第七話 彷徨
昨日予約掲載の設定をしたのですが上手く掲載されませんでした。
でっ、今年最後の投稿です。
第七話 彷徨
「真珠湾攻撃を終了させ、昭和16年(1941年)12月23日、第一航空艦隊は広島沖の柱島泊地へ帰投します(ウェーク島攻略支援に向かった第二航空戦隊と護衛の艦艇は29日帰還)、艦載機に損害は出たものの艦隊の各艦には損害は無く大戦果を挙げたと言えるでしょう。
その後、第一航空艦隊は一度補給と補修を兼ねた休息をとり、翌年1月になると南方作戦参加のため第一、第五航空戦隊はトラック伯地、第二航空戦隊はパラオ諸島へ順次出撃しています。」
「緒戦の勢いを生かしての南方の資源地帯を攻略という大局的観点はわかりますが、ラバウルを初めとしたソロモン諸島にモルッカ諸島、ついにはオーストラリアと範囲を広げすぎている感じがしますね。」
ローウェル少佐は私の説明に対して、相変わらず淡々と事実を述べて感想を述べてくる。しかしながら彼の指摘は事実であり、当時、航空戦隊の各所で語られた不満と不安と合致するものであった。
日本軍の南方侵攻は開戦当初から決められたものでした、いや、この主目的の為に米国の妨害を排除するために行われたのが真珠湾への攻撃であり、敵主力艦隊の撃滅でした。
一時の休息の後、年が変わると航空艦隊は航空戦隊とその護衛艦隊に分けられ、5日に第五航空戦隊、12日に第二航空戦隊そして15日には第一航空戦隊がそれぞれの護衛艦隊を率いて出航していきました、「草薙」もまた第二航空戦隊に護衛として参加、「八坂」「八咫」もそれぞれ別の航空戦隊へ一時的に編入されています。
こうしたやり方は航空艦隊を創設したときから行われており、基幹の航空戦隊と直援の駆逐艦以外は他の艦隊からの借り物としていました、これは編成に柔軟性を持たせられる代わりに命令の伝達に支障が出たり思想統一に苦しむなど問題点も多かったと聞いています。
日本を「蒼龍」「飛龍」の第二航空戦隊を基幹とした第二空襲部隊として出撃した「草薙」は18日にはパラオ諸島に到着、戦隊は21日には出航してモルッカ諸島アンボン島の州都アンボンを空襲し港湾や船舶を攻撃しています。
護衛の「草薙」大きな仕事は無く、日々実戦の中で訓練に明け暮れる日々だった言われていますが、先に記したように講義好きな松田大佐の影響か、日が沈み涼しくなると上甲板のあちこちで各分隊ごとあるいは小隊ごとに車座になって講義を行う姿があったと乗員たちは後に語っています。
第二航空戦隊以外の戦隊は第一空襲部隊を編成、ラバウル、カビエンへの攻略支援を行っています。
1月28日には戦隊はパラオへ帰投、この後、戦隊は南方部隊へ編入、2月15日にはパラオを出航してポートダーウィン攻撃に向かう他の航空戦隊と合流、オーストラリア北方海上を目指しました。
第一航空艦隊によるポートダーウィン空襲に先立ち、米海軍の機動部隊によるマーシャル諸島へのゲリラ的攻撃が行われ、第五航空戦隊が対応のため引き抜かれて東方哨戒任務に向かっていました、このためポートダーウィン空襲に投入された空母は正規空母四隻となっています。
2月19日、オーストラリアの北西、チモール海に到達した艦隊は188機の攻撃隊を発進させましたが、ダーウィン港周辺に敵艦船の姿は無く港湾施設や船舶を攻撃、これを破壊もしくは撃沈した。
作戦を終了させた艦隊は2月21日にセレベス島スターリング港へ入港、補給と短い休息の後、ジャワから逃亡する連合軍艦隊の補足撃滅の為に25日にスターリング港を出航してインド洋へ向かったが、既にスラバヤ沖海戦の結果、米英蘭連合軍艦隊が全滅していたため航空艦隊に出番は無く、唯一「八坂」「八咫」が敵艦船への砲撃を経験したのが成果と言えるのが実態でした。
このように当時、西太平洋方面に航空艦隊を投入しなければ対応できないような敵勢力は無く、意味も無く貴重な航空艦隊を浪費する軍令部や連合艦隊司令部、特に山本長官に対する不信や不満、或いは不安を当時の搭乗員や乗員が記した手記や回想に見受けられるのは当然の結果ではないでしょうか。
この後も航空艦隊は軍令部や連合艦隊司令部の思惑のまま東奔西走する日々が続き、ついにはインド洋にまで第一航空艦隊が派遣されることとなりました。
3月26日、第一航空艦隊はパラオ港で座礁し修理の必要な「加賀」を呉に戻し、残る5隻でセレベス島のスターリング港を出港、インド作戦へ参加するためインド洋へ向かいました。
表向きはイギリス領であるインドへ侵攻することでイギリスの後方撹乱を期待する同盟国ドイツからの要請に応える形で行われたが、内実は陸海軍共に消極的であったため一番目立つ戦力である航空機動部隊を投入してお茶を濁して終わらせたい軍令部の意図が窺えるこれもまた意味の無い(貴重な航空艦隊を投入すると言う意味で)作戦であったと言われています。
こうした不本意な作戦に投入された航空艦隊ではあったが、その働きは目覚しいものがあった。
4月5日のセイロン島コロンボ空襲を皮切りに、空母1隻、重巡2隻、軽巡2隻、駆逐艦1隻、哨戒艇1隻、船舶26隻撃沈、軽巡1隻、船舶23隻大破、航空機撃墜120機の戦果を上げたと当時の大本営は発表しています。
この戦果は実際より若干多くはありますが確かに大戦果といえるでしょう。
特に4月9日の空襲ではセイロン島近海より退避中の空母ハーミーズと駆逐艦ヴァンパイアを補足、撃沈した際の急降下爆撃の命中率は最も高い「蒼龍」隊においては78%となっており当時の平均的熟練搭乗員の命中率25%を大きく超越していました。
しかし、終始一貫して明確な作戦目標を持たない作戦は結果的に追い込んだ英国東洋艦隊の主力撃滅に失敗し戦略的には大きな意味を持たないものとなっていましました、後に淵田中佐は一つの作戦をこなす度に神業級の力量を持つ熟練搭乗員が少しずつ失われ、代わりに見慣れぬ力量も不確かな新人が配属されてくる現状を激しく批判しています。
この作戦でも零式艦戦4機、99式艦爆10機、97式艦攻2機が失われています。数字としては戦果に対して極めて少ない数字ですが、旗艦「赤城」に奇襲をかけたウェリントン爆撃機を撃墜した際には指揮官機である飛龍分隊長である熊野澄夫大尉が防御砲火で撃墜され戦死するなどしています。
「確かに。当時の日本軍のパイロットは恐ろしいまでの力量を持っていました、何処の国でも教官が務まるレベルですよね。」
そこまで話して久しぶりにローウェル少佐が素の感想を口にした。
「それは、単にそれまで戦争していた軍の優位性というやつです。」
「それは?」
「当時すでに我が国は中国との戦争を行っていました。多くの搭乗員は太平洋戦争開始以前に実戦を経験、其れなりの修羅場を潜り抜けてきていたのです。未だ戦争の経験の無い米軍搭乗員に対して優位に立てたのはそうした事実があったからです。
我々が特別優れていたわけではないのです、長い時間を掛けて育ててきた珠玉のごとき戦力を磨り減らしながら得たのが緒戦の勝利だったのです。」
「そんな、珠玉の秘宝を使い果たせば、あとはジリ貧というわけですね。」
私の説明に納得したのかローウェル少佐は頷いた。
「後は若者たちの命を使い潰すしかありませんでした、
私も技術士官とは言え軍人です、
私にも“軍人は死ぬのも俸給の内”と言う意味は理解できます。しかしそれは軍人として責務を全うする中での話です、一部の指揮官や司令、政治家のエゴや面子の為に死ぬのは納得できません。
アメリカ軍ではそんなことは・・・?」
「我が軍ではその様なことは無い。
・・・・と言えればどれほど気が楽かと思います。」
ローウェル少佐はそう言って肩を竦めた。
多くの問題を内包した作戦でした。軍令部や連合艦隊司令部、さらに第一航空艦隊司令部でも大きな問題にはされませんでしたが、英国海軍のセイロン島周辺での待ち伏せや主力艦隊のいち早い退避など我が軍の暗号情報が漏れている可能性を疑うべき事例もありました。
またこれに加えて索敵の不徹底であった為、敵艦隊を捕らえることが出来ずせっかくの機会を生かせなかったことなど、先の暗号が解読されていた件も含め情報を軽視する姿勢は相変わらずであり、これが最終的にミッドウェー海戦における大敗北を招く結果となりました。
さらに、作戦方針が二転三転し装備の換装中に敵襲を受け間一髪で危機を切り抜けた事もありました、そうしたことも大勝利の影に全て隠して表に出さず反省も対策も無いまま次の戦場に向かうことになったのです。
当然ですが「草薙」「八坂」「八咫」の三隻も艦隊に配属されインド洋へ向かいました。これまで防空艦としての実力を発揮する機会に恵まれなかった「草薙」ですが、セイロン島沖でついにその機会に恵まれました。
先に記したように旗艦「赤城」が、兵装転換に手間取っている間に密かに忍び寄った英国空軍のウェリントン爆撃機12機が編隊爆撃を敢行、爆弾は挟叉したものの至近弾で終わり実質的な被害は無かった、当時「赤城」の艦上ではトリンコマリー爆撃から帰還した艦攻への魚雷の積み込みが行われており甲板を直撃していたら大惨事なるところであった。
第一航空艦隊の肝を冷やさした英軍機はそのまま逃走を図ったが、彼らは「草薙」の前にその姿をさらす結果と成り、砲術長の秋山中佐の指揮の下、初めとなる生きた敵機に艦首側主砲3基12門が砲火を開いたのです。
秋山中佐の手記です。
「『艦首主砲、対空、討ち方初め。』艦長の命令を艦橋頭頂部の九四式高射装置の指揮官席で聞いた私は、直ぐ『主砲、撃ち~方初め!』を命じました。目の前の九四式高射装置の高角測距儀を覗き込みながら照準を合わせていた射手はその命令を聞いて、各砲塔の状況を確認後ブザーを鳴らしました。
断続音(短)三、長一。
それが鳴り終わると同時に『射ェツ!』と叫び高射装置に取り付けられた射手用の引き金を引きました。
甲高い発射音の後、彼方の敵編隊周辺で砲弾は炸裂、しかし、敵機を有効範囲に捕らえることは出来ず単に編隊をバラケさせただけでした。
主砲は3斉射の後、編隊がバラケた為に撃ち方を停めました。」
折角の機会に「草薙」は実力を発揮することは出来ませんでした。
「高射装置の更なる改良を求む。」
と、戦闘詳報に秋山中佐はは記しています。
4月9日の空襲をもって、航空艦隊を用いたインド洋作戦(セイロン沖海戦とも言う)は終了しました。
艦隊は意気揚々と帰国の途に着きましたが、戦勝気分の艦隊に冷水を浴びせる大事件が勃発したのです。
それはアメリカ軍による初の日本本土空襲でした。
年内最後の投稿です。読んで頂いた皆さん良いお年を。