超能力入門 これで、 あなたも超能力者になれる。?
超能力入門 あなたも超能力者になれる。
そもそも、
人は誰でも皆、生まれながらに、超能力者である。
あなたが生きてること自体がすでにして超能力の世界なのだ。
あなたの存在自体が超能力なのだよ、
が、、それに気づかずに一生を終わってしまう人が99パーセントである。
では、どうしたらよいか?
答えは簡単だ、
「自分には超能力が潜在している」と、、ただ、、虚心・無心に信じればよい、
虚心坦懐に言い切れば「超能力入門」はそれで全部オシマイなのだが、
でもそれではあまりにも、わからないという人のために以下、駄弁を弄しようという次第である。
誰でも?自分が超能力ができたら?っていう
ねがいってありますよね?
まあそれもほとんどの人は、おそらくは。少年時代の一時期であって
やがてまともな?大人になれば忘れ去るべきものでしょう。
でも?ごく一部の人はそれにはまって?ずっと取りつかれて
追い求めるっていうことなんでしょうね。どっかのカルト信者のようにね。
まあ私もどっちかといえば?
そういうタイプの人間なのかもしれませんが、、?
さて前置きはこのくらいにして、、
では本題に入ります。
そもそも、、
一体超能力って、誰でも身につくものなんでしょうか?
世の中には、「誰でも超能力者になれる」とか
「超能力は誰でも手に入る」
みたいな、、、「とんでも本」が満ち溢れていますよね?
まるで「キリストは青森で死んだ」とか
「日本人のルーツはユダヤ人」みたいな
いわゆる『トンデモ本』ですよね。
私も、少年時代、魔術師になりたいとか
超能力者になりたい、、と思って
田舎町の一軒しかない本屋に通ってその手の本をあさっては読みふけったものでした。
その心境とは?
今にして思えば、田舎町の閉塞感からの少年らしい脱出願望?が本義だったのでしょうね。
私の生まれたのはいつも描いている通りに、
森は豊かに生い茂り、雑木林には目白の巣があり
小川には砂金掘りの伝説もありそんな自然と渾然一体の山村でしたが
もっと異世界というか
魔法世界というか
そういう希求は少年心に帰来してやまなかったということでしょう。
私はランボーに熱中し
ドイツ浪漫派に取りつかれ
角川文庫の魔法書を読み漁り
やがては密教の加持祈祷に魅惑され
心霊科学 (スピリチャリズム)の新書本も買いあさり
たま出版のそういう系の本も買い集め
エドガー・ケーシーに熱中し、
大陸書房のその手系の本もいっぱい買いました。
どんな本なのかと言えばそれは「神秘学大全」の書籍目録に書いた通りですよ。
裏山にこもって修行もしましたよ。
独学でね。
修行と言っても実は二つしか方法はないのですよ。
瞑想と真言、
しいて言えばもう一つ、荒行(行法)、、ですね。
阿字観やヨガや禅、気功法、呼吸法などのメディテーション
真言、読誦、読経、印を切る、お曼荼羅を唱える、、、
修行法ってこの二つしかないのです。
それからもう一つ「行法」がありますがこれは誰でもできるものではない。。
行法、、
荒行
滝行
水行
千日回峰
断食、、これは地獄を見る訓練?行法ですね。
太極拳
躁体術
ハタヨーガ
苦行
などなどですね。
私は荒行系以外はしてみたのですが
まあご覧のとおり?
超能力は覚醒できずに
いまだに平凡な庶民のままでしたよ?
「おいおいそんなお前が超能力入門って?ふざけんなよ」、とお叱りの声が聞こえそうですが、
まあでも、
今こうして老いぼれて可もなく不可も無く、無事に命長らえてこられたのも、
どっぷりと、のめり込まずに
変な、新興宗教の罠や
カルトの誘惑にもかからなかったのも、超能力のおかげ?だったからだということなのでしょうね。
まあ一種醒めていた、、というか悟っていたというか?
「どうせ、魔法なんてインチキさ、、」
という、開き直り?があったためでしょう。
当時書店には、いかにもいかがわしい?胡散臭い?ひげぼうぼうの不潔感漂う教祖様が
空中浮揚している本が並んでいましたよね。
私は一見して「これはインチキだ」と直感しましたね。
この直観も、もしかしたら?私の超能力?
というわけでそんな本は買うことも無く、
ましてとじ込みの読者返信はがきも送ることも無く
引きづり込まれることもなかったわけでしたが。
聞くところによると、、、、
綴じこみはがきを送ると、後日きれいなお姉さんが自宅に訪問してきて
「私たちのヨガ教室に行きませんか?」
と、、にっこりと誘われたそうですよね。もし行ってたら?
今頃はⅤⅩガスでポアされてたかも?
オオ コワイ コワイ
私は疑グリ深い性質でしたから
新興宗教とかには一切興味はなくて
ただ一筋に先のような書物で、
「独学系」でしたがね。
そういうわけでこの手のオカルト本はたくさん買いましたし読みふけりました。
とはいえ私も馬鹿じゃないので、見分けをつけて目にかなったものしか買いませんでしたよ。
あの教祖浮揚とか
念力で護摩火をつけるとか
そういう新興宗教系は「インチキだ」と直感しましたので
一切そういう本は買もしないし読みもしません。
私が独学で研究したのは
主として、、、、、
スピリチュアリズム、超心理学系,古史古伝系、超医学、ヒーリング。チャネリング。
魔法。オカルト、宗教系、精神世界、ニューソート・ニューエイジ系、霊言、啓示、
ヨガ、気功、鍼灸、漢方、幻想文学。哲学系、神話系、仙道系、タオ系、古神道系、
密教系、陰陽道、修験道。キリスト教系神秘主義、古代秘教系、占星術、整体、
総合医学、催眠術、民間療法、自然医学,アーユルベーダ医学、新興宗教系
民間霊能者、各種占い系、
などなど多種多様なものまで含みます。ある程度のトンデモ本?系もありますね。
それらの広大無辺なる神秘学の大荒野から?
あくまでも私が参照して意義があった?、、とおもわれるものに限り咀嚼して身に着けた?ということです。
これら以外にももっと有益な?神秘学系及びその周縁の文献はたくさんあるだろうことは認めますが、
じゃあ、
「それはどんなものか?」
と私に問われてもお答えすることはできかねますので、
それは各自でお探しください。
ところで、、
わたしなりの観点で、いかにも疑わしい?、?それらしいやらせ?
まさに誰が見ても?明らかに「トンデモ本」?と思われるようなガセものは
当然、除外してあります、
とはいえ、、じゃあ私が読んだオカルト本すべて
完璧に信用できるものか?と問われれば、、、、、、
それは、「あなた自身の責任でお読み下さい」。ということです。
ま、とはいえ、、神秘主義の神秘主義たるゆえんは、言語(書物)のその向こうの彼方を目指すものであり、
そもそも、本とか経典とか、そんな言語媒体を越えたところにあるのが
神秘学の本筋ですから、、こういうオカルト本などほんとは、無くもがな、?なんですが、
本なんかまったく知らなくったって?
ピンとくる人は来て、、サトリへの階梯を辿りうるのでしょうね?
本(言語媒体)はあくまでも神秘主義への入口であり、きっかけにすぎません。
いつまでも本やら、経典やらに、こだわったり、
その次元にとどまっていてはいけません。
本を越えて
経典を超越して、
遥か虚空まであなたの魂を飛翔させて、、、
それから先、あなたがどう啓示されるか?
どう魂を進化させるか?
宇宙と合体させるか?
神と融合するか?
ま
神秘主義ってそもそも、そういうものですからね?
そういう意味では
私が買い集めて読みふけったこれらの入門書(経典)は、、まあしょせんは
「月を指し示す指」であり
「扉を叩く瓦片」
でしかないという真理、、奥義でしょうね。
本当の目的地は月 (サトリ)であり、ただ指(書物)で「あれが月だよ」って指さしてるだけではいけません。
扉を開けること(サトリ)が目的であり瓦片(書物)は扉が開けばもう用はないのです。
どんどんどんと瓦片で扉を叩いて、、そして扉を開けてもらえたら、瓦片はそこらに捨てて
扉の中に入るでしょう。いつまでも瓦片を持ち続けますか?
経典もオカルト本も、悟りへの手段です、
悟れば、、もうそんな本も経典も不要、捨てるべきなんですよ。
神秘学とは、
教外別伝であり
拈華微笑であり
所詮
魔法や
呪術や
祈祷や念力や
霊的治癒や
超能力は
本とか
文字とか
コトバでは伝達不能なのですよ。
だからいわゆる霊能者と言われる人が
盲目の
無学なイタコであったりしてもOK?なのでしょうね。
彼らは無学であるがゆえにそもそも言葉を信じてないし
直観しかないからですよ。
だから最初から体で悟るというか体感するというか
文字通り「体観」するしかないから
コトバを越えて即身成仏?即知できるのでしょうね。
まあ悟りにしても
超能力にしても
コトバでは伝えられない、、と言うことですよ。
ということは?逆に
たとえば
超能力系の本を1000冊読んでみても、、
あるいは
大蔵経すべて
読んでみも、、ダメな人はダメ?
分からない人はわからない
悟れない人は悟れない、、
という事実なんでしょうね?
そして素質?がある人は
たとえば、何気ない自然現象からでも
悟れる?っていう
これが神秘主義の面白いところですよね?
考えてみれば
というか考えるまでもなく
有名な新興宗教の開祖たちはほとんどが
別に瞑想行も
真言読誦も
なあんにもしてないでしょ?
ある日突然目がひらけた?という事実です。
無学なそこらの普通の農夫がある日、
大病をして、死にかかって
その時、ある神の霊言が啓示されて
それで
奇跡的に快癒して、それから神がかりになって
開宗したってのがほとんどでしょう。
彼ら(彼女)らは難解な宗教書なんか一冊も読んだこともない人たちですよ。
というか文盲で本なんか読めない人すら教祖にはいますよ。
結論としては、超脳力修行などは、、、無用の長物だということでしょう。
つまりあたらの学識・知識などは、神秘主義にとっては、かえって害がある?ってことですよね。
無学文盲ではあるが、
一心に信じる、
忘我の境地
神への全托、、こそが
宗教の神髄ですからね。
こういう人でないと、神の啓示も素直に信じませんからね。
そういう意味では私がしたような
オカルト系の書物を乱読したりは、何の超能力修行には利益なしで、
むしろこうした文献や書籍など読まないで?
むしろ、、大病して死ぬ直前まで行って、地獄を、見て臨死して
そこから起死回生のオルフェ的な黄泉がえり体験をして、
生還した方が
霊眼・霊耳、、、超能力は開ける、、のでしょうね?
かくしてそういう臨死体験や
地獄体験がきっかけで
霊能力の眠れるスイッチが、ONになり、
あなたの眠れる霊能力を開花させて、
見えない「ハイアー・ヴィジョン」が見えるようになり
聞えない霊言が聞こえるようになる。
超能力開花、、ということなんでしょう。
超能力書をいくら読んでも、
いくら修行なんてしてみても、無用?だという事実ですよ。
でもそういう起死回生の臨死体験や地獄体験から
急に霊能力が身に付くと。
最初はとにかく驚いてしまって
「俺は悪い霊にとりつかれたんじゃないか?」って
怖くなるそうですよね。
悪い霊が見させる
幻視?
幻聴?
幻影?
なんじゃないか?
まあ確かに瞑想修行者が
よく言うように
「魔境に入る」という現象がありますね。
少しばかりの瞑想修行してると
突然観音様が現れて、「お前はサトリに至りました」、、等と
お告げしてくるというのです。
これでいい気になって?
その幻影についてゆくと
そのうちに
「あいつを殺せ」だとか
「金盗め」だとか
その偽の観音様がトンデモないようなお告げ?を
してくるというのですね。
これが修行者が惑わされる「魔境」です。
まあ、たぶらかす悪霊のいたずら?だったというわけです。
だからそのあなたに霊言を告げる神様がほんとの神様なのか?
正直、、判別は難しいです。
まあ?
そういうニセの霊言も含まれてる場合も多いことは確かですけどね。
幻聴ではなくて
幻視ではなくて
これはほんとの霊言
啓示だろうか?
多くの新興宗教の教祖がこうした神に自分自身が選ばれたことへの悩みました。
でも最終的に
彼らはそれをほんとの神の降臨と信じた、
いや、信じざるを得なかった。
だから、こうして新興宗教が今続いているわけですよね?
結論
超能力を覚醒させるには、修行など無用である。
その手の本も読む必要なし。
というか、、読んでも、、修行してもダメな人はダメだから。
まあいってしまえば
超能力や
霊験開眼は
偶然というか
ふとしたきっかけで
というか
或いは生来の、、霊媒体質で、、
ということです。
そういうわけで、老婆心ながら神秘学を研究せむとする諸兄への忠告としては
〇ことごとくオカルト系書物を信じれば書物、無きがごとし。
〇万巻のオカルト書物を読んだ人よりも、なにも読まなかった人を恐れなさい。
〇むしろオカルト系書物を絶てばある日突然霊眼が開花するかも?、
〇ありきたりの超能力の修行は、無益、無意味。無用である。
偶然か
宿命か
いずれにしても
その時が
来るのを
ただ
待つしかない、、
ということです。
付記
具体的に超能力とはどんなものがあるのか?
超人化、
未来が見える。
高度な知能。
ヒーリング能力
霊が見える
呪術師能力
念力
透視
不老不死
物体移動
錬金術
予知
時間旅行
テレパシー
発火
水を酒に変える
死者を蘇生させる
迷宮事件を解決
神の言葉が聞こえる
宇宙霊とのコンタクト
前世が見える
霊を呼び出す
呪殺
空中浮揚
川を素足で渡れる
変身
と、、
こうして
なんか列挙してみると
つくづく、
インチキ臭い?モノばかりですよね?