宮廷画家と竜舎番の出会い:1
花の香りを含んだやわらかな風が吹き抜ける。青く透き通る空には絹糸めいた雲が細くたなびき、地面に降り注ぐ陽光は温かかった。ノワルメル王国は春の真っ只中にある。今日は日向ぼっこにはうってつけの快晴である。城下町を歩く人々の顔は明るく、洗濯紐にかけられた色とりどりの洗濯物がひらひらと翻り道行く者の目を楽しませている。
しかし王城の庭にある四阿に腰を下ろし、じっと足元を見つめる若者の顔は昏かった。燃え盛るような赤い髪にエメラルド色の瞳。身長は高くも低くもなく、お世辞にもハンサムとはいえないが優しげな顔立ちをしている。彼の名はジミグ・ネヴァ。王城に仕える宮廷画家の内の一人である。
ジミグは今年で二十になる。彼が宮廷画家になったのは十五の時だ。最年少で宮廷画家となったジミグは素晴らしい才能の持ち主であり、彼の絵は数多の人間を魅了してきた。
ジミグは子供の頃から勉強などそっちのけで絵ばかり描いてきた。絵を描くことが好きだった。周囲の人々は彼の描く絵を見て神童だの天才だのと持て囃したが、ジミグは周囲の思惑や世間の評価には全く関心を払わなかった。
絵を描くことのみを幸福とし、それ以外はすべからくどうでもよかった。宮廷画家になったのも好きなことだけして一生を終えられるなら本望だと思ったからだ。しかし宮廷画家になってから五年目にして、ジミグは人生最大の苦悩に直面していた。
(どうしたらいいんだろう……)
ジミグは生まれて初めてスランプに陥っていた。筆を握っても何も出てこない。イメージが湧かない。真っ白なキャンバスに線を引いてみても、絵具を垂らしてみても、形にならない。ただ無駄な時間が過ぎていくばかり。
こんなふうになってしまった原因はわかっている。ジミグはずっと描いて、描いて、描き続けてきた。自分が描きたいものを、周囲に望まれたものを、描き出してみせた。だから多分、描き尽くしてしまったのだと思う。
描きたいものが見つからないのだ。どんなに美しいものを見ても心が動かない。感情が揺さぶられない。
感性が衰えてしまったのではないかという不安と焦りがますますジミグの目を曇らしていき、絵を描く気力がもはや生み出されなくなっていた。最後に絵を描いたのは半年も前のことだ。
城を出ていこうかとも思う。絵を描けなくなった自分が宮廷画家としてここに残ることは許されない。
(陛下、申し訳ありません。僕は……)
この国の王は即位して日が浅い。年が近いせいもあってか彼はジミグの絵を愛し、よき友人となってくれた。彼がジミグにくれた「お前の絵を見ているとな、幸せな気持ちになるんだ」という言葉は一生の宝物だ。だからこそ、彼の名誉を汚すような行いをジミグがするわけにはいかない。
国王が絵が描けない宮廷画家を城に置いていると噂になれば、いい顔をしない者も出てくるだろう。国王は男色であり寵愛人事を行っているとあることないこと吹聴する輩も。
宮廷画家の給料は国民から徴収した税で賄われている。給料に見合う働きが出来ないジミグが宮廷画家の肩書きを名乗るなど到底許される所業ではない。
(明日になったらここを出ていこう)
田舎に引っ込んで静かに余生を過ごすのだ。幸い金には困っていない。この年で仕事を辞めても食べていくことは出来るはずだ。
ジミグが決意を固めて顔を上げた時、視界の端に黒い塊が映り込んだ。
「んん?」
今のはなんだろうとジミグは黒い塊に目線を向け、驚愕した。
「竜だ………」
目と鼻の先に竜がいた。バサバサと翼をはためかせて宙に浮いている。つぶらな瞳はじっとジミグを見つめており、彼と目が合うと竜は可愛らしく首を傾げた。
「すごい、竜なんて初めて見た」
「キュウウ」
ジミグは興奮のあまり頬を赤くする。翼を広げた竜は騎士が持つ盾くらいの大きさで、鱗は黒曜石の輝きを放っている。まだ子供だ。成体の竜は馬や熊よりも大きいと聞く。ジミグが思わず伸ばした手に頬をすり寄せてくる子竜はずいぶん人に慣れているらしかった。おそらくこの子竜は野生ではない。城で育てられている一匹が庭に迷い込んできてしまったのだろうとジミグは推測した。
「迷子なら竜舎に届けてやらないと」
ノワルメル王国の騎士団は王国騎士団と竜騎士団とに分かれている。王国騎士団は身分問わず広く門戸を開き、やる気と才能のある若者を受け入れている。しかし竜騎士団となるとそうもいかない。竜騎士団は精鋭中の精鋭が集められた組織である。騎士道を重んじ、忠義に篤く、誇り高く、何よりも竜と心を通わせた者だけに竜騎士の称号が与えられる。なりたくてなれるものではなく、竜騎士に至るまでの道のりは遠く険しい。
王城では竜騎士の騎竜となる竜が育てられており、竜の生態をよく知る者が飼育係としてその任務に当たっているのだ。
今頃、竜舎番たちは顔色を変えて子竜探しに奔走していることだろう。体躯は小さくとも竜は竜だ。いついつ本能を剥き出しにして人に襲いかかるか分からない。
「早く連れて行こう」
ジミグは腕に子竜を抱えて立ち上がった。と、その時。
「チビちゃーん! 出ておいでー!」
鈴を転がしたような澄んだ声が辺りに響いた。子竜がぴくっと耳を動かす。どうやら竜舎番がわざわざここまで子竜を探しに来たらしい。
「竜の子供ならここだ! ここにいる!」
ジミグは四阿から顔を出して叫んだ。腰を屈めて庭の植え込みを覗き込んでいた少女が弾かれたように振り向く。ジミグは彼女を見てハッと息を呑んだ。
「チビちゃん!」
少女は花が咲いたように笑って腕を広げた。子竜がジミグの腕を飛び出して彼女の懐目掛けて飛んでいく。少女は汗だくで前髪が額にぴったり張り付いていた。ずっとあちこち走り回っていたに違いない。
ジミグは彼女の一挙手一投足に注目していた。心底安心したように子竜を抱き締めて笑う少女はこの世のものとは思えない美しさだった。たっぷりとした金色の髪は星の煌めきを放ち、肌は月を砕いて欠片を敷き詰めたかのように白い。瞳は夏の海と同じ深い青色で、唇の色は淡い珊瑚色に染まっている。いや、そんな言葉の羅列ではとても表現できないほど少女は神々しく威厳があり、可憐だった。
ジミグはゴクリと唾を飲み込む。ある衝動が、欲求が、心の奥底から溢れ出してくる。それは久しく感じていなかった思いだ。
「君の絵を描かせてくれないか!?」
気付けば考えるよりも先に言葉が口を衝いて出てしまっていた。少女はジミグの勢いに目を丸くする。
「へ?」
「頼む! どうしてもどうしてもどうしても君の絵が描きたいんだ! もちろん君の時間を拘束する代価としてそれ相応の額を用意するつもりでいる! 君の絵が描けたなら僕は、僕は……っ」
彼女の絵が描けたならそれはジミグ・ネヴァの最高傑作になるだろう。彼女の美しさを絵に出来たなら、もう何も思い残すことはない。
ジミグは必死になって頼み込んだ。しかし少女は驚きから立ち直ると冷めた目付きでジミグを眺め、言い放った。
「悪いけどお前の相手してる暇ねーから」
あまりにも不似合いな柄の悪い言葉遣いにジミグは一瞬気が遠くなった。その間に少女は背中を向けて立ち去ろうとする。ジミグはすぐに我に返り少女を追いかけた。
「待ってくれ!」
「知るか! つか離せ! 服引っ張んな!」
「嫌だ! 僕は諦めない! 絶対諦めないぞ! 頼む! 君が忙しいっていうなら、そばにいさせてくれるだけでもいい!」
「気色わりーんだよ!」
「頼む!」「嫌だ!」「頼む!」「嫌だ!」の応酬をジミグと少女は竜舎に辿り着くまで繰り広げた。騒ぎを聞き付けた竜舎番の責任者は子竜を抱えた部下と、部下に縋りつく若者を見て「なんだありゃ」と首を傾げるのだった。