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南溟の海魔(メールシュトーム)  作者: 雅夢&白鬼
第一章 ある造船技官の回想録
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第五話 胎動

お待たせしてすみません><、パソコン環境の更新に時間がかかってしまい投稿が遅くなってしまいました。

第五話 胎動


「これで15.5センチ三連装砲を搭載することに決まったわけですね?」

 ローウェル少佐は、青焼き図面の15.5センチ三連装を指で示しながらそう言った。

「異論も有ったようですが、何しろ他に手は無いので済し崩しにこれに決まったのが真相のようです。」

 そう答える私に、彼は一瞬呆気にとられた表情を浮かべたが、直ぐにそれを消して納得の表情に切り替えた。

「しかし、ミスターサハシは随分と仕事が速いようですが、この事態を見越していたという事でしょうか?」

「いえ、彼は単純に先に最上型に採用された60口径三年式15.5センチ三連装砲が両用砲として開発されたのに、軽巡用として軽量化のため高角用砲弾の揚弾機が設置できず中途半端な簡易型両用砲とされた事に不満が有ったそうで、それの解消法を考えていたと言う話です。」

 随分前に艦政本部で見た佐橋技官の小柄な姿を思い浮かべて私はそう答えた。

「ヤマトの副砲も同じものですね?」

「一般的にはそう言われていますが厳密には別物です。」

 最近巷に事実と違う情報が流されているのでここは私は明確に否定した。

「この砲は実際『最上』型軽巡洋艦へ搭載されていましたが、その後同艦は同砲を20.3センチ連装砲へと換装、重巡洋艦に改装されることと成った為、砲身が余剰となる結果になり、この砲身を再利用したのが大和型の副砲である仮称60口径三年式15.5センチ三連装砲改です、これは砲塔のサイズを見直して対空砲弾用の揚弾機を設置、同時に最大仰角を55度から75度まで出来るように改造されています、その結果旧型では毎分5発の発射速度が改造型では毎分7発まで向上することとなりました。」

編注)以前は「最上」型の主砲をそのまま「大和」型の副砲へ転用した考えられていたが、その後の関係者の証言や残存する図面からおそらく砲塔は再設計されたものと認識されています。

「佐橋技官はそれでもまだ力不足として更に改造を加えて、仮称60口径三年式15.5センチ三連装砲改二としたのです。基本時には改造型の拡大型ですが、砲身以外はまったくの別物と言っていいほどの変更が加えられています。」

 私はノートの砲塔の変更点を箇条書きにしたページをローウェル少佐と通訳官へ示しながら解説を始めた。


 昭和15年5月20日、待ちに待ったに「草薙」の進水式が執り行われました、予定より遅れること約二ヶ月、建造に携わった私たち監督官や技官工員にとっては「やっと進水式。」と言うのが正直な実感でした。

 命名書の朗読に続き、サイレンと共に支索が切断されると、艦首に飾られたクス玉が割れて無数の鳩と五色のテープがはためき、紙吹雪が散る中、万国旗が翻る真新しい船体がゆっくりと船台を滑って波静かな東京湾へその長大な船体を浮かべたのです。

 それは建造に関わった者にとってそれまでの苦労が報われる一瞬でありました、もっともほっとする間も無く艤装という新たなる困難が始まるのですが。

 進水により船の誕生を意味しますが、軍艦の誕生ではありません、進水式を終えた「草薙」の船体はその後隣接する工廠の艤装岸壁へ曳航され、ここで軍艦と成るべく艤装が行われるのです。 

 「草薙」に先立つこと10日、呉海軍工廠では二番艦となる「八坂」の進水式が行われ、ここでも同じく艤装岸壁で艤装が行われていました。

 この時をもって一番艦の第75号艦には「草薙」が二番艦の第76号艦のは「八坂」の名が正式に与えられたのです。さらに長崎の三菱造船所で建造中の三番艦である第77号艦には「八咫」が二番艦の「八坂」の後で呉工廠で建造中の四番艦である第78号艦には「三種」の艦名が内定していました。

 ここで帝国海軍の命名基準に詳しい読者諸兄等は「草薙」型の艦名がその基準に即していないことにお気づきかと思います、本来帝国海軍では戦艦には旧国名を、空母には瑞翔動物、重巡には山岳名、軽巡には河川名、駆逐艦には気象や海洋などの自然現象を艦名として使用すると慣例化されていて「草薙」型の名はこれより完全に逸脱した事例となっています。

 これは海軍省内において艦名を選定する際『国難に際して、帝国を守る神器のごとく強い力を宿した名前は付けられないか?』と言う、天皇陛下のお言葉を受けて我が国の三種の神器よりその名を使用できるか検討されたという経緯がありました。

 その結果、廃止されて久しい装甲巡洋艦の艦種を復活させ、「草薙」は草薙剣より、「八坂」は八坂瓊曲玉の、「八咫」は八咫鏡よりその名を頂くこととし、四番艦の「三種みぐさ」は字の通り三種の神器そのものから名付けられこととなりました、こうして通称「神器」型と言われる「草薙」型の名称が確定したのです。

 

 当初、「草薙」の進水が完了した段階で私の人事異動が予定されており、「八坂」進水後の呉工廠で建造が開始されていた「草薙型」四番艦「三種」の海軍監督官として呉に赴任予定になっていました、しかし、「草薙」を前代未聞の防空艦へ艦種変更するため設計当初から携わっている私にこのまま監督官を続けさせた方が良いとの海軍省の判断でそのまま横須賀に残ることとなったのです。

 横須賀海軍工廠では、すでに「草薙」の進水と前後して艤装員が着任しており工廠の艤装岸壁に横付けされた艦上では、隣接する艤装工場(正確には多数の工場の集合体で艤装工場群と称するのが妥当)で造られた艦橋や煙突などの上部構造物や居住施設や各種の弾火薬庫を計画に従って取り付け、据え付けてゆく作業に当たっていました。

 艤装の成否は竣工後の使い勝手、最終的には戦闘時に影響が出るとあって総工数150万を超える神経質で複雑な作業を、艤装員や工員、技官も神経をすり減らしながら一つ一つハードルを越えるようにこなして行ったのです。

 しかしながら既に現場の指揮監督業務は工廠側から、艤装員側へ移っており、この困難な作業の陣頭指揮に当たったのは艤装員長の松田千秋中佐でした、私は主に艦側(艤装員側)と工場や工廠側との橋渡し役、意思疎通役として彼を補佐するのが精一杯でむしろ足手纏いでなかったかと今日に至ってもそう思い返す次第です。

 この艤装員長と言うのは、文字通り艤装員の長であり就役後は艦長を拝命するのが通例です。したがって「草薙」初代艦長となるのは、松田千秋中佐(艦長就任時に大佐へ昇格予定)と言うことになります。

 後に「大和」の二代目艦長になる松田氏は、生え抜きの砲術選任士官であり理論家、戦術家として知られています、そして砲術士官ではありますが航空機の発展と可能性には理解があり艦艇がどう航空機の攻撃に対処すべきかを考えていた人でもありました。

 また海軍大学の教官であった経験もあって部下の教育に熱心な方で「草薙」でも就役前より忙しい時間を割いて各種の座学や講義が行われ「草薙」大学と言われるほどでした。

 その松田中佐は艤装員長として赴任した際私にたいして苦笑交じりにこう挨拶しました。

「まさかあの第二艦隊事件で建造されることになった艦の艦長をする事になるとは思いませんでした。」

 松田中佐は、その挨拶の中であの兵棋演習の際、審判で有る統制官として間近で目撃したことを教えてくれました。

「重高角砲を初め多数の対空砲は嬉しいですが、まずは(敵の攻撃が)当たらないことが肝心とも思います、自分が標的艦「摂津」で身につけた回避手法がどこまで通用するか楽しみでもあります。」

 そう不敵の笑みを浮かべ抱負を述べた松田中佐に私の知るこれまでの士官とは一味違う印象を持ったのは間違いありませんでした。

 頼れる指揮官を得て「草薙」の艤装は、順調とは言えないまでも着実に進んで行きました。

 やがて呉海軍工廠の砲熕工場で造られた改二となった60口径三年式15.5センチ三連装砲が運搬船で運び込まれ搭載されると、「草薙」は戦闘艦としての姿をより明確にしてゆきました。他の火器類とその管制装置が組み込まれて船は次第に複雑に獰猛な姿になって行きます。


 昭和16年6月20日、「草薙」の艤装は終了、海上公試が始まりました。

 最初に行われたのは艦船公試で、東京湾の館山沖に出た「草薙」はそこで旋回試験、速力試験、燃費試験等が行われ、我々の各種計器と共のに乗船しその結果を見守る事になりました。

 艦船公試後に松田中佐に伺ったところ次の様な感想が帰ってきました。

「二重舵の効果は充分です、思ったより小回りが効くので回避運動の時は大きな力になるでしょう、しかしながら舵を切ってから艦が動き出すまでの空動時間は予想通り大きく、先を読んだ躁艦が必要でしょう、速度は機関が予定通りの出力が出せないのにも係わらず予定していた最大速力を上回る35.6ノットが出たのは驚きでした、艦形の影響でしょうか?しかも最高速力で航行中も変な振動も無く砲術担当の秋山中佐が照準に影響無いと驚いていましたよ。」

 これらの公試は数日に分けて行われ、特定の試験だけでなく運行中に発生もしくは発見された不具合は横須賀に戻って改修され次の公試に備えるの繰り返しが行われました、十日ほどで艦船公試が終了し、続いて搭載兵器の性能を調べる兵装公試が行われました。

 これには主砲や高角砲を試験する砲熕兵装公試、測距儀等を試験する光学兵装公試、などが次々行われ「草薙」性能を明確にする作業が続けられました。

 全ては順調、問題は発生しても対応可能な範囲、と思われていた矢先重大な問題が発覚しました。

「主砲が使い物になりません。」

 艦橋頭頂部の主砲射撃指揮所から降りてきた秋山中佐が頭を傾げながら私にそう告げました。

 「草薙」では艦橋構造物の上部に10m測距儀さらにその上に射撃指揮所があり本来はそこには平射用の九八式方位盤射撃装置が置かれるのだが、「草薙」は防空艦という任務上そこには高角砲を管制する九四式高射装置が置かれており、これにより15.5センチ三連装砲5基15門の射撃管制を行うのだが、その公試の結果が思わしくなかったたのだ。

「主砲に何か問題でも?」

 砲熕兵装公試に立ち会う為に「草薙」に乗り込んでいた佐橋技官が普段の人懐っこい笑みを消して秋山中佐に問いかけた。

「いや、主砲は問題ありませんよ、問題は高射装置から送られてくる信号の誤差が大きすぎるって感じですね。」

 砲術士官らしい率直なモノの言い方で秋山中佐は問題点を挙げ、同じく公試の為に乗り込んでいた九四式高射装置の製造メーカーである日本光学の技師に視線を向けた。

 昭和11年にそれまでの九一式高射装置の改良型として完成した九四式高射装置は完成したものの当初より要求諸元を満たせず改良を重ねてきたのだが未だに達成できていないのが実情でした、加えて「草薙」の主砲は最大射高が9400m程度の40口径12.7cm高角砲と違い15000mをその最大射高としており更にその誤差が大きくなったのが原因だと言えた。

 急ぎメーカーの日本光学の技師と検討を行い、高射装置の改造に着手することとしました。当初は計算機に問題ありとされ、高射射撃盤の機械式計算機の計算用歯車の誤差を可能な限り小さくすることとして、精度を上げ更に計算の高速化のためモーターの出力向上と軸受けのベアリングのガタをなくすなどの改良を独自に行い主砲の精度を上げる懸命な努力が行われました、結局一応の効果はあったものの九四式高射装置由来の問題点である測定側である指揮装置(高射機)の不具合は解決できず、大戦中期以降に試製三式高射装置に切り替えるまで不安な状況は続くこととなりました。

 こうした状況は高角砲の六五口径九八式10センチ高角砲においても同様な状態であり、大戦初期において本艦が防空艦として大きな期待を持たれながら目に見えた活躍が出来なかった理由の一つでもあったのです。

 それでも一応の成果が出たところで「草薙」就役、海軍へ引き渡される運びとなりました。

 

 昭和16年9月6日、最後の仕上げ作業が終了した「草薙」の艦尾に海軍旗が掲げられ正式な帝国海軍の一員と成る日が来たのです。

 艤装員長の松田中佐はこの日を持って昇進、松田大佐として艦長に就任、左記に出ました秋山中佐は砲術長として、さらに航海長の加藤明憲中佐と機関長の太田則之中佐らが正式に士官として就任「草薙」を指揮する士官が揃っての正しく船出と成りました。

 以後、一足先に就役していた「八坂」とこの一ヵ月後に就役する「八咫」の三隻で第二艦隊所属の第12戦隊として横須賀を母港にして猛訓練に励むことと成りました。

 昭和16年も10月になると日米開戦は避けられぬものとの見方が強まり、所属各艦の訓練は益々実戦の色合いが濃くなり、ヒタヒタと迫り来る戦争の足音に神経を尖らせる日々となったのです。


 そして昭和16年11月18日、この日艦隊訓練のために大分県佐伯湾に集結していた艦隊は密かに抜錨していったのです。

次回はいよいよ真珠湾攻撃ですが、すみません活劇ではないので派手な話にはなりません・・、たぶん。

※戦隊名を変更しました。第10戦隊が史実上存在していましたので第12戦隊に変更しました。

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