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南溟の海魔(メールシュトーム)  作者: 雅夢&白鬼
第一章 ある造船技官の回想録
6/13

第六話 号砲

ついに開戦、真珠湾攻撃で太平洋戦争が幕を開けます。

ほぼ史実どおりですが、少し変わっています(誤差程度ですが)。

勿論史実の部分以外はフィクションです。

第六話 号砲


「いよいよ開戦と成る訳ですね・・・。」

 ローウェル少佐はそう言っただけだった。

「はい、11月18日これまで演習のため停泊していた大分県の佐伯湾を機密保持の為時間をずらして出航。機動部隊終結予定地点である択捉島単冠湾に向かいました。」

 私は淡々と事実を重ねることにしました、作戦や海戦には“何故”や“if”の要素が多く、それを言い出したら資料としての報告書が成り立たなくなります。

 ですから客観的な事実だけを私は語ることにしたのです。


「しかし、開戦の劈頭に航空戦力で敵母港を攻撃とは思い切った事をやったものですね。」

 半ば賛美とも取れる物言いでローウェル少佐は、真珠湾奇襲の作戦のみをそう評した。

「一言で言えばそこまで追い詰められていた言うことです。

 “最初に太平洋艦隊の主力を叩く、大打撃を受けて厭戦気分に追い込まれた米国世論を背景に講和を目指す”のが目的の賭けでもありました。

 1940年11月11日の、英海軍によるイタリア軍タラント軍港への空襲を参考に空母艦載機による真珠湾奇襲を考えたのは、連合艦隊司令長官の山本五十六大将(当時)でした。

 これを実際の作戦として策定してのは、第一航空戦隊参謀の源田実少佐と先任参謀の大石保中佐、そしてこの作戦の実施許可を得るために奔走したのが連合艦隊参謀の黒島亀人大佐でした。」


 帝国海軍はこの劈頭の大作戦にあたって、ついに空母機動部隊を編成、構想初期には第一航空戦隊(赤城・加賀)、第二航空戦隊(飛龍・蒼龍)の四隻を集中配備、周囲を護衛の艦隊で守る先の第二艦隊事件を契機に発案された構想を実現していました。

 後に更なる攻撃力向上を狙って新設の第五航空戦隊(翔鶴・瑞鶴)を加えて第一航空艦隊とした、通称南雲機動部隊がここに誕生したのです。

 正規空母六隻を含む艦隊総数22隻、艦載航空機約400機という当時としては類を見ない空前の大部隊でした。これに補給部隊の油槽船7隻と哨第の二潜水戦隊の潜水艦3隻が支援と哨戒に加わります。

 昭和16年(1941年)11月18日、密かに演習のため集結していた佐伯湾を出航した「草薙」は機密保持のため単艦で択捉島の単冠湾へ向かいました。当然作戦へ参加する艦艇は全て同じように密かに単冠湾へ向かっています、これに先立ち秘密兵器の甲標的を搭載した特別攻撃隊の5隻を含めた計25隻の伊号潜水艦が先遣隊として一足先にハワイへ向かっていました。

 単冠湾で補給を終えた各艦は11月26日8時、順次抜錨ハワイに向けて出航したのです。

 作戦の隠密性を維持するため艦隊は北太平洋海上を対潜警戒隊形の第一警戒航行序列で東進します。

 隊形は、横一列で対潜警戒を行う第17駆逐隊の後方に第8戦隊の「利根」「筑摩」が続き油槽船を挟んで第10戦隊、中央に「草薙」左翼に「八坂」右翼に「八咫」の三隻が横一列になって続きます。軽巡「阿武隈」駆逐艦「秋雲」の後方に空母六隻、殿に戦艦の「比叡」「霧島」と言う布陣です。

 連合艦隊司令部はこれに先立ち過去10年間に太平洋を横断した船舶の航路と種類を調べ、その結果から果11月から12月にかけては北緯40度以北を航行する船舶が皆無であることを発見しました。このため艦隊の航路は海が荒れることで有名な北方航路を進むことになりますが、幸いなことに荒れると見られた海は好天が続き洋上の燃料補給も無事に行え順調にその行程を進めて行くことが出来ました。航海長の加藤中佐は航海日誌に「好天、これ天佑なり。」と記しています。


 そして昭和16年(1941年)12月2日(日本時間)艦隊は大本営より発せられた暗号電文「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を受信、12月8日に真珠湾攻撃が決行されることが知らされた。

 この暗号電文受信に遡る12月1日、日付変更線を過ぎた辺りから急に天気が変わります、艦隊後方に低気圧が発生、低気圧の進行方向が艦隊の進行方向に重なった結果、艦隊は波高5メートルを超える大荒れの海に翻弄されながら進む事に成りましたが、結果的にこれは天佑と言える出来事でした。

 大型低気圧の発生を受け、アメリカ海軍がハワイ北方への哨戒を控えたため監視は緩くなり大艦隊のハワイへの接近を許す結果となったからです。

 艦隊はハワイの出城とも言うべきミッドウェー島を避ける形で大きく北に回りこむ航路で当方へ進軍を続けたが12月4日(日本時間)西経175度へ到達したところで南に進路を取り北方海上からハワイ・オワフ島のパールハーバーへ迫ります。

 進路を大きく南に変えたことでこれまで艦隊を覆い隠してきた大型低気圧の勢力範囲から離脱できることが見込まれ艦隊はひたすら南を目指します。

 そして12月6日、艦隊を敵の目から隠してくれていた低気圧は東の海上へ抜けます、天候は回復し海上は波が静かになりましたが、依然雲が厚く垂れ込めていて隠密行動が必要な艦隊には最適な天候となりました。

 明けて7日午前7時(日本時間)、ハワイの哨戒圏内に入りました。

 旗艦「赤城」のマストにはDG旗(有名なZ旗と同じ意味を持つ)が掲げられ、艦隊宛に連合艦隊司令部から発信された勅語と山本五十六司令長官よりの激励の辞が各艦に伝えられたのです。

 艦長、松田大佐の手記に寄れば、

「旗艦『赤城』より発光信号による伝達で、『山本連合艦隊司令長官より激励の文あり“皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ”以上!』と伝えられると艦内で一斉に万歳の声が上がった。」

と、記されている。

 その後、燃料補給の為に随伴してきた補給部隊の油槽船を艦隊から切り離して速度を上げた艦隊は、 隊形をこれまでの対潜警戒の第一警戒航行序列から、攻撃のための第六警戒航行序列へ変更し一路ハワイへ向かったのです。


 恐れていた敵の哨戒網にもかかることも無く、ハワイ諸島オワフ島沖500海里まで接近した第一航空艦隊は12月8日午前1時30分(日本時間)第一波攻撃隊を発進させた。零式艦戦43機、99式艦爆51機、97式艦攻89機(内50機が爆装、39機が雷装であったとされている)の計183機が猛訓練の甲斐合って事故も無く母艦を飛び立っていきました。

 松田大佐はこの時の様子を、

「午前1時20分、旗艦のマストに『飛行機隊出発せよ』との信号旗が上がるや、6隻の空母は一斉に取舵に転舵して艦首を風上に向けた。

 1時30分、空母「赤城」より最初の零戦が発艦。(※編注 零戦隊指揮官機の板谷茂少佐の乗機)

 その零戦の発艦を合図に後続の各空母から次々と艦載機が飛び立っていった。

 やがて艦隊上空で編隊を組んだ攻撃隊は一路ハワイを目指して進空していった。」

と、冷静な筆で淡々と書き連ねています。

 航空攻撃隊の発艦に先立つ12月7日、ハワイ沖に潜む伊号潜水艦より5隻の特殊潜航艇「甲標的」が発進、密かに湾内に潜入するべく真珠湾に向かっていました。

 第一次攻撃隊発進よりおよそ1時間後の午前2時45分、準備の整った第二次攻撃隊が空母より発艦、零式艦戦36機、99式艦爆81機、97式艦攻54機(全機爆装)の計171機が第一次攻撃隊が撃ち漏らした目標を掃討すべくハワイに向かったのです。

 

 真珠湾攻撃については、多くの小説、手記等が記されており今更私が駄文を連ねるのは如何と思いましたので簡単に経過を記すに留めたいと思います。


 ハワイ現地時間7時49分(日本時間3時19分)、真珠湾上空に到達した第一次攻撃隊は攻撃隊総指揮官の淵田美津夫海軍中佐の発した「全軍突撃」を意味するト連送の下、アメリカ海軍太平洋艦隊へ殺到しました。

 更に7時52分(同3時22分)、固唾を呑んで攻撃結果の成否を待つ旗艦「赤城」艦上の空母機動部隊司令部に対して淵田中佐の発信した「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号「トラ・トラ・トラ」が入電、奇襲に成功したことを知った南雲長官と草鹿参謀長は固く手を握り落涙したと伝えられています。

 以後、停泊中の艦艇には97式艦攻の雷撃と水平爆撃が、飛行場には99式艦爆による急降下爆撃と零式艦戦による地上掃射が二波に渡って繰り返し行われ、ここに米海軍太平洋艦隊主力は壊滅したのです。


 攻撃隊が真珠湾を攻撃している間、第一航空艦隊は最大の警戒態勢でハワイからの反撃に備えていました。当然「草薙」も主砲である15.5センチ3連装砲全門に対空用である零式通常弾が装填され高角砲や対空機銃にも要員が配置され敵襲に備えていました。

 その時の様子を航海長の加藤中佐は戦後に公開された手記に次の様に記していました。

「開戦して戦争が始まったのだから当然艦長も戦隊司令の木村進少将もピリピリとした雰囲気で周囲の様子を気にしている様だった。ただ、時々松田艦長からも木村司令からも苛立った口調で『何故、索敵機を出さんのだ?』と言う会話が聞こえてきた。」

 この件に関して松田大佐は次の様に語っている、

「攻撃隊に先行していた『筑摩』の偵察機より『敵空母不在』の連絡が既にあった、敵艦載機の攻撃に備えるため、あるいは敵空母を探して沈めるためにも周辺の索敵が必要と考えたが、第一航空艦隊の司令部は違う考え方していたようだった。

 後に言われるようにここで敵空母を討ち逃したのが、翌年のミッドウェー開戦における敗戦の最大の要因であることは疑いの無いことだ。」

と、これに加えて松田氏は更に真珠湾攻撃に対しても批判の声を上げている。

「当時、航空戦力がどれほどのモノになるかは未知であった、先の第二艦隊事件のような兵棋演習においては一応の戦果は示してはいたが所詮それは机上の理論に過ぎず軍人が行動の拠り所にするにはあまりにも未確定であった。

 これは我が国だけでなく他国においても同様であった。ならば早々に手の内を敵にさらす必要が有ったのか?加えて今回の真珠湾への航空機による攻撃は成否の問題でなく、実施そのものに疑問が残る、第三次攻撃隊を出撃さず重油タンクや工廠施設、ドックへの攻撃も行わなかった攻撃の不徹底さも加えてこの作戦が博打打の所作であると言わざるを得ない。

 結局我々は国力に勝る米国に対して空母機動部隊を使用した攻撃の戦果と効果を身を持って教える結果となり、瞬く間に戦力を再建したかの国の攻撃を一身に受ける結果と成ってしまったのである。

 そもそも、先制攻撃を受け、太平洋艦隊が壊滅しただけであの米国が戦意を喪失するだろうか?

 私が米国において見た彼らの本質は『力をもって立ち向かってきた敵に対してはそれ以上の力で叩き潰す。』と言う理屈抜きで加減を知らない粗野な国民性と姿を見せず国民を扇動するマスコミを中心とした宣伝行為プロパガンダの巧みさが生む得体の知れない一体感であったのだから。」

 松田大佐だけでは無く、三川軍一少将や山口多聞少将からの再攻撃の意見具申や督促にも係わらず、第一航空艦隊は攻撃隊を収容後北北西へ転進、日本への岐路についた。

 この先続く戦争に備えて空母戦力の保全のため何時までもハワイ近海に艦隊を留めて置くことで反撃を受けることを恐れた軍令部や第一航空艦隊司令部と、空母の喪失と引き換えにでもハワイのアメリカ軍戦力を壊滅へ追い込むことを望んでいた山本五十六連合艦隊司令長官との考え方の違いは解消される事無く、その後も司令長官、艦隊司令部、軍令部の間で立場や思惑の違いなどから作戦での足並みの乱れは続くことに成るのです。


12月16日、第二航空戦隊の「蒼龍」「飛龍」と装甲巡洋艦「八坂」「八咫」,重巡「利根」「筑摩」、駆逐艦「谷風」「浦風」はウェーク島攻略のため艦隊から分離、支援に向かいました。

 そして、12月23日、第一航空艦隊は広島の柱島泊地へ帰還し、開戦劈頭の大作戦は終了したのです。


「大勝利かな?」

「表向きにはそうかもしれません。

 しかし、内部に幾つもの不安や不満、将来の破局への萌芽を内包した勝利。

 その程度のものです。」 

  帰還後の係留作業で乗組員が走り回る様子を、戦闘艦橋から眺めながら戦隊指令の木村少将は艦長の松田大佐にそう声を掛けた。

 それに対する松田大佐の答えは勝利の高揚も無い酷く冷静で冷淡なものであったと後年、木村少将は語っています。


書く速度が遅いです、毎日更新してる方ってどうやっているのだろう?

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