07 疑惑と桎梏
朝の光がカーテンから漏れている。
目覚めたケインは眼をこすりながら枕元を手で探り、室内の照明をつけた。
「おはようございます」
窓際のソファに座ったイーノ・セキュリティの山本が野太い声で言った。眠りに落ちる前に見た時と同じ姿勢のような気がする。
ケインはまぶしさに顔をしかめながら大きな欠伸をした。
時計を見ると脳波検査の開始まで一時間近くある。
「朝食は?」山本が訊いた。
「いらない」
ケインはかすれた声で答えた。眠気が残って頭がぼうっとしている。
脳は昨夜のブレイン・バトルの疲労からまだ回復していない。
室内電話が軽やかなメロディを鳴らした。
巨体に似合わない素早さで山本がソファから立ち上がり、受話器を取り上げた。
「もしもし?」
『フロントです』
若い女性の声が言った。
『御門ケイン様に昨晩、メッセージが届いております。ディスプレイをおつけになり、ご確認ください。では失礼いたします』
「メッセージが来ているそうです」
山本はデスクのディスプレイを指差した。
ケインはデスクに向かい、ディスプレイを起動した。
『メッセージ着信』のアイコンが点滅している。発信者の名前を読み、ケインは背筋を伸ばした。
「朝比奈博士から?」
アイコンに触れると、白衣を着た銀髪の老人が現れた。
背景は重厚な英国風インテリアで、壁一面の本棚が見える。
『ケイン君』
老人は穏やかな表情で呼びかけた。
『アメリカでは大変だったね』
「どなたですか?」
山本が後ろから訊いた。
「朝比奈博士。ラボ・タワーの研究所長」ケインは早口で答えた。
『ハルトマン博士からのデータは解析した。彼の開発した新しい論理フィルターは確かに画期的だ。こちらでも購入したよ。しかし遠隔操作での深層記憶探査は、やはりタイムラグは避けられない。深々度での反応の遅れは僅かでも危険を招く。遠隔ダイブはもう行わない方がいいと私は思う。それでも今回は成果があった。とうとう繋がった記憶を見つけたね』
慰労する口調で朝比奈博士は言った。
『よく頑張った。核心の記憶までは、あと少しだと思われる』
ケインは真剣な顔で映像を見つめた。
『ただ、遺憾なことがある』
老博士は表情を曇らせた。
『最後のシークエンスの言語波形が解析できない。モニターしていたこちらに送られて来たデータは、その部分だけ解像度が落ちている。これは明らかに意図的な操作だ。ハルトマンには抗議を申し入れたよ。彼はいったい、何を隠そうとしたのかね?』
ケインは眉根を寄せた。
最後の場面での言語波形。それは脳の中で交わされた会話の記録だ。
つまり……。
—あの男の声だ。
憶えている。
あの男は、ミオの『魂』を抜き、記憶の深層に沈めてある、と言った。
—意味が分からない。
『どんな内容だったか教えて欲しい。ダイブする前に確認しなければならない。これは、最優先事項だ』
ケインは驚いた。博士がそこまで強い言葉を使ったことはなかったからだ。
『私はラボ・タワーにいる。これを見たら、すぐに返信を』
メッセージは終わった。
ケインはディスプレイのカメラに向かい、録画アイコンに触れた。
「御門ケインです。今日は朝から終日検査が入っています。連絡を下さい」
メッセージを送信し、ケインはぼんやりと宙に視線をさまよわせた。
朝比奈博士は『最優先事項』と言った。
どうしてあの男の言葉にそこまでこだわるのだろう。男の言っていた内容はまったく理解できないものだったが、あれがそれほど重要なのだろうか。
「これをどうぞ」
山本が検査衣のパックをケインの前に置いた。
「着替えてください。そろそろ検査の時間です」
脳波測定検査の待合室は、既に入院患者や外来でほぼ埋まっていた。
検査衣を着たケインは山本の指示で最後列のベンチに座っていた。目立たないのと同時に、背後を取られないためでもある。
ケインは眠り足りず、何度も欠伸を噛み殺した。
「眠そうですね?」
隣に座った山本が訊いた。
「通話できないんだが」
ケインは答えずに、ジェイミーから受け取ったスマートデバイスを見せた。
「この施設内では通話ブースでしか接続できませんよ」
山本は膝に乗せたトートバックを抱え直した。
「もちろん通話もメールも全て自動検閲にかけられていますが」
「圧縮メールは?」
「怪しまれて真っ先に解析されますよ」
小声で答えながらも、山本の眼は入室する患者の姿をチェックしている。
トートバッグの中に、昨晩斉藤部長が手渡した紙袋が見えた。
「それは?」
「預かりものです」
「見せてよ」
山本は渋い顔をした。
昨夜からの短い時間の間に、言い出したら引かないケインの性格を把握していたからだ。
山本は声を潜め、真剣な口調で言った。
「カメラアイがあります」
「え?」
「会話も聞かれています。注意してください」
「……わかってる」
ケインは小さく答えた。
それでも山本は紙袋を少しだけ開いてみせた。
デリンジャーのような極端に短い銃身とグリップの二連装ショットガンが見えた。銃身だけではなく全体が灰色のプラスチックでできている。
「ガス・ショットガン」
山本は顔を前に向けたまま、小声で言った。
「10メートル先まで高刺激ガスが届きます。全パーツが樹脂製」
「ふうん」
「銃本体よりガス弾 《カートリッジ》 一個の方が高いんですよ」
「俺の警護に、そんな武器が必要なのか?」
「絶対に必要です」
ケインは一瞬、唖然とした。
この男は、いや、ISSはどんな警護レベルを想定しているのだろう。
「昨夜遅く」
山本は更に声を落とした。
「ラボ・タワーで動きがありました」
ケインは眼を見開いた。
山本は大きく息を吸い込み、欠伸を隠すように口もとを手で覆った。
「かなり激しく人の出入りがありました。事故かもしれません」
ケインは、はっとした。
「サラがラボ・タワーに!」
「しっ」
山本には天井のカメラアイが動いたのがわかったらしい。
—単語検索か。
ケインは唇を噛んだ。
会話の中での『ラボ・タワー』という音波形が高度の検索レベルに設定されているとしたら、本当に何かの事故があったといえる。
「山本さん」
ケインは初めて名前を呼んだ。
「何が起きたんだ?」
「今、調べています」
山本は大きな掌で短髪の頭をなでた。
室内にアナウンスが流れた。
「受付番号十一番でお待ちの、御門ケインさん、検査室にお入りください」
「こちらもそろそろ交替です」
山本は立ち上がって腰に手をあて、ごきごきと首を鳴らした。ケインは屈強なボディガードを見上げた。
「凄い音だな」
「そうですか?」
山本はきょとんとした後、にかっと白い歯を見せた。
「そうそう、今度一緒にトレーニングしましょう。もっとフィジカルを鍛えた方がいいですよ!」
「まぁ、そのうちに……」
ケインは言葉を濁した。身体を動かすのは苦手だ。
脳波測定が終わって待合室に戻ると、ベンチには石井真樹が座っていた。
「ご苦労様」
「移動します」
真樹はすっと立ち上がった。
バックパックを背負い、ガス銃の入ったトートバッグを手に下げている。
「どこに?」
「ICU(集中治療室)」
「なんだって!」
ケインは思わず声を上げた。
「何があった!」
「わかりません」
真樹は顔をしかめた。
「離してください」
ケインは真樹の腕を掴んでいた。慌てて手を離す。
「パッカードさんから会社に連絡がありました。中央棟ICUフロアで合流します」
ジェイミーのことだ。
「わかった。行こう」
真樹が先に立って検査室を出た。迷いもせずに通路を足早に進む。フロアの地図を既に頭に入れているらしい。
ケインたちは医療施設間を直線走路で結ぶリニアカートに乗った。
ダッシュボードパネルが点灯し、センター内に張り巡らされた幾何学的な路線図が浮かび上がる。真樹が中央棟アイコンをタップすると、カートは滑らかに動き出した。
脳神経科のある建物を出て空中に支えられた透明なチューブに入る。
進行方向には巨大なドーム状の建物が見えた。メディカル・センターの中央棟だ。
ケインはポケットのスマートデバイスが振動しているのに気がついた。
表示はアルゴ・エージェンシーからだ。
「もしもし?」
『やっと出た!』ジェイミーが叫んだ。『何度コールしたことか』
「施設内では繋がらないんだ」
『今、どこにいる?』
「中央棟のICUに向かっている」
『よかった。マキから聞いたんだね』
ジェイミーは安堵の息をついた。
「いったい、誰がICUに?」
『サラが怪我をした』
ジェイミーは早口で言った。
『ラボ・タワーに入ったサラ、それにマイス社の幹部と米空軍の将校が負傷した。かなりマズい状況だよ。まだ報道されていないけど外交問題に』
リニアカートが中央棟の内部に入ると、通話が途切れた。
ケインは沈黙したスマートデバイスに視線を落とした。
—いったい、何が起きたんだ?
山本は、昨晩ラボ・タワーで騒ぎがあった、と言った。マイス社の一員としてラボ・タワーに入ったサラはその騒ぎに巻き込まれたのか?
カートは屋内ジャンクションで自動的に停止する。
ケインたちは急いでICUフロアに向かった。
人が行き交うメイン通路の先で、こちらに気づいたジェイミーが手を振っている。スーツを着た斉藤部長も一緒だ。
「ジェイミー!」
ケインはマネジャーに駆け寄った。
「サラは?」
「まだICUにいる。意識はあるらしい」
ジェイミーは声を落とした。
「ここまで来ているのに、それ以上は情報が掴めないんだ」
「どうする?」
ジェイミーは表情を引き締めた。
「なんとかしてサラに面会する。手を打つよ」
「わかった。頼む、ジェイミー」
ジェイミーはフロアの端を指差した。
「ケイン、あっちへ」
中央棟ドームの中心は吹き抜け構造になっている。
ケインとジェイミーは階下のエントランスフロアを見下ろす窓際に立った。外来受付のある広大なフロアはターミナル駅構内のように大勢の人々で混雑している。
ケインは背後を振り返った。
真樹は斉藤部長と向かい合い、話をしている。
真樹の硬い横顔が気になった。
「あれからいろいろ調べたよ」
ジェイミーは疲れた眼をこすった。どうやら徹夜したらしい。
「リムジンを降りた時、頭の上をでかい軍用機が飛んで行った。あれは米軍のVTOLだった」
周囲に目を配ったが、近くにカメラアイは見えない。ケインは小声で言った。
「ビッグ・オウル」
「その通り」
ジェイミーはうなずいた。
「米空軍がデータを運ぶなんて、機密情報の輸送にしても破格の扱いだよ」
「そうなのか」
「マイス社、いや、連盟が国防総省を動かしたんだ」
「それだけ『知覚テロ』を警戒している?」
「国防総省も、日本政府もね」
「日本政府?」
「米国防総省が各国政府に警戒を呼びかける通達を出した。『知覚に対するテロ』が現実に起きた、とね」
「本当に?」
ケインは驚きの声を上げた。
「じゃぁ、カジノ・ライツのバトルで流された光パターンの情報を?」
「それはなかった」
ジェイミーは首を振った。
「あの光パターンは多くの人命を奪っている。しかしその情報を公開したら、マイス社は傷害事件の被害者や遺族から莫大な訴訟を起こされるだろう」
「では?」
「知覚テロのケースとして挙げられたのは」
ジェイミーは気の毒そうな眼でケインを見た。
「……俺か」
ケインは力なく窓ガラスにもたれかかった。
「ブレイン・ギア暴走の原因としてね」ジェイミーは言った。
「そうだ」
二人の間に斉藤が立った。
「アカツキの暴走は、破壊衝動を異常に高める知覚攻撃を受けたことによるものと、国防総省は各国政府に通達した。米国にしては思い切った対応だろう」
「スケープゴートにされた」
ケインは拳でガラスを叩いた。
「くそっ!」
「気持ちはわかるけど、アカツキの汚名は返上された」ジェイミーは宥めた。
「ただその情報は非常に限定されたものだ。そして『囮』である可能性が高い」斉藤が言った。
「デコイ?」
「つまり『釣り』だよ」ジェイミーが言った。
斉藤はうなずいた。
「情報は各国の限られた政府関係者にだけ伝えられた。その上で『知覚テロ』の報道があったとすれば?」
「誰かが、情報を漏らした」ケインは言った。
「そしてリーク先を逆探知して特定する」ジェイミーが言った。
「そう。身内の掃除になる。しかもブラジルと中国ではもう犯行予告まであったそうだ」
「ずいぶんと気が早いよね」ジェイミーは肩をすくめた。
「連盟にも各国政府にもメリットがあるということか」
ケインは考えながら言った。
「でも、流出元を辿れなかったら?」
「そいつは、本物の犯行予告になるな」
斉藤は腕を組んだ。
「日本でそうならないことを祈るよ。ジャパン・カップはスケジュール通りに進行させたい」
「ジャパン・カップ」ケインは斉藤を見た。「次は?」
「来週末。準々決勝だ」
「時間がないな……」
ケインは眉根を寄せた。
「華凛とSTの具合は?」
「STは意識が戻った。多分大丈夫だ。だが」
斉藤は顔を曇らせた。
「華凛は重態だ。命に別状はないが、しばらくは入院だろう。回復しても……」
「後遺症か」
ケインは暗然とした。
脳に物理的な損傷があれば、影響が残るのは免れない。
「ケイン。お前の承諾が必要だ。華凛はチームから外す。いいな?」
ケインは大きく息を吐き、うなずいた。
「よし。それで交替メンバーを考えた。ケインはアイアン・グレイブが良いと思うんだが」
斉藤は防御に特化したブレイン・ギアの名前を上げた。
「あの鉄板か」
ケインは直線的で無骨なデザインのギアを思い浮かべた。
「他にバトラーの希望はあるか?」
ケインは斉藤をじっと見つめた。
「ある」
「誰だ?」
「レイブン」
「なんだって?」
斉藤は思わず声を上げた。
「お前、何を?」
「あの機体はもう登録されている。無理だよ」横からジェイミーが言った。
「リコンストラクション」
ケインは低く言った。
「できるだろ? そして新規登録させる」
「本気か、ケイン?」
「もちろん本気だ」
ケインは眼を据え、真剣な口調で言った。
「レイブンを探し出してくれ。なんとしてでも」
斉藤は口を一文字に結び、黙っている。
「斉藤さん!」
斉藤は深く長い息を吐いた。
その身体から格闘家のようなずしりとした重い威圧感が滲み出てくる。
これが斉藤の本来の姿であることをケインは知っている。
「ケインよ、何があった……?」
斉藤は照準を合わせるように眼を細め、低く言った。
「あのバトルで、奴はお前に何を話した?」
ケインは斉藤の鋭い視線を跳ね返すように、足を踏みしめた。
「……焔」
斉藤の顔から表情が消える。
その反応に、ケインは唸るように言った。
「知っているのか、斉藤さん?」
「考えておく」
斉藤は言い捨てると、くるりと踵を返して歩き出した。
同時に傍らに立っていた真樹に目で合図をする。
「待ってくれ!」
ケインは足を踏み出した。
「あんたは、知っているんだな!」
ケインは追い縋って斉藤の肩を掴もうとした。
横から真樹の手が伸びてケインの手首を握った。
「うっ!」
ケインは苦痛の声を上げた。
一瞬で手首をねじられ腕を背中にまわされている。反対側の腕は背後から密着した真樹に抱え込まれ、身体をねじることもできない。
「騒ぐな」
真樹が耳元で囁いた。
「セキュリティを呼びたいか」
今まで聞いたこともない冷たい口調だ。
ケインは慄然として動きを止めた。
真樹はケインの強張った腕から手を離し、すっと距離を取った。
「くそっ!」
ねじられた腕を押さえ、ケインは真樹を睨みつけた。
「斉藤さんから、何をいわれた?」
真樹は黙って首を振った。答えられないのか、それとも答えたくないのか。
「言えないのか?」
自分の声がかすれている。
この女性は信じられるという思いは確かにあった。
しかしそれは、ケインの勝手な思い込み、幻想だったのだ。
「そうか、わかったよ!」
ケインは真樹に指を突きつけた。
「あんたは警護なんかじゃない! 俺の見張りなんだ!」
「ケイン、落ち着くんだ!」
ジェイミーが間に割って入った。
真樹は醒めた眼でケインを見つめた。
「どう思ってくれてもかまわない。私は仕事をするだけだ」
「何だその眼は」
真樹はきつく唇を結び、言葉を発しない。
「そんな眼で俺を見るな!」
「ケイン!」
ジェイミーが腕を掴む。
ケインはジェイミーの手を振りほどき、走り出した。
メイン通路を走り抜け、一番近くにあったエスカレーターを駆け降りる。
すぐに『走らないで下さい』という警告のアナウンスが響いたが、ケインは無視して数階分を駆け降りた。
下の階から制服のセキュリティがこちらを見上げている。
手に電撃警棒を構えていた。
ケインは身を翻し、フロアの奥に向かう通路に飛び込んだ。
角をいくつか曲がってから、歩く速度を緩めた。人の流れを見つけてその階のエレベーターホールに出る。
一階のエントランスホールに降りると、外来受付や面会に訪れる人々が広いフロアを行き交っている。これだけ大勢の人間がいればカメラアイも簡単には識別できないはずだ。
ケインは人混みの中に足を踏み出した。
ケインは混乱していた。
斉藤はレイブンが『焔』と呼んだあの燃える剣を知っていた。
それはケイン自身が知らない記憶の空白が本当にあったことを証明している。
しかも斉藤はそれを隠していた。
—なぜだ?
斉藤はブレイン・バトラー御門ケインの、文字通り育ての親といえる人間なのに。
—いったい、なにがあった?
はっとして立ち止まった。まさか斉藤さんが……。
—ケインの記憶の空白を作ったのか?
立ちすくんだケインは前から来た男に身体をぶつけられ、尻餅をついた。舌打ちと罵声を浴びせられる。
ケインはよろよろと立ち上がった。
突きつけられた事実は信じられない、いや、信じたくないものだった。
理由を考えても、わからない。わかるわけがない。
ケインはよろめきながらフロアを歩いた。
気がつくとリニアカート乗降スペースに立っていた。
やってきたカートに乗り、路線パネルのアイコンに触れる。
カートは中央棟を出て空中のチューブを渡り、西エリアにある研究棟に向かった。
もう何度も来ている建物だ。
中央棟と違い、研究棟の内部は人影もまばらだった。
屋内ジャンクションでカートを降りると、エレベーターで病室フロアに上がる。ケインは灰色の通路を奥へ歩いた。左右には病室のドアがずっと並んでいる。
突き当たりは、隔離病室エリアだ。
ナースセンターの受付パネルにIDを入力すると、静かにゲートが開いた。
クッション材の敷かれた白い通路を進む。
ここは入院患者の中でも重度の症状であり、同時に臨床研究の対象になっている患者を集めたエリアだ。
廊下の両側はガラス壁で仕切られ、中の無菌室には白い繭のようなメッシュ・ベッドが整然と並んでいる。
そのひとつに、痩せた少女が横たわっていた。
短く切り揃えられた黒い髪。
検査衣の袖からのぞく白く細い手と素足。
いつもと同じ、まぶたを閉じた横顔。
ミオ。
床ずれを防ぐため、設定された時間が来ると柔らかなベッドは波打つように変形し、回転する。ぐったりと横たわったミオが白い繭の中を転がされている様子は、必要とわかっていても人間の身体が物のように扱われているようでやりきれなさを憶える。
繭の中のミオは半分うつぶせになったまま白い手足を投げ出している。
僅かに身長が伸びたように思えるが、はっきりとはしない。
もう六年間も、ミオはここにいる。
そしてその六年間、ケインはこの研究棟に通いミオの記憶の海を探り続けている。
ここだけではなく、海外の著名な研究者のいる病院や新しい理論を開発した研究施設からもダイブしている。それには莫大な医療料金が必要だった。
そのためにケインは死物狂いでブレイン・バトルを闘い、賞金をつかみ取ってきたのだ。
「ミオ」
ケインはガラス越しに、眠り続ける妹を凝視した。
「お前に、いったい、何があった?」
今まで幾度も繰り返してきた問いが口をつく。
ミオはあどけない横顔を見せて、静かに寝息を立てている。
何も苦痛を感じていないのだろうか。
眠り続けることで精神の平安を得ているのだろうか。
—そうは、思えない。
母親は失踪し、幼いケインとミオは庇護のない冷たい世界で育った。そして唐突に、ミオの時間は奪われた。
ミオだけではない。ケイン自身にも記憶の空白という暗闇があった。
想像もできないが、自分の知らないうちに何かの方法で記憶が操作されていたのだ。
空白の時間に何が行われていたのか。
奪われた記憶は絶対に取り戻されなければならない。しかし同時に、それを知ってはいけないような恐ろしさも感じた。
「俺たちは、いったい、何をされた?」
ケインは拳を握りしめた。
「俺たちはどうして、こんな眼に遭わなければいけないんだ……!」
なぜ自分たちばかりに不幸や試練が重なって襲いかかるのか。
それはあまりにも不公平で理不尽ではないか。
そんなものは到底受け入れることなどできない。しかしどんなにその運命を呪ってみても、目の前にある現実は何一つ変わらないのだ。
強い感情がこみ上げ、大きな波となって押し寄せる。
それは何もかもすべてを打ち壊してしまいたいと願う破壊衝動だった。
ケインは歯を食いしばり、ガラスに拳を押し付けた。
そうしなければ、ガラス壁が破れるまで殴り続けてしまいそうだった。
ケインはガラスに額を押し当てながら、ずるずると床にくずおれた。
「どうして……」
目の前が涙で歪む。
「どうして……」
壁際にうずくまったケインは、こみ上げてくる感情に堪えきれず、嗚咽を漏らした。
この現実から逃れたい。なにもかも捨ててしまいたい。
それならばもうすべてを放棄してしまえばいいではないか。
全部投げ捨ててしまえば、自分に降り掛かるこの苦しみから逃れられる。
そうすれば。
楽になれるのに。
—しかし……。
ケインは両の掌で顔を覆った。
—母さんは俺たちを残して消えてしまった。今度は俺がミオを残していくのか。俺はミオを見捨てるのか……。
ケインはうつむいた顔を震わせ、拳を固く握りしめた。
—ミオ……。
顔を上げて白い繭を見る。
痩せた少女は、兄の心の言葉を何も聞かなかったように背中を向けていた。
—そんなこと、できる訳がない。
ケインは肩を震わせ、大きく息を吐いた。
—俺はお前を、絶対に見捨てない。
闇を解く唯一の鍵。
それはミオ、そして自分自身の。
脳の中にある。