが点灯した。

 真樹はケインを振り返った。

「ラボ・タワーから返信だ」


 デスクチェアに座ったケインは、メッセージを再生した。画面に映ったのは朝比奈博士ではなく、中年の研究員だった。

 研究員はせわしない口調で『すぐに来て欲しい』と言った。


『朝比奈博士が至急お会いしたいと』

 研究員は落ち着きのない様子で額の汗を拭った。

『すぐ、おいでください。お願いします』


 メッセージはそれだけだった。


「アサヒナだって?」

 ジェイミーは驚いたように言った。

「サラは昨夜、その博士と一緒にいて事故に巻き込まれたんだ。でも、どうしてケインを呼ぶ?」


「博士はミオの深層記憶ダイブの統括責任者だ」

 ケインは急に不安を感じた。

「まさか、ダイブが中止になるのか……?」


 ジェイミーと真樹は顔を見合わせた。


「ラボ・タワーに行く」

 ケインは立ち上がった。

「いいな、真樹さん?」


 返事を待たずに検査衣を脱ぎ捨て、着慣れたジャケットを羽織る。


「ケイン、僕は残るよ。マーカスは使えないけど、まだ調べなくては」


「アラガミとアイラーだな」


「そう」

 ジェイミーはデスクに座った。

「この二人がどうラボ・タワーに繋がっているのか。知覚テロに関係しているのか。サラの書いた言葉は謎だらけだ。でも手がかりはある」


「手がかり?」


「奴は過去に事件を起こしているらしい。マーカスは『ニューヘブンの精神病患者』といっていたな。記録をあたってみるよ」

 そう言いながらキープレートに指を走らせ、検索を始めている。


「わかった。また連絡する」



「何だこれは……?」

 ジェイミーはディスプレイを見つめ、口を開けた。

「ケイン、見てくれ!」


 振り返ったが、室内に二人の姿はない。ジェイミーはディスプレイに向き直ると、ごくりとつばを呑み込んだ。


 画面には古びた白黒の新聞記事が映っている。

 病院の診察室、犠牲者とされる患者や逮捕された人物の顔写真。

 その新聞の発行日は百年以上前、二十世紀初頭だった。





 ケインと真樹は部屋を出て、階下のフロアに向かった。


 —切迫感。混乱。不安定な状況。


 連絡して来た研究員の表情からはそう読み取れる。

 もしラボ・タワー内での事故の影響が及ぶとしても、明後日の深々度ダイブは絶対に実行しなければならない。


 —急がなければ。


 ケインは焦りを感じた。

 しかしケインはその感覚の源である『時間は多くは残されてはいない』とミオの深層記憶で告げた男の声を思い出せずにいた。


 フロアに降りたケインと真樹はリニアカート乗り場に急いだ。

 待機スペースのカートに乗り込むと、ダッシュボードのディスプレイが点灯する。ケインは路線図中央にあるラボ・タワーのアイコンをタップした。


 リニアカートは宿泊棟から中央棟ドームを抜け、空中のチューブに進入した。

 正面に、巨大な黒い塔が聳えている。

 リニアカートはゆっくりと減速し、ラボ・タワー内部の暗いトンネルに入っていく。

 やがて前方が明るくなり停車スペースが見えてきた。


 ケインは思わず眼を見張った。

 待機しているセキュリティの背後に火器で完全武装した兵士達が立っている。兵士は十数人。全員がSMG(サブマシンガン)を持ち、対化学兵器用のフルフェイスヘルメットを着用している。


 ケインと真樹は停止したカートから降りた。

 セキュリティが素早くボディチェックを行う。


「これは預かります」


 セキュリティが真樹に言った。手に持ったトレイにスマートデバイスと小型のヘッドセットが乗っている。

 ケインはラボ・タワーでは手荷物検査があることを知っているので、ID以外は何も身に付けていない。


 認証装置を持った制服士官が前に立った。


「認証をお願いします」


 ケインと真樹は手渡された認証ゴーグルをかけ、名前を名乗った。

 データを確認した仕官は通路を指し示した。


「どうぞ、進んでください」


 士官に続いて歩き出すと、背後に別のセキュリティが二名付く。

 通路の奥にあるエレベーターホールに出ると、ここにも対化学兵器装備の兵士が何人も立っていた。


「何かあったんですか?」

 ケインは厳戒態勢に驚いた様子で言った。


「いえ、通常の訓練です」士官は答えた。


 —昨晩の事故は、テロだったのか?


 そう思ったが、ケインはすぐに否定した。

 実際にテロ攻撃を受けたとしたらラボ・タワーは真っ先に閉鎖される。しかし武装兵士を配置させるほどの『何か』が起こったことは確かだ。


 ケインと真樹、士官、セキュリティはエレベーターに乗り込んだ。


「どこへ?」ケインは訊いた。


「応接室です」


 ラボ・タワーには何度も来ているが『応接室』は初めてだ。


 長い下降時間があり、ドアが開いた。


 地下壕を思わせる灰色の壁の小ホールだった。やはり十名近い完全武装した兵士が立っている。ここで再びID認証を受ける。

 奥の壁の重い金属扉が開き、狭い坑道のような通路に入る。


 通路の突き当たりの分厚い金属扉を抜けると、明るい照明の輝く英国風インテリアの部屋が広がっていた。

 ケインは絨毯が敷かれた室内に足を踏み入れた。


「こちらへ」

 士官は先導して部屋を進んだ。


 一番奥が広い応接室になっていた。

 壁一面の書棚の前に大きなマホガニーの丸テーブルがあり、白髪の老人が座っていた。老人は車椅子に乗り、スーツを着た痩せた男が背後に控えている。


「朝比奈博士?」

 ケインは驚いて声を上げた。


 博士の顔には半透明の皮膚保護用ポリマーパッドが貼られ、白衣の袖口から出た両手指には包帯が巻かれていたからだ。

 朝比奈博士はうなずくと、かすれた声で言った。


「ケイン君……よく来てくれた」


 ケインと真樹は促されて椅子に座る。ケインはテーブル越しに言った。


「博士、なにが起きたんですか? ラボ・タワーで?」


「昨夜、液体窒素が漏れる事故があってね」

 朝比奈は手を持ち上げてみせた。

「たまたま現場に居合わせてしまった。それで、ご覧の通りだ」


「……そうですか」


 ケインは不審を感じたが、老博士の顔はパッドに隠されて表情が読めない。


「ケイン君。提案がある」

 博士はいきなり言った。


「なんでしょうか?」


「深層記憶探査を早めたい。今から低代謝導入に入り、明日の未明にはダイブする」


「今から、ですか?」


 低代謝導入とは、精神安定薬と低温水槽によって代謝を低め、半覚醒状態でエントリーすることだ。

 具体的には扁桃体という脳の部位の活動を低下させることで、恐怖やストレスなどを感じずに深い記憶層まで短時間でダイブすることが可能になる。

 ラボ・タワーでのダイブは、数回前からこの方式が採用されていた。


「もちろん、あなたは拒否することができます」

 突然、朝比奈の背後の男が口を開いた。

「ダイブを早めたいのはあくまでこちらが判断したこと。あなたの同意なしには、ダイブはできません」


 今まで会ったことのない中年の男だった。事務的な冷たさと同時に、妙な威圧感を漂わせていた。

 ラボ・タワーの幹部の一人だろうか。


 ケインは朝比奈博士に視線を戻し、戸惑いを隠さずに言った。


「しかし、なぜそんな急に?」


「ミオ君の脳だ」


「脳?」


「ニューロンの電位活動が急速に活性化し始めた」


「それは……」

 ケインはテーブルに身を乗り出した。

「ミオの脳が目覚めようとしているのですか?」


「まだ、わからない」

 朝比奈は首を振った。

「彼女の脳はずっと沈静化した状態だった。それがここにきて突然……」


 言葉を濁したが、朝比奈自身はその変化の原因の推測はついている。

 アメリカ軍将校の肉体を使ってアイラーが出現し、白鑞化した荒神を完全に破壊した。ミオの変化が始まったのはそれからだ。

 おそらく荒神の力によって、ミオの脳神経の電位活動は抑制されていたのだろう。その抑止力が消えてしまったことで、神経細胞のシナプスが急速に繋がり始めたのだ。


「急がないと……」

 朝比奈は呟くように言った。

「今までの航跡データが使えなくなるかも知れない」


 ケインは口をつぐみ、テーブルの下で手を握りしめた。


 —どうすればいい?


 ケインは思わず隣に座る真樹を見た。

 厳しい表情をして老博士を見つめていた真樹は、ちらりとケインに眼を向ける。

 その瞳にはなんの色も浮んではいない。


 —自分で決めろということか。


 ケインは唇を噛んだ。

 確かにどんな状況でも、判断を下すのは自分自身しかいない。


 ケインは博士に、ゆっくりと言った。

「わかりました」


「ありがとう、ケイン君」

 朝比奈は安堵した声で言った。

「では、すぐに低代謝導入にかかろう」


 博士は杖をついて立ち上がった。

 スーツの男がどこかを操作すると、音もなく本棚の一列が奥に引き込まれ、隠されていた通路が現れた。






 透明な水槽は青い半透明のゼリーで満たされている。

 真樹は水槽の縁から、ゼリーに全身を浸している御門ケインを見下ろしていた。

 ケインはぴったりと密着したボディスーツを着て、銀色のブレインデバイスをかぶった顔だけが露出している。ボディスーツには胸部、腹部、手足に多数のバイタルセンサーが貼られている。


 照明を落とした薄暗い部屋の中で、ちかちかと瞬くバイタルセンサーのLEDが、ケインの全身を銀河のように浮かび上がらせていた。


 低代謝導入の処置が始まって既に数十分が経っている。

 ケインは薬物と低温水槽によって代謝率を落とし、微睡まどろみの境界に沈もうとしていた。


 真樹は水槽の中のケインを見つめ、表情を曇らせた。

 深く眠っているはずの顔はとても穏やかといえるものではなく、皮膚の下には張りつめた緊迫感が漂っていた。


『間もなくエントリーフェーズに移行する』

 処置室内に管制官のアナウンスが流れた。

『呼吸管を接続。スタッフは速やかに退出すること』


「すいません、下がってください」


 スタッフの一人が立っている真樹を押しのけた。

 ケインの口を開けて呼吸管を喉の奥と鼻腔に差込む。

 ヘッドレストが動いてケインの顔は青いゼリーの中に完全に没した。


「退出せよ」


 スタッフ・リーダーが言い、全員が二重の気密ドアを抜けて管制室に入った。


「体温低下フェーズ、異常なし」

「減圧開始します」

「生体代謝率チェック」

「脳波モニタリング開始。エントリーフェーズに移行」


 管制室の中を飛び交うスタッフの緊迫した声に、真樹は眉をひそめた。

 ケインは、ラボ・タワーではもう何度も同様の実験を繰り返したといっていたが、この緊張感に満ちた雰囲気からは、とても作業に慣れているようには思えない。

 今回の『低代謝導入』処置が急に決められたため、おそらく通常の作業工程を極端に圧縮しているのだ。

 そしてそれは、決して安全なことではないはず。


 真樹は管制室後方の壁にもたれ、レコーディングスタジオに似た広い室内を見渡した。

 正面の長大なディスプレイでは様々なグラフィクスが刻々と形を変え、大量の数列が高速で流れていく。スタッフが操作するコンソールの上では、バイタルパラメーターの輝点が風にはためく布のように揺れている。

 最新のテクノロジーが全力で稼動する様は圧倒されるような迫力があった。


 ディスプレイの下の小さな監視窓越しに、ケインの沈んでいる水槽が見える。身体のシルエットが鬼火のように青白く光っている。

 あの少年、御門ケインの精神はもうその身体にはなく、どこか別の場所に行ってしまっている。最先端の科学技術かも知れないが、それは人間が扱える領域を超えているようで、ひどく危うげなものに真樹には感じられた。


 管制官の声が室内に流れる。


想像的構築体イマジナリー・ストラクチャー、構築開始」


「ブレイン・ギアを想起してください」

 真樹の近くにいる女性スタッフが、ヘッドセットマイクに囁き始める。

「あなたのブレイン・ギアを、想起してください」

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