10 障壁到達
ケインは暗闇の中に浮んでいた。
そこは三次元の空間ではない。
生命体の意識領域という、なにを持ってしても測ることのできない無量無窮の世界だ。
—ここはどこだ。
何も見えないし、座標も認識できない。
もうエントリーしているのだろうか。
どこからか声が響く。
『一次視覚野への伝達不良。再接続を開始します』
不意に視界が明るくなった。
ケインの意識は茫漠とした灰色の世界の中にぽつんと浮んでいる。この風景は、もう何度も訪れたことのあるミオの脳内の記憶領域だ。
視覚と共に空間認識が生じていた。
灰色の雲の中を緩やかに沈みながら、ケインは自分の意識を周囲に放射した。
幾重にも重なる雲のヴェールに遮られず、遠くまで見通せる感覚がある。今までの低代謝導入にはなかった、繊細でより鋭敏な感覚だ。
意識の視点を動かして行くと、空間の先に細く点滅する一本の光のラインが見えた。
それはジョージ・ロビンス大学でのダイブで、ハルトマン博士の論理フィルターが描出した導入路によく似ていた。
朝比奈博士の声が、すぐ近くで響く。
『聞こえるかね、ケイン君』
「よく聞こえます、博士」
『プローブを送った。記憶のサンプルを採取するためだ。アカツキに追随する。君は集中を保ってくれ』
プローブはAIによる想像的構築体だ。
ケインは上方から光るリングが接近してくるのを確認した。
リングは同心円状に幾つも重なり、それぞれが独自の角度で回転している。
ケインは構築した探査用のブレイン・ギア、種子型のアカツキを、細く光る導入路に沿って進めて行った。
空間が徐々に暗鬱さを増す。
重層した記憶の精神圧が重くのしかかってくる。
周囲に朦朧とした暗い塊が現れた。
ひと繋がりとなった記憶の集合体だ。点在していた記憶の塊はすぐに密度を増し、前方の空間をみっしりと埋め尽くした。
光の導入路がちかちかと瞬き、消える。
ケインは断崖のように立ちはだかる記憶階層の手前でアカツキを停止させた。
『入り口になった記憶はマーキングされている』
朝比奈の声が響く。
『まだ残っている確証はないが……』
「探します」
ケインは壁を見上げた。
ハルトマン博士のダイブの時よりも感覚が鋭敏になっているのがわかる。
あれから苛酷なブレイン・バトルを戦い抜いたことで、自身の経験値が上がっているからだろうか。ケインにはセンシティブに増幅された今の自分の感覚が、あの日の記憶の入り口に導いてくれるという予感があった。
ケインは壁のように重なる記憶に沿って移動した。
あえて何も考えずに、感覚の流れるままに……。
どのくらい漂っていただろう。
どこからか密やかなざわめきが聞こえてくる。
遠くから近づく驟雨のような雨脚の音。柔らかなノイズはケインの周りを包み込み、その中から小さく人の声が聞こえた。
その声は、確かに自分を呼んでいた。
—ミオ?
ケインは眼を、いや、視覚を閉じた。
聴覚に全神経を集中する。
雨音は妹が失踪したあの朝の時間であり、声は妹のものだ。
しかし、探すのではない。
探そうとしてはならない。
—声は導いている。
ケインは自然にそう感じた。
その導きに意識を委ね、任せればいい。
先入観を持たず、不安や恐れを棄てれば、きっと流れが導いてくれる。
どのくらい漂ったのだろう。
気がつくと、記憶深層の重苦しい圧迫感が消えている。
ケインは眼を開けた。
白い空間が広がっている。
壁も、床も、天井も、すべてが白い、巨大な四角い部屋だった。
部屋の中央に質素なパイプベッドが置かれている。
白いシーツに、白い枕。ベッドには誰もいない。
ケインはゆっくりと歩き出した。
突然、ケインの傍らを赤いランドセルを背負った少女が走り抜けた。
少女はベッドに駆け寄ると、幻のように消えた。
それは確かに、あの雨の朝、最後に見た後ろ姿だ。
気がつくと、ベッドの上に白い服を着た髪の短い少女が半身を起こし、じっとこちらを見つめている。
—ミオ、なのか?
ケインは立ちすくんだ。
少女は幼いミオではなく、眠り続けている現在のミオの姿をしている。
白い検査衣を着て、髪の毛は短く刈られて少年のようにも見える。
しかしそれは、やはり自分の妹だった。
—見つけた……。
ケインは拳を握りしめた。
—ついに、ミオを、見つけた!
喜ぶべきことだった。
ようやく失われた妹の記憶に辿り着いたのだ。声を上げて叫んでも可笑しくない。
だがそうしなかったのは、何か不穏な気配がこの広大な白い空間に漂っていたからだ。
—お兄ちゃん。
こちらを見つめているミオの小さな口が動いた。忘れかけていたミオの声だ。
ケインは足を踏み出した。
一歩進むごとにミオが近づいてくる。
そのはずだった。
しかし、いくら足を動かしてもベッドとの距離は縮まらない。
焦ってはいけないと思いながら足を早め、いつの間にか前のめりに駈け出していた。
ケインはもがきながら懸命に走った。
しかし足は宙を蹴って空回りする。
更に空間が濃密な液体のような強い抵抗感で手足にまとわりつき、ついにはガラスのように凝結してしまう。
ケインは走る姿勢のまま、硬化した空間に封じ込められた。
—ミオ!
眼の前にミオがいながら一歩も進めない。完全に身動きできない。
ケインは混乱した。
ミオを見つけ出したのに、どうしてこんなことが、こんな矛盾が起きるのか。
—なぜだ?
仮想空間であっても意識の中で起きていることはまぎれもない現実だ。
この矛盾には理由がある。何かがこの状況を生み出している。
どこかで空間を固めるほどの強い抑制が働いているのだ。
ケインは、はっとした。
—まさか……俺なのか?
突然、あの男の声が甦った。
『お前自身が、妹を穢した』
それはケインの心の奥底にある、隠し続けて来た感情だった。
妹は誘拐犯に乱暴されたに違いない。
幼い妹は穢された。眠り続ける妹の内臓は腐ってドロドロになっている。
—俺は、どうしてそんなことを……?
理由はわからない。
しかし、そんなことがあるはずがないとわかっていても、脳裏に浮んだイメージは黒い染みとなり消せはしなかった。確かにそれは心の隙間に忍び込んで来た悪魔の囁きだった。
だがそれを許したのは自分自身の心の弱さなのだ。
—だから俺は、本当はミオに会ってはいけないと思っているのか……?
ケインは愕然とした。
—これはすべて、俺が作り出したことなのか……?
ベッドのミオは悲しげな眼で兄を見つめ続けている。その姿が涙でかすんだ。
—許してくれ……。
眼から涙が溢れ出す。ケインは身悶えし、声を振り絞った。
—ミオ!
ケインは唇をわななかせ、声を落とした。
—俺を……許してくれ……。
白い部屋は無音。
涙でかすむ眼に、妹の姿が白く滲んだ。
その時。
再び、あの男の声が、木霊のように響いた。
—『贖罪』の意識は強い動機となる。
声は白い部屋の中に重く響く。
—妹を守れなかった自分、心の中で妹を穢した自分。その罪を償うには、失われた妹の記憶を見つけるしかない。その強い動機によって、お前はここに辿り着いたのだ。
凝固していた空間の戒めが一瞬で解け、ケインは投げ出されて床に膝を突いた。
その周囲に真っ黒い染みが点々と現れた。
—何だ、これは?
広げた両の手に黒い液体が滴り落ちてくる。
それはどろどろとした濃密な『暗闇』だった。
黒い滴りは夕立のように激しく降り注ぎ、部屋の中もケインの身体も見る見るうちに黒く塗り潰していく。『暗闇』は数瞬の間に量を増し、瀑布のように轟々と降り掛かってきた。
ケインは暗黒の滝に打たれて床に這いつくばった。
『暗闇』は白い部屋に降り注ぎ、せり上がる黒い水面はあっという間にケインの身体を呑み込んだ。
—息が、息が、できない!
黒い闇の中でケインは喉をかきむしった。パニックを起こす寸前だった。
突然、身体を包み込んでいた濃密な闇の重さが消えた。
いや、消えたのではない。
周囲の空間が完全に暗黒に転換されたのだ。
ケインはゆっくりと顔を起こした。
白い部屋は跡形もなく、眼の前は闇で満たされている。
その暗闇の中に、ぞっとするような禍々しい邪気が赤黒く渦巻いていた。
精神が痺れるような毒の霧。
ケインは歯を食いしばり、よろよろと立ち上がった。
見上げる闇の中に、白い服を来たミオが浮んでいる。
見えない十字架に磔にされたように両手を広げ、頭をぐったりと垂れ、その顔を苦痛に歪めて。
—助けて……。
ミオの声が聞こえた。か細く、息も絶え絶えに訴える声が。
—お兄ちゃん……。
ケインは足を踏み出そうとした。
しかし足が床に貼り付き、全く動かない。
ケインは前のめりになって身震いした。どこからか野獣が叫ぶような吠え声が聞こえる。
闇の中に獣が潜んでいるのか。
—お兄ちゃん!
突然、ミオが金切り声を上げた。
闇に浮んだミオの真下に尖った槍が現れている。
はっと思った瞬間、槍は垂直に突き上がりミオの身体を一直線に貫いた。
鋭い穂先が肩口から飛び出し、真っ赤な鮮血が空間に噴き上がる。
ミオの絶叫が響き渡った。
全身を痙攣させ、服の裾からはぼたぼたと血の塊が落下する。
跳ね返った熱い血潮がケインの顔をつぶてのように打った。
かちり、と何かが外れる音がした。
ケインは怒号を上げた。
顎が外れんばかりに口を開け、怒りと絶望の雄叫びを迸らせた。
それは怒り狂った獣の咆哮だ。吠えていた獣はケイン自身だった。
野獣は身動きの取れないまま狂ったように身悶え叫び続けた。
ケインは鉤爪のように曲げた指を自らの胸に突き刺した。
胸骨を断ち割り胸郭を引き裂きこじ開けるように肋骨をめくり上げる。
拡げた胸の中から別の何かが現れた。《《それ》》はめりめりと音を立てて内側から裂け目を押し広げ、足を踏み出した。
姿を現したのは全身が血に染まったアカツキだった。
アカツキはケインの身体から抜け出ると、血に濡れそぼった頭髪を振り、口から赤い霧を吹き出した。赤く光る眼を細め、眼前の空間を見上げた。
串刺しにされたミオが宙に浮いている。
頭を垂れ、びくびくと身体を痙攣させている。
闇よりも濃い、数えきれないほどの暗黒の触手が四方から伸びて、ミオの身体を縛り上げ、吊り下げているのが見えた。
ミオは闇に捕われている。
アカツキは腰を落とすと抜刀の構えを取った。しかしその腰に刀はない。
刀を引き抜く動作から、見えない刀を正眼に構える。
その途端、アカツキのすぐ眼前に爆発が起きたような激しさで火柱が立ち上がった。マグマが垂直に噴き上がったかのようだ。
燃え盛る灼熱の炎は、暗闇さえ焦がすほどの猛烈な熱と光を放っている。
新たな炎の柱が左右から噴き上がった。
更にその外側にまた別の火柱が立ち上がる。
炎は忠実な臣下のようにアカツキの前に列を作った。
アカツキは構えた両手を高く上げた。
眼前に並ぶ炎熱の柱が火勢を増し、轟々と音をたてて燃え上がる。
—切り裂く!
アカツキの全身から赤い気が迸った。
—この闇を!
見えない剣を裂帛の気合いと共に振り下ろした。
火焔の柱が放たれた矢のようにミオに殺到する。
何本もの炎柱がミオの身体に重なり合って激突し、猛烈な爆炎を飛び散らせた。
炎熱に包まれたはずのミオの姿はそのままだ。髪の毛一本も焦げてはいない。
しかし、その周囲の暗闇に裂け目が走った。
斜めに、垂直に、水平に、無数の裂け目が走り、その縁が細く赤く光る。
次の瞬間、切り裂かれた暗闇が傲然と火焔を発した。
暗闇は紙片のように燃え上がり、塵さえ残さず虚空に消え去った。
空間は光を取り戻し、再び白い部屋が現れた。
ケインは唸りながら眼を開けた。
床に俯せに倒れている。
たった今、自分が何をしたのかわからなかった。
しかし確かに何かが起き、それを行ったのは紛れもない自分なのだ。
立ち上がろうとしたが足は萎えたように動かなかった。
ケインは肘を使ってベッドに這い寄り、マットに手をかけて身体を引き起こした。
眼の高さに、すぐ眼の前に、ミオの顔があった。
ミオは泣いていた。
泣きながら笑っていた。
ベッドに横たわったまま手を伸ばし、ケインの頭を触り、髪の毛を握りしめた。
「お兄ちゃん」
ミオは涙で光る眼を細めた。
「やっと、来てくれたね」
「ミオ!」
ケインは声を詰まらせた。
「……すまなかった」
「お兄ちゃん!」
ケインは腕を伸ばして妹を抱き寄せた。
確かに温もりを感じる。これは本当にミオなのだ。
「すまなかった、ミオ。こんなに遅くなって」
ケインは声を震わせた。
「うん」
「でも、もう大丈夫だ」
「うん」
「さぁ、帰ろう」
「怖かった」
ミオはケインの首にしがみついた。
「ミオ……」
「本来なら褒められようが」
突然、男の声が響いた。
「正に最後の機会。危うく失するところだった」
「な……?」
ケインはミオをかばうように覆いかぶさり、顔を上げた。
少し先の場所に黒いものが立っている。
それは人の形をした黒い影。
いや、それは影でさえもなく、ただ『虚ろなもの』が立っているように思えた。
「誰だ!」
ケインはミオを抱きかかえ、よろめきながら立ち上がった。
黒い影は腕を伸ばし、まっすぐにケインを指差した。
「お前はようやく、自らの意思で焔を発現した」
「焔?」
「世界を焼き尽くした終焉の火だ」
ケインの首に回したミオの手にぎゅっと力が入る。
「聞かないで」
ミオは耳元で囁くように言った。
「あの言葉を」
「ミオ?」
ケインはミオの顔を見た。
ミオは敵意と怯えの入り交じった眼で黒い影を見つめている。ミオはこの影を知っているのか?
「ようやく、その時は来た」
黒い影が揺らめき、薄らいでいく。
「今こそ……障壁に達せよ!」
白い部屋の中に風が吹き込んで来た。
風は急激に強さを増し、瞬く間に嵐のような激しさになった。
ベッドが木の葉のように転がって行く。
ケインはミオを抱え、吹き飛ばされないようにうずくまった。
「出口は……どこだ!」
ケインは暴風に向かって叫んだ。
「出口は?」
「この部屋は消えるわ。もう必要ないから」
腕の中でミオは静かに言った。
ケインはその言葉の冷静さに戸惑い、腕に抱えた妹の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん」
ミオはケインをじっと見上げた。
「離さないで、わたしを」
狂奔する風は勢いを増し、白い空間そのものを吹き飛ばした。
再び、世界が暗黒に飲み込まれた。
次の瞬間、巨大な圧力がのしかかってきた。
周囲の空間が突然質量を持ったかのように膨大なプレッシャーとなって襲いかかり、意識そのものを押し潰そうとする。
それは数万年にも渡って積み重なった生命記憶深層の精神圧。
ケインとミオが投げ出されたのは、意識を保つことさえ困難な超深々度の深海だった。
突然の強圧の中で、ケインは意識を失いそうになった。
それを引き戻したのは腕に走った痛みだった。
激痛にケインは声を上げ、眼を見開いた。
ケインにしがみつくミオの細い指先が、鉤爪のように両腕に食い込んでいる。
「頑張って、お兄ちゃん」
しがみついたミオが耳元に口を寄せた。
「まだ、耐えられるよね?」
「ミオ……?」
「あれ?」
ミオは冷たい眼でケインを見つめた。
「死んじゃうかな、この程度で?」
「なん、だと?」
ケインは妹の言葉に慄然とした。
「だって」
ミオは拗ねたように口を尖らせた。
「わたしは、ずっと、ここにいたんだよ」
「ずっと……」
「そう、あいつに沈められて、たったひとりで」
「あいつ……」
ケインの意識は混濁し始め、ぼんやりと言葉を繰り返した。
「もう!」
ミオは責めるように声を上げた。
「しっかりしてよ、お兄ちゃん!」
ミオの突き放すような言葉に、ケインは声を失った。
『返事をしろ!』
突然、女の声が聴覚に飛び込んで来た。
『眼を覚ますんだ! 意識を保て!』
聞き覚えのある声だ。その声はどこか遠くから必死にケインに呼びかけている。
—誰だ……?
ケインは朦朧とした視線を暗黒の空間に彷徨わせた。
『どうした!』
女の声は叱咤した。
『お前は、その程度なのかッ?』
—真樹、さん?
『返事をするんだ! この大馬鹿者!』
—くそっ!
ケインはかぶりを振った。
ここで死ぬわけにはいかない。
やっとミオを見つけ出せたというのに。
『ギアを!』
別の女の声が叫んでいる。
『ブレイン・ギアを構築してください!』
—ギア?
自分を包み込んでいるはずのブレイン・ギアが感知できない。
なぜギアを失認してしまったのか? ケインはその理由を悟り、総毛立った。
—ブレイン・ギアが解体している!
緊急事態だ。
ケインは強く意識を絞り込んだ。
数百回と繰り返し脳に叩き込んで来たエントリーフェーズのギア構築フローが条件反射のように実行される。
—アカツキよ、姿を現せ。
ケインとミオの周囲に微細な砕片が浮かび上がった。
砕片はあっという間にその数を増し、湧き上がる黒い雲となってケインの周りをぐるぐると渦巻く。黒雲の流れは収斂し、紡錘形をした黒い種子となって二人を包み込んだ。
ケインは自分がその中にしっかりと収まっていることを自覚した。
『想像的構築体を確認』誰かの声が響く。
『危険な状態です。すぐに浮上を』別の声が訴える。
『ケイン君! 帰還するんだ!』老人の声が叫んだ。
「あれは、朝比奈博士か……?」
種子型のアカツキの中で、ケインはミオを抱きかかえている。
そのアカツキは更に沈降を続けていた。
「帰らなくては……」
ケインは朦朧とした意識の中で言った。
「だめだよ、お兄ちゃん」
ケインの胸元で、ミオは硬い声で言った。
「だめ?」
ケインはぼんやりと繰り返した。
「だめ……なのか?」
「そう。もっと深く潜るの。これから」
ケインは沈み行くその先に意識を向けた。
その先は、人間の知覚ではもはや何も捉えることのできない真の暗黒、生命記憶の底だった。
「もっと深く……?」
ケインはゆっくりと問いかけた。
「どうして……? なにをいっているんだ、ミオ?」
—これは本当に自分の妹なのか?
ケインはぼんやりと考えた。
ミオが昏睡してから、もう六年も経っている。
その間、ミオは生命記憶の深層に沈められこの膨大な重圧の中にいたという。
そんな暗黒の孤独の中にずっと一人でいたとしたら、果たして正気を保っていられるのだろうか。
ミオが叫んだ。
「気をそらさない!」
「うっ」
ケインは苦痛に呻いた。ミオの腕が強くケインの身体を締めつける。
「集中して!」
アカツキの外殻が歪み、嫌な音をたてた。
ブレイン・ギアを構築する意思力が勝っていればギアが崩壊することはない。
しかしここはかって人類が経験したことのない記憶の深海だ。人間の精神力などひとたまりもなく圧し潰してしまうかも知れない。
「恐れないで!」
ミオは叱咤するように言った。
「意識を潰すのはこの深海の精神圧ではなく、恐怖なのよ」
「恐怖?」
「それは、始源の感覚」
ミオはアカツキの内部から、沈んで行く先を指差した。
「細胞レベルで刻まれた最古の記憶。それが『恐怖』なのよ」
その時、ケインはアカツキの下方に何か茫漠としたものが広がっているのを感じた。それは知覚を押し返すような抵抗感を持った壁だった。
「感じるのね、あれを」
ミオはケインの顔を見上げた。
「なんだ、あれは……?」
ケインは低く呟いた。
「あれが……底……なのか?」
「そうよ」
ミオはあっさりと言った。
「なん、だと?」
「……記憶の最深層」
ミオは秘密を打ち明けるようにケインの耳に囁いた。
「ここは、もう繋がっているの」
「繋がって、いる?」
「通底しているの。全ての人間、全ての生物と。ずっとずっと深い記憶の底は」
「記憶の底?」
ケインはぶるっと身体を震わせた。
「それが障壁……?」
「そう」
ミオはこくりとうなずいた。
「お母さんは、そこにいる」
「お母さん?」
なぜ突然母親が出てきたのか意味がわからない。ケインは激しく困惑した。
「考えている時間はないよ」
ミオは深みに顔を向けた。
「この殻を失わないで」
アカツキが沈降するスピードを増した。
それはケインの意思ではなく、何かに引き寄せられているような感覚だった。
—危険だ!
ケインは強い不安を感じた。
こんな人間の意識の底深くまで潜ったという記録はない。
これは無謀な行為だ。ケインはたまらずに叫んだ。
「止めよう、ミオ! どうして、こんなことを?」
「わからないの?」
ミオは苛立った声を上げた。
「言ったでしょう! あなたのお母さんに会いに行くのよ!」
「そんな場所に、お母さんがいるわけがない!」
ケインは反発した。
「お母さんは、行ってしまったんだ!」
ミオは大きく見開いた眼で、じっとケインを見つめた。
「お母さんは、僕を残して、行ってしまった」
ケインは両手で顔を覆い、声を震わせた。
「僕は悪い子だった。だから、どこかへ行ってしまったんだ……」
「幼児退行」
ミオは低く言った。
「今は、ここまでか」
二人を包むアカツキの機体がみしみしと軋み音を立てた。
精神圧に耐える意思力を維持できなければ、ギアは即座に圧壊してしまう。
「だが、まだだ」
ミオはケインの首をつかむと、力を込めてぐいと押し下げた。
「潜るんだ、お前の限界まで!」
アカツキが加速する。
黒い種子は尖った切っ先を垂直に下方に向け、ぐんぐんと沈んで行く。
周囲は完全な暗黒と沈黙の世界で、ここはもはや外界を感知する知覚を持たない原生動物の記憶深層だ。
構築体の外殻が強圧にひしゃげ、ひび割れが走った。
それでもアカツキは沈み続けた。
ケインは苦痛と悪寒に朦朧としながらも、まだかろうじて構築体をイメージし続けている。
それはケインの生存本能の最後の力ともいえた。
突然、ミオが叫んだ。
「見ろ!」
ケインはぼんやりと視線を向けた。
深い闇の底に、微かな光が見える。
ほのかに、今にも消えそうに儚い光の輪。
それはまだ先にあって、細部までは認識できない。
しかしその輪の中央に浮んでいるのは、横たわった人間のシルエットだった。
すらりとした手足を曲げて、胎児のように背中を丸めている。長い髪が緩やかに波打っている。
それは確かに見覚えのある、ケインの記憶の中にある母親の姿だった。
「まさか……」
ケインは眼を見開いた。
「あれは……?」
「そうだ。お前の母親だ」
「お母さん……?」
「お前の力はここまでか?」
ミオは声を上げた。
「もうそこまで来ている。もう手が届く。もっと気力を振り絞れ!」
「どうして……こんなところに……」
ケインは必死に手を伸ばした。
「お母さん……、お母さん……!」
アカツキは沈降速度を緩めた。
種子型のその尖った船首は、淡い光のリングに触れる距離にまで近づいている。
暗黒の中で、蛍が照らすような微かな光に照らされ、眠っている優しげな横顔が浮かび上がる。
「お母さん!」
ケインの叫びに、女性はうっすらと眼を開けた。
ゆらゆらと彷徨った視線が、直上にいるケインに向けられる。
「あなたは……」
女性は聞き覚えのある柔らかな声で言った。
「ケイン……?」
自分の名前を呼ばれケインは息を呑んだ。そして確信した。
この人は本当に、本当に自分の母なのだ。
「お母さん!」
「来たの……?」
優はかぼそい声で言った。
「よく……ここまで……」
「我は、障壁に達せり!」
ミオは感極まったように声を震わせた。
それは既に妹の声ではなく、明らかにあの黒い影の声だった。
「誰だ……お前は……?」
ケインは朦朧とした視線を、自分が抱きかかえている《《もの》》へ向けた。
ミオは下からケインを見つめ、低く、くつくつと嗤った。
「お前の私に関する記憶はすべて封じてある」
「な、に……?」
「私は荒神だ」
「あら、がみ?」
「細胞活動の限界を迎えた私は、肉体を棄てざるを得なかった」
ミオは深く長い嘆息を漏らした。
「しかし白蝋化が進み、自ら成す術を失っていた」
「なにを……言っている?」
「だがあの男が現れ、私は打ち砕かれた。魂魄となった私は深層意識界に潜り、この娘の魂に憑依した」
ケインは茫然として男の言葉を聞いた。
「私自身でさえ考えもしなかったことだ。だが、すべては符合した。お前を選んだのも、母親への中継点としてこの娘を沈めておいたのも、正に精緻な細工のように完璧に定められていたのだ」
ミオは満足げに低く笑った。
「私は確信した。すべては大きな流れの中にある。私はやはり、選ばれていたのだ」
「お前は……いったい……?」
「あれが見えるな?」
ミオはケインの首を腕で抱え込み、下方に向けた。
「あれは人間の魂魄のうち、陽の気である魂だ。光持つ故に知覚できる」
「魂……だと?」
「お前の母親の魂だ。魂は障壁から離れられない」
「なぜだ……」
ケインはうめいた。
「なぜ、離れられない?」
「陰の気である障壁と融合している。障壁を切り裂くしか、助ける術はない」
ケインは暗黒の世界を見渡した。
何も知覚できない。いや、何かが闇の中でうごめいている気配がある。
ケインは意識を集中した。闇の中にはごつごつとした歪な黒い泡のようなものがぎっしりと密集し、一面に広がっている。
それが眼前に広がる障壁だった。
「記憶の底が通底するように、この障壁も別の世界と接し、隔てている。それはこちらの世界の物理秩序とはかけ離れた完全に異なる世界」
「異なる世界……」
「生命体にとっての『異質』とは、『恐怖』そのものだ」
ミオの口から男の声が響く。
「『恐怖』とは、原始生命体が自己の存在への脅威を感知する根源の感覚だからな」
暗黒の中に横たわった優が顔を起こし、不安げに視線を揺らめかせた。
「……ケイン? どうしたの? 返事をして?」
「……お母さん……」
ケインは呟くと、眠りに落ちる寸前のように小さく息を吐いた。
「意識を保て!」
ミオは抱えたケインの頭を強く揺さぶった。
ケインは弱々しく頭を振った。
機体が振動し、アカツキの外殻に大きな亀裂が走る。
「……さすがに、限界か……」
ミオは険しい表情で呟くと、ケインの顎に手をかけて顔を上向けた。
仄かに光る光輪がゆっくりと遠ざかって行く。
アカツキは浮上を始めた。
上昇するアカツキの機体をかすめるようにして、追随して来たAIプローブが沈んで行く。同心円の輪が分離して散開し、優の横たわる淡い光のリングの周囲に沈底した。
「知覚マーカーか」
ミオは下方に眼をやった。
「朝比奈め、抜かりはないな。まぁいい、次は利用させてもらう」
マーカーが規則的な点滅を始めた。闇夜の中の儚い救命灯のようだ。
その光がどんどん小さく遠ざかって行く。
アカツキは急速浮上に入った。
「焔を発現させる精神力を維持した上で、障壁まで達しなくてはならない。如何にしてそれを成すか……」
ミオはギアの内部を見渡すと、まぶたを閉じた。
どのくらいの時間、黙考していたのか。
少女はやがて薄く眼を開けた。
「そうか……」
少女の声で、ミオは言った。
「闇の中に、闇を作るか……」
唇を歪め、ぞっとするような冷たい笑みを浮かべる。