04 ラボ・タワーへ
また白い壁が見える。
ここはどこの病院だろう。
ケインはぼんやりと天井を見上げた。
同じ景色を見たことがある。何度も見たことがある。
—でも、どうして俺はここにいるのだろう。
視界の中に明るい金髪の女性が現れた。
「ハーイ、ケイン」
にっこりと微笑み、頬に手を当てる。
「ずいぶんやられたわね。油断していたの?」
「サラ?」
ケインは眼をこすった。
「ここはニューヨークなのか……?」
次にジェイミーが現れた。泣き出しそうな顔になっている。
「よかった。気がついて。どんなに心配したか」
「あの、すいません」
眼の鋭い日本女性が現れ、ぼそぼそとした英語で言った。
「そろそろ、面会時間、終わり」
「あら、ごめんなさい、ボディガードさん」
サラはにこやかに言って、視界から姿を消した。
ジェイミーが日本女性に声をかける。
「じゃぁマキ、ケインの警護を頼むよ。一時間後にまた来る」
—マキ? ああ、彼女の名前か。
ケインは眼を閉じ、苦笑を浮かべた。
—いつからそんなに親しくなったんだ、ジェイミー。
ケインはベッドに横たわったまま全身をくねらせてみた。
もう目覚めた後の習慣になってしまった筋肉や関節、腱の動きを確認する動作だ。
そうしながらも頭の中ではアカツキの操作イメージを重ね、同調させる。アカツキはイメージした通りにスムースに動く。
その挙動にケインは安堵の息を漏らした。
—あの大鴉、レイブン。
ケインは眼を閉じたまま、暗闇の空間を思い出す。
闇に浮かび上がった血のように赤い眼。
狂った怪鳥の叫び声が今も鼓膜にこびりついている。
そしてあの意味の分からない言葉。一体、何をいっていたのか。
しかもレイブンは過去に俺と会ったことがあるという口ぶりだった。
それはいったい、いつのことだ。
そして、どうして俺はそれを憶えていないのか。
—奴は、何を知っている?
レイブンは岩城よりも上の世代のバトラーだ。
ケインの親の年代ともいえる。そしてブレイン・バトルの黎明期から存在しているギアだ。
—なぜ、俺のことを知っている。しかもそれは……。
ケインは眼をきつく瞑った。
—俺の知らない『過去』だ。
成長して来た育児施設や学校生活の記憶はすべて持っている。
すべて思い出せる。そのつもりだった。
それでもレイブンの言ったことは、それらの記憶にはない内容だった。
二十年にも満たない今までの生活の中に、自分の記憶が欠落している時間があるのだろうか。そんな非現実的なことが、本当にあるのだろうか。
いったい、どうなっているのか。
どう考えてもわからない。
脳の中に濃い霧が立ちこめているようだ。
そしてその霧の奥に、何か得体の知れないものが潜んでいるような気がしてならない。
—イヤな感じだ。
模糊とした不安感が湧き上がる。
ケインはベッドに横たわったまま重い溜息をついた。
「起きろ、御門ケイン」
女の低く緊迫した声にケインは眼を開けた。
枕元の椅子にバックパックを抱えた石井真樹が座っている。
真樹は厳しい表情で、病室の入り口に立つ男を睨んでいる。
会社員らしい男は上体をぐらぐらと揺らし、ベッドにまで酒の匂いが漂ってきた。
「お前、バトラーの御門だな?」
背広の男は険しい顔でいきなり大声を上げた。
「お前のせいだ! 全部、お前のせいだぁぁぁ!」
「面会謝絶だ。立ち去りなさい!」
真樹は強い口調で言った。
「畜生!」
男は紙袋の中に右手を突っ込んだ。
「俺の金を返せ!」
銀色の光が走った。
男は包丁を構え、足を踏み出した。
石井真樹が前傾した姿勢で立ち上がり、抱えたバックパックごと男に体当たりした。
ぐきりと鈍い音がして男が悲鳴を上げ、手から包丁が落ちた。
真樹はそのまま強引に前進し、男を病室の壁に押しつけた。
男はもがきながら左手を振り上げた。
「てめえ!」
真樹の顔を狙って殴りつける。
真樹は拳を右腕でガードし、密着した体勢のままバックスイングなしに鋭い肘打ちを男の頬に叩き込んだ。背中がねじれて見えるほどの強烈な《《ひねり》》だ。
「がっ!」
男は顔を歪めてのけぞった。
真樹は男の下腹部に、身体が浮き上がるほどの強烈な膝蹴りを入れた。
男はものもいわずに崩れ落ちる。
「ボディアーマーか」
ケインは唸った。バックパックに防弾ベストを詰めているのだ。
真樹はうつぶせになった男の腕を背中に回し、片膝で押さえ込んだ。
男は苦痛に呻きながら体勢を変えようと足掻く。真樹が膝に体重を乗せると男は悲鳴を上げた。
「いい動きだ」
ケインは拳を握り、賛嘆の声を上げた。
「実に参考になる」
呆れた顔で真樹は言った。
「早く、ナースコールを」
暴漢は駆けつけた病院の警備員に連行されて行った。
あのサラリーマンがブレイン・バトルの賭けで大損をしたことは明らかだ。
ブレイン・バトルの後に、飲食店などでバトラーが絡まれることは少なくない。あの男がこの病院でケインを見かけたのは偶然だろうが、まさか包丁を買って病室にまで押し入って来るとは予想できなかっただろう。
ケインだけだったら刺されていたかもしれない。少なくとも、無傷ではすまない。
ボディガードを付けたジェイミーの判断は結果的に正しかった。
現実の世界では、刃物で切られれば赤い血が流れるのだ。ブレイン・バトルのように防御ポイントが減るだけでは済まない。
ケインは再び溜息をついた。
しばらくしてから太った都市警察官が現れた。
警察官は石井真樹から襲われた状況を事務的な態度で聞き、データパッドに入力して行く。
病院側の警備の手落ちについては一切触れなかった。
「では、お大事に」
警官はケインと真樹をじろじろ見比べると、のっそりと病室を出て行った。
「ここのセキュリティレベルは低すぎる」
足音が遠ざかるのを確認してから、真樹は憮然とした口調で言った。
「早く移動した方がいい」
「真樹さん」
ケインは声をかけた。
「俺のバトルを見てくれたか?」
椅子に座った真樹は鋭い眼でケインをじっと見つめ、ようやく口を開いた。
「なんだあれは。死にたいのか?」
ケインはむっとして口をつぐんだ。
そんなことをいわれるとは思わなかった。
真樹は膝に置いた手に視線を落とすと、ぼそりと言った。
「……命を粗末にするな」
「俺は!」
思わず声を上げたケインを、真樹がさっと手を上げて制した。
窓際に素早く移動すると、カーテンを引き開ける。
東京の夜景をバックにして、ガラス窓に監視バグが貼りついていた。
窓を叩くと、監視バグは蝉のように飛び去った。
真樹はカーテンを閉めるとベッド脇に戻り、ケインに向って椅子に座った。
「我々は通常、大企業幹部クラスしか警護しない」
「それは優良企業だな」
ケインは素っ気なく言った。
真樹は背を屈め、間近からケインの顔を見下ろした。
「あんたはなぜ」
囁くように小声で言う。
「これほど執拗な監視を受けている?」
「……俺もVIPだからさ」
ケインは真樹の鋭い眼を見上げ、反抗的に言った。
「世界的に有名だからな」
「自惚れるな」真樹はぴしりと言った。
「なんだと」
「そうじゃない」
真樹はもどかしそうな表情をした。
「一般人がこれほどの監視を受けるには、それだけの理由がある」
ケインと真樹は、睨むようにお互いを見つめ合った。
「言えないのか?」真樹は低く言った。
「あんたは……」
ケインは視線を逸らした。
「俺をガードしてくれればいい」
真樹はしばらく黙っていたが、「わかった」と呟くと身体を起こした。
ケインに背中を向けて椅子に座り直す。
廊下から何人かの足音が響いてくる。真樹は素早くバックパックを引き寄せると、すぐに立ち上がれる体勢を取った。
ノックと共にスライドドアが開き、ジェイミーが顔を出した。
「ケイン、お待たせ。ここから移動するよ。ん?」
椅子に座った真樹と、ベッドのケインは背中を向け合っている。
「ええと、何かあったのかな、マキ?」
ジェイミーは頭をかきながら、慎重に真樹に声をかけた。
「ケイン、着替えて!」
フォーマルな黒いスーツを着たサラが間宮を従えて入って来た。
間宮は両腕に高級ブランドショップの大きな紙袋を幾つも下げ、重さによろめいている。
「どうしたんだ?」
ケインはサラの勢いに驚いてベッドの上に起き上がった。
「しばらく病院生活よ! なんであたしまで!」
サラは憤慨していた。
「せっかくトーキョーに来たのに、買い物もできないじゃない!」
「これだけ買ったのに?」間宮がうめいた。
「あの光パターンの解析だよ」
ジェイミーがケインに説明する。
「来日したのはデータの受け渡しのためだったのに、急に最終チェックまで立ち会うことになった」
サラは腰に手を当てて宙を睨んだ。
「謀ったわね、あいつ!」
「あいつって、誰?」ケインが訊いた。
「ギルバート・エヴァンス! 新しいボスよ!」
サラは憤然として叫んだ。
「全くいまいましい! あたしを病院に足止めするつもりね!」
「病院だけど、入るのは研究棟だよ」ジェイミーが訂正した。
「知っているわよ。マイス社が『お願いして』データ解析してもらうのよ」
「セント・トーマス病院のコンピューターでは、お手上げだったみたいだ」
ジェイミーが小声でケインに言った。
「黙って!」
サラは叫んだ。
「ほらそこのボディガード! 手伝って!」
「私は石井真樹です」
真樹はすっと立つと、サラの前にIDを示す。
「イーノ・セキュリティ・サービス……」
サラの眼が何かを思い出すように細くなった。
「そう、そうなの」
「お手伝いします」真樹は言った。
「ええ、ありがとう、マキ」
急に丁寧な態度に変わったサラは、ベッドのケインを見て微笑んだ。
「では、あなたの荷物を頼むわね」
「荷物ですね。わかりました」
真樹も小さく笑う。
ケインはぶすっとして言った。
「なんか楽しそうだな。で、サラ、どこに行くんだ?」
「ジャパン・ナショナル・メディカル・センター」
「なんだって!」
ケインは思わず叫んだ。
「そこは、ミオが、妹が入院している病院だ」ケインは言った。
「偶然ね」サラは真顔で言った。
「でも、どうして?」
「検査、ですか?」真樹が言った。
「そう」
サラはちらりと壁の時計を見た。
「ここはブレイン・バトル会場に近い救急病院よ。とても脳の精密検査なんてできない」
「サラ、俺は大丈夫だ」
「自分を過信しない」サラは即座に言った。
「……わかった」
ケインは顔をしかめた。
「そうだ、バトルはどうなった?」
「ケインのチームの勝ち」
「じゃぁ、みんなは?」
「残ったのはあのオオカミだけ。彼はタフガイね」
サラは感心したように言った。
「華凛とSTは?」
「二人は強いダメージを受けて、まだ意識が戻らない」
ジェイミーは沈痛な表情になった。
「入院が必要だ。もうここから搬送されたよ」
「そんな!」ケインは愕然とした。
ジェイミーはケインを見て、暗い声で言った。
「二人とも、至近距離からバズーカの直撃をくらったんだ」
「なんだって……」
「あの赤い髪の子が心配だわ」
サラは窓のカーテンを開けると、煌めく夜景に眼をやった。
「鼻と耳から出血していたから……」
華凛のことだ。ケインは身体を固くした。
強いストレスが神経や器官を蝕むように、精神的な負荷は肉体に物理的な影響を起こす。しかもバトラーがダイレクトに受ける知覚衝撃は、今まで人間が経験したこともないほど強烈なものだ。
爆発的な衝撃を受けた脳が、それに耐えられない状況は当然想定される。
「メディカル・センターに行けば、二人に会えるのか?」
ケインは拳を握りしめた。
「ええ、会えるわ」
サラはうなずくと、小さく息を吐いた。
「あなた方はラッキーなのよ。失神したバトラー三人を緊急で受け入れてくれる専門病院なんて、トーキョーだってそう多くはないんだから」
「メディカル・センターは巨大病院だ。いつもベッドは空いているだろ?」
「そうでもない」
ジェイミーが肩をすくめた。
「満床だったよ」
「サイトウのコネクションがあればこそよ」サラは言った。
「斉藤さんが?」
「彼が全部手配してくれたの。感謝しなさい」
サラは入り口を振り返った。
「マキ、外の様子は?」
真樹はドアを開けて廊下の様子を窺っていた。
「大丈夫です」
病院のエントランスに降りると、場違いに豪華な白いストレッチリムジンが玄関先に止まっていた。
ケインたち四人は向かい合わせにシートに座った。車内は足を伸ばせるほどゆったりとしている。
スペースはあるのに、間宮は助手席に座らされた。
後部席とは防音・防弾パネルで隔てられている。
怪訝そうな顔をするケインに、ジェイミーは言った。
「彼はこの後、拘束される」
「なんだって?」
「チームに誤った情報を流して、ミスリードした。その結果、二人のバトラーが意識不明になるほどのダメージを受けた。もちろんケインも一時は失神していた」
リムジンは滑るように動き出した。
窓の外を夜の繁華街がまばゆい光の河のように流れて行く。
「どういうことだ?」
ケインは信じられない思いで言った。
「買収されたのね、フラクタル社に」
柔らかなシートに身を沈めたサラは夜景に顔を向けた。
「そんな、ばかな」ケインは息を呑んだ。「ジェイミー?」
ジェイミーは首を横に振った。
「サイトウさんはそういっている。情報を掴んだらしい」
「フラクタル……」
サラが考えながら呟いた。
「今ならまだ潰せるかも」
「で、マイス社がイメージウエポンを独占すると」ジェイミーが言った。
「それもいいわね」
「冗談だろ?」
「ブレイン・バトルが変化しているわ」
サラは隣に座るケインに向き直り、唐突に言った。
「いいえ、ブレイン・テクノロジーそのものが、何か予想できない方向に向かっている気がする」
「どういうことだ?」
「たとえば、あのダーク・モンク」
「あいつか……」
ケインは唇を噛んだ
「確かに、あんな怪物的なブレイン・ギアが存在するとは想像もできなかった」
「奴の狙いはわからないけど、ブレイン・テクノロジーを使った情報テロは、当然予想されているよ」ジェイミーが言う。
「もちろん、わかっているわ」
サラは豊かな金髪をかきあげた。
「世界中を覆い尽くした電子情報ネットワークへの干渉、妨害、破壊。それによってもたらされる現実社会の混乱と争乱、そして経済的損失。それらは小規模だけど、もう現実に起きている」
サラは車内の三人の視線を受けながら、言葉を確かめるように言った。
「でも、今回の事件はネットワークではなく、そのネットとブレイン・テクノロジーを使って繋がっている人間の知覚そのものを狙ったテロよ」
「知覚のテロ?」
真樹が訝しげに目を細める。
「サラ」
ジェイミーがちらりと真樹を見た。
「イーノのスタッフなら大丈夫よ。彼女は口外しないわ」
真樹は黙ってうなずく。
「そう、人間の知覚を狙ったテロよ」
サラは言葉を続けた。
「それもどれだけ広がるかわからない、強い波及効果を持った、かってないタイプのもの。そんなことは今までなかった。誰も考えなかった。でも、ブレイン・テクノロジーがそれを可能にしたの」
「食い止めなくては」ケインは言った。
「口でいうほど簡単じゃないよ」ジェイミーはシートにもたれた。
「ブレイン・バトルがターゲットになったのは、世界中で視聴されているだけでなく、ブレイン・テクノロジーのすべてが凝縮されているからだと思うわ」
「サラ、どういう意味だ?」
「知覚テロとして引き起こされる影響を、最大に拡大できるの」
「それは、同じものでは?」真樹が言った。
「同じって?」ケインは言った。
「知覚テロと、ブレイン・バトル」
全員の視線を受けて、真樹は言った。
「同じに生まれ、共に成長した」
「なるほど、そうともいえるわね」
サラは考え込んだ。
「知覚テロ計画はブレイン・バトルの研究開発と平行して、その可能性を検証されていたと」
「まるで陰と陽だな」ケインは言った。
「新しい光は、新しい影を生み出したってことか」ジェイミーが言う。
「科学は常に二面性を持っているわ」サラは溜息をついた。
「それじゃぁ犯人は」
ジェイミーは言った。
「開発者の誰かじゃないか?」
サラは一瞬息を止め、ゆっくりと言った。
「その可能性は、否定できないわね」
「特定できるのか?」
「初期開発者を含めたら、関わった技術職は何万人といるわ」
サラは眼を閉じた。
「まず不可能ね」
「どんな計画でも、リーダーが必要」真樹が言った。
「それはつまり、指導者レベルの人材か?」
「チームリーダー、セクションマネジャー、その上のマイス社幹部。更にその上には」
ジェイミーは続けた。
「……連盟?」
急に車内が静まり返った。
黙り込んだ三人に驚いて、ジェイミーは慌てて自分の言葉を打ち消した。
「いや、まさかそんな、ね?」
サラは眼を閉じながら呟いた。
「考えさせて」
その横顔は深い疲労感に覆われて見えた。こんな表情のサラは初めてだ。
「サラ、大丈夫か?」
ケインはサラの顔を覗き込んだ。
サラは眼を瞑ったまま、不意に手を伸ばしてケインの指を握った。
「ケイン、聞いてちょうだい」
「……?」
「私のボスが死んで、私は連盟の情報統制委員に抜擢されたの。だからこの案件の責任者として日本に来たのよ」
「ボスが死んだ?」
ケインは息を呑んだ。
「どういうこと?」
「連盟評議委員ヒューバート・トーマス・マックスウエルは、私のボスだった」
「なんだって!」ジェイミーが叫ぶ。
「黙っていて、ごめんなさい」
サラは眼を開けて、ジェイミーを見た。
ジェイミーはシートの上で身悶えながら、頭をがしがしとかきむしった。
「そんな、信じられない! じゃぁ、僕たちは!」
「騙すつもりはなかったのだけれど……」
「でも結果的にそうなった」
ジェイミーはサラを正面から見据え、険しい声で言った。
「僕はあなたを信用していたのに!」
「ジェイミー・パッカード」
サラは眼を逸らし、かすれた声で言った。
「私は敵ではないわ」
「わからないね」
リムジンが交差点で停止した。
ジェイミーはドアを開けると、ためらう素振りもなく車から降りた。
「待って! ジェイミー!」サラは叫んだ。
ジェイミーは何もいわずに背を向けて歩き出す。
その姿はすぐに歩行者が行き交う雑踏に消えた。一度も振り返らなかった。
開けたドアから、低空を飛ぶジェットエンジンの爆音が流れ込んでくる。
「なんだ?」
聞き慣れない金属的な爆音に、ケインは空を見上げようとした。
車列が動き出した。後方からのクラクションに急かされ、ケインはドアを閉めた。
「あのエンジン音はビッグ・オウル」
真樹が視線を窓外に向けながら言う。
「米軍の大型戦略VTOL」
「データを運んで来たのよ。あたしの新しいボスがね」
サラは表情を引き締め、きっと前方を見つめた。
「私たちも急ぎましょう」
リムジンの速度が上がった。
ケインはデニムのポケットにスマートデバイスをそっと押し込んだ。
ジェイミーが降りる間際に手渡したものだ。とっさの判断だが、車を降りて別行動をとったジェイミーは正しいように思えた。
リムジンは走り続けた。
やがて窓外の道沿いにうっそうとした樹々のシルエットが浮かび上がる。
その向こうに、夜目にも黒々とそびえる高層建築が見えた。
ラボ・タワーだ。
窓の一切ない巨大な黒い塔は、何度見ても異様さしか感じない。
ケインはラボ・タワーを見つめ、息を吐いた。
—何かが、起きている。
そしてその何かが。
じわじわと、近づいてきている感じがした。