『「乾いた女だ」と追放された実務系婚約者ですが、領地の魔力炉と銀行口座を凍結して立ち去ります〜誰でもできる雑務とおっしゃいましたよね?〜』
「お前のように乾ききった女を、誰が愛せるというのだ」
婚約者であるヴィルフリート子爵令息の声が、執務室の大理石の床に冷たく響いた。
彼の腕には、男爵家の令嬢ミラが寄り添っている。小鹿のような瞳に、フリルに包まれた華奢な肩。庇護欲を誘う愛らしさを、彼女はひとそろい持ち合わせていた。
一方の私は、インクの染みた袖口もそのままに、分厚い元帳を抱えて立っていた。
「ミラを見ろ。この無垢な愛らしさこそ、政務に追われる男に必要な癒やしだ。それに比べてお前はどうだ。朝から晩まで数字ばかり追いかけて、寝室に呼んでも石像のように固まる。愛嬌のひとつもない」
ヴィルフリートは、軽蔑を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「領地の運営など、執事や文官に任せれば済む雑務だ。お前が恩着せがましく机にかじりつく必要など、最初からなかった。今日限りで婚約を破棄する。この屋敷の女主人にはミラを迎える」
「……左様でございますか」
私は瞬きをひとつして、静かに答えた。
「反論も涙もないのか。本当に冷血な女だ。せいぜい己の無価値さを呪いながら、実家へ帰るがいい」
「承知いたしました。では、領主代行の権限に基づき、必要な手続きを開始いたします」
泣き叫ぶことも、取り乱すこともない。そんな私の態度が気に入らなかったのだろう。ヴィルフリートは「強がりおって」と吐き捨て、ミラの肩を抱いて執務室を出ていった。
二人の姿が扉の向こうに消えてから、私は懐中時計を開いた。
午前十時十五分。
ここからが、私の本来の実務だった。
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まず、胸元に提げていた銀の鍵を外した。
領内の主魔力炉、その深層制御室へ入るための認証鍵だ。
ヴィルフリートは「領地の運営など雑務」と言った。けれど、痩せた寒冷地であるこの子爵領が、ここ三年、飢えも凍死者も出さずに持ちこたえてきた理由を、彼は知らない。
土壌を温める術式。生活用水を循環させるポンプ。集落を守る結界。それらを動かしているのは、太古の遺跡から引き出した主魔力炉だ。そして、その魔力の流れを調整し、足りない触媒石を私財で補ってきたのは、他ならぬ私だった。
炉の操作権限も、私が持つ術式の使用許諾も、領主代行として交わした契約に基づいている。婚約の解消に伴い、それらをどう扱うかは、すでに書面で定めてあった。
机の引き出しから、用意していた書類を取り出す。
一枚目は、王立銀行宛ての個人資産保全申請書。
二枚目は、魔術ギルド宛ての専属術式ライセンス解約通知。
三枚目は、過去三年分の立替運営費をまとめた求償明細書。
子爵家の金庫が潤っていたのは、私の実家である伯爵家から前払いされた持参金と、私個人の名義で結んだ通商契約の配当が、領地の運営費として流れ込んでいたからだ。
契約が終われば、それらも引き揚げる。それは報復ではない。私の資産と権利を、元の持ち主へ戻すだけのことだった。
ただし、炉を止めれば領民の暮らしまで危険にさらされる。そこまで切り捨てるつもりはなかった。
私は出立に先立ち、集落の結界と給水設備が安全出力に切り替わるよう、代替術式を手配していた。燃料の追加分も、当面の生活用水も、自治会と契約した供給業者へ支払いを済ませてある。
止まるのは、子爵邸と領主家専用の設備。それから、私の資産に依存していた領地の拡張計画だ。
私は清算書類を机の上に整え、ヴィルフリートから贈られた婚約指輪をその横に置いた。領民の税金で買い与えられた安物だ。返す相手を間違えないよう、封筒に入れておいた。
引き継ぎ書は残さない。相手が「誰でもできる雑務」と断じた仕事に、私が無償で注釈を添える義務はない。炉の安全運転に必要な情報は、すでに領地の管理局へ預けてある。
正午。私はトランクひとつを持ち、手配していた辻馬車に乗り込んだ。
見送る者はいなかった。門番さえ、ヴィルフリートの命令に従って、私を見ようともしなかった。
馬車が走り出す。
背後で、子爵邸の尖塔に灯っていた燐光が、ひとつ、またひとつと消えた。個人認証が解除され、屋敷の設備が停止したのだ。
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異変が表面化したのは、翌朝だった。
ヴィルフリートは、冷えきった寝室で目を覚ました。暖炉に薪はくべられている。それでも部屋には暖房魔道具の熱が回らず、吐く息が白くなっていた。
「おい、湯はどうした! 顔を洗う水が冷たいではないか!」
怒鳴る彼のもとへ、青ざめた執事が駆け込んできた。
「も、申し訳ございません。厨房の魔道コンロと屋敷の給水ポンプが停止しております。主魔力炉から、子爵邸への供給が止まっているようで……」
「炉の管理番は何をしている! 石をくべろ!」
「それが、制御室の扉が開かないのです。エレノア様固有の認証術式が解除され、屋敷側からは操作できません。集落の設備は安全運転を続けておりますが、屋敷の専用系統は復旧の手段がなく……」
そこへ、商館の頭取が足音も荒く飛び込んできた。取り次ぎを待つ余裕など、とうに失っていた。
「ヴィルフリート様、これはいったいどういうことですかな! 王立銀行から、貴家の口座に保全措置が取られたと通知が来ましたぞ!」
「保全だと? いったい何の権利があって!」
「エレノア様の求償債権です。資材の調達や防壁の改修に使われた費用の大半は、彼女の個人口座から立て替えられていたのです。契約解除と同時に返済を請求され、返済期限までに支払いがなかったため、銀行が担保の徴税権を凍結したのです!」
「な……んだと……?」
ヴィルフリートの喉から、かすれた声が漏れた。
そのとき、着飾ったミラが泣き顔で部屋へ駆け込んできた。
「ヴィルフリート様! 部屋が寒くて、ドレスも着替えられません! 朝食のシェフも、食材が届かないからと出ていってしまいました。どうにかしてくださいませ!」
「黙っていろ! 今はそれどころではない!」
「ひどいわ! 私を幸せにしてくださると言ったじゃない! こんな寒くて貧乏くさい屋敷、もう耐えられない!」
泣きわめくミラ。声を荒らげる商人。狼狽する使用人たち。
混乱のただ中で、ヴィルフリートはようやく悟り始めていた。
彼が「愛嬌がない」「乾いている」となじった女は、この領地という巨大な機械を動かす、かけがえのない中枢だったのだ。
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それから一週間後。
私は王都のテラス席で、温かなハーブティーを口に含んでいた。
澄んだ秋空の下、冷涼な風が心地よい。テーブルには、隣国の学術機関から届いた魔導インフラ開発の顧問契約書が広げてある。報酬も権限も明記された、納得のいく契約だった。
そこへ、薄汚れた外套をまとった男が、警備の制止を振り切って駆け込んできた。
「エレノア……! エレノア、頼む、戻ってくれ!」
かつての整った身なりは見る影もない。目の下には深い隈が刻まれていた。領地の混乱を受けて王宮の査察が入り、爵位剥奪の審議が始まったと聞いている。
ヴィルフリートは、テーブルにすがりつくように手を伸ばした。
私はカップを置き、彼の手が届かないよう、静かに身を引いた。
「悪かった! 俺が愚かだった! お前がどれほど領地を支えていたか、身に染みて分かったんだ! ミラとは縁を切った。愛しているのはお前だけだ、エレノア! 妻として、いや、領の共同統治者として迎える! だから、炉と口座を元に戻してくれ!」
必死に愛を乞う男。
かつて私の尊厳を軽んじ、心身の境界を踏みにじりながら、私の仕事を「誰でもできる雑務」と切り捨てた男。
私は表情を変えずに彼を見た。そこに怒りも恨みもない。ただ、役目を終えた機械を点検するような視線だけがあった。
「ヴィルフリート様。愛や反省という感情では、銀行の凍結口座は解除されません」
彼が息を呑む。
「過去三年間の立替金、四万八千ゴールドの返済期限は昨日でした。契約に基づき、債権の回収はすでに王立執行府へ委託しております。魔力炉の制御術式は私の特許財産です。ライセンス契約が終了した以上、再稼働には新たな契約が必要です」
「そ、そんな他人事みたいに……! 俺たちは婚約していただろう! 体だって重ねた仲じゃないか! 情というものがないのか!」
醜い言葉が投げつけられる。
私は目をわずかに細めた。
「奪うことしか知らない人に差し出す情など、初めから持ち合わせておりません。尊厳を踏みにじった相手を、再び受け入れることはありません」
給仕を呼び、私は席を立った。
「数字は嘘をつきません。破綻したのは、あなたが己の無能に見合わない虚栄を選んだ結果です」
「待て! エレノア! エレノアァッ!」
警備員に取り押さえられ、石畳に組み伏せられるヴィルフリートの叫びが背後から聞こえた。
それでも、私の足が止まることはなかった。
もう、彼の冷めたスープを温め直す必要はない。
澄んだ空気の中、私は自分の足で、新しい執務室へと歩き出した。




