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05 アイラー


 ジャパン・ナショナル・メディカル・センター。

 東京近郊にある大規模な脳科学医療施設だ。


 日本におけるブレイン・テクノロジー創発の地でもあり、現在でも世界最先端の研究レベルと設備を誇っている。

 三十年以上前に母体となる総合病院が建設され、病棟や様々な研究施設、付帯施設が増築されて来た。

 広大な敷地の中央に聳える研究棟ラボ・タワーは一度大きな事故で失われたが、その後更に規模を拡大した現在の建物が建設されている。 



 夜も遅かったが、中央棟や研究棟には煌々と灯りがついていた。

 白いストレッチ・リムジンはビジターゲートの検問を抜け、宿泊棟のエントランスに向かった。

 高級ホテルのような玄関には、セキュリティや接客スタッフ達が並んでいた。


「マイス・コーポレーション、サラ・アルブライトです」


 サラは出迎えた老人ににこやかな笑顔を向け、握手を交わした。


「お待ちしておりました。ホスピタリティ・マネジャーのまゆずみです」

 小柄な老人は握った手を上下に振った。

「そちらは?」


「アルゴ・エージェンシー、御門ケイン」

「イーノ・セキュリティー・サービス、石井真樹」


 女性アテンダントが歩み寄り、データパッドを差し出す。


「ビジターのID登録をお願い致します」


 三人はIDカードをパッドに重ねて個人データを入力した。これでこの施設の保安システムに読み込まれたことになる。

 ケインが振り返ると、間宮を乗せたリムジンはもう姿を消していた。


「どうぞ、どうぞこちらへ」

 老人はケインたちを建物の中に招き入れた。


 天井の高いロビーには巨大なシャンデリアが燦々と輝いている。一流ホテルを凌ぐ豪華さだった。


「御門……ケイン……様」

 ふいに老人は足を止めた。

「深層記憶探査は、三日後になりますが?」


 ケインも立ち止まった。

 この人間がどうしてそれを知っているのか。


「ああ、妹さんにお会いになる?」

 一瞬の間があって、老人はうんうんとうなずいた。

「ようございますな」


 老人は細い銀のヘッドバンドを後頭部に回し、その両端はこめかみに出た小さなピンに接続されている。

 見たこともないスリムなデザインだが、この研究施設が独自に開発した最新型のブレイン・デバイスだと思えた。病院のコンピュータにアクセスして『御門ケイン』に関するスケジュールを脳内で検索しているのだ。


「その前に、彼の精密検査をお願いしてあります」

 サラが老人に訊いた。

「それから、先に搬送された二人は?」


「はいはいはい」

 黛は斜め上を見上げながら歌うように答えた。

「ただいま検査中です。状況によってはNCU(脳神経外科集中治療室)に入られることもございます」


「そうか……」ケインは声を落とした。


「アルブライト様はラボ・タワーにおいで下さい。皆さん、お待ちです」


 黛はフロントに顔を向けた。

 フロントマンは軽くうなずくと、手元で何かの操作をする。


「ケイン」

 振り返ったサラは乾いた声で言った。

「あとでサイトウも来るわ。検査スケジュールを聞いてちょうだい」


 サラの表情が硬い。珍しく緊張しているように見えた。


「サラ、大丈夫か?」


「心配しないで。また連絡する」

 サラは答えると、頬笑みを真樹に向けた。

「マキ、ケインを頼むわね」


 四人乗りのリニアカートが音もなく近づいて来た。

 リニアカートは広大な敷地内の各施設を直線で繋いでいる移動システムだ。

 ケインと真樹を残し、カートに乗ったサラは通路の奥に消えて行った。


 黛は後ろに控えている女性ベルを示し、ケインと真樹に言った。


「お部屋へご案内いたします。どうぞ」


 老人は一度もケインと、いや、誰とも眼を合わせなかった。

 小刻みに動く視線は、脳内検索で忙しいのだろう。

 ケインは目の前にいる『システムと繋がった人間』に異様さを感じた。


 エレベーターで上階の客室フロアに上る。

 エレベーターロビーでも有人のセキュリティチェックがあった。

 柔らかな絨毯を踏みながら廊下を進んで行くと、奥のドアの前に背の高いがっしりした男が立っていた。

 ケインは前を進むボディガードの背中に警戒の声をかけた。


「真樹さん?」


「心配ない」

 真樹は振り返りもせずに答えた。

「同僚だ」


 三人が近づくと、男は一歩下がってスペースを空け、姿勢を正した。


「こちらです」

 女性ベルがドアの認証プレートを指し示す。

「認証を」


 ケインはドアの前に立ち、プレートを見つめた。

 瞳孔がスキャンされ、網膜の毛細血管パターンが読み取られる。

 すぐにドアのロックが解除された。


 部屋に入る。

 セミダブルのベッド、PCディスプレイの置かれたデスク、窓際に二人用のソファセット。シンプルだが快適そうな部屋だった。


「では、ごゆっくり」

 ベルはにこやかな笑みを見せてから退室した。

 美しい女性で、ジェイミーだったらきっと何か話しかけていただろう。


 ケインはベッドに腰を降ろすと、腕で眼をこすった。


「……眠い」


「疲れが出たんでしょう!」

 背の高い男が大声で言った。

「凄まじいバトルでしたからねぇ!」


 ケインは声の大きさに顔をしかめ、男を見上げた。


「あんたは?」


「申し遅れました。ISSイーノ・セキュリティー・サービスの山本です!」


「夜間の警護担当」

 真樹はバックパックを背負った。

「それでは」


 くるりと踵を返すと、真樹はすたすたと部屋を出て行った。

 あまりにもあっけない退場に、ケインは口をぽかんと開けた。


 ケインの表情を見て、山本は短髪の頭をぐるりとなでた。

「すいませんね。あいつは残業しないもんで!」


「いや……」

 ケインは口ごもった。

「よくわからないんだが、警護っていうのは」


「二十四時間態勢です。本来は三交代ですが、今うちは人手不足で」

 山本は日焼けした顔を崩して豪快に笑った。

「何日間かおつきあいください!」


「声がでかい」

 ケインはぼそっと言うと、ブーツを脱ぎ捨てベッドに横たわった。


「寝る前に、ドアを開けてもらえますか?」山本が言った。


「なぜ?」


「来客です!」

 号令をかけるように山本は言った。


 ケインはベッドから起き上がると、よろめきながらドアの前に立った。

 プレートには男の顔とIDデータが表示されている。

 ケインはドアのロックを解除した。


「ケイン、大丈夫か?」

 マネジメント部長の斉藤が顔を出した。


「なんとか」

 ケインはそういいながら、下を向いてあくびを噛み殺した。


「そうでもなさそうだな。まぁ当然か。凄まじいバトルだったから、脳は相当疲労しているだろう」


 斉藤は山本と同じことを言った。

 確かに壮絶なバトルだった。

 しかしそれはお互いの戦力と知力をぶつけあうブレイン・バトルではなく、だまし討ちや自爆攻撃など手段を選ばないダーティーで殺伐とした戦いだった。


「お久しぶりです、斉藤さん!」山本が声をかけた。


「ヤマ、元気そうだな」

 斉藤はにやりと笑った。

「今回はよろしく頼む」


「はっ!」

 山本は背筋をピンと伸ばした。


「これを」

 斉藤は持っていた紙袋を無造作に渡した。

 山本は中をちらりと見ると、無言で脇に抱えた。


「ケイン、明日からの検査の内容だ」

 斉藤はディスプレイを起動してパーソナル・スケジュールを呼び出した。

「明日は九時から脳波検査だ。ちゃんと起きてくれよ」


 斉藤は室内を見回した。


「ん? マネジャーの彼はどうした?」


「斉藤さん」

 ケインはベッドに腰を落とした。襲ってくる睡魔は耐え難いほどになっている。

「話が……」


「俺もいろいろと聞きたいある」

 斉藤はケインを見下ろした。

「レイブンがなぜお前を狙ったのか。お前は奴と話したよな?」


 ケインはうなずいた。自分の頭がぐらぐらしているのがわかる。


「だが、明日にしよう。お前はもう、限界のようだ」


 ケインは倒れるように、ベッドに仰向けになった。


 —俺に、限界はない。


 そういう意味ではない、とわかっていたが、ケインは頭の中でいい返した。その言葉で疲れきった自分を支えようとしたのかも知れない。


 —あれを、どう説明すればいい?


 ケインは『不可知領域』の闇の中でレイブンと交わした会話をぼんやりと思い出す。それはケイン自身さえ知らない過去だった。それをどう斉藤に伝えたらいいのか。


 —斉藤さんなら、何か知っているかもしれない。


 あてもなく施設を飛び出した、まだ高校生だったケインを拾い、ブレイン・バトラーとして育て上げたのは斉藤なのだ。




 眠りに引き込まれる寸前。


 朦朧とした意識の中でケインは黒い影が広がるのを感じた。


 暗闇の中の、闇よりも濃い影。真の暗黒は、空間を浸食するようにその翼を拡げ、ケインの存在を押し包もうとしている。


 —レイブン、なのか?


 切り裂かれた不可知領域から遁走したレイブンなのだろうか。そうかも知れないし、そうでないのかも知れない。


 重苦しいプレッシャーが、ずっと近くに感じられる。






 サラの乗ったカートは宿泊棟から中央棟の内部をノンストップで抜け、再び施設の外壁から空中に浮ぶ透明なチューブに入った。


 眼前に巨大な黒い円柱形の建物、ラボ・タワーが聳えている。


 漆黒の壁面にはなだらかにカーヴする筋目が刻まれている。これは太陽光の反射を防ぐためのものだが、螺旋を描くそのラインは銃身バレルの内側に刻まれたライフリングを反転させたようにも見える。


 カートが接近して行くと、照明に照らされた壁面の硬質な質感が見て取れた。

 黒い壁は建築素材というよりも堅牢な兵器の装甲板のようだ。

 実際に航空機での突入やミサイル攻撃を想定しているかもしれない。そう考えても不思議ではないほど、この塔の中には世界最先端の高度な科学技術が詰まっているのだ。


 ブレイン・テクノロジー。


 現在の人類が獲得した最高の智慧と技術。


 それは人類の生活を変え、社会を変えた。

 世界に大変革をもたらしたブレイン・テクノロジーは、人間を進化させ得るかも知れないほど革新的であり、同時に核エネルギー制御と同様に高度に危険なものでもある。

 ブレイン・テクノロジーの研究と開発に関しては、ラボ・タワーは世界中の研究機関の数歩先を行っているといわれている。ブレイン・テクノロジーの理論研究者や実用化を進める技術者にとってラボ・タワーは一種の聖域に近い意味を持っていた。


 秘密主義ではないが情報管制は完璧に近く、結果として内部でどのような理論研究や実験、機器の開発が行われているのかは、プレスリリースや研究論文の発表以外は全くわからないでいる。またそれらの研究や実験が実際にどこまで進んでいるのか総合的に把握している人間は、外部もしくは内部でさえも、おそらく誰もいないだろう。


 しかもここから先、ラボ・タワー内部に入ったマイス社の人間、正確には国際共通通貨連盟側の人間はここ十年間でも数人しかいない。ラボ・タワーが連盟との接触を意図的に避けていることは明らかだったが、その理由は未だにわからないでいる。

 いずれにしても、サラを始め一度に複数の連盟の人間がラボ・タワーに受け入れられるのは驚くべきことといえた。それだけ今回の『破壊衝動を高める知覚刺激パターン』の解析はラボ・タワーにおいても喫緊の問題なのだろう。



 黒い巨大な塔の壁面の中にリニアカートは吸い込まれる。


 メディカル・センターに入ってからサラは周囲を撮影する機会を窺っていた。

 しかし施設の至る所に監視装置があるのを見つけ、撮影を断念していた。このリニアカートの中でも、ダッシュボードの小さなカメラアイがサラを見つめている。

 そこまでは新しい上司のエヴァンス委員から事前に聞かされていた通りだ。

 すべてがオープンのように見えて、何ひとつとして情報を持ち出すことができないのだと。おそらく病院施設内でのスマートデバイスによる通話やメールは傍受され、すべて自動検閲にかけられているはずだった。


 暗いトンネルの中の空気は湿っていて冷たかった。


 それよりも何か重苦しい圧迫感が頭上から迫ってくる。

 サラは険しい顔で天井を仰ぎ見た。


「……嫌な感じね」


 トンネルを抜けると明るい空間が広がった。

 リニアカートのターミナルスペースだ。カートは自動的に車線を変更し、停止した。


「アルブライト様。どうぞこちらへ」


 待機していた士官制服のセキュリティが進み出て言った。

 サラの持っていた手荷物、電子機器類はすべてバゲットに入れて保管庫に収容され、位置確認用の電子タグシールを手の甲に貼られる。


「こちらへどうぞ」

 士官セキュリティが促す。


 通路を歩き出すと、すぐに別のセキュリティ二名が背後に付いた。

 サラは士官の腰のホルスターを見た。鎮圧用のティーザーガンではなく、実銃だった。サラは密かに眼をみはった。

 日本の銃規制は現在も厳しく施行されている。しかしここでは民間の警備会社が実銃を携行している。

 政府からの特別な認可があるのか、あるいはこの施設の独断か。

 いずれにしても、規模は大きいとはいえ単なる国立の研究施設とは思えない。


 サラは緊張を鎮めるため、歩きながらゆっくりと息を吐いた。


 メインエレベーターホールから地下フロアに降りる。

 上階に行くものとばかり思っていたサラは意外だった。どうやら重要な研究施設は地下にあるらしい。

 確かに地上からのテロ攻撃を考えれば安全性は高くなるが、地下施設の建設費は莫大なものになる。これほどコストを度外視した建設計画がよく承認されたものだ。


 エレベーターのかごの中には小さな操作キープレートがあるだけで、階数は表示されていない。それでも下降している時間の長さから、かなりの深さまで降りていることがわかる。


 足元に加重がかかり、かごは停止した。

 ドアが開くと灰色の壁の小ホールがあり、SMG(サブマシンガン)で完全武装した十名近い兵士が立っている。ここまで来ればもう隠す必要はないということか。


 サラは驚いた様子を装って立ち止まった。

 戸惑った顔で周囲を見回す。一瞬の間に兵士の装備や状況を記憶した。


 士官が振り返り、眼で進むように促した。

 セキュリティを含めた全員のIDチェックを経て、奥の壁の重い金属扉が開かれる。坑道のような通路を抜け、再び分厚い金属扉が開かれた。


 そこはイギリス貴族の邸宅を思わせる、クラシカルなインテリアの部屋だった。サラは柔らかい絨毯が敷かれた室内に足を踏み入れた。


「皆さん、奥にいらっしゃいます」


 士官は手で指し示すと、静かに退室した。

 部屋は数室が続いており、一番奥に広々とした応接室が見える。サラは足早に部屋を抜けた。


 大きなマホガニーの丸テーブルを囲んで、白衣を着た白髪の老人、スーツを着た大柄な黒人、そして白人のアメリカ空軍佐官が座っていた。


 サラは黒人に声をかけた。

「エヴァンス委員、遅くなりました」


「こちらが早く着いただけだ。問題はない」

 中年の黒人は精悍な表情を崩さない。


「どうぞ、おかけください」

 白髪の老人は穏やかに言った。


「失礼いたします」

 サラは椅子に腰掛けると老人に頬笑みを向けた。

「初めまして、マイス・コーポレーションのサラ・アルブライトです」


「研究所長の朝比奈です」

 老人は鷹揚に会釈を返した。


「これで全員揃いました」

 エヴァンス委員はテーブルの上で指を組むと、よく響くバリトンで言った。

「では、始めましょう」


 空軍佐官がチタニウム製の大型アタッシュケースにノートパソコンを接続する。

 パソコンには生体情報認識ゴーグルが繋がれている。

 三人は順番にゴーグルをかけ、網膜の毛細血管パターン、声紋を入力する。

 最後にパソコンから各自が暗記している長い暗証番号を打ち込んだ。


 鋭い機械音と共にロックが解除され、ケースの蓋が開く。

 エヴァンスはメディアが封入された薄いケースを慎重な手つきで取り出した。


「これです、朝比奈博士」


 白髪の老人はケースを受け取ると、そのまま無造作に白衣のポケットに入れた。


「皆さん、遠路はるばる、ご苦労様でした」

 老人はゆっくり頭を下げると、肘掛けを握って腰を浮かせた。

「それでは」


 唐突な展開に、サラとエヴァンスは眼を見開いた。


「お待ちください!」

 サラはあわてて言った。

「朝比奈博士、データ構造に関してお伝えしたいことがあります」


「データ構造?」

 老人は意外そうに眼をしばたいた。

「ああ、大丈夫ですよ。それはわかっていますから」


「わかっている?」

 サラは不審げに問い返した。


「朝比奈博士」

 エヴァンスが身を乗り出した。

「我々としてはデータの解析過程を共有したいのですが?」


「解析の必要はありませんよ」

 老人はポケットの上を手で押さえた。

「これはここから盗まれたものですから」


「え?」

 サラは言葉を失った。


 さすがにエヴァンスもかすれた声で訊いた。

「そ、それは、どういう?」


「ですから」

 朝比奈は淡々と言った。

「その通りの意味です」


「盗まれただと?」

 突然、空軍佐官が口を開いた。

「まったく、よく言えたもんだな!」


 朝比奈は顔を強張らせ、佐官に視線を向けた。


「……失礼。今、なんと?」


「かっ!」

 突然、佐官は奇声を上げた。

「作った本人をみすみす逃がしたのはお前だろう、アサヒナよ?」


 老人は息を呑むと、大きく眼を見開き、叫んだ。


「ア、アイラー!」


 サラは隣の椅子に座る空軍佐官を見て悲鳴を上げそうになった。

 制服は同じだが先程までとは全く別の、黒髪で彫りの深いラテン系の顔立ちに変わっている。


「貴様、何者だ!」


 エヴァンスが素早く椅子から立ち上がり、制服の肩を掴もうと手を伸ばした。


「触るな」

 黒髪の男の呟きが聞こえた。


 突然、エヴァンスは両手で耳を押さえた。

 次の瞬間、電撃を受けたように大柄な身体が跳ね上がった。


「があああッ!」


 全身を痙攣させ、頭から床の絨毯にのめり込む。


「エヴァンス委員!」

 サラは駆け寄った。


 倒れたエヴァンスは飛び出さんばかりに眼を見開き、舌を突き出して喘いでいる。声さえ出せないほどの激痛がエヴァンスを襲っている。


「知っているか?」

 アイラーと呼ばれた男は平然とした声で言った。

「人間はここにカタツムリを飼っている」


 サラは新しいボスの名を呼んだ。

「エヴァンス!」


「鼓膜の振動を伝える蝸牛管だ。それを、ちょっと弾いた」

 黒髪の男は指で耳元を示し、愉しげに低く笑う。

「きっと聴いたこともない『爆音』が中枢神経に届いただろう」


「アイラー!」

 朝比奈は震える指を突きつけた。

「ど、どうやって、ここに入った?」


 ラテン系の男はゆっくりと首を回し、老博士に視線を向けた。


「もちろん米空軍のIDでだ」

 アイラーは不思議そうに答えた。

「今のケインは正式な軍人だからな」


「さっきまでの顔は、いったい?」

 朝比奈は喘ぎながら言った。


 アイラーは相手の反応を窺うように眼を細めた。

「お前を驚かそうと思ってな?」


「なん、だと?」

 朝比奈は理解できない表情で呻いた。


 アイラーは額にかかった黒髪の間から上目遣いに老博士を見つめ、にたりと唇を歪めた。


「どうだ、驚いたか? アサヒナよ」


 それは確かに笑っている表情だったが、暗い双眸には弱者をなぶるような残忍さが浮んでいる。


「お前は……」

 朝比奈は背筋を走る悪寒に声を震わせた。

「どうしてまた、現れたのだ?」


「またとはずいぶんじゃないか」


 アイラーは心外そうに顔をしかめ、椅子から立ち上がった。

 肩まで伸びた黒髪を揺らし、朝比奈に近づく。


「久しぶりだな、アサヒナよ。十年ぶりくらいか?」


「今度は、何を、する気だ?」

 朝比奈はアイラーを見上げ、声を絞り出した。


「ここ一世紀の科学の進歩は、驚異的といえる」


 アイラーは警戒して身構える朝比奈の傍らを通り過ぎ、壁の本棚から分厚い書物を抜き取って開いた。


「俺もいろいろ勉強したよ」


 サラは倒れたエヴァンスの傍から立ち上がると、じりじりとテーブルから離れようとした。


「昔は紫禁城だってロシア皇帝(ツァーリ)の王宮だって庭みたいなものだった。しかし今はそう簡単にはいかない。我々にとっては面倒な世の中になった」

 本に眼を落としながら、片手の指先をまっすぐサラに向ける。

「動くな」


 サラは声も上げられずに硬直した。

 空気の中を何かの波動が押し寄せ、髪の毛がざわざわと揺れる。エヴァンスのように脳の中をいじられるのか。


「教えてくれ」

 アイラーは本を閉じ、暗い眼を朝比奈に向けた。

「いるんだろう? ここに」


「誰が、だ?」


「荒神だよ」


 老博士は口をつぐんだ。


「やはり、そうか」アイラーは唇を歪めた。


「会って、どうする?」朝比奈は低く言った。


「会って?」

 アイラーは怪訝そうに眉を上げた。

「お前、それを知りたいのか?」


 朝比奈は険しい顔でアイラーを睨みつけている。しかしその眼には隠しようのない恐怖と怯えが浮かび上がっていた。


 アイラーは背を屈め、獣が獲物を狙うようにじっと老人を見つめた。


「……奴とは決着をつけなくてはならない」


 アイラーは吐息をつくように言った。

 その口調には深い憂いと苦渋が滲んでいる。何か抜き差しがたい桎梏があるような口ぶりだった。


 立ちすくんでいたサラの頭をまさぐっていた『力』が消えた。

 サラは身震いしながら大きく息を吐いた。


 アイラーは背を伸ばすと傲然と顎を上げ、白衣の老人を見下ろした。


「奴のしようとしていることは許されない。仮に人の世の悲惨と無常を見つめ、どれほどの絶望を重ねようとも、奴がそれをすることは許されないのだ」


 朝比奈は震える声で言った。

稀人まれひとよ」


「俺はその呼び名を好まない」

 アイラーは顔をしかめた。


「お前の、お前の目的はなんだ?」


 アイラーは低く笑い、深く響く声で言った。

「究極にして最終のもの。まもなく、その時は来る」


「アイラー」

 朝比奈は拳を握り、かすれた声で呼びかけた。

「荒神は、稀人は歴史に関わってはならないと言った。人間の歴史だ。お前たちのものではない」


「俺も人間だ」

 アイラーは不機嫌そうに言うと、急にサラに顔を向けた。

「お前」


「ひっ」

 サラは小さく悲鳴を上げた。


「なかなか怖いことを考える」

「え?」


「この黒人が邪魔か。では、ケインは良いことをしたのだな?」


「そ、それは……」サラは狼狽した。


「お前は、好ましい」

 アイラーは見透かすように眼を細めた。

「人間は誰しもそうあるべきだ。自分のことだけを考え、戦い、生き残る。手に入れた者だけが、より多くのものを手に入れる」


 ドアが音を立てて開き、武装した兵士達が部屋の中に駆け込んで来た。

 監視カメラで異変を察知したのだ。


 三人を取り囲んで全員がSMG(サブマシンガン)を構える。しかし誰が標的かわからずに、レーザーポインターの赤い光点が錯綜した。


「朝比奈博士!」

 指揮官らしい兵士が叫んだ。

「いったい、何が?」


「彼が発作を起こした」

 アイラーは倒れている黒人を指差した。


 指揮官がハンドサインを出し、部下がエヴァンスに駆け寄る。脈と呼吸を確認した兵士は振り向いて言った。


「生きていますが、意識がありません!」


「救護班を」指揮官が指示した。


「私達は退室する」

 アイラーはエスコートするように朝比奈に寄り添った。

「では博士、行きましょう」


「う、うむ」

 朝比奈はぎこちなくうなずくと、ふらふらと足を踏み出した。


 アイラーはサラに視線を向けた。

「お前も来るんだ」


 闇のように昏い瞳に見つめられ、サラは一瞬気が遠くなった。



 三人は、重い金属扉を開けて灰色の通路に入る。

 歩きながらサラは手を強く握りしめた。

 爪先が皮膚に食い込み、痛みが掌から腕に伝わる。

 アイラーの眼によって強い暗示がかけられた可能性がある。手遅れかも知れないが、正気を失うわけにはいかなかった。


 自分の前を、アイラーと朝比奈博士が並んで歩いている。向かっているのは『荒神』という男のいる場所だ。

 サラは抵抗してでも逃げようという気持ちになれないでいた。


 サラ自身も見てみたいのだ。


 その『荒神』を。

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