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南溟の海魔(メールシュトーム)  作者: 雅夢&白鬼
第一章 ある造船技官の回想録
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第二話 遺産

第二話 遺産


「ではお聞かせしましょう、海の魔物・『草薙』誕生の経緯を・・。」

 そう言っておいて私は目前に置かれたコーヒーカップを手に取りコーヒーを口に運びました。

 恥ずかしい話ですが、所謂時間稼ぎですね。

 当時の私としては、後世まで残る可能性の高い公式な報告書に載せる以上は内容を吟味する必要があり、その内容を纏める時間が欲しかったのです。

 それと正直なところ何より目前のカップから立ち昇る芳香に耐え切れなかったのも原因です。

 なにしろアメリカ軍が持ち込んだコーヒーは、敗戦の混乱で物不足に喘ぐ日本国内では味わうことの無い芳香と苦味を堪能させてくれたのです。

 さてどうしたものかと、その芳香への耽溺を断ち切り思案に暮れながら私はその芳しい湯気越しにその向うを見やった。

 そこでは三人のアメリカ兵がこちらを注目していた。日本語があまり堪能ではないローウェル氏への通訳のための通訳官や、会話内容を文章に書き留める書記官が私の言動を注視するのは理解できる。

 しかしそれだけで無く、聴取官であるローウェル氏までこちらを凝視ているのには驚かされた。

 彼は私と同様にカップを手にしながら、まるで取って置きの冒険譚を聞く少年のようなワクワクとした表情を浮かべて、私が語る話を心待ちにしているようだった。。

 私は苦笑を浮かべながらも、彼が自分と同じ種類の人間であることを確信した。

 彼は私と同じく敵味方に関係なく創意工夫と技術的進歩に対して憧憬の念を持てる人間であった。

 それを確信した私は、彼に「草薙」の全てを語ろうと決意したのです。

 

 私はカップからもう一度、琥珀色の恵を口にし、開いていたノートの該当するページに目を走らせます。そして徐にそれまでに纏めた話を語り始めました。


 「草薙」型の建造が認められたのは、第三次海軍軍備補充計画、通称マル3計画の修正計画である昭和十三年度計画でした。

 しかし、他多くの艦船と同様に「草薙」型もそれ以前から研究開発が行われていて、古いところは昭和8年に提出された「金剛」代艦型戦艦の検討案に遡る事が出来ます。

 ご存知の通り、当時は日米を含む列強各国はワシントン軍縮条約下に有って戦艦の新造が厳しく制限されていました。

 そうした中で、艦齢が二十年を越える艦に限り条約の範囲内で代艦の建造が可能とされていました、我が国では「金剛」型がそれに該当します。

 従って私が所属した艦政本部第四部では、昭和3年より藤本造船少将を中心に代艦の設計がなされていたのですが、その検討案の一つに高速艦として備砲の口径を小さくして最大速力30ノット超を目標とした案が有ったのです。

 結果として結果的にロンドン条約で建造禁止が五年延長されたため代艦計画は日の目を浴びることはありませんでした。


 実は、私が海軍へ入ったのはこの代艦計画の真っ最中でした。 

 そう、私が大学を卒業して艦政本部第四部へ配属されたのは昭和5年のことで、当時造船大佐だった藤本先生が代艦の設計に忙しくしていた時期で、私は新米の技官として先生のお手伝いとしてその設計に携わることになったのです。

 以来私は藤本大佐の弟子兼助手として、指導を受け一人前の海軍技官を目指す日々を送っていたのです。蛇足ながら私が藤本大佐を先生と呼ぶ癖もこの頃からの事でした。

 厳しい指導の下、研鑽を積む日々は苦しくとも充実していましたが、そうした日々は有る日突然終焉を迎えました。

 昭和9年3月12日に発生した水雷艇「友鶴」の転覆事故、110名が犠牲となった事故の責任を取る形で当時造船少将に昇進していた設計責任者の藤本先生が謹慎処分となり艦政本部から追われることになったのです。

 さらに心労から藤本先生は翌年脳溢血により47歳の若さで急死されてしまわれました、突然の別れでした、そしてそれと同時に藤本造船少将門下であった私たちの周辺が穏やかざるものになってきたのです。

 当時、新型戦艦や空母(後の「大和」型と「翔鶴」型)の建造のため各種の開発研究が行われていたのですが、我々はその研究会への参加が認められず、小型艦艇の設計や改修などの仕事に回されることになったのです。


「ミスターニシオカ、フジモト少将とはどんな人物だったのですか?」

 それまで黙って話を聞いていたローウェル少佐が急に問いかけてきた。

 私は暫し考えた後、

「船を造らせたら天才、それ以外は普通の人ですね。」

と、答えることにしました。それを聞いたローウェル少佐は、少し考える顔をしてそれからニヤリと笑みをを浮かべました。

 どうやらあちら(アメリカ)にも似た御仁がいらっしゃるようでした。

「藤本少将と平賀中将、戦前日本の軍艦の建造を牽引してきたお二人ですが、閃きの天才藤本とコツコツ努力の平賀と称されるように対照的なお二人です。

用兵の要求に柔軟に応える藤本氏、用兵と安易な妥協をしない平賀氏となど設計の方向性も対照的でした。

 平賀氏が可能な限り小さく防御区画を造り過剰なまでに防御を固めそれを無防備部で取り巻くように設けてバランスをとった(この設計では弱点となる防御区画は小さくなったが逆に脆弱な無防備区画が増える結果となっている)のに対して、藤本先生は防御区画を大きくとりながら過度の強度求めず乗員による対応で対処することで艦への負担を小さくする工夫をしていました(こちらの設計は防御区画が広くなったことで難沈性は大きくなったが同時に防御区画が広くなったことで防御力が相対的に低下している)。

 具体的に復元性に対する考え方を見ても、平賀氏の設計思想は純粋に重心の位置を低く取るものであったのに対し、藤本先生は復原値の確保により克服しようとするものでした。

 ダメージコントロールの考え方を日本ではいち早く取り入れた考え方だと言えます。残念ながら藤本氏の考え方を実現するには作業員の理解も技術もそれに答えれる水準では無く、用兵側もそれを理解していませんでした。

 それが水雷艇『友鶴』転覆事故とその後の第四艦隊事件の原因になったと言えるでしょう。」

「なるほど。」

 そこまで聞いてローウェル少佐は神妙な顔で頷いた。

 その後、藤本先生と平賀氏の関係について色々と話した記憶が有りますが、あくまで私の私見ですのでここでは割愛させていただきます。


 結局一年ほど、主力艦の開発から遠ざけられていた私たちでしたが、当時の世界情勢が私たちを再び大型艦の設計に戻らせる事となったのです。


 1930年代の世界情勢について少々補足の説明をいたしましょう。

 当時、大日本帝国はアメリカやイギリスなどの欧米列強と東南アジアや中国を巡って激しく対立していました。特にアメリカとは遠からず雌雄を決することになると見られていました。

 軍令部は研究中だった新型戦艦(後の大和型)や大型空母(翔鶴型)の建造を含む第三次海軍軍備補充計画(通称マル3計画)をロンドン軍縮条約の失効を見越して策定、失効後の昭和12年より順次建造を目指していました。

 当然ですが行き成り建造が出来るわけでは有りません、事前に十分な開発期間を必要とします。従って昭和10年当時の艦政本部はどの部局も大小の新規建造計画で大忙しでした。

 しかしながら皮肉なことに、前述の通り私たちには軽巡洋艦や駆逐艦などの中小艦艇や補助艦艇の建造や改修改造などのお手伝い程度の作業しかし回って来ず結果として手持ち無沙汰となっていました。

 そんな私たちに突然、大型巡洋艦の建造の作業が舞い込んできたのです。ことの始まりは軍令部からの建造要求でした。

 昭和12年の暮れだと記憶しています。艦政本部長で有る上田宗重中将より呼び出された私に一通の建造要求書が手渡されたのです。

 それを一瞥して私は思わず目をむきました。


 その内容は、

 駆逐艦ト共ニ突撃可能ナ速力ヲ持チウルコト。

 巡洋艦ノ攻撃ニ耐エウルコト。

敵巡洋艦ヲ一撃ニテ撃滅セシムルコト。

 設計ヨリ就役マデ四年以内トスルコト。


まだその他細々と書かれていましたが、大筋はこんな感じの内容でした。

 全てに置いて無茶な要求が並べられていましたが、最も厳しい項目は最後の“四年以内に就役させろ”でしょう。

 当時、戦艦や重巡洋艦等の大型艦艇に掛かる開発の時間は、六年から八年でした、新機軸満載の一号艦などは就役までに九年の歳月を費やしています。

 それを考えると四年は無茶を通り越して無理と言う要求でした。

 この無理な要求の背景には、当時帝国海軍が定めていた戦術ドクトリンにありました。

 先に記した通り、日本はワシントン・ロンドン両軍縮条約において主力艦である戦艦の保有数を他の列強国(英米仏)に比べて大きく不利な数に制限されていました、もっとも国力を考えれば条約が無くても肩を並べることは到底不可能でしたが(経済が破綻してしま)。

 そこで帝国海軍は、その戦力差を航空戦力(空母艦載機と陸攻の活用)と酸素魚雷で補おうとしたのです。特に酸素魚雷と呼ばれる九三式魚雷は他国に無い61センチと言う大型で高速、長射程、大威力を誇り艦隊決戦においての切り札と考えられていたのです。

 その結果、帝国海軍の艦艇には重巡洋艦にいたるまでこの魚雷が大量に搭載されることになりました、と同時にこれを有効に使うために敵主力に肉薄する必要にも迫られたのです。

 軽巡洋艦や駆逐艦がその任を担ったのですが、それらの艦種の防御力は速力と戦闘力に特化している都合上極めて低いものでした。

 当初は条約型重巡洋艦を盾にし更にその重巡洋艦にも魚雷を載せる計画でした、しかし、巡洋艦とはいえ装甲は薄く効果に疑問が生まれたのです。そこで考えられたのが重巡洋艦より装甲が厚く打たれ強い、大型巡洋艦の建造です。

 その結果が先の軍令部の要求でした、

 駆逐艦を先導して敵艦隊に突撃できる速度と障害となる敵の重巡洋艦の攻撃に耐えながら敵を瞬時に倒せる防御力と攻撃力はこうした前提から導かれたものでした。

 そして四年という無茶な期間も逼迫したアメリカとの戦争への危機感の表れと言えるでしょう。

 ただそれが可能かと言えば、冷静に考えれば“否”となります。

 しかし、私は有る勝算を元に“可”と答えることにしたのです。


 本部長の下を退いた私は急ぎ主要なスタッフを集め新造艦の要求書の内容についての説明を始めました。皆が一様に驚き、呆れた表情を浮かべたが私ははっきりこう言ったのです。

「間違いなくこの艦は建造可能です。」

 私はそう言いながら藤本先生が残された図面の一つを皆の前に広げました。

「これは?」

「先生が残された、金剛代艦の検討図面の一つです。」

「藤本喜久雄少将の?」

「ええ、私たちに託してくれた、

 まさに遺産です。」

 私たちはその遺産を元に詳細設計を開始したのです。


前話に書き忘れましたが、勿論フィクションです。

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