エピローグ
第一章のエピローグです。
これまでと趣向が違いますが御容赦願います。
第十二話 エピローグ
私は、もう一度身の回りを確認すると部屋の隅のクローゼットから上着を取り出し羽織った。
「あれ。編集長お出かけですか?」
若い声に振り返ると、副編集長の相川君が何やら書類を持って入ってくるところだった。
「ドア、ノックしろよ。」
「しましたよ、声も掛けましたけど?」
私は一寸気分を害した表情の相川君の肩を叩くと用件を聞くことにした。
「次の企画の資料です、週明けまでに目を通しておいてください、
それで編集長は?」
「ああっ、鎌倉までな。」
行き先を聞いて少し考えた相川君は、やがて一つの結論に達したようで納得した表情で頷いた。
「西岡先生のところですか。」
「直帰になるけど良いよな?」
「構いません、でも何かあったら携帯に電話するんで電源切らないで下さいよ。」
「はいはい。」
そう言って上着の襟を直しながら私は地下の駐車場へ向かうエレベーターのボタンを押した。
「編集長、私も西岡先生にはお世話になりました、仏前に私の分も礼を言っておいてくれますか?」
「そう言うのは、自分で行ってやるんだよ。」
そう答えて私はエレベーターへ乗り込んだ。
地下の駐車場で愛車に乗り込むと、自宅に電話し妻に喪服の準備を頼んだ。
西岡さんが無くなったのは平成13年(2001年)5月7日のことだった、四月中頃より体調の不良を訴えて入院されたのだが、90歳を越えるご高齢と言うこともあったためか一月と待たず亡くなられ。
それが私が取材でアメリカへ行っていた一月ほど前のことで、私は見舞いにも葬儀に参列する事は出来なかった。随分とお世話になったのに不義理なことで申し訳なかったし心残りだったので、何とか仕事の都合を付け伺える時間を作ることが今日出来たと言う次第だ。
西岡さんとの付き合いは、私がまだHistorical War Ship(日本語版)の平の編集員だった頃担当になった頃からで早いことで15年を超える。私が編集長となってHistorical War Ship(日本語版)編集部に戻ってきたとき誰よりも喜んでくださったのが西岡さんだった。以来ご意見番として、技術アドバイザーとして本誌製作に力添え頂いてきた。私のとって西岡さんは師であり恩人であり歳は離れていても近しく付き合って頂ける大切な友人だった。
川崎造船所で長く技術顧問をしておられ戦後の護衛艦建造にも深く係わってこられたエキスパートである西岡さんの著書は、常に技術的検証を怠らずそれでいて初心者にも解り易い解説が特徴だった。
人によっては西岡昌幸著、もしくは監修と言うだけで価値が変わると言う位の評価(Ver.Westと海外でも特別な評価を得ている)もあって我が誌でも西岡さんが執筆するときは発行部数が顕著に違っていた。
余談であるが、「草薙」型装甲巡洋艦四隻が一堂に会した事は無い、四番艦の「三種」が就役する前に二番艦の「八坂」が第三次ソロモン海戦にて戦没しているためで、西岡さんは「三種」が開戦に伴う改修や修理、改装などで艤装が先延ばしにされ就役が遅れたことを酷く後悔していた。
この話を聞いた私の友人で艦船モデラーとして有名な矢崎氏が市販の「草薙」型のモデルを使って四隻を忠実に再現、西岡さんへ贈呈してくれた、当然私はこれを本誌の企画として取り上げ、贈呈にも立ち会うことと成った。
西岡さんは出来上がった四隻の出来映えに感動し矢崎氏に礼を述べていたが、暫らくして矢崎氏へモデルの造形上の問題点を指摘し始めた。
「この対空機銃の防盾のデザインはおかしいですね、実際はこんな格好だったと記憶しています。」
などと言って手近にあった紙にラフのデザインを描き始めた、始め戸惑う様な表情でそれらの指摘を聞いていた矢崎氏は次第に表情を固くし顔を紅潮させていった。
長い付き合いから矢崎氏の性格を知る私にはそれが危険な兆候に見えた、彼は自分の作品の出来に対して厳しい評をする男だが、同時に出来た作品に対する愛情も深く他人の批評には聞く耳を持たないところがあった。
その彼がである、年上で尊敬する人物とは言え遠慮なく駄目だしされて平静で居られるかは極めて疑問であった、だからその彼が突然立ち上がり西岡さんへ歩み寄った時私は彼を取り押さえようとした、しかし、彼は予想以上のスピードと勢いで西岡さんに歩み寄ると西岡さんの手を取り、
「ありがとうございます西岡先生、今ご指摘いただいた点は私も疑問に思っていましたが資料がなく、やむなく想像で再現した部分なのです。
これでより正確な姿を再現できます。」
そう涙ぐんで言ったのです。その後、矢崎氏は一度モデルを持ち帰り、西岡さんの指摘箇所を中心に更に造りこみを行ったのです。
そして、その改修モデルを西岡さんに見ていただき、贈呈といった段階で西岡さんはそのモデルの受け取りを辞退なさったのです。
「これは、私が知る限り、もっとも正確な『草薙』型四隻の姿です、宜しかったらこれは矢崎さんに持っていて頂きたい。
この四隻の真の姿を伝える為に。」
これには矢崎氏も感涙を抑えきれず、矢崎氏のコレクションの至宝とすることを承諾しました。この後、このモデルは度々本誌のグラビアを飾り、また海外を含めた展示会にも出品され多くの人々に真の「草薙」型の姿を伝えることとなりました。
そしてこのモデルには必ず「製作 矢崎道夫 監修 西岡昌幸」のプレートが付けられ、Ver.Westモデルとして皆の注目を浴びています。
最近は、某ゲームにより復活した艦船モデルブームに乗って、このVer.Westモデルを基にしたウォーターラインのプラモデルキットが販売されています。
自宅に戻り、自室で喪服に着替えて居間に行くと妻の姿は無く大学生の息子の晶が寝起きのボサボサの髪のままコーヒーを飲んでいた。
「あれ、晶。母さんは?」
「さっき、叔母さんと買い物に行ったけど?」
どうやら入れ違いで妹に呼び出されて買い物に付き合わされているらしい。
「お前、学校は?」
「今日は講義は無いよ、今朝明け方までレポートの纏めやっていて今起きたところ・・。
父さん、誰かのお葬式?」
私が喪服を着ているので気になったらしい息子は空になったコーヒーのカップを玩びながらそう聞いてきた。
「西岡さんの墓参りだよ。」
「西岡さんって、鎌倉のおじいちゃんだよね。」
「やっと時間が取れたのでいってくる。
何か不義理な気がしていたからね。」
「そんな事言わないんじゃないかな?
あのおじいちゃんならさ。」
子供の頃から何度か会ったことの有る息子は西岡さんのことを『鎌倉のおじいちゃん』と呼んで慕っていた、西岡さんもまた近くに男のお孫さんが居なかったこともあって私の息子を可愛がってくれた。
「お前も行くか?」
「止めとく、二人っきりの男同士の会話を邪魔しちゃいけないからね。」
以前、と言ってもまだ息子が小さいときに仕事の話をしているときに邪魔しに来た息子に言った言葉を覚えていたらしく、悪戯っぽい表情でそう返してよこした。
新横浜の自宅を出て鎌倉に愛車を走らせる、そう言えば最近ウォーターラインが売れなくなった言って西岡さんは嘆いていたっけな。
ウォーターラインは、700分の一のサイズに統一された艦船のプラモデルで第二次大戦から現在に至るまで日本の主だった艦船をプラモデル会社が分担して生産すると言う世界的にも珍しい企画で、かつては少年の憧れでもあった、しかし、最近はテレビゲームやテレビアニメのキャラクター関連のプラもに押されて戦車のディスプレーモデル同様、売り場が極端に減っていた。
多くの戦後の日本を支えた人々と同様に物造りこそが戦後の日本の復興の力となったと信じている西岡さんは物を作らなくなった日本人への不安と不満をよく口にしていた。
「資源の乏しい日本が世界で生き残って行くには日本人にしか造れない物を作って世界に売って行くしかないのです。」
短小軽薄に見られる日本の得意分野、しかし、それは太平洋戦争時には日本の弱点だった分野だった、英米は日本より高性能で壊れない装備をより小さく造ることができた、なにしろ当時のアメリカはレーダーを5インチ砲弾へ組み込むなどと言うことを遣って退けたのだから。
さらにカイゼンで世界に知られる品質管理も太平洋戦争当時は現場に無い考え方で今現在の日本の得意分野同様に戦後日本が復興の中で身につけてきた技術と発想と言える。
そう西岡さんに聞いた時、ひどく皮肉だけど日本人らしいと感じた、日本字は一つのことに夢中になると他を忘れる。戦後の日本人は物造りには長けたが余裕やユトリを忘れてしまっている。そんな感じがしたのだ。
西岡さんの自宅にお邪魔し、仏壇に手土産を供えて線香をあげて手を合わせた。既に西岡さんの長男も定年退職を向かえ、自宅で読書の日々と言うことで西岡さんの遺稿を数点拝見しそれらに意見を交わして私は西岡宅を後にし西岡家の菩提寺へ墓参りに向かった。
墓前に供える花を寺の前の花屋で購入し山内へ向かった。
墓は直ぐにわかった、花を供え線香をあげて再び手を合わせた。ふと人の気配がしたので振り返るとそこに若い女性が立っていた。歳はうちの息子とそう変わらないだろう、ただ違うのは髪は見慣れた黒髪だが、目は淡い青色、彫りの深い造詣と肌の白さで欧米の血を感じさせる顔つきだった。
「ハナ、良いですか?」
少し癖の有る日本語で墓前に花を供えたい希望を身振りを交えて私に示した。
私が場所を空けると前に進んで私の花の横へ持ってきた花を供えた。彼女はしばらく手を合わせていたが立ち上がって私の方を向いて頭を下げた。
私も釣られるように頭を下げたがこの女性には心当たりがあった。
「アンディさんのお孫さんですね?」
「祖父をご存知ですか?」
女性は少し驚いたような表情を浮かべ私の顔を見返してきた。
「以前、西岡さんにお聞きしました。奥様の妹さんの紀子さんがアンディ・ローウェルさんに嫁いでいると。
私は大久保と申します、Historical War Ship(日本語版)の編集長をやっていまして、
貴女の大叔父様には何かとお世話になっておりました。」
私は余り難しい言い回しをすると彼女が理解できないのでは無いかと気にしながら、結局日本人的な言い回ししか出来ない自分苦笑しながらそう説明した。
「始めまして、私はミグサ・キャロライン・バートンと申します、アンドリュー・ローウェルの次女、カレン・バートンの三女です。」
なかなか堪能な日本語でミグサ嬢はそう答えてくれた。
「ミグサさんですか、なるほど名前は御爺様?」
「提案したのは祖父ですが、決めたのは父だそうです。父は祖父の教え子だったそうで祖父同様にクサナギタイプのファンだったそうです。」
彼女は少し照れるような表情で笑みを浮かべていた。
「それでミグサですか。」
ミグサ、漢字にすると「三種」と書く、意味は三種の神器の総称で「草薙」型装甲巡洋艦の4番艦の名でもある。そして「三種}は「草薙」型の中で唯一太平洋戦争を生き残り戦後は一時大型巡洋艦「ハワイ」の名でアメリカ海軍に所属して朝鮮戦争にも従軍した日米両軍で使用された軍艦であった。
だからなのか、ローウェル氏はその名に日米の絆を見たのだろう。
だから孫の中で、最も日本人と欧州系アメリカ人の特徴が顕著に出た彼女にその絆の証を与えたのかもしれない。西岡さんへの親愛の情を籠めて。
寺から出ると私は彼女に聞いた。
「西岡さんのお宅には?」
「先ほど挨拶には伺いました。」
「この後のご予定は鎌倉観光ですか?」
彼女が言うには特に予定は無く、鎌倉は昨日見て回ったとの答えでした。
でもと少し考えながらミグサさんは、日本は幼少の頃に一度だけ来ただけなのでどこか少し日本の街を見て行きたいとの返事に私は少し悪戯心を働かせて御持て成しを試みた。
「よろしかったら横浜をご案内しましょうか?」
「よろしいのですか?」
「少しお待ちいただけますか?ちょうど良いガイドが居ますのでお呼びしますよ。」
先に車に乗ってもらい私は携帯電話に目的の人物を呼び出した。
「ああ、晶?ちょっと横浜を案内して欲しい人が居るんだが頼めるか?
もちろん経費は出すぞ。
・・・なら、きちっとした服装で来てくれよ。頭も梳かしてな。」
このエピローグでこの章はおしまいです。何か盛り上がりに欠ける作品を長々書いてしまって申し訳有りませんが読んで頂きありがとうございました。
少しお休みを頂いて次章の投稿を始める予定です。
また、この作品の番外編の投稿も予定しています。お楽しみに。
1/18(日)西岡さんに関する描写一部変更しました。
2/15(日)エピソード追加しました。




