22 アーペンタイルの叛旗
わけがわからないまま、通路を突っ走った。
前方にいるスタッフ達がこちらを振り向く。
その瞬間、眼を飛び出さんばかりに見開き、そして一瞬で顔がミイラのように黒く萎んで次々にくずおれていく。
ケインの背筋が凍った。
背後で何か恐ろしいことが起こっている。
飛鳥がいうまでもなく、絶対にそれを見てはならないとケインの生存本能は叫んでいた。
通路を曲がってエレベーターホールに出ると、飛鳥はボタンを連打した。
「何が起きたんだ!」ケインは叫んだ。
「『闇』が、探索者が、具現化したのよ!」
飛鳥は狂ったようにエレベーターの扉を叩いた。
「障壁の裂け目から洩れ出した探索者は他にもいたの! 探深錘の一人に取り憑いたんだわ!」
ケインは愕然とした。
「子供の意識を伝って、この世界に現れたのか?」
けたたましい警報音が鳴り響き、通路の天井で赤いランプが激しく明滅する。
『緊急装置が作動しました』
警告が聞こえる。
『この施設は廃棄されます』
「逃げなければ!」
飛鳥は髪を振り乱して周囲を見回した。
警報音の中でケインは声を張り上げた。
「どういうことだ?」
「ラボ・タワーが沈む!」
飛鳥は壁面のドアを指差した。
「あそこよ!」
ドアを開けると非常階段になっている。
既に上下の階からは研究員達が階段に殺到し始めていた。
ミオを抱いたケインと飛鳥はものもいわずに階段を駆け上がった。
数階を上がっただけで息が切れ、足ががくがくと震え出す。それ以上に狭い階段室は避難する人で溢れ返り、身動きが取れなくなっていた。
「あのドアよ!」
飛鳥が上の階を指差した。
途中の踊り場に閉まったままのドアがあった。
そこからは避難する人が入って来ない。後から押し寄せる人波に押し上げられるようにして必死にドアに近づく。流れに逆らって人を掻き分けると怒声が上がり激しく小突かれたが、ケインは身体をぶつけるようにドアを押し開けた。
何もないがらんとした空間に飛び出した。
灰色で、プラネタリウムのように丸くなった壁と天井。
ここは荒神の作った仮想空間・天ノ戦場に繋がる半球形の思念ドームだ。
飛鳥は床を蹴って走った。反対側の壁面に取り付き突起を掴むと、隠し扉を引き開ける。
「急いで!」
振り返ると非常階段から溢れ出た研究員達が逃げ場を求めて思念ドームに雪崩れ込んで来ていた。
ケインはミオを抱え直し、隠し扉に飛び込んだ。
金属の錆びた匂いが鼻を突いた。
内部は同じ非常階段だが、かなり長い間使われていないらしく、空気が淀んでいる。飛鳥は既に上の階を駆け昇っている。ケインは眼を吊り上げて飛鳥の後を追った。
背後から人々の足音が迫ってくる。巻き込まれたらなぎ倒されてしまうかも知れない。
その時、激しい振動が階段室を襲った。
悲鳴が上がり、手すりを越えて何人かが落下して行く。
警報音は鳴り続けている。
ケインは頭上を降り仰いだ。凄まじい冷気が白い霧となって滝のように落下して来た。新たな悲鳴が湧き上がり、誰かが『液体窒素だ!』と叫んだ。
ケインは白い霧の中、階段を駆け上がった。
ミオを抱える腕は痺れ、膝が抜けそうになっている。ケインは歯を食いしばって階段を登り続けた。呼吸が苦しくなり、今にも倒れてしまいそうだ。
上の階から自分の名を叫ぶ声がする。
階段の先でドアが開き、明るい光が洩れている。ケインは夢中でドアの中に飛び込んだ。
そこは地上階であるリニアカートの発着場だった。
フロアも外部に繋がるチューブの中も大勢の研究者や技術者、職員で溢れ返っている。
パニックを起こした人々は狂ったように絶叫し、我先に逃げようとチューブに殺到している。人で鈴なりになったリニアカートが強引に走り出し、巻き込まれた人の悲鳴が沸き起こった。
いきなり腕を掴まれてケインは倒れそうになった。
「こっちよ!」
飛鳥だった。額が切れて血が流れている。
「お兄ちゃん!」
耳元で小さな声がした。ケインは震えてしがみつく妹をしっかりと抱え直した。
ケインは飛鳥の後を追って人の流れに逆らい、発着場の隅のスペースに走った。
「資材の搬入路があったはず!」
飛鳥はぜいぜいと喘ぎながら、金属のドアを押し開けた。
幅の広い通路が奥に続いている。
床に引かれた数本の線は自動搬送車の誘導ラインだ。確かに搬入路に違いなかった。ケインと飛鳥は最後の力を振り絞り、通路を走った。
突き当たりの開閉扉に辿り着く。
壁面のボタンを押すと扉は左右にスライドし、冷たい風がどっと吹きつけて来た。
目の前には広大な空間が広がり、東京の夜景が光の川のように煌いている。
輝くビル群の手前に、敷地内の樹々の梢が暗いシルエットを作っていた。
開いたドアの端から下を覗くと、暗い地面は数メートル下方にあった。
飛び降りられない高さではないと思ったが、ドアの真下はコンテナを持ち上げるリフトになっている。ミオを抱いたまま金属の床に飛び降りれば、無傷では済まないだろう。
「先に飛び降りる! リフトをここまで上昇させる」
ケインは飛鳥を振り返った。
「無理よ! 電気が切られている!」
飛鳥が指差すリフトの操作室内部は真っ暗で、周囲の照明も点いていない。
突然、地鳴りのような不気味な振動が足元から伝わってきた。
振動はせり上がるようにどんどん強さを増し、通路の壁や床がびりびりと音を立てた。
「……始まった」
飛鳥が声を震わせる。
「なにが?」
「掴まって!」飛鳥は叫んだ。
突き上げるような激しい揺れがラボ・タワーを襲った。
巨大な建築物全体が支えを失ったようにぐらぐらと揺さぶられている。
下方からくぐもった爆発音が連続して轟き、がくんと通路が沈んだ。巨大なラボ・タワーを垂直孔に支えているいくつもの支持架が爆破されているのだ。
ケインはミオを抱いたまま通路に座り込んだ。
外の夜景が小刻みに上昇して行く。
いや、ラボ・タワーが沈んでいる。
突然がくんと激しい揺れが起こり、ラボ・タワーが一気に降下し始めた。
「飛ぶのよ!」
飛鳥が叫んだ。
東京の夜景が上昇して行く。
躊躇っている時間はなかった。
ケインはミオを抱えたまま床を蹴って宙に飛んだ。
耳元で風が唸る。
着地の衝撃よりも横に投げ出された格好で金属の床面を転がった。
ミオが悲鳴を上げたがケインはかまわずに身体を起こし、ミオを抱えて走り出した。
背後を振り返る。
黒々とした巨大な塔が轟音を立てて地中に沈んで行く。
頭上でばりばりと空気を切り裂く爆音が轟き、見上げると塔の最上部でロケットブースターが猛烈な火炎を噴き上げ沈降速度を加速させている。
ケインの周囲に液体窒素の飛沫があられのように落下してきた。
極低温の液体に触れたら大火傷でも済まない。
ケインは声にならない叫びを上げ無我夢中で突っ走った。
コンクリートの地面がぐらぐらと揺れ、ひび割れて隆起した。
周囲の地盤までが沈降するラボ・タワーに巻き込まれ、垂直孔に落ち始めている。
ケインは揺れる地面に足を取られ、膝を突いた。
—ここで、終わりか。
ケインは顔を上げた。
眩いライトが前方から急接近してくる。
モーターの唸りが聞こえ、突っ込んで来た電動バイクが車体を傾けて急停止した。
「乗るんだ!」
ヘルメットのライダーが叫んでいる。
ケインは震える足を踏みしめて立ち上がった。
ライダーの背中にミオを預け、自分も後部シートに跨がる。
即座にバイクは急発進した。
バイクがウイリーしたように立ち上がった。
地面が背後に向かって陥没しようとしている。
「うおおおおおおおおお!」
ライダーが雄叫びを上げた。
傾斜した斜面をバイクは一気に駆け登った。
急加速したバイクは空中まで飛び上がり、着地の衝撃で横倒しになった。
「きゃあ!」
ミオの叫びが上がった。
ケインは振動する地面を這ってミオを抱え起こした。
「大丈夫か?」
「痛い」
ミオは膝を押さえながら泣き声を上げた。
背後を振り返ると、地中から炎に照らされた黒煙が噴き上がっていた。
ついさっきまであった巨大なラボ・タワーの姿はもう見えない。完全に地中に沈んでしまった。
ライダーが倒れたバイクから立ち上がり、駆け寄って来た。
「急げ! 立つんだ!」
ヘルメットを脱ぎ捨て鋭く言う。
その声にケインは叫んだ。
「真樹さん?」
「すぐにここから離れるんだ!」
真樹はミオを抱え上げて叫んだ。
暗い夜空を見上げる顔は見たこともないほど険しい。
真樹は手に持ったマグライトを振り上げた。
車輛のヘッドライトが猛スピードで接近してくる。
タイヤを鳴らしてスポーツタイプのワゴンが急停車した。
「奴ら本当に発射しやがった!」
ドライバーが窓から叫ぶ。
「早く乗るんだ!」
「ケイン!」
助手席から飛鳥の声がした。
ケインたちは後部席に転がるように飛び込んだ。
ドアを閉める前にワゴンは急発進する。
車体を傾けてドリフトターンをすると、猛然と加速してタワーから離れて行く。
「山本さん!」
ケインはドライバーに叫んだ。
「どうしてここに?」
「仕事だよ!」
山本はステアリングを鋭く切り返し、病院施設の間を縫って地上路を突っ走った。
「何だって?」
「新しい依頼があった」
真樹は泣きじゃくるミオを膝に乗せた。
「お前たちをアメリカに連れて行く」
「アメリカ?」
「そうだ!」
山本はワゴンを減速させた。前方にゲートが見える。
「このまま空港に向かう」
「あんたも一緒だ」
真樹は助手席に顔を向けた。
「金城飛鳥」
ワゴンは病院関係者の通用口から一般道に出た。
サイレンを鳴らして急行する消防や警察の車輛と擦れ違う。
山本は苛立たしげに叫んだ。
「政府はなぜ情報を流さない! 近づくのは危険だ!」
「もう、間に合わない」
真樹は前方の夜空を指差した。
「来たぞ」
小さな光点が近づいてくる。
それはあっという間に頭上を越え、後方に飛び去った。
「まさか……」
ケインは身体をねじって背後を見た。
流れ星は突然角度を変えて垂直に急降下し、メディカルセンターを囲む森に消えた。
夜空が明るくなった。
地鳴りのような重い地響きとともに、爆音が空気を震わせる。
その直後に平坦な路面が波打つように膨らみ、ワゴン車は跳ね上げられて宙に浮んだ。
タイヤの空転する音が響く。着地と同時に山本は素早くステアリングを操作して姿勢を立て直した。
「局地核だ」
真樹は暗い声で言った。
ケインは絶句した。落下したラボ・タワーに、小型とはいえ核を撃ち込んだというのか。
「想定ではこのあと放射能除染材が大量に投下される」
真樹は低く言った。
「費用は数百億か数千億か。もちろん日本政府持ちだ」
「気でも狂ったか!」
山本がダッシュボードを殴りつけた。
「いったい、何が起きたんだ!」
ミオが怯えて泣き声を上げた。
「すまない」
山本は首をすくめた。
「まさか、同じことが起きるなんて」
飛鳥は沈んだ声で言った。
「同じこと?」
真樹が鋭く言った。
「異世界の情報よ。それはこの世界に存在しえないもの」
飛鳥は疲れた声で言った。
「それが洩れ出せば、世界は破滅する」
「あんた……何を言っているんだ?」
真樹は明らかに正気を疑う顔で飛鳥を見た。
「三十年前と違うのは」
飛鳥はかまわずに言葉を続けた。
「異世界の情報は消えずに残っている。そして今、それは米軍にある」
「米軍……」
真樹は唸るように言った。
甲高い金属音が近づいてくる。
前方の夜空を、幅広い主翼を広げた黒い飛行機が超低空で進入して来た。
機首を上げた着陸体勢のまま、車の屋根をかすめるように轟音と共に背後に飛び去って行く。
地面を叩くジェット噴流にワゴンがぐらぐらと揺れた。
「ビッグ・オウル」
ケインは闇に溶ける機影を振り返った。
大型の戦略VTOLだ。この事態を想定して配備されたのか。
「どうなっているんだ……」
ケインは遠ざかる背後の森を見た。
樹々の奥に聳えていた黒い塔のシルエットは消え、巨大な黒煙の柱が立ち昇っていた。
中央官制室の指揮官席に座ったアイラーは、にやにやと歪んだ笑みを浮かべていた。
荒神は障壁の裂け目から異世界に消え、偉大なる父から命じられていた異世界の情報も捕獲することができた。
すべては上手く言った。上出来だ。
自分のような長命の個体を荒神は稀人と呼んでいた。
そんな特異種がこの世界に何人いるのかはわからない。稀人同士が互いを確認し始めたのはせいぜいここ数百年のことで、アイラー自身も荒神以外には数人しかその存在を知らない。その誰もが探求者的な性格を持ち、アイラーのように社会に関わり歴史を動かしたいとは望んでいない。
特に偉大なる父は表立っては動かないから、これからの世界はまさに自分の思い通りになるはずだった。
「演算シーケンス終了します」
アナウンスが流れる。
スクリーン表示が切り替わり、仮想装置の3Dモデルが現れた。
循環する正八胞体の内側に、取り込んだ異世界の情報が『UNKNOWN』と黒く表示されている。解析することさえ不可能なこれを、どうして偉大なる父が必要としているのかはわからない。ただこれを使う時が来れば、それはそれで面白いものが見られるはずだった。
「未知のデータを確認した」
隣に立っているカイル・ローゼンタールがスタッフに指示を出す。
「DCを閉鎖領域へ移行。サーバへのアクセスを完全に遮断する」
その時。
それは、突然起こった。
あらゆる電子機器が一瞬でシステムダウンした。
次の瞬間、主電源が落ちたようにすべてのディスプレイやコンソールから光が消え、室内が真っ暗になる。即座に天井に赤い非常灯が灯った。誰もが茫然として叫ぶことさえできず、中央官制室は暗赤色の沈黙に包まれた。
アイラーは笑いを頬に貼り付かせたまま、眼だけを忙しなく周囲に走らせていた。
「どうした?」
誰も答えない。
カイルも放心したように暗いスクリーンを見つめている。
「どうした?」
アイラーは肘掛けを握り締め、ゆっくりと立ち上がった。
「どうしたんだあああああああ!」
天井の照明が灯り、電子機器が息を吹き返した。
ディスプレイが青く瞬き、システムが次々に再起動する。メインスクリーンではエラー内容の表示が高速で流れて行く。
「消えた……」
カイル・ローゼンタールの声に、アイラーは振り返った。
「なんだと?」
アイラーは眉根を寄せた。
「今、なんと言った?」
「DCが消えた」
カイルは虚ろな声で言った。
「いや、奪われてしまった……」
「かっ!」
アイラーは眼を剥いた。
「冗談はよせ!」
その言葉が嘘ではないと、アイラーは即座に悟った。
突然、管制室内が温室のように暑くなった。
不可視の強い気が押し寄せて空気がびりびりと振動する。
驚愕する人々の頭上に、雷鳴のような大音声が響き渡った。
『アーペンタイル!』
爆弾が炸裂したようなその声の大きさと激しさに、その場にいたすべての人間が耳を押さえて床にうずくまった。
『許さぬ!』
それはアイラーでさえ初めて聞く偉大なる父の怒声、それも全身が震え上がるほどの怒りに満ちた叫びだった。
『許さぬ!』
怒り猛った神のごとき声は、ひれ伏す人々の頭上に幾度も轟いた。
『許さぬぞ! アーペンタイル!』
ファーストクラスの室内は照明が落とされ、黄昏時のように仄暗い。
エンジン音も伝わって来ない快適な静けさの中で、ほとんどの乗客達は眠りについていた。
半透明のシェルで覆われたリクライニングシートに横たわり、ケインは昏々と眠り続けている。イメージを産み出す脳細胞の活動は電気と化学物質によって行われる。それは有限であり、長時間働き続ければ疲労してイメージング能力も低下する。
記憶の深深層の障壁を切り裂いた膨大な炎のイメージ想起は、脳神経に過大な負荷を強いるものだった。ケインの脳は深い眠りの中で、全力で回復しようとしている。
客室後方の小さなラウンジスペース。
金子飛鳥と石井真樹が向かい合ってソファに座っている。
飛鳥は手に持ったデータパッドでニュースを検索していた。
ラボ・タワーの突然の崩落は大きく報じられていたが、原因不明のままテロ攻撃によるものという論調が多くを占めていた。各所で撮影された流星のような巡航ミサイルの映像が繰り返し放映され、コメンテーターがテロの可能性を強調している。しかし自ら火を噴いて沈降して行くタワーの映像は全く流されていない。
飛鳥は眉をひそめた。
自衛軍の関東レーダーサイトが巡航ミサイルを見落とすはずがない。
当然、ミサイルの発射地点は割り出せている。しかし、日本政府からは何も発表されていない。在日米軍も同様だ。おそらく両者間では情報統制が合意され今後の対応が緊急協議されているはずだった。おそらく過去の様々な事例がそうだったように、この事件の真実が明かされることはないだろう。
飛鳥はデータパッドから顔を上げ、正面に座る真樹を見た。
「私たちはIDを失ったのに」
飛鳥は長い髪をかきあげながら、静かに言った。
「出国審査も受けずに搭乗した。この便の乗務員として」
真樹は答えない。
飛鳥は猫のように眼を細めた。
「随分、手回しがいいのね」
「……手配をしたのは、連盟だ」
真樹は当然のように答えた。
「だがそれは、御門ケインの警護を依頼して来た部門ではない」
「どういうこと?」
「アルゴ・エージェンシーと結んだ身辺警護の契約は、ブレイン・バトラー御門ケインの移籍に伴って連盟が引き継ぐ形になった。そしてその契約は一旦解約され、新たな仕事の依頼があった」
「それが私たちをアメリカに連れて行くということ?」
飛鳥は低く言った。
「そうだ」
スチュワードが飲み物を運んで来て、テーブルにグラスを置いた。
飛鳥はカクテルの透明な気泡に眼を落としながら小さく言った。
「この便は連盟がチャーターしたのね?」
「おそらく乗客は全員連盟の関係者だろうな」
真樹は軽く眉を上げた。
「なにしろ東京が核攻撃を受けたんだ。職員を日本から退去させるんだろう」
「連盟はこの事態を予測していたの?」
飛鳥は真樹を見つめた。
「わからない」
真樹は強い視線を返した。
「私にわかるわけがない」
飛鳥は黙って、カクテルを口に運んだ。
真樹は自分のグラスを取ろうとテーブルに身を屈めた。
「嫌な感じだ」
小声で言う。
「……何かに見られている」
「あなたも感じているのね」飛鳥も囁いた。
「いつからだ?」
「離陸してから、かしら?」
「ずっと見られている」
真樹は眉根を寄せた。
「敵意を向けないで」
真樹は怪訝そうに眼を細め、飛鳥を見た。
自分達に思念が向けられていることを飛鳥は感じていた。
しかしそれはかって荒神が送ってよこした暗く鬱屈した波動ではない。何か実験対象を淡々と観察するような、感情のない視線の感覚だった。
「まるでオカルトだな」
真樹は皮肉そうに唇を歪めた。
飛鳥は眼の前にいる精悍な女性の顔を見た。
彼女は荒神を、常識を超えた長命の個体が存在し、思念を操れることを知らない。また、それを知る必要もない。彼女はそういう世界に生きているのだ。
「ところで」
真樹は言った。
「あの男は一緒じゃなかったのか?」
「……斉藤ね」
飛鳥は黒髪をかき上げた。
「わからない。途中で見失った」
真樹の瞳に一瞬、非難する色が浮ぶ。
「あの混乱では、どうしようもなかったわ」
「そう、だな」
真樹は眼を逸らした。
「気になるの?」
「いや」
真樹は身体を起こすと、ソファに背をもたせかけた。
「ニューヨーク到着は九時間後だ。あんたも眠った方がいい」
「そうね」
飛鳥は小さく微笑んだ。
「そうするわ」
飛鳥は髪を揺らしながら客室に戻って行く。
後ろ姿が随分と痩せて見えた。
真樹は小さく溜息を洩らし、ソファに深々と沈み込んだ。
あの女の笑みはひどく寂しげなのに、何か得体の知れない強さとしたたかさを隠し持っている。
どうして自分が苛立っているのかわからずに、真樹はテーブルのグラスをじっと見つめ続けていた。




