晴れ、または雨。
その日は雨が降っていた。
本当はどうか知らない。
ひょっとしたら、晴れてたのかもしれないけれど、でも、私にとってその日は雨だった。
朝起きて、顔を洗って歯を磨く。ぼんやりした顔の私が鏡に映っていて、なんとなく、目をそらした。制服に着替えて、脱ぎ散らかしたパジャマはベッドの上に放置してカバンをつかむ。
机の上においておいた小さな紙袋も、少しためらって持っていくことにした。
朝食を食べる元気はなくて、それでも牛乳だけは飲んで家を出た。
のろのろと道を歩く。周りにはちらほらと同じ制服を着た人がいて、朝の少しだけ騒がしい通学路を私は無言で通り過ぎることに集中していた。
「おはよう」
急に後ろから声が聞こえて、振り向けばそこにいたのは見慣れた笑顔。
黒い髪に黒縁のめがね。第一ボタンまで留めた詰襟の上に、大分色あせたパーカーを着た彼の手には、相変わらず傘が一つ。
「……おはよう」
言って、また歩き出せば彼も隣を歩き出す。何かをしゃべるわけではない。一緒に行こうって、言われたこともないし、言ったこともない。
でも、なんとなく一緒の速度で歩いて、一緒に教室に入る。それは習慣のような物で、別に彼がいなくても私はなんとも思わないのだけれど、そうなったらやっぱりすこし、淋しいのかな、と思う。
そうなったことがないから想像するしかできないけれど。
学校までの長いようで短い距離を、そうしてお互い無言で歩き、一緒に教室へ入る。その間、何度も手元の紙袋を見たけれど、手放すことはできなかった。クラスのみんなはもう、一緒に登校してくることに慣れてしまっていて、「おはよー」の応酬をするだけ。
自分の席に着けば、近くでしゃべっていた友達が何人か寄ってきた。挨拶をして、それから昨日のテレビのことだとか、宿題のことなんかをとりとめもなくしゃべる。特別楽しいわけじゃないけれど、無いとそれはそれで淋しい。だから、ただなんとなく話をあわせて、みんなが笑えば私も笑う。
そんな風にしながら、ふと前の席を見れば、彼は机に突っ伏して寝ていた。
お昼ごはんは友達同士で食べる。机を寄せ合って、他愛も無く話しながらのお弁当は楽しい。
「そういえば今日ってさ、辻の誕生日じゃなかったっけ?」
友達の一人が不意にそんなことを言ったのは、私が玉子焼きに箸を突き刺したときだった。瞬間的に未だ机の中に隠しっぱなしの紙袋を思い出してしまった。
しかも「でしょ?」と私に話を振るものだから、つい力んでしまって玉子焼きが原型を失って粉々になった。ごめんよ、玉子焼きさん。
「……そうなんじゃ、ない?」
とりあえず無難に返事をして、無事なアスパラのベーコン巻きを口に放り込んだ。結構好物だったはずなのに全然味がしなくて、いつまでももごもごと噛む。
ちら、と視線を向けた先には、名前の上がった、相変わらずひとりで大量のパンをかじっている彼。机の上にあるのはやきそばパンとかコロッケパンとか、そういう所は男の子っぽいよなぁ、なんて思うけれど、手元にフルーツ牛乳を見つけて少し笑った。
「じゃあ今日は遊べないねぇ」
「放課後みんなでドーナッツ食べに行こうかって話してたんだけどねー」
「え」
なんで? と首を傾げる私をよそに、女の子の会話はハイスピードで進んでいく。
「だって彼氏の誕生日なら、放課後はデートするでしょ」
「そうそう」
「……」
何を当たり前な、という顔で言う彼女達。
気を使ってくれるのは嬉しいけれど、間違ってる。すごく、間違ってる。
「あの、付き合ってるとかじゃ、ないよ……?」
「えっ?」
おずおず、と切り出してみれば、案の定みんなのおしゃべりが一瞬止まった。私と彼を見比べて、目をぱちぱちする彼女は可愛い。
「でも、毎日一緒に登校してるじゃん」
「たまに二人で話してるし、付き合ってるもんだと思ってたけど」
「てか、二人が付き合ってるのはクラス中知ってるし」
沈黙は数秒で終わり、興奮して少し声が高くなった彼女達は「嘘だ」とばかりにまくし立てる。
嘘だといわれても、本当に付き合ってはいないのだから仕方ない。
確かに一緒に登校してるし、たまに一緒に帰るし、教室の中で話もするけれど、他意はない。なんとなくそうなって、なんとなく、ずっと続いてるだけなのだから。
そう話したら、彼女達もなんとなく不服そうだけれど納得してくれて、私たちは再びお弁当をつつきだした。
「じゃあさ、放課後ドーナッツ食べに行く?」
「駅前に新しくドーナッツ屋できたじゃん。そこにいこうかって言ってたんだよね」
なんか評判いいみたいだしさー、ときゃらきゃら話し出す彼女は、もう私が彼と付き合ってるかどうかという話題からそれて、新しいドーナッツの話に花を咲かせていた。
正直ドーナッツ屋はどうでもいいけけれど、なんとなく頷いておく。女の子の会話スピードは速い。乗り遅れないように、でもお弁当も食べつつ話すのはもう慣れて、あとはひたすら何も考えずに過ごした。
チラリと見えた彼の背中に、うっかりあの紙袋のことを思い出したけれど、無理やり頭の隅に押しやった。
帰りのホームルームが終わって、友達の掃除当番が終わるのを教室で待つことになった。応接室の掃除は特別時間がかかる。校長先生の趣味で毎日ソファーやら机やら、トロフィーなんかを磨かされるからで、気付けば教室には私だけが座っていた。
することもないので荷物をカバンにしまう。机の中に手を突っ込めば、がさりと音がして、入れっぱなしの紙袋が出てきた。
(どうしよう)
やっぱり持ってくるんじゃなかった。そう思って紙袋をじぃっと見つめる。
淡い水色の、小さな紙袋。中には一ヶ月前から悩んで決めた、少し灰色がかった水色の折り畳み傘が入っていた。
(これじゃあ付き合ってるって言われても否定できないよね)
男の子に誕生日プレゼントを渡すなんて、本当に彼女みたいだ。付き合ってなんかないけれど、なんとなく用意したプレゼントは、買う前も買ったあとも私を悩ませる。
とん、と机の上において机に突っ伏す。なんとなく、朝の彼の姿とおんなじ格好になってるなぁ、と思って、でもいいや、と紙袋を見つめ続けた。
「……なにやってるの?」
急に声が聞こえて、慌てて飛び起きる。見上げた先には、帰り支度をしている彼。
頭の切り替えが追いつかなくてあわあわしている間に、彼は自分の椅子に後ろ向きに座って、じっと私を見つめていた。
「誰か待ってるの?」
「あう、う、うん」
「ふぅん」
「つ、辻君は今から帰るの?」
机に突っ伏していたことで少し乱れた前髪と制服を直しつつ、そう言えば彼は「うん」と頷いた。そっか。そう言えば会話は終了。いつもどおりの沈黙が訪れた。
けれど、その沈黙は少ししか続かなかった。珍しいことに、彼は視線を机の上の紙袋に移し、「ねぇ」とそれを指差す。
「これ、どうしたの」
「えっ!?」
急に聞かれて、どきりとした。うっかり声がひっくり返ったけれど、彼は「ねえ」と回答を求める。
(どうしよう)
返答に困る。ここで誕生日プレゼントといえば、一ヶ月前からの悩みはあっさり解決すると分かっているけれど、でも私は彼女とかじゃないし、受け取ってもらえないかもしれないし、とぐるぐる考えてしまって、答えが喉に突っかえる。
こういうときに話を変えることもできず、適当にはぐらかすこともできず、どうしようどうしようと焦れば焦るほど声が詰まって、頬に熱が溜まる。
「……まぁ、いいけど」
ぐるぐると空回りする頭に、ぽすりと大きな手が乗っかった。
確認するまでもなく、それは彼の手で、彼はときどきこうして頭をなでる。なんでも「ちょうどおきやすいところに頭があるから」という理由だそうで、そうされると私の頭は一瞬で冷静さを取り戻すのだった。
しばらくそうして無言で頭をなでられていると、ポケットの中が震えた。
携帯を取り出して見てみれば、待ち続けていた友達から「掃除終わったから校門の前で待ち合わせ!」とメールが届いていた。「了解」と返信して、机の横に掛けてあったカバンを手にとる。
「待ち人?」
「ん。じゃあ私行くね」
言って立ち上がる。机の上においていた紙袋を手に取れば、彼もまたゆっくり立ち上がった。
お互いに何も言わないけれど、なんとなく暗黙の了解みたいに隣を歩く。何も言わないけれど、そろった足音に安心感を覚えたのはいつの頃だっただろう。気付けば彼は隣にいて、なんとなく一緒にいて、なんとなく、一緒に歩いている。
「ところでさ」
思い出したかのように話しかけられたのは、誰も居ない廊下を歩ききって、玄関前のロビーに入った頃だった。
「今日、誕生日なんだ」
「――ふぅん」
失敗した。
知ってるよって言おうと思ったのに、そうしたら話の流れであっさりプレゼントを渡せたかもしれないのに。
「だから、ちょーだい」
思わずうつむいた視界に、ぬ、と手のひらが入り込んできて、思わず顔を上げた。
視線が合ったその顔はうっすら笑っていて、その視線はそのまま私の手元、小さな紙袋に移動する。
どきんと胸が高鳴るのが分かった。多分顔は赤いだろう。そんな状態の私を見て、彼はまた私の頭をなでた。
「それ。プレゼントでしょ」
確信的なその言葉に、私は小さく頷いた。そうすれば「やっぱり」と嬉しそうな声が聞こえて、また顔の温度が上がるのが分かる。
何もいえないままそっと差し出した紙袋を、彼は嬉しそうに両手で受け取ってくれた。見てもいい? と断ってから開ける彼を見上げながら、少し不安になる。
(気に入ってくれるかな)
がさがさと紙袋から折りたたみ傘を取り出した彼は、ちょっと驚いて、それから嬉しそうに笑った。お日さまみたいだな、と思う笑顔を向けられて、私は少し落ち着いた顔の温度が、また上昇する。
「ありがと、な」
言って、また頭をなでられる。笑顔はそのままで、そのほほが少しだけ赤くなっているのを見つけてしまった。
「……ど、どうしてそれがプレゼントだって、わかったの?」
なでられて、お礼言われて、恥ずかしくて聞いてみると、また頭をなでられた。
「大事そうに持ってたから。わかるよ」
「……そう、なの」
いつくれるのかなと思ってた、と恥ずかしそうに頬を掻く彼に、なんだか返答に困ってうつむいた。
会話がなくなって、どうしようと焦るとまたポケットが震えた。今度は少し長くて、それが電話の着信だと分かる。
画面を見れば、電話は友達の一人からだった。多分降りてくるのが遅いから、心配してるのだろうと思う。
ちらり、と彼を見れば、「どーぞ」といわんばかりに笑った。だから、頷いて通話ボタンを押す。
「あ、やっと出た。遅いよー」
「うん、ごめん」
「どうしたのー?」
「……ん、ごめん。私今日、遊びに行くのパスする」
「えー」
「また別の日にしよ。そのときはドーナツ一個奢るからさ」
「んー……しかたないなぁ。デート楽しんでおいでよね!」
「えっ!?」
ちょっと、と言おうと思った途端に通話は切られてしまって、つー、つー、としか言わなくなった携帯を呆然と眺めるしか出来なかった。
「どうしたの」
「……うん」
そう聞かれても、返答のしようがない。
どう答えればいいんだ。デート楽しんでおいでっていわれたとか、いえない。恥ずかしすぎる。考えただけで顔の温度が上昇して、とうとう耳まで赤くなった気がする。
その様子が面白いのか、彼は少し首を傾げつつ、くすっと笑った。
「いいの? 遊びに行くんじゃなかったっけ」
何もいわなくなった携帯を力なくポケットにしまうけれど、顔を上げる勇気はなかった。
というかなんで遊びに行くのを知ってるんだろう。
「お昼に話してたから」
思ったことが声に出ていたのだろうか、というタイミングで言われて、思わず顔を上げた。
彼は少し目を細めて、「分かりやすい顔してる」と笑う。
「……帰るか」
ぽすん、と頭をなでられて、恥ずかしさに思考回路が飛んでいた私は促されるまま靴を履き替えた。
ふらふら歩く私に、彼はいつもどおりとなりを歩いてくれて、少しずつ頭が冷静さを取り戻していく。視界の隅っこに、校門から笑いながら出て行く友達の姿を見た気がして、明日はきっと質問攻めにあうんだろうなぁ、と思った。
でも少しも嫌だな、とは思わなくて、なんとなく、嬉しいと思った。
そんなことを考えていたら、そっと手を何かに包まれた。
見れば彼の手が、私の手を優しく握っていた。
「かお、真っ赤になった」
「……そっちこそ、みみ、あかいよ」
うぅ、と唸って顔を隠すように俯けば、彼は立ち止まった。なんだろう、そう思って顔を上げれば、視界をキレイな空色に覆われる。
「雨、降ってないよ」
「そう? まぁ……いいんじゃない?」
そういって、彼は自分の持ってた傘を広げた。
私は真っ赤になった顔を隠すように、深く傘をかぶって、それから少しだけ、笑う。
つないだ手は、なんとなく、そのままにして歩き出した。
2017/3/14 誤字修正