西田朋代の罪の意識とほっこり飯
古びたビルの3階、京都の地域密着型スーパーマーケットの事務室には、換気扇の低い唸りと蛍光灯の微かなチカチカという音だけが沈殿していた。
西田朋代、35歳。
この場所で伝票の数字をパソコンに打ち込む作業を繰り返すようになって、早くも5年が経過している。
高校を卒業した当時、彼女の目の前には荒野しかなかった。
机にかじりつく忍耐も、未来を切り拓くための学力も持ち合わせておらず、当然のように大学進学という選択肢は消滅していた。
20代前半は、その日暮らしのパートやアルバイトを渡り歩く、実体のない煙のような日々。
20代後半、ふと鏡に映った自分の虚ろな表情に戦慄し、ようやく重い腰を上げて就職活動を始めた。
学歴も職歴も乏しい彼女を拾う場所は少なく、2年という月日を泥の中に足を取られるような思いで彷徨った末、ようやくこの中規模なスーパーの正社員という、か細い蜘蛛の糸を掴み取ったのだ。
その間、人並みの幸福を求めて異性との交際を試みたこともあった。
しかし、彼女の内に潜む棘だらけの気性と、歪んだ性格は、隠そうとしてもすぐさま綻びとなって露呈した。
「性格がきつい」「一緒にいて疲れる」
甘い言葉は数日と持たず、相手を詰り、支配しようとする刺々しい本性が鎌首をもたげる。
せっかく手に入れた縁も、砂が指の間から零れ落ちるように、短期間で次々と壊れていった。
30歳の大台を越えた頃、周囲の結婚報告という銃声に追い詰められるようにして、婚活パーティーの門を叩いた。
けれど、そこでも彼女の化けの皮は一瞬で剥がれ落ちた。
必死に作った笑顔の裏側に透けて見える「焦燥」と「打算」、そして隠しきれない性格のきつさ。
戦績は全敗。
気づけば35歳という、引き返せない崖っぷちに立たされている自分に気づき、本気で人生に絶望し始めていた。
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朋代には、かつて共に悪さをし、笑い合っていたはずの「親友」もいた。
しかし、今ではその消息すら定かではない。
SNSを開けば、自分とは対照的に柔らかな陽光の中で幸せな家庭を築いているであろう彼女たちの幻影が、呪いのように朋代を苛む。
「きっとあいつは、私と違って何不自由ない暮らしをしているに違いない」
そんな根拠のない劣等感が、ドロドロとした黒い澱となって胸の底に溜まっていく。
学生時代の自分を振り返れば、そこにあるのは後悔という名の荒れ地だ。
授業をサボり、学校にも行かず、繁華街で虚勢を張り続けていた奔放な時間。
お世辞にも素行が良いとは言えなかった、むしろ暴力的なまでの我儘を振りかざしていたあの頃のツケが、今、利子となって彼女の肩に重くのしかかっている。
「もっとあの時、普通に真面目に生きていれば……」
唇から漏れそうになる嘆きを、朋代は必死に飲み込んだ。
そんなことを今更考えたところで、時計の針は1秒たりとも逆回転はしてくれない。
カタカタ、カタカタ。
無機質な打鍵音だけが、彼女の焦燥を誤魔化すように事務室に響き続ける。
溜まりに溜まった事務仕事を、機械的に、そして盲目的にこなすことだけが、今の彼女に許された唯一の現実逃避だった。
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##再会の期待と冷ややかな沈黙
そんな閉塞感に満ちた日常に、1通の葉書が舞い込んだ。
小学校の同窓会の案内状。
自宅でその白い紙を眺めていた朋代の脳裏に、1人の少女の顔が鮮明に浮かび上がる。
「……真由美も、来るかな」
木村真由美、小中学校を共に過ごした、かつての親友。
今は連絡先すら分からなくなっていたが、このチャンスを逃す手はない。
朋代は久しぶりに心からの笑みを浮かべ、参加の欄に力強く丸を付けた。
そして翌日。
カタン、と乾いた音を立てて葉書が郵便局の前に設置してあるポストへ吸い込まれる。
それからの朋代は、指折り数えて当日を待ちわびた。
真由美と再会して、積もる話をしながら連絡先を交換し、失われた時間を取り戻す。
その淡い期待だけが、今の彼女を支える唯一の糧となっていた。
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そして迎えた同窓会当日の土曜日。
夕暮れ時の京都、会場となったホテルの宴会場には、久方ぶりの再会を喜ぶ声が溢れていた。
意気揚々と乗り込んだ朋代は、白髪の増えた担任や、面影を残しつつも大人になったクラスメイトたちに、精一杯の笑顔を振りまく。
しかし、会場を何度見渡しても、最も会いたかった真由美の姿だけが見当たらない。
グラスを片手に、朋代は幹事を務める男女の元へ歩み寄った。
「なあ、真由美って来てへんの?」
その問いを投げかけた瞬間、女性幹事の顔から笑みが消え、悲しげな影が差した。
「……ああ、真由美、か……」
隣の男性幹事も、気まずそうに視線を逸らす。
「え、どないしたんよ?」
朋代が詰め寄ると、女性幹事は絞り出すような声で答えた。
「真由美には、連絡は出してないで」
「え? なんでよ?」
朋代が首をかしげると、女性幹事は信じられないものを見るような目で彼女を射抜いた。
「朋代って仲良かったと思ってたけど……真由美がどうなったかは、知らんの?」
「親友ではあるけど、社会人になってから疎遠になってしもて。アタシも色々忙しかったし。そんで、今日は会うて連絡先交換するつもりやったのに……」
女性幹事は深く、溜息を吐き出した。
「そっか。……まあ、正直みんな話題にしたくないから。多分、誰に聞いても答えてくれへんと思うよ。気になるんなら、自分で調べて」
ぴしゃりと拒絶され、それ以上聞き出すことは出来なかった。
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諦めきれない朋代は、他の元クラスメイトたちにも真由美の行方を尋ねて回った。
しかし、誰もが彼女の名を聞いた途端、耳を塞ぐように話を逸らすか、無言で立ち去ってしまう。
楽しげな歓談の輪の中に、真由美の名前だけが「禁忌」として浮き上がっていた。
「なんで……なんで誰も教えてくれへんのよ」
意気揚々と乗り込んだ同窓会だったが、会場に響く笑い声やグラスの触れ合う音さえ、今の彼女には不協和音にしか聞こえない。
結局、何の手がかりも得られないまま、朋代は同窓会の途中で会場を後にした。
会場となったホテルの外に出ると、夜の冷気が火照った顔に突き刺さる。
かつての親友に会えるという期待は、正体の分からないモヤモヤとした不安へと形を変え、彼女の胸の奥に重く沈殿していった。
暗い夜道を歩きながら、朋代は幾度も真由美の名を頭の中で繰り返した。
かつての自分の「素行」が、今のこの不自然な沈黙に関係しているのではないか。
そんな根拠のない恐怖が、ひたひたと彼女の背後に忍び寄っていた。
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夜の京都。冷え込んだ路地を、朋代はヒールの音を響かせながら一人歩いていた。
ホテルの宴会場の喧騒はもう遠い。
「真由美のことが気になって、全然食べんと抜け出してきてしもたな。同窓会のお金出したのに、勿体なかったかも」
財布の中の減り具合を思い出し、朋代は苦い顔をした。
「それに、同窓会で稼いでそうな男子とも連絡先交換しとけばよかった。損した気分やわ」
独り言のように漏れる不満。打算的な思考が、今の彼女を支配していた。
ふと、胃のあたりに空腹を感じる。
「久々に、真由美と中学時代にちょくちょく行ってたファミレスで、サラダバーとチーズグラタンでも食べよかな。安くてお腹にたまるって言うて、よう食べてたっけ」
懐かしい記憶に、朋代の口元がわずかに緩んだ。
だが、その時。
誰もいないはずの街灯の下。オレンジ色の光に照らされて、奇妙な影が一つ落ちていた。
よく見ると、そこにいたのは小柄な女の子だった。
ベレー帽に、ズボンタイプの黒いセーラー服。
まん丸な目と、台形の形に開いた不思議な口元が、じっと朋代を射抜いている。
「どしたん、お嬢ちゃん。家に帰るとこか? 塾帰りとか?」
朋代が声をかけると、女の子は無表情なまま口を開いた。
「えらいこっちゃ」
低く、独特な響きを持った一言だった。
「え? えらいこっちゃって? なんや、困りごとか? 迷子とか?」
朋代が首をかしげると、女の子は自分を指差して答える。
「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんとか呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」
「ああ、そうなん? それで、えらいこっちゃんは、じーっとアタシを見て、なんかようなん?」
えらいこっちゃ嬢は、さらに朋代に一歩詰め寄った。
「腹の虫が聞こえて、えらいこっちゃ」
――ぐう~っ。
その言葉に呼応するように、朋代の腹から盛大な音が鳴り響いた。
「あはは、晩御飯食べ損ねてん。確かに、えらいこっちゃやな。折角お金払ったのに、元とれへんかったわ」
朋代は自嘲気味に笑った。
しかし、えらいこっちゃ嬢の瞳に笑みはない。
「腹の虫は、報いを受ける鐘の音。えらいこっちゃ」
びしっと言い放たれた言葉に、朋代は虚を突かれた。
「え?」
意味が分からず硬直する朋代の隙を突き、女の子はいつの間にか至近距離まで踏み込んでいた。
そして、朋代の右手首をぎゅっと、驚くほど力強く掴み取った。
「やんちゃねえちゃん御一名。ウチが働く店で晩御飯食べへんかったら、えらいこっちゃ」
「え!? ちょ、ちょっと待って!?」
その小柄な体のどこにそんな力が隠されているのか。
朋代は悲鳴に近い声を上げるが、鉄の枷で繋がれたかのような力で、強引に暗い路地の奥へと引きずられていく。
なす術もなく連れ去られる彼女の視界の中で、夜の京都がぐにゃりと歪んだような気がした。
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えらいこっちゃ嬢の小さな手に強引に引かれ、夜の闇が濃い路地を幾度も曲がる。
ヒールの音が石畳に不規則に響き、朋代が息を切らし始めた頃、目の前にしっとりと落ち着いた佇まいの木造建築が姿を現した。
温かみのある灯りに照らされた正面の看板には、「摩訶不思議食堂」という風変わりな店名が掲げられている。
「なにこれ、和風レストランなん? まあ、晩御飯食べ損ねたし、どこでもええけどさあ……」
朋代が毒づくように呟く暇もなく、えらいこっちゃ嬢は勢いよく引き戸を開け放った。
ガラガラッ! という威勢のいい音が店内に響き渡る。
「えらいこっちゃになってしまいよる直前の、やんちゃねえちゃん御一名!」
少女の鋭い声が、客席の空気を震わせた。
彼女は朋代の背中をぐいと押し、有無を言わせぬ所作でカウンター席へと案内すると、そのまま風のように店の奥へと消えていった。
案内されるままに椅子に腰を下ろした朋代が、店内の不思議な調度品に目を奪われていると。
カウンターの向こう側から、ぬっと、まるでお地蔵さんがそのまま動き出したかのような影が音もなく現れた。
「えらいこっちゃん、お帰りなさいまし。御客様、いらっしゃいまし」
それは本物の仏像としか思えない、穏やかな顔立ちをした作務衣姿のお地蔵さんだった。
彼はニコニコとお地蔵さんそのものの笑顔を浮かべ、胸の前で丁寧に合掌してお辞儀をした。
「は、はあ……。えっと、一応名刺がありますけど。婚活用にいつも持ち歩いてるから」
その圧倒的な慈愛のオーラに気圧された朋代は、場違いだと思いながらも、財布から1枚の名刺を取り出してカウンターに置いた。
するといつの間にか、ベレー帽はそのままに、黒い作務衣の上に真っ白な割烹着を纏ったえらいこっちゃ嬢が戻ってきており、ジーっと名刺を見つめている。
「ご丁寧に有難う御座います。私はこの店の店長をさせて頂いております。地蔵店長と皆さんは呼んで下さいます」
店長は笑顔のまま合掌して挨拶を続ける。
「西田朋代さんっと仰るのですね。えらいこっちゃんが、そちらの名刺に興味を示していらっしゃいますから。えらいこっちゃんにお渡し頂けますと嬉ゅう御座います」
ニコニコとお地蔵さん笑顔で促され、朋代は戸惑いながらも名刺を少女の方へ差し出した。
「あ、そうなん? ほな、はい」
えらいこっちゃ嬢は、ひったくるように名刺を受け取ると、至近距離でその文字を食い入るように見つめ始めた。
「ジー……。役職とか属性が書いてへん、えらいこっちゃ」
少女の言葉に、朋代は思わず噴き出した。
「あはは、アタシはただの平社員やもん。そんな大層な肩書きなんて書けへんよ」
だが、えらいこっちゃ嬢の瞳は一切笑っていなかった。
彼女は名刺から視線を外さず、地獄の底から響くような低い声で言い放った。
「『いじめっ子』『罪咎人』って書いてへん、えらいこっちゃ」
「……え?」
その瞬間、朋代の心臓が凍り付いた。
少女はそれだけを言い捨てると、名刺を持ったまま、冷淡な足取りで厨房へと戻っていく。
朋代の脳裏に、封印していたはずの学生時代の残酷な記憶が、泥水のように一気に溢れ出した。
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##驚愕の厨房と猫蛙の共演
「いじめっ子」という、耳を疑うような不穏な言葉を叩きつけられ、朋代は呆然と立ち尽くしていた。
しかし、そんな重苦しい沈黙を切り裂くように、彼女の腹の虫が無遠慮に鳴り響く。
――ギュルルルルルッ。
そのあまりに情けない音に、朋代の顔が真っ赤に染まる。
すると、その音を待っていたかのように、えらいこっちゃ嬢が厨房から年季の入ったメニュー表を携えて戻ってきて、彼女はそれを無造作に朋代の目の前へ差し出した。
突き出されたメニューを、朋代はおそるおそる手に取って開く。
そこには、手書きの温かい文字で「チーズグラタン・サラダと珈琲付き」という品書きが記されていた。
「うわ、うそやん……さっき道すがら食べたいなあって思ってたやつや。ほんまにベストタイミングすぎて怖い気がするわ。まあでも、食べたかったものやし。ほな、迷う必要ないな。このチーズグラタンのサラダと珈琲付きのセットにします!」
朋代は思わず身を乗り出し、期待に目を輝かせながらメニュー表をえらいこっちゃ嬢に手渡した。
「チーズグラタンセット1丁! 猫子さんの濃厚グラタンと、蛙仙人さんの採れたて新鮮野菜の最強コンビネーション! 魂が震えるほどの、えらいこっちゃな美味さ!」
えらいこっちゃ嬢は、小さな体に見合わないほど威勢の良い声を張り上げ、再び厨房の奥へとパタパタと消えていった。
「猫子さん……? なんや、最近のカフェみたいな可愛らしい名前やな」
朋代は、先程のトゲのある言葉を空腹の期待で無理やり上書きするように、カウンター越しに厨房の様子を覗き込んだ。
そこでは、調理の音がリズム良く響いている。
そこにいたのは、黒髪で穏やかな顔立ちをした、不思議な魅力を湛えた女性料理人だった。
しかし、彼女の頭頂部からは、ピンと尖った黒い猫耳が突き出している。
猫子と呼ばれた彼女は、紅い着物に真っ白な割烹着を纏い、猫耳が出るように工夫された三角巾を深く被っていた。
「ふふん、ふふーん♪」
鼻歌交じりにベシャメルソースをかき混ぜる彼女の指先は、驚くほどしなやかで、その猫耳は音に反応するようにピクピクと愛らしく動いている。
さらにその傍らでは、まな板に向かって瑞々しい野菜を刻む別の料理人がいた。
「ほっ、ほっ……」
蛙仙人と呼ばれたその人物は、全身が鮮やかな緑色の肌をした、正真正銘の『蛙』の姿をしていた。
横一直線の瞳孔を持った、穏やかで優しい目をした彼は、深い緑の着物に白い割烹着を羽織っている。
彼はチキンシーザーサラダの盛り付けに集中しており、その指先は驚くほど繊細に野菜の彩りを整えていた。
「な、なんなん、これ……猫と蛙が料理しとるん!? これ、着ぐるみとかやなくて、本物……?」
朋代はあまりの衝撃に、椅子からずり落ちそうになりながら目を白黒させた。
目の前で繰り広げられる、種族を超えた料理人たちの共演。
摩訶不思議なその光景に、彼女は言いようのない不安と、それを上回る強烈な好奇心に飲み込まれていった。
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##報いの鐘と至高のグラタン
しばらくすると、厨房の奥から鼻をくすぐる香ばしい香りが漂ってきた。
えらいこっちゃ嬢が、焼きたてのチーズグラタンと瑞々しいサラダを乗せたトレイを、小さな体で器用に、そして驚くほど静かに朋代の前へと置いた。
えらいこっちゃ嬢は空いたお盆を脇に抱え、真剣な眼差しで朋代を見つめる。
「合掌頂きますは基本中の基本。やらんやっちゃは、礼儀知らずのえらいこっちゃ」
突き放すような、けれどどこか芯のある言葉。
朋代は毒気を抜かれたように、素直に両手を合わせた。
「あ、うん……頂きます」
指先まで意識を集中させ、丁寧な合掌をする。
彼女はまずフォークを手に取り、彩り豊かなサラダから口に運んだ。
「な、なにこれ、レタスが驚くほどシャキシャキしてる……! 細かく千切りにされた人参は、まるでフルーツみたいな甘みがあるし……程よい辛みの玉ねぎとドレッシングがめっちゃ合ってる」
新鮮な野菜の細胞が弾ける音を聞きながら、彼女の表情は自然とほころんでいく。
「それに、しっとりした鶏肉が入ってるんも嬉しいなあ。これだけで1つの料理として完成してるわ」
あっという間にサラダを平らげると、朋代は期待に胸を膨らませてメインのグラタンに手を付けた。
フォークでこんがりと焼けたチーズの膜を突き破り、ホワイトソースをたっぷり纏ったマカロニを1口、慎重に掬い上げる。
「ふー、ふーっ。……パクッ。……うわ、めっちゃ美味しい! 今まで食べたグラタンの中で間違いなく1番や!」
熱々のソースが舌の上でとろけ、濃厚なチーズのコクが口いっぱいに広がった。
「ファミレスのとは全く違う、手間暇かけられた本格的な店のグラタンやわ。マカロニの茹で加減も最高……」
朋代は至福の表情で、一口一口を慈しむように味わい尽くす。
同窓会からの帰り道、あんなにトゲトゲしていた心が、温かな食の魔法によって少しずつ、柔らかく解きほぐされていくのを感じていた。
そして、最後の1口まで綺麗に食べ終えた朋代は、心地よい満腹感の中で深く息を吐いた。
「最初は格式高い和食の店かと思って身構えたけど、こんなに美味しいご飯が食べられるなら、常連になってもええなあ」
かつての荒んだ記憶も、未来への焦燥も、この瞬間だけはどこか遠い出来事のように思えた。
彼女は満足感に浸りながら、ほっこりとした笑顔を浮かべてカウンターの奥へと視線を送った。
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##追憶の香りと予期せぬ来訪
至福の余韻に浸る朋代の前から、えらいこっちゃ嬢が手際よく空いた皿を片付けていく。
カチャリ、と小さな陶器の音を立ててトレイに乗せると、彼女は一礼して厨房へ下がり、すぐさま食後の珈琲を運んできた。
お盆の上には、深みのある黒い陶器のカップ。
そして、小さな銀の容器に入った珈琲ミルクと、真っ白な砂糖が添えられている。
えらいこっちゃ嬢は、それらを儀式のように静かで丁寧に、朋代の目の前へとそっと置いた。
立ち上る湯気と共に、焙煎された豆の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。
朋代は添えられた砂糖を1匙落とし、白濁としたミルクを少しだけ注ぎ入れた。
銀のスプーンがカップの縁に触れる、澄んだ音が心地よく店内に響く。
……ごくり。
「……うわぁ」
一口含んだ瞬間、朋代の瞳が驚きで見開かれた。
「コーヒーチェーンの珈琲どころか、今まで背伸びして入った本格喫茶の珈琲も余裕で超えてるんちゃう? コーヒーの味なんてあんまり詳しくないアタシでも、これがどれだけ上等で美味しいもんか、はっきりとわかるわ……」
熱い液体が喉を通るたびに、体の中からじんわりと強張った力が抜けていく。
しかし、その安らぎは、不意に切ない記憶の扉を叩いた。
朋代はカップを持ったまま、ふーっと長く重いため息をついて「ほっこり」する。
「あの頃は、お金もなくてファミレスばっかりやったけど……。こうして大人になってから、真由美と一緒に、ここのグラタン食べたり、こんな珈琲飲んだりしてみたかったな。……あの子、今、一体どこで何しとんにゃろ」
かつての親友の笑顔を思い浮かべると、温かな珈琲を飲んでいるはずなのに、胸の奥だけがひんやりと冷えていくような感覚に襲われた。
同窓会での皆の沈黙、拒絶された真由美の話題。
彼女を包む不可解な闇が、この温かな空間に影を落とし始めた、その時だった。
ガラガラッ――
静寂を破るように、店の古い引き戸が開く乾いた音が響き渡った。
入り口から流れ込んできた夜の冷気と共に、新たな誰かが足を踏み入れる気配が、店内の空気を一瞬にして変質させる。
「いらっしゃいまし」
地蔵店長の穏やかな声が、入り口へと向けられた。
朋代はカップを置くのも忘れ、吸い寄せられるようにその扉の方へと視線を向けた。
彼女の運命を大きく揺るがす再会、あるいは新たな波乱の幕開けを予感させるように、外の闇がゆらりと揺れた。
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## 夜の静寂を切り裂く再会
入口の引き戸が開く乾いた音に誘われるように、朋代はカウンター席からゆっくりと振り返った。
そこには、夜の闇を背負って立つ2つの人影があった。
1人は、周囲の空気を一瞬で華やかに塗り替えるような、強烈な存在感を放つ超絶美少女だった。
黒地に金色の花が豪華に刺繍された美しい着物を着こなし、腰まで届く鮮やかな金髪をシュシュで左側の高い位置にサイドテールとして束ねている。
ぱっちりとした金色の瞳は爛々と輝き、その頭上の左右からは、漆黒の鎌のような形をした角が天を突くように生えていた。
もう1人は、対照的に生気を失ったような佇まいの女性だった。
朋代と同い年くらいの年齢に見えるが、その顔は不気味なほど青白く、纏っているのは死装束を連想させる真っ白な着物。
ギャル風の美少女は、隣の女性を促しながら、弾むような足取りで店の奥へと進んできた。
「おつー♪ 連れて来たよー♪」
美少女は片手をひょいと上げて、親しみやすい笑顔で店内に挨拶した。
地蔵店長は、その来訪を待っていたかのように、穏やかなお地蔵さん笑顔を深めて両手を合わせた。
「女鬼さん、いらっしゃいまし。有難う御座います。そして……ようこそおいで下さいました」
えらいこっちゃ嬢も、奥から飛び出してきて千切れんばかりに手を振る。
「女鬼ねえちゃん、いらっしゃい! 流石のグッドタイミング、超絶シゴデキ鬼の美少女さん! 舐めてかかると火傷しまくって、えらいこっちゃ!」
朋代は、その異様な光景にただただ圧倒されていた。
特に、美少女の頭から生えるあの物体。
「え? このめっちゃ可愛い子、角生えてるんか? それとも、最近のリアルなカチューシャかなんか……?」
朋代の困惑を敏感に察したのか、女鬼と呼ばれた可愛らしく美しい少女は、いたずらっぽくウインクを贈った。
「あーしはモノホンの鬼だよー♪ これ、紛れもないモノホンの角だかんねー♪」
彼女は自分の角を指先でコツコツと叩いて見せ、ケラケラと快活に笑った。
「ま、あーしの事はいいからさ。はい、挨拶して」
女鬼は隣で俯いたままの、白い着姿の女性の肩を軽く叩いた。
静寂が支配する店内で、その女性がゆっくりと顔を上げた。
「……朋代、久しぶり」
心臓が、跳ねるのを忘れたかのように止まった。
朋代はその掠れた声を聞いた瞬間、全身の血が逆流するような衝撃に襲われた。
「え……?」
目の前の女性の顔を凝視する。
酷く青白く、やつれてはいるが、そこには確かに忘れるはずのない記憶の断片が刻まれていた。
「……もしかして、真由美? 確かに、面影があるし……ほんまに、真由美なん?」
朋代の震える問いかけに、白い着物の女性は力なく、けれど確かな響きを持って答えた。
「うん……木村真由美やで。……やっと会えたな」
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##再会と沈黙の深淵
朋代は、1瞬だけ時間が停止したかのようにその場で硬直した。
しかし、次の瞬間には、堰を切ったように喜びを爆発させた。
「うわー! 懐かしー! どしたん真由美、着物やんか! もしかして、着物の着付けの仕事でもしてるとか? 横におるその子は後輩?それにしても、ほんまに懐かしいわあ!」
朋代は勢いよく立ち上がり、椅子を鳴らしてはしゃぎ声を上げた。
「今日は同窓会やったのに、真由美が来てへんから、どないしたんやろうかなってずっと心配しててん。同級生らはな、なんも話してくれへんどころか、なんか真由美の話題をわざと避けてるみたいでさ。なんや、仕事でどうしても来られへんかっただけやったん?」
そのはしゃぎっぷりとは対照的に、真由美の表情はぴくりとも動かない。
彼女を包む空気は、どこまでも冷たく、静まり返っている。
「……ついこの前まで、薬飲んで寝てたから」
真由美の低く、湿り気を帯びた声が店内に落ちる。
「え!? そ、そうなん? 確かにちょっと顔色がよくなさそうやし……そっか、薬飲んで寝てたって事は、病気してたんやね。それで、あいつらも気まずかったんかな。ほら、アタシら親友やから、余計な心配をかけたくなかったとか、そういう事やろ。水臭いなあ」
朋代は自分を納得させるように、矢継ぎ早に言葉を重ねた。
「でも、今ここにいるって事は、無事に回復したんやね。よかったわ。まあ、病み上がりやったから流石に同窓会はキツかったんか。幹事の子らが連絡を出さへんかったんも、来られへんのがわかってたからなんやろな」
「……まあ、私が行けへんのは、わかってたやろね」
真由美は自嘲気味に、どこか遠くを見つめるような瞳で呟いた。
「病み上がりやったら無理せんときや。あ、じゃあここには回復祝いか何かで来たん? ここの料理、めっちゃ美味しいもんね! その後輩ちゃんに御馳走して貰うん?」
朋代が隣で余裕たっぷりに構える女鬼を指差して尋ねると、真由美は静かに首を横に振った。
「彼女は、後輩やないよ」
「あ、そうなん? ほな、どういう関係なん?」
朋代が不思議そうに首をかしげる。
「……それを話すには、私の今の状況を、ちゃんと話さなあかんね。最も、そのつもりでここに来たんやし」
真由美の瞳に宿った、あまりに鋭く、そして深い絶望を含んだ真剣な光。
それを見た瞬間、朋代の胸の奥でドクンと嫌な鼓動が跳ねた。
得体の知れない悪寒が背筋を駆け抜け、彼女は反射的に開いた口を閉ざし、そのまま黙り込んだ。
店内の賑やかだったはずの空気が、まるで真空に包まれたかのように、一気に重く沈み込んでいった。
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##枕飯と静かなる告白
真由美の放つ、あまりに冷たく、そして生者とはかけ離れた異質な気配に気圧された朋代は、弾かれたように椅子へと座り直した。
それまで茶目っ気たっぷりに振る舞っていた女鬼が、まるで別人のような、洗練された淀みのない所作で真由美の隣の椅子を引く。
「……はい、座って。」
女鬼のその一言は、短くも慈しみに満ちた響きを伴っていた。
促されるまま、真由美は力なく、しかし何かに導かれるように静かに腰を下ろした。
カウンターの奥で全てを見届けていた地蔵店長が、深く、どこまでも穏やかに慈しむような笑顔を浮かべ、胸の前で両手を合わせた。
「御用意出来ております。」
その声は、現世の喧騒を忘れさせるほどに澄み渡っていた。
店長の言葉に応じるように、えらいこっちゃ嬢が音もなく厨房へと戻り、すぐにお盆に「何か」を乗せて戻ってきた。
彼女はそのお盆を、敬意を込めた眼差しで女鬼へと手渡す。
お盆を受け取った女鬼の表情から、先程までのギャル特有の軽薄さは完全に消え失せていた。
金色の瞳に厳かな光を宿し、彼女は一歩、また一歩と真由美の前へと歩み寄る。
その足取りは、まるで神聖な儀礼を執り行う司祭のような、圧倒的な威厳に包まれていた。
女鬼は、一切の音を立てることなく、指先の動き一つひとつに至るまで究極に洗練された美しい所作で、その「何か」を真由美の目の前へとそっと置いた。
それを見た瞬間、朋代は息を呑み、両目を見開いたまま凍りついた。
「……っ!?」
真由美の前に置かれたもの。
それは、真っ白な陶器の茶碗に高く、円錐状に盛られた純白の米飯。
そしてその中央には、天を指すようにして一膳の箸が、垂直に、無慈悲なまでに真っ直ぐに突き立てられていた。
それは、現世の人間が口にする「食事」ではない。
亡くなった者の枕元に供えられる、死者のための最後のご飯。
枕飯。
その光景が意味する残酷な真実が、鋭い刃となって朋代の胸を突き刺した。
真由美は、その供物を前にしても驚く様子もなく、ただ静かに、敬虔な祈りを捧げるように合掌して一礼した。
彼女の細く白い指が、中央に立てられた箸へと伸びる。
「……」
真由美は迷いのない動作でその箸を抜き取ると、再び静かに合掌し、かすかな声で呟いた。
「……頂きます。」
カチ、と箸が茶碗の縁に触れる、か細い乾いた音が店内に響き渡る。
真由美は一口、また一口と、その「死者の飯」を自らの口へと運んでいく。
朋代は、隣で静かに、しかし着実に食事を進める親友の姿を、恐怖と悲しみが混ざり合った混濁した意識で見つめ続けることしかできなかった。
店内の空気は、もはや現世の重力さえも失ったかのような、深淵なる静寂へと沈み込んでいった。
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##死者の糧と残酷な再会
朋代の脳裏に、幼い頃にテレビにかじりついて見ていた光景が鮮烈に蘇った。
それは、古ぼけた異国の導師が、額にお札を貼られた死者――キョンシーと闘うカンフーアクションドラマ。
劇中で、命を落とした者たちの前に供えられていたあの異質な食事の形が、今、目の前にある光景と完全に重なった。
「……っ!」
喉の奥が引き攣り、言葉にならない悲鳴が漏れる。
女鬼は、金色の瞳を細め、射抜くような視線で朋代を凝視した。
「やんちゃねえちゃんは、見た事はあるみたいだね。これはね、『枕飯』って言って、『一膳飯・一杯飯・一合飯』とも呼ばれている御飯だよ」
その声は、先程までの明るさは微塵も感じられないほど、冷徹で凪いでいた。
「どういう、こと……?」
朋代の顔から血の気が一気に引き、唇が小刻みに震え始める。
「意味、知りたい?」
女鬼は表情を消し、人形のような冷たさで朋代を見つめ返した。
店内の空気は氷点下まで下がったかのように、肌を刺す冷気が這い回る。
「御箸が垂直に立ててあるのはね、あの世とこの世を橋(箸)渡しするって意味と、冥土までの長い道のりの道標って意味があったりするんだよね。それから……」
女鬼は、真由美が淡々と箸を運ぶ様子を横目に、冷淡に言葉を継いだ。
「墓標に見立てる意味でも、御箸を中央に差す決まりがあってね。だからさ、間違っても日常の食事でこんな御飯の出し方をしたら、礼儀知らずで無礼者だって顰蹙かっちゃうからやめときなよ。……もっとも、そんな機会はないだろうけどさ」
静まり返った店内に、カチ、カチと真由美が茶碗を叩く乾いた音だけが虚しく響く。
「ここまで説明したら、もうわかるよね」
女鬼の言葉が、鋭い刃となって朋代の逃げ場を塞いでいく。
ガタガタガタッ、と朋代の座る椅子が音を立てて震え出した。
恐怖に支配され、呼吸の仕方を忘れたかのように喘ぐ朋代に対し、女鬼は最後の一撃となる真実を突きつけた。
「真由美さんが食べてるのは、これからの旅の空腹を満たすための、死者の最後の食事……ってこと」
女鬼の声が、宣告のように重く響き渡る。
「つまり、真由美さんはもう、死んでるんだよ。ここは、生と死が曖昧に交差する場所。特別な空間での特別なタイミングが重なりまくった結果、やんちゃねえちゃんはこうして、死んだ真由美さんと会う事が出来たってわけ」
その淡々とした口調は、覆しようのない死という事実を、残酷なほど明確に突きつけていた。
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## 失われた誠実さと死者の独白
朋代が呆然自失の状態でその光景を見守る中、真由美は一粒の米も残さず、静かに、そして綺麗に枕飯を食べ終えた。
カチッ、と箸が置かれる微かな乾いた音が、静まり返った店内に吸い込まれるように響く。
真由美は深く合掌し、祈るような尊い所作で言葉を絞り出した。
「……感謝申し上げます」
その声は、現世の重力を持たない魂の底から響く、掠れた余韻を伴っていた。
地蔵店長は、どこまでも穏やかに慈しむお地蔵さん笑顔を浮かべ、同じように深く合掌してお辞儀を返した。
「御粗末様で御座います。」
朋代は、震える声をようやく喉から絞り出した。
「……っ、真由美。あんた、ほんまに……それ、どういう事なんよ」
真由美は、青白い顔を朋代の方へとゆっくりと向けた。
その瞳には、かつて学校の廊下で見せたような輝きはなく、ただ深い霧のような静寂だけが湛えられている。
「ほな、私の顛末についてやね。……逃げんと、ちゃんと話さなあかん」
彼女は覚悟を決めたように向き直り、自らの人生が崩壊していった過程を、重く、淀んだ口調で語り始めた。
「高校は朋代とは別々になってから、私は高校卒業後に一般企業に就職したんやけど……あんまりに長続きしなかったから、何回か入ったり辞めたりを繰り返しててん。……根気がな、どうしても続かへんかってん」
真由美は自嘲気味に目を伏せ、スッ、と膝の上で拳を握りしめた。
「私、中学生の頃は学習塾に行ってたんやけど、塾で出された宿題も真面目にやらんと、いつも誰かのを写させて貰ったりして、ズルばっかりしててん。……楽な方に逃げるんが、当たり前になってたんやね。自分の力で問題を解決するっていう、一番大事なことからずっと逃げてたんやわ」
朋代はその言葉に、心臓がドクンと激しく脈打つのを感じた。
自分自身は塾には通っていなかったが、学校の課題や提出物はどうだったか。
真由美が今言った事と、驚くほど重なる。
他人のノートを奪うようにして写し、さも自分がやったかのように装って提出する。
それが「日常茶飯事」だった頃の、卑怯で浅ましかった自分の姿が鮮明にフラッシュバックし、胃のあたりが重く沈んだ。
「そんな事してたからやろうね。こらえ性が無くて、真面目に課題をする習慣がついてなかったから……就職しても、なんかしんどい事があったらすぐ逃げるように辞めて。嫌な上官がおったらすぐ投げ出して。そんなんを繰り返してたら、気づけばいい歳になってしもて……」
真由美の白い肌が、店内の灯りに透けるように見えた。
「それで、30歳になった頃に、いよいよこのままやったら一生独りやし、人生終わるって、真面目に生きなあかんって危機感が募っててん。……でも、その焦りが、最大の隙になったんやろね」
真由美は、最も残酷な記憶の扉を開くように、重い口調で語を継いだ。
「30歳の時に出会った男と恋に落ちたんや。初めてこの人なら信じられるって思えたのに……そいつは、冷酷な詐欺師やった。粗悪な毛皮コートを、何百万円っていう法外な金額で売りつける……マルチまがいとデート商法を組み合わせた、あくどい商法の片棒を担がされてしもたんや。……断る勇気も、見抜く知恵も、あの時の私には無かった。楽をして生きてきたツケが、一気に回ってきたんやね」
フーッ、と真由美は長く絶望的なため息を吐いた。
「今やから言えることやけど……朋代の連絡先を知らんでよかった。もし知ってたら、朋代との仲も、私が自分の手で引き裂いてしまうところやったから。……あんたにまで、泥を塗るところやった」
彼女は一度言葉を止め、窓の外の闇を見つめた。
「もっとも……それ以外の人達の縁は、もう、私自身のこの手で全部引き裂いてしもたんやけどね。……友達も、親戚も、誰も私を信じてくれなくなったわ。自業自得って言うのはこういう事なんやね」
淡々と語られるその告白は、鋭い刃となって朋代の胸を容赦なく抉った。
朋代は、ただただ黙って、かつての親友の変わり果てた独白を、魂が削られるような思いで聞く以外に、何も出来なくなっていた。
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##連鎖する拒絶と積み重なる業
真由美の声は、湿り気を失った枯れ葉が擦れ合うような、ひどく乾いた響きを湛えていた。
彼女は感情を押し殺した無機質な瞳で、自らの転落の記録を、淡々と紐解き始めた。
「私は、卒業アルバムから同級生の連絡先を片っ端から引っ張り出して、なりふり構わず声をかけて行ってん。それだけやなくて、疎遠になってた親族や、自分の家族にまで手を伸ばしてしもて……」
真由美は、膝の上で白く細い指を震わせながら、遠い過去をなぞる。
「何度も何度も『それ、詐欺ちゃう?』『マルチまがいやん、やめとき』って、必死に止めてくれた人もおった。でも、私は既に彼と、彼の所属する会社にどっぷりと洗脳されてしもててな。『自分の高尚なビジネスを理解出来ない低能や』って、忠告してくれる人たちを心の中で馬鹿にして……そうやって、自ら大切な縁を一つずつ、無残に切り捨てていったんやわ」
朋代は、その言葉に、息をすることさえ忘れて聞き入っていた。
洗脳され、善意を拒絶し、高慢な態度で周囲を切り捨てていく真由美の姿。
それは、今の自分が職場で抱いている、周囲を見下すような歪んだ優越感と、どこか恐ろしいほどに重なって見えた。
「それから、34歳までそんな生活を続けてたある日のことや。……彼氏が、私名義のお金も、家財も、何もかもを奪って蒸発したんや。……その後、そいつは警察に捕まって会社も摘発されて消滅したけど、同時に私のこれまでの加害行為も公になって、犯罪者としての烙印が押された。私個人の転落なんて、三面記事にもならんようなちっぽけな事やったから、朋代が知らんかったとしても、それは無理ないことよ」
真由美は、自嘲気味に口角を歪めた。
その顔には、もはや後悔の涙を流すことさえ忘れたような、深い虚無が張り付いている。
「そんで……真由美は、どうしたん? その後、どうなったんよ……」
朋代は、潤んだ瞳で親友の横顔をなぞった。
真由美の壮絶な独白は、容赦なくその先へと続いていく。
「親からは完全に勘当されて、私を知る人たちからは総すかんを食らった。家族からも親戚からも、そして私が騙そうとした同級生達からも、連日のように誹謗中傷の嵐を浴びせられた後、絶縁された。当然の報いや。誰も私を助けてくれる人なんて、この広い世界のどこにもいなくなった。完全に、孤立してしもたんや」
真由美の声が、一段と低く沈み込む。
「犯罪者として、マルチやデート商法に手を染めた人間を雇ってくれる会社なんて、どこにもなかった。途方に暮れて街を彷徨ってた時、運悪く、住んでた古いアパートで火事があってな。……不思議なことに、私の部屋だけが跡形もなく焼けてしもて、住む場所も、僅かに残ってた思い出の品も、全部消えてしもたんや。……それから後も、不運は続いた。事故にあって体に後遺症が残ってしもて、唯一の稼ぎ口やった肉体労働も出来んようになって……。そうやって、私の人生の出口は、一つ、また一つと、残酷に塞がっていったんやわ」
朋代は、あまりにも救いのない親友の顛末に、耳を塞いで叫び出したい衝動に駆られた。
「もうやめて……聞きたくない……」と、心の叫びが喉元までせり上がってくる。
けれど、かつて親友であった彼女が、死してなおこの「食堂」で語ろうとする真実を、最期まで見届けなければならないという抗いがたい欲求が、彼女をその場に縛り付けていた。
朋代は、震える手で膝のスカートをぎゅっと握りしめたまま、ただ黙って、動くこともできずに真由美の背中を見つめ続けていた。
店内の空気は、もはや現世のものとは思えないほど重く、静謐な絶望に包まれていた。
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##名もなき標的と最後の希望
真由美は、空になった茶碗をじっと見つめながら、枯れ木のような指先で卓をなぞった。
「そうして気が付けば35歳になって、絶望している中で、ある求人を見つけてん。」
その声には、冷たい灰が積もるような虚無感が漂っている。
「覚えてる? 小学校時代に一緒やった子で、朋代とは3年生と4年生、私は5年生と6年生の時も一緒のクラスやった男の子で、岸田君。」
唐突に投げかけられた名前に、朋代は思考を巡らせた。
「え? 誰やったっけ? 岸田……そんな名前の子、おったかなあ」
首をかしげる朋代に対し、真由美は表情ひとつ変えずに、記憶の泥を掬い上げるように言葉を継いだ。
「覚えてへんか……。席が隣になった時、よく私と朋代で、ちょっかいかけてた子。班の他の男子も一緒になっていじめてた子や。」
真由美の静かな、けれど鋭い指摘。
その瞬間、朋代の脳裏に、教室の隅で縮こまっていた、目立たない一人の少年の輪郭が鮮明に浮かび上がった。
「岸田……あ! 思い出した、『くちゃくちゃ』やん!」
朋代は思わず声を上げた。
それは、いじめの対象に付けられた、残酷で取るに足らないあだ名だった。
「……『くちゃくちゃ』か……。」
真由美は、その言葉を反芻するように低く呟いた。
その響きには、かつての自分たちの浅ましさに対する、底冷えするような軽蔑が混じっている。
「その『くちゃくちゃ』がどうしたん? 何か関係あるん?」
朋代の問いに、真由美はうつろな瞳を向けた。
「……なあ、なんで私と朋代って、あの男の子を『くちゃくちゃ』って言ったんやったっけ?」
「え? それは……なんでやったっけ。そんな大昔のこと、覚えてへんわ……」
朋代が口ごもると、真由美は突き放すように、淡々と告げた。
「……情けないよね、私達。ほな、これは朋代の宿題やね。ちゃんと自分で思い出しや。」
真由美の言葉は、逃げ場を塞ぐ呪文のように朋代の耳にこびり付いた。
「え……?」
戸惑う朋代を置いて、真由美は話を先へと進めた。
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### 崖っぷちで見つけた「光」
「その岸田君はね、フリーランスでIT関連の仕事で成功してて、事務の仕事をしてくれる事務員の募集と同時に、ビジネスパートナーになれるような人を探して求人を出しててん。パートナーと言っても、男女のパートナーやないよ。仕事上の相棒みたいなもんやね。」
真由美は、その求人を見つけた時の高揚を思い出すように、細い息を吐いた。
「助かったって思った。彼にはマルチまがいの時に声をかけてへんかったから、過去の私の悪行を知らんはずや。彼なら、きっと私を雇ってもらえるやろうって。藁にもすがる思いで応募したんやわ。」
それは、どん底の淵にいた彼女が見つけた、人生をやり直すためのたった一筋の光だった。
しかし、真由美の瞳から光が完全に消える。
「でも……それが、とどめやった。」
言い放たれた一言に、店内の温度がさらに下がったような錯覚に朋代は陥った。
真由美の表情は、もはや生きた人間のそれではなく、深い絶望の底から自分を見つめる「亡者」のそれだった。
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##とどめの不採用と自業自得の幕切れ
「とどめ」という、あまりに不吉で重たい響きに、朋代の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
カウンターの珈琲はいつの間にか冷め、カップの底でどろりと黒い影を落としている。
真由美は、感情の枯れ果てた瞳で虚空を見つめながら、最期の引き金を引いた日のことを語り始めた。
「それで、面接当日。私はこれまでの惨めな生活を全部ひっくり返せると思って、意気揚々と彼のオフィスに会いに行ったんよ。彼が仕事場にしてるオフィスは、京都のオフィス街にある、ベンチャー企業が集まるエリアの一角やった。そこの建物の中にある小さめの一部屋で、彼は一人でバリバリと仕事をしてたわ」
彼女は一度言葉を切り、自嘲気味に口角を歪めた。
「面接が始まって、彼に履歴書を渡した。彼が私の学歴に目を落とした瞬間、その目が大きく開いたんを今でも覚えとるわ。……最初はね、学歴不問とは書いてあったけど、やっぱり高卒の私じゃあかんのかなってドキドキした。でもね、朋代。問題は、そこやなかったんよ」
「……何が問題やったん?」
朋代の声は微かに震えていた。
「私は親から勘当されて、苗字も変えてたから、彼は最初は私があの『木村真由美』やとは気づかへんかったんやろね。面影はあるなとは思ってたやろうけど……。でも、履歴書の旧姓欄を見て、彼は察したんやわ」
真由美は、冷たくなった指先で卓をなぞった。
「岸田君は真っ直ぐに私を見てこう聞いたわ。『旧姓は木村。……つまり、木村真由美さんですか?』って。……私はね、あろうことか、舞い上がってしもてん」
真由美の口から、乾いた笑いが漏れた。
「『そうそう! 覚えてくれてたん? 懐かしいわあ。あんたはあんまり変わってへんのやね。あの頃の「くちゃくちゃ」のままやんか』……って。……あはは、笑えるやろ? 朋代。私はその期に及んで、かつての被害者に対して、あの卑しいあだ名を投げつけたてしもたんやわ」
「え……っ」
朋代は絶句した。
今の自分なら、それがどれほど致命的な一言か理解できる。
けれど、当時の自分たちにとっては、それが「親しみ」や「上下関係」を確認するための、当然のコミュニケーションですらあったのだ。
「そしたらね、彼は表情一つ変えずにこう言わはったわ。『不採用です。今すぐお帰り下さい。タクシー代は出しますから』って」
真由美の声から、温度が完全に消えた。
「あまりに唐突な拒絶に、私は耳を疑った。理由を聞いても、彼は淡々と、けれど鋭く私を射抜いて言ったわ。『僕はあなたの人間性を知っています。塾で僕に宿題を写させ続けて自分自身でやるべき課題を他人に押し付けて不誠実な事を平気でやる事。そして、他人様に対してそのような無礼極まりないあだ名を付けて尊厳を踏みにじるような人間だと、この身をもって知っています。そんな輩をパートナーに、相棒にしたいとは思いません。どうぞ、お引き取りを』……って」
静まり返った店内に、真由美の独白だけが染み渡っていく。
「……至極、真っ当な不採用理由やわ。当時はパニックになって、『なんでそんな昔の事くらいで!』 って逆上もしたけど……。改めて思えば、当たり前の話やん。彼、復讐したかったわけやないんよ。平気でズルをしたり、失礼なことを平然とやるような人間と、一緒に仕事したいなんて誰も思わへん。雇った人がお客さんにも失礼なことをして、大事なビジネスを潰されたらたまらへんもんね」
真由美は、力なく視線を落とし、幽霊のような白い手を見つめた。
「……私はね、暗闇の中でようやく掴んだはずの、最後の最後の藁をね。……自分自身の、この汚れた手で、引きちぎってしもたんや」
その言葉は、朋代の胸の奥深くに、抜けない棘となって突き刺さった。
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##最後の藁と恨みの瓶
真由美の声は、もはや生きた人間の温もりを一切持たず、底冷えするような静寂を伴っていた。
「そして、彼は無言でタクシー代って言うて封筒を私に渡して、私はそれを受け取ってん。封筒の中には1万円入っててな、当時の私にとっては信じられへんような大金やったわ」
彼女は、かつてその紙幣を握りしめた手のひらを見つめるように、虚空に視線を落とした。
「でも、私はタクシーに乗らんと、ふらふらと歩いて帰路についたはずなんやけど、その後はどうやって帰ったんか、自分がどうしたんか、もう自分でもわからへん。ただ、私はその時……」
真由美の瞳の奥に、どす黒い感情がゆらりと揺れた。
「『私が死ねば、私を助けへんかった事をあいつらは後悔するはずや。そして私は、私をないがしろにしたやつらを全員、呪い殺してやるんや!』って、激しく恨みの炎が燃え盛っていた事だけは鮮明に覚えてる。……完全な逆恨みやけどね」
淡々と話すその口調が、かえって彼女の狂気を際立たせる。
「私は、自分の手で最後の藁を引きちぎった時に、既に精神が完全に崩壊してたんやと思う。……いや、違うな。岸田君の尊厳を平気で踏みにじった、あの傲慢な少女時代に、とっくに私という人間は壊れてたんかもね」
真由美はそう言い放つと、白い着物の懐から小さな、褐色の小瓶を一つ取り出し、音もなくカウンターに置いた。
カタッ、という乾いた音が店内に虚しく響く。
「これは? まさか、毒薬とか?」
朋代の声は、恐怖で今にも消え入りそうだった。
「これ、睡眠薬の瓶みたい。……どこでいつ買ったんか知らんけど、多分、帰りに薬局かどっかに入って買ったんやろね。私はこれを一気に全部飲んだらしいねん。それで……気が付いたら、この瓶を持って、この白い服を着て、よくわからん暗いところを彷徨ってたん。そこで女鬼さんが来てくれて、色々案内してくれはって……。そんで、この場所に来てたんや」
すると、隣で静かに聞いていた女鬼が、入店した時の明るいギャルの表情とは打って変わり、葬儀を取り仕切る荘厳な女性僧侶のような表情で淡々と説明し始める。
その所作は、驚くほど美しく、上品な品格さえ漂わせていた。
「そんで、真由美さんの諸々の手続きをしてから、丁度えらいこっちゃんが、やんちゃおねえちゃんをこの店に連れて来てくれる事になったんでね、儀式を摩訶不思議食堂ですることにしたんよ。で、今に至るってわけ。儀式ってのは、さっきの枕飯の事」
女鬼は説明しながら、しなやかな指先で人差し指をピッと立てた。
しかし、涙で視界がぐにゃぐにゃにぼやけている朋代にとって、その指先は親友をこの世から永遠に消し去ってしまう「死の儀式」が完了したという合図にしか見えなかった。
「……っ、嫌や……待って……!」
朋代は、震える喉を必死に震わせたが、言葉は嗚咽となって消えていく。
逃れられない「死」という確定した事実と、すでに完遂されてしまった「儀式」の重みに、彼女はただ、ガタガタと震えながら、冷徹に進むその時間をなす術もなく見つめるしかなかった。
「待とうが何しようが、もう『死』という結果は変えられないよ」
女鬼は揺らぐことのない真実を、無慈悲なまでに静かな声で告げた。
その瞳には、慈悲とも冷徹とも取れる、人知を超えた静寂が宿っている。
「でも! まだここにいるって事は、まだ希望が……。真由美を助ける方法が、何かあるんやろ!? お願い、なんでもするから真由美を連れてかんで!」
朋代は必死に女鬼に縋り付いた。
涙でぐちゃぐちゃになった顔で、ありもしない奇跡を追い求める。
そんな震える朋代を、真由美が冷たく、けれど柔らかに制した。
「朋代、もうええんよ。私、もう荼毘にふされてるんやわ。つまり火葬されて肉体はあらへん。今頃は無縁仏として、どこかの共同墓地に骨のかけらが入ってるんじゃないかな。それだけでも御の字やで。ほんまは誰にも見つからんと、そのままほったらかされててもおかしくない、惨めな人生やったから」
真由美は自嘲気味に笑い、自らの「終わり」を淡々と受け入れていた。
「そんな……そんなん嫌や! そやったら、アタシが真由美のお墓作るから! 今はまだお金に余裕ないけど、一生懸命働いて、お金貯めて、立派なお墓作るから! だから、そんな寂しいこと言わんといてよぉ……!」
朋代は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
自分の人生の空虚さを埋めてくれるはずだった唯一の「親友」が、骨すら自分のものではないという現実に、魂が千切れるような痛みを感じていた。
真由美は、この夜初めて、かつて学生時代に見せていたような穏やかで優しい微笑みを浮かべた。
「有難うね、朋代。その気持ちだけで、私は救われたわ」
真由美は立ち上がり、着物の裾を静かに整えた。
「朋代は、私のような終わり方はせんといてね。あんたは、まだ生きてるんやから。ちゃんとやり直しや。過去にやってしもた事、その業は一生背負わなあかんけど、真に反省して償い続けることで、もしかしたら善い風が吹いてくれるかもしれんから。私みたいに、手遅れになる前にね」
「待って、どこ行くん!? 行かんといて、真由美!」
朋代は必死に手を伸ばしたが、金縛りにあったように体が重く、指先さえ届かない。
真由美は振り返ることなく、店の出口へと歩みを進めた。
「これから、三途の川を渡るんよ。……それじゃあね、最後に会えてよかった。おおきに」
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ガラガラッ……
古い引き戸が開く乾いた音が、静まり返った店内に響き渡った。
そこには、夜の闇を裂くようにして、巨躯の影が立っていた。
身長は 2m50cmをゆうに超え、燃えるような赤い着物に身を包んだ、恐るべき威圧感を放つ赤鬼。
短い髪の左右からは、月の光を反射して怪しく光る金色の角が生えていた。
「そんじゃ赤鬼さん、真由美さんをお願いね」
女鬼は、その巨鬼に対して、葬儀の導師のような気高く美しい所作で深く頭を下げた。
赤鬼もまた、その巨体に似合わぬ洗練された動きで丁寧にお辞儀を返す。
「任された。女鬼ちゃんも、そっちは宜しゅうな」
赤鬼の地響きのような、けれどどこか温かみのある声が店内に残った。
そして、静かに、けれど決定的な拒絶を象徴するように扉が閉まった。
真由美の姿は、夜の帳の向こう側へと消えていった。
「うあああぁぁぁぁぁ……っ!」
朋代は、声にならない嗚咽を漏らしながら、その場に崩れ落ちた。
冷たくなった床に額を押し付け、ただただ泣き叫ぶ。
失ったものの大きさ、償いきれない過去の罪、そして親友が迎えた孤独な最期。
それらすべてが、濁流となって彼女を飲み込んでいった。
その様子を、えらいこっちゃ嬢と女鬼は、一言も発することなく見守っていた。
かけるべき言葉など、この世にはもう存在しない。
ただ、夜の静寂の中で、彼女たちは優しく、そしてどこまでも深い眼差しで、崩れ落ちた「罪咎人」の姿を静かに見つめ続けていた。
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##鏡合わせの罪と冷徹な静寂
朋代はひとしきり泣き喚いた後、魂が抜け落ちたような足取りでカウンター席へと座り直した。
かつての親友を飲み込んだ夜の闇は、扉の向こうで不気味に沈黙を守り続けている。
目の前に置かれた陶器のカップ。そこには、立ち昇る湯気を完全に失い、鏡のように黒く淀んだ珈琲が、持ち主の絶望を映し出すかのように冷え切っていた。
朋代は微動だにしないその液面を、焦点の合わない瞳で見つめ続けた。
「……もしも、アタシがどっかの段階で、真由美と再会してれば。いったい、どこでどう間違って、あんなことになってしもたんやろ」
掠れた声が、無機質な店内に頼りなく響く。
「……そういえば、真由美が言うてたっけ。『岸田君の尊厳を平気で踏みにじった、あの傲慢な少女時代に、とっくに私という人間は壊れてたんかもね』って」
彼女は真由美の最期の告白を反芻するように、小さく、独り言のように呟いた。
その言葉が胸の奥で棘のように刺さり、抜けないまま、さらなる疑問を連れてくる。
「……つまり、私も真由美と一緒に、あいつを。いや、真由美だけやなかった。他の子らも、くちゃくちゃ……岸田の事を、同じように面白がっていじめてたやんか。いや、それなら他の子らも、あの同窓会にいた子らも、おんなじ目にあってなおかしいやん。なんで、真由美だけがこんな……」
思考の迷路に迷い込み、朋代の脳内を過去の記憶と現状の矛盾がぐるぐると駆け巡る。
自分も、真由美も、あの場にいた全員が、あの教室で誰かの心を「くちゃくちゃ」に踏みにじっていたはずなのだ。
朋代はハッとしたように顔を上げ、空中に何かを求めるように視線を彷徨わせた。
「……そうや、今日の同窓会に、岸田らしき人物は来てへんかった。岸田も、呼ばれへんかったんかな? あの同窓会の名簿に、あいつの名前はあったんやろか」
彼女の関心は、次第に自分自身の内面から、外側の状況へと移り変わっていく。
「岸田……。あいつ、真由美が死んだことを知ったとしたら、どう思うんやろ。今の自分の成功を見て、真由美がこんな惨めに死んだことを、どこかで笑ろてるんかな。それとも、やっぱり恨んでるままなんかな。……聞いてみたいわ」
その時だった。
「他人様の事ばっかりだねー、やんちゃおねえちゃんは」
氷のような冷たさを帯びた声が、すぐ横から響いた。
朋代はギョッとして、隣に立つ女鬼へと顔を向けた。
そこにいたのは、先程まで快活に笑い、ギャル特有の軽薄なノリで場を和ませていた美少女ではなかった。
女鬼は、一切の感情を削ぎ落とした、完全な無表情で朋代を見つめていた。
金色の瞳は爛々と輝いているはずなのに、そこには光を反射するだけの硝子玉のような虚無が宿っている。
頬の筋肉ひとつ動かさず、ただ彫刻のように静止したその顔。
それがあまりにも異様で、人間離れした「鬼」の本質を突きつけてくるようで、朋代は心臓を冷たい手で直接握られたかのような激しい寒気に襲われた。
「……っ!」
全身の産毛が逆立ち、喉の奥が恐怖で凍りつく。
目の前の存在が、自分たちのような人間とは決定的に異なる「裁定者」であることを、彼女はその瞬間に本能で理解させられた。
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女鬼の氷のような眼差しに射抜かれ、朋代は蛇に睨まれた蛙のように身を竦めた。
しかし、喉元までせり上がってきた自己防衛の欲求が、震える唇を動かさせる。
「……反省しろって、言いたいんやろうけど、アタシかて反省してるよ。真由美の話を聞いて徐々に思い出してきて、岸田にはほんまに可哀想な事したなって思うてるから」
朋代は自分に言い聞かせるように、早口で言葉を紡いだ。
「……アタシ、岸田に謝らんと。今更やけど、ちゃんと会いに行って、頭下げて謝らな。それで気が済むんなら……」
「何で謝るん?」
女鬼は、不思議な生き物を見るかのように首をこてんと傾けた。
感情の読み取れないその問いに、朋代は虚を突かれる。
「え? そりゃ、悪いことしたからに決まってるやん……」
「やんちゃおねえちゃんはさー、どんな悪いことしたん?」
問いは重なり、朋代をじわじわと袋小路へ追い詰めていく。
「それは、その……『くちゃくちゃ』なんて、変なあだ名付けたり、いじめて困らせたり……」
「そんだけ?」
女鬼からの冷徹な追及に、朋代が言葉を詰まらせたその時だった。
奥の厨房から戻ってきたえらいこっちゃ嬢が、鋭い一喝を浴びせた。
「頭下げさえすればええと思っとる、えらいこっちゃな傲慢悪女!」
彼女はびしっと朋代を指差すと、そのまま足早に厨房へ戻り、代わりに重厚な漆塗りの盃と、透明な瓶に入った炭酸水を携えて戻ってきた。
えらいこっちゃ嬢は、朋代の震える両手にその大きな盃を無理やり持たせ、炭酸水の瓶を女鬼へと手渡した。
「ありがと♪」
女鬼は一瞬だけ、先程までのギャルのような無邪気な笑顔を見せてえらいこっちゃ嬢の頭を優しく撫でた。
そして、女鬼は表情を引き締めると、朋代が持つ盃に向かって炭酸水を注ぎ始めた。
トトトッ……と、心地よい音を立てて透明な液体が注がれる。
その所作は、まるで一流の茶人が点前を披露しているかのように、見惚れるほどに美しく、神聖な空気を纏っていた。
シュワシュワと弾ける気泡が、盃の中で白い星のように踊る。
「これは、お酒? 炭酸が入ってるみたいやけど……ただの炭酸水なん?」
困惑する朋代を無視して、女鬼は静かに右手を挙げた。
――パチン。
乾いた指鳴らしの音が、店内の空気を震わせた。
その瞬間、盃の中で激しく踊っていた炭酸水の水面が、魔法がかかったようにピタリと静止し、鏡のような滑らかさを取り戻した。
そして、その底からゆらゆらと、何かの映像が浮かび上がってくる。
「あ……」
朋代は、思わず盃の中を凝視した。
揺れる水面に映し出されていたのは、幼い日の自分と真由美だった。
背景には懐かしい小学校の教室の光景が広がり、そこには確かに時を隔てたはずの「あの日」の真実が、鮮明な色を持って再現されようとしていた。
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##盃に沈む過去の罪と真実の鏡
炭酸水の泡がシュワシュワと弾ける音と共に、盃の中の光景が鮮明な色彩を帯びて動き出した。
そこに映し出されたのは、昔通っていた小学校の教室。
窓から差し込む午後の柔らかな光が、皮肉なほどに残酷な現実を照らし出している。
そんな教室の中央付近、朋代と真由美の机に挟まれるようにして、1人の少年が座っていた。
伏せ目がちで、いかにも優しそうな、けれどどこか怯えたような表情をしたその少年が、若き日の岸田であることに朋代は直感的に気づいた。
すると……。
ガタガタッ!
映像の中の朋代と真由美が、楽しげに笑いながら岸田の机の引き出しを乱暴に引っ張り出した。
中に入っていた教科書やノートが床にぶちまけられ、バラバラと無残に散らばる。
それだけでは飽き足らず、朋代は岸田が席を立っている隙を狙い、真っ白な液体糊を彼の椅子にべたべたと塗りたくった。
何も知らずに戻ってきた岸田がそこに座り、異変に気づいて飛び起きる様子を見て、朋代と真由美は顔を見合わせて狂ったように笑い転げた。
周囲のクラスメイト達もその様子を「面白い余興」として眺め、一緒になって彼を笑いものにしている。
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場面はさらに残酷な瞬間へと切り替わった。
ある日の休み時間、朋代はいきなり岸田の背後に回ると、手に持っていたスティック糊を彼の頭頂部に力任せに塗りたくったのだ。
「汚な! 髪の毛くちゃくちゃやん!」
朋代の甲高い嘲笑が、盃の中から響いてくる。
真由美や他の連中もそれを見て「ほんまや、くちゃくちゃや!」と囃し立てた。
糊で固まり、文字通りくちゃくちゃになった髪を必死に手で払いながら、岸田は涙を浮かべて立ち尽くしていた。
「……っ、う、うぁぁ」
情けない声を上げて泣き出した彼に対し、朋代は冷笑を浮かべながら突き放すように言い放った。
「近寄らんといて。糊がアタシにつくやろが、くちゃくちゃ!」
それが、あの呪わしいあだ名の誕生した瞬間だった。
それ以来、朋代と真由美は彼のことを「くちゃくちゃ」と呼び、事あるごとに集団いじめの標的にし続けた。
朋代と真由美の2人が中心となり、時にはクラス全体を巻き込んで何度も何度も岸田を泣かせ、その尊厳を執拗に踏みにじり続けた。
盃に映る若き日の自分たちの顔は、勝利感に満ち溢れ、他人の痛みに鈍感な、醜い加害者のそれだった。
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映像はさらに加速し、朋代の荒んだ学生時代を映し出していった。
授業をサボって繁華街をうろつく姿、宿題を一切やらず、他人のノートを力ずくで奪って写し、平然と提出する様子。
そこにあるのは、誠実さのかけらもない、安易な道を選び続けてきた一人の女の歴史だった。
シュッ……。
一通り朋代の「業」を映し出した後、盃の中の映像は霧が晴れるように消え、元の無機質な炭酸水へと戻った。
静まり返った摩訶不思議食堂の中に、先程までの喧騒の余韻だけが虚しく漂う。
「……っ、ああ……」
朋代は、自分が忘れたふりをしていた、あるいは都合よく塗り替えていた過去の真実を突きつけられ、声にならない嗚咽を漏らした。
盃を支える両手は激しく震え、その目からは堰を切ったように大粒の涙が溢れ出す。
「アタシ、あんなこと、あんなことしてたんか……」
ボタボタと、彼女の頬を伝う涙が盃の水面に落ち、波紋を作っていく。
かつて真由美と共に犯した、取り返しのつかない罪の重さが、冷え切った炭酸水の泡と共に彼女の魂を蝕んでいった。
真由美が言っていた「とっくに壊れていた心」の正体。
それは、他人の尊厳を「くちゃくちゃ」に踏みにじることでしか自分を保てなかった、あの日々の残骸そのものだった。
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盃の底に映し出された、あまりに残酷で一方的な暴力の記録。
それをまざまざと見せつけられた朋代は、もはや言い逃れをする言葉すら持たなかった。
かつての自分が笑いながら振る舞っていた「遊び」が、一人の少年の尊厳を完膚なきまでに粉砕していたという事実。
目の前の炭酸水は、彼女の浅ましい過去を映し出す鏡となって、逃げ場を塞いでいる。
そんな朋代の絶望を察してか、女鬼の追及はさらに容赦のないものとなった。
「そんじゃ、宿題やろっか」
その低く冷徹な響きに、朋代の肩が小さく跳ねる。
真由美が先程残した「宿題」という言葉の、あまりに重く、逃げようのない意味。
それを今、朋代はどうしようもないほどの苦痛と共に理解していた。
「アタシが、岸田の……岸田君の頭を、あんな風にくちゃくちゃにしたくせに。……アタシ自身がそうしたくせに、岸田君を『くちゃくちゃ』って呼んで、笑ってた……」
独り言のように、懺悔のように、朋代は震える唇でその大罪を呟いた。
「なんだ、わかってんじゃん」
女鬼は冷めた瞳で、朋代の無様な姿を見下ろしている。
そして、彼女をさらに追い詰めるように、純粋な疑問の形を借りた刃を突きつけた。
「ねえ、なんであんな事したん? 好きな女子にちょっかい出す小学生男子がいるって話はよく聞くけどさあ、その逆バージョンだったん? それとも、あーしには理解不能な歪んだ愛情表現だったわけ?」
「……違う。理由なんて、なかった」
朋代は、自分の心の中に答えを探したが、そこにあったのは空虚な闇だけだった。
「ただ、そうしたかっただけ。……ほんまに、なんも考えなしに、ただあいつが嫌がるのを見て、アタシらが笑えたらそれでええって……それだけやったんや……」
「はい、よく出来ました。まあ、真由美さんの言葉もあった上で、客観的に見せられて、何となく理解はし始めてたみたいだからねー。宿題は結構すんなり出来たねー。ま、それはそれとして……」
女鬼はそこまで淡々と話していたが、次の瞬間、彼女の纏う空気が一変した。
「その時から人間として壊れてたんよ、やんちゃおねえちゃんと真由美さんは」
女鬼の金色の瞳が、怒りと蔑みを湛えて、暗闇の中でらんらんと輝きを増す。
その形相はまさに「鬼」そのものであり、朋代の魂を直接焼き焦がすような威圧感を放っていた。
「マジで胸糞悪すぎ。ちょっと反省して、今更頭下げたくらいでチャラになると思ったら大間違いだし。あんたたちが積み上げた業は、そんなに安っぽくないから」
女鬼の怒りに呼応するように、えらいこっちゃ嬢も厳しく言い放った。
「やられた方は、一生傷で、えらいこっちゃ!ほんまにたまったもんじゃ無さすぎて、えらいこっちゃ!」
少女の鋭い糾弾が、朋代の胸を何度も何度も抉り取っていく。
「……ほんまや。あんなに泣かしてしもて……。当時はな、男のくせに情けない奴やとか思うてたけど。……岸田君の周りには、助けてくれる大人も、味方になってくれる友達も、誰もおらんかったんやん……」
朋代は、嗚咽を漏らしながら、ようやく当時の被害者の絶望に思いを馳せた。
「それで、こんなんで泣く方が弱いんやとか、情けないとか。……アタシはなんて、なんて酷いことを。こんなん、岸田君にとってはあまりに理不尽で、無茶苦茶やわ。……そんな無茶苦茶を、アタシは……真由美と二人で、班のみんなと、平気な顔してやってしもたんや」
泣き続ける朋代の姿を、女鬼は冷たく突き放した。
「情けないのはどっちなのか、一目瞭然だよねー。やんちゃおねえちゃんは、自分より弱いと錯覚した相手を踏みつけることでしか、自分の存在を確認できなかったんだからさ。」
「ごめん、ごめんなさい……。岸田君、ほんまにごめん、ごめんなさい。ごめん、なさい……」
朋代はもはや、届くはずのない謝罪を繰り返すことしかできなかった。
冷え切ったカウンターに涙を落とし続け、彼女は自らが引き起こした取り返しのつかない罪の重さに、ただただ押し潰されていた。
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##消えぬ業と「罪滅ぼし」の虚妄
ひとしきり謝罪の言葉を吐き出し、喉が枯れるほどに泣き続けた後、朋代は幽霊のような足取りで再びカウンター席へと腰を下ろした。
目の前にある珈琲は、もはや湯気のかけらも残っておらず、黒い液面は不気味なほど静かに店内の灯りを反射している。
彼女は力なくうなだれ、自分の震える指先を凝視しながら、消え入りそうな声で問いかけた。
「アタシも真由美と同じ運命をたどるんですか?アタシのこれからの人生にも、次々と不幸が押し寄せてきて、最後にはあんな風に、誰にも看取られへんまま、孤独に……」
その問いは、かつての親友への同情以上に、己の身に降りかかるであろう報いへの、剥き出しの恐怖に満ちていた。
ズズ……と、椅子の脚が床を擦る音が、静まり返った店内に重く響く。
カウンターの向こう側で、地蔵店長は静かに両手を合わせ、どこまでも深く、慈しみに満ちたお地蔵さん笑顔を浮かべた。
「いつ、どのようにして、その悪業に対する報いを受けるかは、私共にも、誰にもわかりません。現世にいる間は、目に見える形では報いを受けない可能性もありますからねえ」
その言葉に、朋代の胸中に一瞬だけ、救われたような安堵の光が差した。
もしかしたら、自分だけは逃げ切れるのではないかという、浅ましい期待が頭をもたげたその時。
「その場合はさー、死んでからきっちり報いを受けることになるけどねー」
女鬼の冷徹な一言が、鋭い氷の杭となって朋代の淡い期待を打ち砕いた。
女鬼は先程の荘厳な表情のまま、感情の消えた金色の瞳で朋代を射抜くように見つめている。
「勿論、現世できっちり報いを受けたからと言って、罪が軽くなるとか、罪を滅ぼせたなんて思ったら大間違いだかんね? 原理的に『罪滅ぼし』なんてのは、この世のどこにもありえないんだし」
「そんな……。じゃあ、どれだけ後悔しても、一生懸命償っても、罪滅ぼしにはならなくて、永遠に赦されへんの? アタシは、一生この泥沼の中にいなあかんの?」
朋代は、絶望の淵から這い上がろうと足掻くように、縋り付く思いで尋ねた。
地蔵店長は、優しい笑顔を崩さぬまま、けれどその言葉には峻厳な響きを込めて彼女を諭した。
「償う事は当然すべきことで御座います。しかし、例え真に過ちに気づいて深く反省し、心を入れ替えた上で、全人生をかけて償ったとしても、過去に犯した罪の事実、その『業』そのものが消える事はありません。ゆえに、罪が完全に滅びることはなく、『罪滅ぼし』と言う概念は、この世界の理において存在し得ないのです」
コツン、と女鬼がカウンターを指先で叩いた。
「なんで『罪滅ぼし』なんて言葉が出来ちゃったかねえ。加害者側の都合のいい言い訳にしか思えんよ、あーしには。自分を楽にするための魔法の呪文かなんかだと思ってんの?」
女鬼は深く、重いため息を吐き出し、天井を仰いだ。
「謝ったふりして、償ったふりして、それで罪滅ぼした気になっとる、えらいこっちゃ! そんなんは加害者側の自己満足、自分勝手な勘違いも甚だし過ぎて、えらいこっちゃ!」
えらいこっちゃ嬢の鋭い糾弾が、朋代の甘えを容赦なく抉り取る。
「そもそもさあ、娑婆だと悪いことしたら警察に捕まって、刑務所に入って、刑期を終えて出所したら『罪を償った』とか、世間も本人も言ったりするじゃん?あれって単に『法律上の刑期を終えた』だけでしょ? 罪を犯した事実そのものは1ミリも消えてないし、滅ぼせてないかんね」
女鬼の言葉は、法律という現世の枠組みさえも超えた、魂の深層にある真実を突きつけていた。
「大体、やられた方は一生消えない傷を心に刻まれてんのに、加害者側が勝手にそれが消えたとか、その傷と罪を滅ぼせたとか、どの口がぬかすのって感じ。えらいこっちゃんの言う通り、勘違いも甚だしいったらありゃしない。あんたが今日、どれだけ涙を流しても、あの少年の髪に塗りたくった糊の感触も、彼の流した屈辱の涙も、この世から消し去ることなんて出来やしないんだよ」
「……言う通りや。……ほんまに、返す言葉もありません」
朋代は再び深く頭を下げた。
自分が岸田少年に付けた傷。
彼の尊厳を「くちゃくちゃ」に踏みにじり、笑いものにしたあの瞬間の事実は、例えこの先、100年善行を積み重ねようとも、死んで永遠の闇に落ちようとも、決して無かったことにはできない。
救いようのない絶望の中で、彼女は自らが背負った業の重さを、一生溶けることのない氷の塊のように、胃の底で感じ続けていた。
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##現世の業と地蔵店長の慈悲深き教え
朋代はすっかり冷え切ったカウンターに縋り付くようにして、震える声で地蔵店長を見上げた。
その瞳は、逃げ場のない恐怖と、それでもどこかに救いを見出したいという、溺れる者が藁を掴もうとするような必死さに満ちていた。
「それじゃあ……。アタシにも、真由美が受けたのと同じ報いがやってくるんですか? 次々と不幸に襲われて、居場所も縁も全部失くして……。それを受けながら、アタシは死ぬまで償い続けなあかんのですか? アタシ、一体どうすればええんですか……?」
夜の帳に包まれた摩訶不思議食堂の空気は、彼女の悲痛な問いかけを吸い込むように、より一層静まり返る。
カウンターの向こう側で、地蔵店長は穏やかな、けれど一切の揺るぎもないお地蔵さん笑顔を浮かべていた。
彼はゆっくりと胸の前で両手を合わせ、合掌したまま、優しくも峻厳な響きを帯びた声で言葉を紡ぎ出した。
「自らの罪に真に気づいたのであれば、その事実から目を逸らさず、一生をかけて反省し、償い続ける他には御座いません。それこそが、生かされている朋代さんに課せられた唯一の道なのです」
その言葉は、優しげな響きとは裏腹に、鋭い針となって朋代の心臓を刺し貫く。
「いつ、どのような形で、そしてどのような報いが朋代さんに訪れるかは、私共にもはかり知る事は出来ません。それは、朋代さんがこれまで積み上げてきた『業』の重さが、どのような実を結ぶかということですからねえ。その時が来たら、朋代さん自身で一つひとつ、逃げずに対応していくしかありません」
地蔵店長はニコニコとした表情を崩さず、朋代の魂を静かに諭し続けた。
「そうですか……。いったい、これから何がアタシの身に起こるんやろ。真由美みたいに、悪い男に騙されて、詐欺師に全部奪われたりするんかな。それとも、家が火事で燃えてしもうたり、大きな事故に遭って動けんくなったりするんかな……」
朋代は、これから訪れるであろう「報い」の想像に震え、膝の上で拳を強く握りしめた。
今まで無自覚に人を傷つけてきたツケが、どのような怪物の形をして自分を襲いに来るのか。
その恐怖だけで、精神が削り取られていくようだった。
その時。
カタン、と小さな音がして、地蔵店長が僅かに身を乗り出した。
「朋代さん。仏教の言葉、仏様の教えに、このようなものが御座います」
彼の纏う空気が、一瞬にして厳かで尊いものへと変質した。
厨房から漏れる微かな火の音や、外で吹く「ヒュウゥ……」という風の音さえも、彼の言葉を待つかのように静まり返る。
「これからお話しする事は、朋代さんが明日から現世を生きていく上での、大きな標となるもので御座います。……よろしゅうございますか。心して、お聞きくださいまし」
地蔵店長は、閉じられた瞼の奥から慈愛に満ちた視線を朋代に注ぐようにして、静かに、そして一音一音を噛みしめるように、古の智慧である仏の教えを授け始めた。
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##熟した業の果実と「十の報い」
静まり返った摩訶不思議食堂の中で、地蔵店長は静かに、そして深く目を閉じた。
カウンターの向こう側から漂う線香のような残り香と、冷え切った珈琲の香りが混ざり合う。
店長はゆっくりと目を開け、慈愛に満ちた、けれど逃げ場を許さない澄んだ瞳で朋代を見つめた。
「法句経、ダンマパダという仏典に、このような言葉が御座います」
店長の穏やかな声が、古い木造の建物に染み渡るように響き始める。
『まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う。』
地蔵店長は言葉を置くと、朋代の反応を待つように僅かな間を置いた。
朋代はその言葉の重みに押し潰されそうになりながら、ただじっと店長の唇を見つめる。
「意味は『悪行の報いが現れるまでには、熟す期間、言うなれば報いを受けるまでの時間差があるために、一時的に幸運に見える悪人でも、最終的には報いを受ける』こと。その警鐘を鳴らして下さる教えで御座います」
地蔵店長は、ニコニコとしたお地蔵さん笑顔を崩さずに説き続ける。
「そして、罪咎のない者、わかりやすく言えば、何の落ち度もない人に対して害を加える者は、次のような十の報いを受けることになります」
地蔵店長は、指を1本ずつ折るようにして、その恐るべき目録を順番に伝えていった。
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無辜の者を傷つけし者が受ける「10の報い」
1:激しい苦痛(逃れようのない凄惨な痛み)
2:災難(予期せぬ禍い)
3:身体の損傷(不慮の事故による破壊、重い病)
4:重病(心身を蝕むひどい病気)
5:精神の錯乱(正気を失う狂気)
6:権力者による圧迫(または重罪による罰)
7:強烈な誹謗(事実無根、あるいは過去を暴くひどい中傷)
8:親族の離散(支えとなる親族の喪失)
9:財産の滅失(築き上げた資産をすべて失う)
10:自宅の焼失(または悪業による地獄への堕落)
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「そして、害を加えた者は死後、地獄に落ちるとされています」
店長は最後に、これ以上ないほど優しい笑顔で、最も恐ろしい結末を朋代に告げた。
「……っ!」
朋代は全身の血が凍りつくのを感じた。
先程まで真由美が淡々と語っていた壮絶な人生の断片が、今聞いた10の項目とパズルのピースがはまるように合致していく。
詐欺師の片棒を担がされて逮捕されたこと、家族から縁を切られたこと、誹謗中傷の嵐に晒されたこと、事故で後遺症を負ったこと、そして部屋が火事で焼けたこと、そして最後には正気を失い狂気の中で睡眠薬によって最期を迎えたこと。
真由美は、まさにこの「10の報い」を一身に浴びて、この世を去ったのだ。
ガタガタと震える朋代の横で、女鬼が重いため息を吐き出した。
「真由美さんの場合は、見事に十連コンボ決まったわけだけど、娑婆世界だとさ、どれか1つでもえぐいよね。それが複数同時に期が熟したら、そりゃ自動的レベルで狂気も発動しちゃうよねー」
朋代は、自分の指先が感覚を失っていくのを感じていた。
自分もまた、あの小学校の教室で、何の落ち度もない岸田君の尊厳を「くちゃくちゃ」に踏みにじった加害者だ。
もし、この10の報いのうち、たった1つでも自分に降りかかってきたら。
今の孤独な生活の中で、それを受け止めきれる自信など1ミリもなかった。
「……無理。そんなん、耐えられるわけないやん……」
朋代は椅子にしがみつき、胃の底からせり上がってくる吐き気と戦っていた。
自分の犯した罪が、いつ、どのタイミングで「熟す」のか。
次に鳴る電話の音、次に開くメール、あるいは家へ帰る途中の暗い路地。
あらゆる日常の隙間から、あの恐ろしい十の怪物が顔を覗かせているような幻覚に襲われ、彼女の心はすでに狂気の淵に立たされていた。
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##再生への道標と十善戒
打ちひしがれ、カウンター席で小さく震える朋代を、地蔵店長はどこまでも穏やかな、慈愛に満ちたお地蔵さん笑顔で見守っていた。
その眼差しは決して突き放すものではなく、かといって甘やかすものでもない、真実を静かに指し示す深遠な光を湛えている。
店長はゆっくりと、そして一音一音を慈しむように、再び仏の教えを説き始めた。
「己の悪行による悪業を知り、自覚して真に顧みる事。それが、苦しみから抜け出すための一歩目で御座います。今、朋代さんは確かに、その一歩を踏み出されました」
地蔵店長の声は、凍りついた朋代の心にじんわりと染み込んでいく。
「そして、その罪深さに気づかれたのであるならば、これからはその悪行を上回る善行を積み続ける事です。失われた徳を、自らの手で一つひとつ拾い集めていく事です」
店長はそう言って、胸の前で静かに合掌した。
「アタシは、どうすればいいんですか? どうすれば、今までの悪い行いを上回る善い行いなんて出来るんですか? アタシには、何もないのに……」
朋代は、泥沼の中から光を求めるように、縋り付くような瞳で地蔵店長に問うた。
地蔵店長は、その問いを優しく受け止め、静かに答えた。
「仏教には『十善戒』と言う十の戒が御座います。これを日々の暮らしの中の道標とされるのが宜しいでしょう」
店長は、迷える魂に授ける宝物のように、十の戒めを一つずつ語り聞かせた。
十善戒:善き生への道標
不殺生:生き物を殺さない。
不偸盗:盗みをしない。
不邪淫:邪な淫欲にふけらない。
不妄語:嘘や偽りを言わない。
不綺語:真実に背いて巧みに飾り立てた言葉を使わない。
不悪口:人の悪口を言わない。
不両舌:二枚舌を使わず、人との間を裂くようなことを言わない。
不慳貪:欲深い心を起こさず、貪らない。
不瞋恚:怒り憎しむことをしない。
不邪見:因果の道理を無視するような、偏った見方をしない。
「これらを指標にして、善行を積み上げて行っては如何でしょうかねえ」
地蔵店長は、朋代の日常に寄り添うように具体的な例を挙げた。
「例えば、御自身がなすべき事を他人様に押し付ける行為。これは、相手の大切な人生の時間を不当に奪うという意味において『偸盗』をしてしまっているのです。まずは、そのような事をなさらない事です」
その言葉に、朋代の胸がちくりと痛んだ。
面倒事を他人に押し付けたり、職場で後輩に仕事を押し付け、当然のように定時で帰っていた自分の姿が脳裏をよぎる。
「逆に、もし近しい人達が、仕事が多くて困っていらっしゃる場合には、自ら手を貸して手伝う。それは相手に『時間』という宝物を増やして差し上げる、尊い布施行となります。このように、善行を積む方法や、日々の中でのやりようは、いくらでも御座います」
地蔵店長は、お地蔵さん笑顔のまま、再び合掌して諭した。
「このようにして、悪行を断ち、善行を続ける事で、悪業の穴をこれ以上増やしたり、広げずに済むでしょう。そうすれば、いつか自ずと、生きていきやすくなるのではありませんかねえ」
店長は静かにお辞儀をし、朋代の決意を待つように沈黙した。
朋代は、店長の言葉を一つひとつ、乾いた砂が水を吸い込むように心に刻みつけた。
これまでの自分がいかに多くの人の「時間」を盗み、言葉で「傷」を負わせてきたか。
その罪は消えない。
けれど、今この瞬間から、新しく積む石を善きものに変えることはできる。
「……はい」
朋代は、掠れた、けれど芯のある声で短く応えた。
彼女はゆっくりと背筋を伸ばし、地蔵店長に向かって深々と頭を下げた。
「……アタシ、これからは逃げません。ちゃんと、自身の行いや報いと向き合い、そして善い行いをして生きていくと誓います」
その瞳には、先程までの絶望的な涙ではなく、自らの業を背負って歩き出そうとする、静かで強い覚悟の光が宿っていた。
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##新しい一歩と夜明けの誓い
朋代は、冷え切った珈琲の入ったカップをそっと置き、顔を上げた。
その瞳からは、もはや迷いや逃避の影は消え、静かだが確かな決意の光が宿っていた。
「真由美は、アタシが受けるであろう報いを身を以て教えてくれたんやね。最期に『宿題』をアタシに与える形で、気づくチャンスをくれた……」
彼女の声は、夜の店内に凛と響いた。
「真由美が気付かせてくれた事、そして、皆さんが教えてくれた事、絶対に忘れへん。これからは善行を積み上げていって、真っ当に生きます」
女鬼は、それまでの峻厳な空気を解き、ふっと柔らかく微笑んだ。
「ん。もう大丈夫そだね」
えらいこっちゃ嬢は、ぴょんと椅子に飛び乗ると、朋代の視線の高さに合わせてにんまりと笑った。
「気付いて反省して改めよったら、えらいやっちゃ!」
そう言って、子供が大人を労るように、朋代の頭をぽんぽんと慈しむように撫でた。
朋代は、思わず溢れそうになる涙を堪え、微笑み返した。
「……有難うな」
彼女はゆっくりと椅子から立ち上がり、地蔵店長、女鬼、そしてえらいこっちゃ嬢の3人に向かって、深く深く頭を下げた。
「本当に、有難う御座いました」
静寂の中に、衣擦れの音だけが重厚に響く。
「それじゃあ、お勘定を。いくらになりますか?」
地蔵店長は、柔和なお地蔵さん笑顔を浮かべ、胸の前で静かに合掌した。
「当店では、決まった金額は御座いません。御布施形式にしておりますよ」
朋代は迷うことなく頷き、バッグから1枚の紙幣を取り出した。
「それじゃあ、これでお願いします」
彼女は1円札を、えらいこっちゃ嬢に丁寧に手渡した。
「真由美は多分、岸田君から貰った1万円で睡眠薬を買って、人生を終えてしもたんやと思うんです……真由美にとっては人生を終わらせるお金になってしもたけど、アタシはこれを、自戒のための新しい道へ一歩を踏み出す通行料にします」
淀みのない言葉と共に、彼女は真っ直ぐに前を向いた。
えらいこっちゃ嬢は、その紙幣を大切に両手で受け取ると、満面の笑みで応えた。
「毎度あり! 自戒の大金、えらいやっちゃ!」
タッタッタと、彼女は軽快な足音を立ててレジへと向かっていった。
朋代は最後に、静かに佇む女鬼を見つめた。
「女鬼さん。アタシにはもうどうする事も出来へんけど……。真由美の事、どうかよろしくお願いします」
再び、彼女は真心を込めて頭を下げた。
女鬼は指先を口元に当て、茶目っ気たっぷりにウインクしてみせた。
「ん、こっちの事は心配ないよ。そっちはそっちでしっかりね、『元』やんちゃおねえちゃん♪」
「有難う。ふふ、まだまだやんちゃやけどね。そやから、ちゃんと『元』になれるように、しっかり生きるから」
朋代は、かつての傲慢さを脱ぎ捨てた、晴れやかな表情で答えた。
彼女は踵を返し、確かな足取りで店の入り口へと向かった。
ガラガラ、と引き戸を開ける乾いた音が夜の静寂に響く。
一歩外へ踏み出すと、冷たい夜風が彼女の頬を優しく撫でた。
その背中に向けて、地蔵店長の穏やかな声が、まるでお守りのように届く。
「御来店、誠に有難う御座います」
地蔵店長は、遠ざかる朋代の後姿を慈しむように、お地蔵さん笑顔で深く合掌し、丁寧にお辞儀をした。
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##四十九日の奇跡と贖罪の第一歩
朋代が摩訶不思議食堂の重い引き戸を閉め、夜の静寂へと踏み出すと、足元にぼんやりとした青い光が灯った。
それは拳ほどの大きさの鬼火で、生き物のようにふよふよと宙を浮き、朋代の周りを挨拶するように2、3回、円を描いて回った。
「あ……」
朋代が息を呑むと、その青い火の中から、子供のような白く小さな手がひょいと現れた。
その手は手招きするように指を動かすと、夜の闇の奥へと朋代を誘うように進んでいく。
朋代が吸い寄せられるようにその後を追っていくと、いつの間にか辺りの景色は、見慣れた京都の住宅街へと溶け込んでいった。
気づけば鬼火は霧が晴れるように消え去り、彼女は自分のアパートへと続く曲がり角に立っていた。
夜風が通り過ぎる中、朋代は深く息を吐き出し、自らの足でしっかりと家路に就いた。
翌朝、会社に出勤した朋代の姿は、昨日までの彼女とは別人のようだった。
彼女は自分のデスクに座ると、溜まっていた業務に脇目も振らずに向き合い、真面目に、そして丁寧にこなし始めた。
ふと隣の席を見ると、先日自分が強引に仕事を押し付けてしまった年下の新入社員が、山積みの資料を前に必死にキーボードを叩いているのが目に入った。
朋代は躊躇うことなく立ち上がり、彼女のデスクの横に歩み寄った。
「……なぁ、ちょっとええかな。この前の案件、アタシがやるべきやったのに、あんたに全部押し付けてしもうて。……ほんまに、ごめん。あんなこと二度とせえへんって約束するわ。残ってる分、アタシも手伝うから一緒に片付けよう」
突然の謝罪に、新入社員は驚きで目を丸くしていたが、朋代の真剣な眼差しに触れ、小さく「ありがとうございます……」と微笑んだ。
朋代は自分の「偸盗」――他人の時間を奪っていた傲慢さを、自らの手で一つずつ正していく決意を固めていた。
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朋代は業務の合間を縫って、真由美の行方について必死に調べ始めた。
役所やかつての知人、そしてわずかな手がかりを頼りに、ようやく彼女の最期を看取った場所へと辿り着いた。
そこは京都市郊外にある、ひっそりとした佇まいの寺院だった。
朋代がその寺を訪れ、住職から話を聞くと、真由美がこの世を去ってから既に50日以上が経過していることが判明した。
「……50日以上、ですか」
朋代は、ふと計算をして凍りついた。
自分が摩訶不思議食堂で真由美と再会し、彼女が三途の川へと旅立つのを見送ったあの夜。
それは、真由美が亡くなってから丁度49日目――仏教において故人の魂が次の世界へ向かうとされる「四十九日」の当日だったのだ。
「真由美……あんた、ほんまにギリギリまで待っててくれたんやな。アタシの事を、ずっと……」
溢れ出す涙を拭い、朋代は共同墓石の前に立ち尽くした。
勘当された事で身寄りのなかった真由美の遺骨は、寺の大きな共同墓石の中に静かに納められていた。
朋代は住職に向き直り、深く頭を下げた。
「御住職さん。今はまだ、アタシに自分のお墓を建てるほどの蓄えはありません。でも、必ずお金を貯めて、いつか真由美にちゃんとしたお墓を作ってやあげたいんです。それまでは、月命日や節目には必ずここへお参りに来ます。真由美を……あの子を、一人にせんといてやってください」
彼女の切実な願いに、住職は穏やかな顔で「承知いたしました。あなたが来るのを、彼女も喜ぶでしょう」と静かに頷いた。
寺を後にした朋代の足取りは、昨日までのような重い足取りではなかった。
そして彼女はスマートフォンを取り出すと、連絡先リストの中から、かつての同級生であり同窓会の幹事を務めていた女性の名前を見つけた。
躊躇いはなかった。
自分がやらなければならないこと、そして向き合わなければならない相手。
「……もしもし、西田やけど。こないだは急に帰ってしもて、ごめんな。……ちょっと、大事な相談があんねん。会って話を聞かせてくれへんかな」
電話の向こうで驚く幹事の声を聞きながら、朋代は遠くの空を見上げた。
岸田君への謝罪、そして、かつての自分たちが犯した「くちゃくちゃ」という名の残酷な罪。
それを清算するための、険しくも避けては通れない贖罪の旅が、今、本格的に始まろうとしていた。
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##罪の記憶と、消えた少年の行方
土曜日の午前中。
京都の街角にある落ち着いた雰囲気の喫茶店には、焙煎された豆の香ばしい匂いと、客たちが刻む穏やかな話し声が満ちていた。
窓際の席に座る朋代は、目の前に座る女性幹事――かつての同級生である彼女に向き合い、深く頭を下げた。
「……改まめまして、申し訳ありませんでした。こないだの同窓会、途中でいきなり帰ってしもて。……あれからな、真由美の事、ようやく全部知ったよ。彼女が今どこで眠ってるんか、そのお墓があるお寺の住職さんとも、ちゃんとお話ししてきたわ」
朋代の声は、以前の刺々しさが消え、どこか静かな熱を帯びていた。
女性幹事は、カップを持つ手を止めて、小さく溜息を吐き出した。
「……そっか。じゃあ、あの子がマルチまがいの事に手を出してた事も、それで最後にああやって他界してしもた事も、全部聞いたんやね」
「うん。アタシな、あの頃はちょうど引っ越したり、携帯の契約を切って番号を何回か変えたりしてた時期やったから。完全に世間から浮いてしもてて、誰とも連絡が取れんようになってたんよ。だから、真由美とも接点が完全になくなってしもて。今まで、何一つ知らんかったんやわ」
カチャリ、と朋代がスプーンを置く乾いた音が響く。
「真由美がな、あんたらみんなをマルチまがいに巻き込もうとしたことが原因で、みんなあの子と縁を切ってたんやろ? 誰もあの子の話題すら出したくない。名前を聞くだけで嫌な気分になる。だから、同窓会でもあんなに避けられてたんやね。ようやく、事情が飲み込めたわ」
女性幹事は、視線を窓の外へと泳がせた。
「……うん。ほんまに、大変やったんやから。何度も何度も電話がかかってきて、断っても断っても『あんたのためや』って言われて。……友情を金に変えようとしたあの子を、誰も許せへんかった。私だけやなく、みんなの気持ちとしても、それが正直なところやと思うわ」
彼女の言葉は短かったが、そこには長年蓄積された疲弊と拒絶の色が濃く滲んでいた。
「そっか……。うん、それはわかった。真由美の事は、もう全部わかったよ。でもな、アタシが聞きたいことはもう一つあってな」
朋代は、テーブルの上で拳をぎゅっと握りしめた。
心臓がドクンドクンと激しく鼓動を刻む。
これから口にする名前は、自分の人生において最も醜悪で、最も直視したくない記憶の扉を開く鍵だった。
「……岸田君の事、教えてくれる?」
朋代の口から漏れたその名前に、喫茶店の喧騒が一瞬だけ遠のいたような気がした。
「……岸田君」
女性幹事が眉を寄せた。
朋代は、逃げ出したい衝動を必死に抑え込み、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「彼、同窓会には来てへんかったやろ。名簿にはあったん? それとも、最初から呼ばれてへんかったん? 彼が今、どこで何をしてるんか、あんたなら何か知ってるんちゃうかと思って」
ザワザワ……と、店内の話し声が不意に耳障りに感じられた。
真由美が残した「宿題」の答え。
そして、地蔵店長が説いた「十の報い」という恐ろしい警告。
それらを背負った朋代にとって、もはやこの問いを避けて通ることはできなかった。
「くちゃくちゃ」と呼び、尊厳を泥靴で踏みにじり続けた一人の少年のその後を、彼女は魂を削るような思いで、聞き出そうとしていた。
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##善の敵と、胸を穿つ痛み
喫茶店の喧騒が、遠くの波音のように白く霞んで聞こえる。
朋代は、冷めかけたコーヒーのカップを両手で包み込み、意を決したように問いかけた。
「あのさ。同窓会に岸田君は来てへんかったけど、彼にお知らせは出したん? 住所とか、わかってたんかな?」
女性幹事は、その問いを予期していたかのように、力なくうなだれた。
「……男子の名簿は男性幹事の担当やったんやけど、岸田君にだけは、私ら二人で協力して出すことに決めてたんよ。でもな、結局……どんなに手を尽くして探しても、今の連絡先がどうしてもわからんくて。結局、お知らせ一通出すことさえ出来へんかった」
「……そうやったんや」
「私はな、今回……彼にちゃんと会って、謝りたかったんよ。せやから、同窓会に呼びたかった。でも、あかんかったわ」
女性幹事の声は、後悔の念に震えていた。
「謝りたかった? 誰が? あんたが?」
朋代は意外な言葉に、思わず首をかしげた。
「覚えてへんか? 私は直接、彼に暴力を振るったり、ひどいあだ名を付けたりはしてへんかった。でもな、朋代や真由美、それにあの班のみんなが岸田君にやってた事……横でずっと見てたやん。あれは当時の私の目から見ても、ちょっかいなんて生易しいもんやなかった。……いじめなんていう言葉で誤魔化したらあかん。明白な、暴力やった」
女性幹事は、カップの縁をなぞる指先を震わせながら言葉を紡ぐ。
「それを知りながら、私は一度も止めへんかった。どころか、心のどこかで『自分じゃなくてよかった』って、他人事みたいに思ててん。そんでな、ある日のことや。泣きじゃくってる岸田君の横を通った時、私は彼にこう言うてしもた。『岸田君って、朋代らの班の敵なんやなあ』って」
「……っ」
朋代の指先が、ぴくりと跳ねた。
「今思えば、的外れにもほどがあるやろ? 敵ってなんやねんって……。彼、敵対するような事なんか、何もしてへんかったのに。彼はただ、そこに座って、あんたらの機嫌を損ねんように怯えてただけやったのに。『善の敵』やったんは、彼を苦しめた奴等全員の方やったのに。そして……私自身も、その一員やったんや……」
女性幹事の大きな瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。
「同級生の多くがな、今や親になって、子供もおるんよ。それでな、いざ自分の子供が、昔の岸田君がされたような目に遭ったら……って想像したら、みんな怖くなったんよ。『自分らがやった事は、取り返しのつかない大罪やったんや』って。謝りたいって言うてる子は、何人もおる。私もその一人や。私は、自分の犯したその冷酷さを、あの同窓会で謝りたかったんやけどなあ……」
「そっか……」
朋代は、短く応えるのが精一杯だった。
善の敵。
その言葉が、鋭い氷の刃となって朋代の胸の中央を深々と貫いた。
摩訶不思議食堂で「十善戒」を授かり、これからは善行を積もうと誓ったばかりの彼女にとって、その響きはあまりに重く、残酷だった。
(……アタシは、岸田君にとって『善の敵』やったんや。ただの同級生やなくて、彼の人生における、善なるものを破壊する『悪』そのものやったんや)
胸の奥がズキンッ、と、とてつもない痛みを上げて脈打つ。
それは地蔵店長が説いた「十の報い」の一つ、「激しい苦痛」の萌芽なのかもしれない。
けれど、朋代はその痛みから逃げようとはしなかった。
むしろ、その焼けるような苦しみを、これからの贖罪の道における「灯火」にするかのように、しっかりと胸の奥で受け止めた。
「……その言葉、一生忘れへんわ」
朋代は、涙を堪えて真っ直ぐに友人を見つめた。
「……アタシら、ほんまに無茶茶苦茶なことしたんやね。でもな、アタシ、岸田君の居場所、知ってるかもしれん」
「えっ……!? ほんまに!?」
女性幹事が、驚愕の表情で顔を上げた。
朋代は、真由美が遺した言葉を、そして彼女の「死」という代償を払ってまで教えてくれた唯一の手がかりを、静かに手繰り寄せ始めた。
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##オフィス街の邂逅と贖罪の扉
「まず、アタシがちゃんと彼に会ってくる。そしてアタシと真由美の罪を誠心誠意謝罪するから。その上で、みんなにも謝罪するチャンスをくれるかどうか聞いてみる。それでもし拒否されたら、その時は諦めなあかんかもしれへんけど、それでええかな?」
朋代は、迷いのない瞳で女性幹事を見つめた。
それは、かつての自分勝手な「やんちゃ」ではなく、他人の痛みを背負おうとする一人の大人の決意だった。
女性幹事は、堪えていた涙を溢れさせながら、何度も深く頷いた。
「うん! 有難うなあ、朋代。あんたに任せてええかな。ほんまに有難う」
彼女はハンカチで目元を拭いながら、少しだけ照れくさそうに、けれど心からの笑顔を見せた。
「朋代、何か変わったね。前はもっと……なんて言うか、自分勝手でやんちゃやったのに。今はもう、すっかり大人やね」
「まだまだやんちゃやで、アタシは」
朋代は、ふっと自嘲気味に、けれど柔らかく微笑んだ。
「そやから『元』が付くように、今、善行を積んでる真っ最中なんよ。一つずつ、着実に。」
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### 灰色の街並みと、沈黙の扉
女性幹事と別れた朋代は、地下鉄に乗ってオフィス街へと向かった。
四条烏丸から少し離れた、真新しいビルと古い町家が混在するエリア。
レストランで軽くサンドイッチの昼食を済ませたが、緊張のせいか味はほとんど分からなかった。
真由美が最後に訪れたという、ベンチャー企業が集まるオフィスビル。
今日は土曜日。休みの会社も多いだろうとダメ元でやってきたが、幸いなことにビルの受付窓口にはスタッフがいた。
朋代が訪問先を告げると、案内されたのは建物の最上階に近い、静かなフロアの一番端にある一室だった。
フロアの廊下は、土曜日ということもあって人の気配がなく、朋代のパンプスの音だけが虚しく響く。
目的のドアの前に立つ。
そこには、企業のロゴマークや派手な看板はなく、ただシンプルで無機質なシルバーのプレートが掲げられていた。
「岸田」
その文字を見た瞬間、朋代の胸が締め付けられた。
企業の看板というよりは、個人の自宅にある表札のような、どこか控えめで、けれど確固たる意志を感じさせるプレート。
朋代は、震える指先でインターフォンを押した。
「……」
返事はない。
やはり土曜日は不在なのか。
朋代は一瞬、肩の荷が下りたような、けれど逃げ場を失ったような複雑な安堵感を覚えた。
「……出直そう。今日は、きっとお休みなんや」
自分に言い聞かせ、重い足取りで来た道を戻ろうとした、その時だった。
「うちになんか用ですか?」
背後から、低く落ち着いた男性の声が響いた。
朋代は、心臓を直接掴まれたかのように身体を強張らせた。
ゆっくりと振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
短めに切り調えられた黒髪が、ビルの空調の風に微かに靡いている。
黒のトレーナーに機能性の高そうなカーゴパンツ、その上には黒のシンプルな上着を羽織っていた。
派手な装飾を一切排除した、合理的で清潔感のある佇まい。
その男性は怪訝そうな、けれど穏やかな眼差しで朋代を凝視していた。
朋代は、その人物の顔を前にして、言葉を失った。
喉の奥が乾き、何十年も前の、あの「くちゃくちゃ」になった髪と、泣きべそをかいていた少年の面影を必死に探そうとしていた。
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##沈黙のオフィスと冷えた再会
ビルの廊下を渡る乾いた風が、2人の間に流れる重苦しい沈黙を際立たせていた。
朋代は、目の前に立つ男性の顔を、すがるような思いで見つめた。
「あの、もしかして……岸田君?」
「ええ、いかにも。」
男性は感情を一切表に出さず、ただ静かに肯定した。
その声は低く、そして驚くほど落ち着いている。
かつて教室の隅で、小さな肩を震わせて泣いていた面影は、そこにはもうどこにもなかった。
「そっか……。大人になったなあ。」
思わず漏れた朋代の言葉に、岸田は僅かに口角を上げ、けれど目は笑わずに答えた。
「親戚みたいな、もしくは暫く会わんかった祖父母みたいな言い方しはりますね。」
彼はそう吐き捨てると、朋代の横を通り過ぎ、淀みのない所作でオフィスの鍵穴にキーを差し込んだ。
「あの、アタシは西田です。西田朋代です。」
背中に向けて、必死に自分の名前を告げる。
かつて彼に地獄を見せた、呪わしい加害者の名を。
「さいですか。」
岸田は振り返りもせず、事務的にそう返した。
その響きには、拒絶すら通り越した完全な無関心が含まれていた。
彼はガチャリと扉を開け、さっさと中へ入ろうとする。
「あの、これから仕事なん? 土曜日やのに?」
「ええ。さっきまで昼食でオフィス空けてただけですさかい。ほな。」
岸田はそう言って、朋代を締め出すように扉を閉めようとした。
「待って! 話したい事があんねん! お願い、時間を下さい!」
朋代は叫び、そのまま廊下の冷たい床に両手をついた。
頭を深く下げ、額を床に擦り付ける。
「話すことはありません。」
上から降ってくる声は、氷のように冷徹だった。
「お願いします! この通りです!」
必死の土下座。
エレベーターホールからの物音一つさえ耳に障るほどの静寂の中で、朋代はただ、己の罪の重さに耐えながら祈るように頭を下げ続けた。
沈黙が数秒続いた後、岸田の溜息が聞こえた。
「……いつまでもそうされると、帰る時も邪魔でしゃあないですわ。」
呆れたような、けれどどこか諦めたような声。
「珈琲と紅茶しかありません、それでよければ。」
岸田は扉を大きめに開き、無言で中へと導いた。
「有難う……。」
朋代は震える膝を叩いて立ち上がり、恐る恐るその聖域へと足を踏み入れた。
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### 対峙のテーブル
オフィスの内部は、外観以上に洗練されていた。
余計な装飾を削ぎ落としたミニマルな空間には、高性能なPCとモニターが並び、微かなファンの音だけが規則正しく響いている。
まるで、彼の思考回路をそのまま形にしたような、清潔で無機質な空間だった。
岸田は手際よく2人分の珈琲を淹れると、窓際の綺麗なテーブルにカップを置いた。
「どうぞ。」
促されるまま、朋代は彼の向かい側に腰を下ろした。
立ち上る湯気の向こう側で、岸田は椅子に深く腰掛け、組んだ指の上に顎を乗せた。
その真っ直ぐな視線が、朋代の逃げ場を塞ぐ。
時を経て、かつての「獲物」と「捕食者」は、今、完全に逆転した立場で対面した。
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##鏡合わせの絶望と、消えぬ刻印
清潔なオフィスの中に、淹れたての珈琲の香りが静かに満ちていく。
しかし、その香りは朋代にとって、喉を焼くような苦みを伴って感じられた。
対面に座る岸田は、表情ひとつ変えず、ただ静かにこちらの出方を待っている。
朋代は意を決し、椅子から滑り落ちるようにして深く頭を下げた。
「時間を、作ってくれて有難う。……そして、小学生の頃、最低な行いであんたの尊厳を無茶苦茶に踏みにじってしもて、誠に申し訳ありませんでした」
言葉を絞り出すたびに、肺の奥がひりつくような痛みを覚える。
「真由美はもう、岸田君に直接謝罪する事は出来へんし、アタシが彼女の代わりにはなれへんけれど、真由美の分の罪も償えと仰るなら、アタシが一生をかけて償います。本当に……本当に、すみませんでした」
震える声で告げ、朋代は再び、テーブルに額がつくほど深く頭を下げた。
岸田は、微動だにせずその謝罪を聞いていた。
「……真由美の事、どうなったか知ってる?」
朋代が恐る恐る顔を上げると、岸田は冷めた珈琲を見つめたまま、淡々と答えた。
「ええ、存じてます。私のとこに出さはった履歴書と、応募事項の用紙が一緒になった封筒が見つかった事で、警察が事情を聴くため、ここに来ましたからね。書類上、最後に彼女と会った人物は私という事になってますさかい。他にどこかの店に立ち寄ってたら、最後に会った人物は、その店の人やとは思うんですがね」
「警察には、なんて?」
「事実を話しました。面接をして、こちらの採用できるレベルに達していないから不採用にしました、とだけ。後、タクシー代を支給しました、という事もね」
彼の口調には、かつての級友を亡くした悲しみも、あるいは冷酷な復讐心も感じられない。
ただ、処理すべき「事象」として語るその冷徹さが、朋代には何よりも恐ろしかった。
「そっか。やっぱり、アタシと真由美の事は、ずっと恨んでた?」
朋代の問いに、岸田は初めて僅かに視線を上げた。
「いいえ、全く。確かに子供の頃は殺したいほど憎んでたけど、今では有難い出来事として感謝してます」
その言葉に、朋代は耳を疑った。
「え……? 感謝……?」
「おかげさんで、人を見る目が養われました。目の前の相手が上っ面でものを言うてるのか、人間的にどうしようもない輩なのか、所見でほぼ見抜けます。かなりの精度で見極める力がつきましてな」
岸田は自嘲気味に、けれど確かな自負を持って言葉を継いだ。
「そのおかげで、相手が信頼に足るかどうか、詐欺師かどうかも直ぐに察しがつきます。そやから、信頼できる相手とだけ仕事が出来るようになって、フリーランスとしても十二分にやっていく力がつきましたんよ。最も、だからと言って、おたくらのしでかした罪が消えるわけやありませんけどね」
ドクン、と朋代の心臓が不吉な音を立てて跳ねた。
「『感謝する』と言ったのは、ある種の方便であり、皮肉です。私自身が、過去の痛みを生きるための燃料に無理やり昇華しただけの話ですから。おたくらが私に植え付けた毒は、今も私の血の中に残っとるんですよ」
岸田の真っ直ぐな視線が、朋代の魂を貫く。
「それを、今の私を見て『よかった』なんて思われたら心外ですわ。私の今の力は、あんたらに踏みにじられた欠片を、私が必死に拾い集めて繋ぎ合わせた副産物に過ぎへんのやから」
その瞬間、朋代の脳裏に摩訶不思議食堂での地蔵店長の言葉が鮮烈に蘇った。
『罪が完全に滅びることはなく、『罪滅ぼし』と言うのは原理的にあり得ません』
(……ほんまや。アタシが何をしようと、この人が受けた傷は消えへんし、無かったことにも出来へん)
岸田が強くなったのは、彼自身の努力であって、朋代たちの悪行が正当化される理由には1ミリもならない。
むしろ、彼が今の成功を手にするためのきっかけとなった「痛み」、それを植え付けた者としての代償こそが、朋代が一生背負い続けなければならない業の重さなのだ。
罪そのものは、この宇宙のどこにも消えずに残り続ける。
朋代は、自分が抱いていた「謝って赦されたい」という微かな甘えを、岸田の冷徹な正論によって完膚なきまでに打ち砕かれた。
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##刻印と沈黙の供養
「本当に、ごめんなさい」
朋代は、絞り出すような声と共に、再び深く頭を下げた。
机に置かれた二つの珈琲カップから立ち上る湯気が、二人の間の重苦しい沈黙を象徴するように揺れている。
かつては「獲物」として見下していた相手の前に、今はこうして、一人の加害者として、一人の人間として、地に額を擦り付けるような思いで座っていた。
「……正直、驚いてます」
不意に、岸田の低く落ち着いた声が静寂を破った。
「え?」
朋代が驚いて顔を上げると、岸田は相変わらず無機質な、けれどどこか鋭い眼差しで彼女を凝視していた。
「西田さんがここに来られた事。私に対して、これほどまでに深く頭を下げた事。そして、私を蔑称ではなく、名字で呼んだ事。その全てに、驚いてるんですわ」
「……『くちゃくちゃ』なんて言うて、ほんまにごめん。今ならわかる。ほんまにくちゃくちゃで、無茶苦茶やったんは、アタシ自身やったのに。あんたの尊厳を、アタシらが勝手にくちゃくちゃにして、それを笑ろてたんや……」
朋代は、自分の内にあった醜悪な過去を直視し、震える声で告白した。
「昔の事です。私にとっては今更な話やけど、そちらさんがそれを今更と思わんと、今からでも己を正して生きるつもりなら、私からこれ以上言う事はありません」
岸田は淡々と、けれど突き放すように言い放った。
「……うん」
朋代は、その冷徹な言葉の中に含まれた「己を正せ」という重い訓示を、逃げずに受け止めた。
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「なあ、岸田君。……あんたは真由美の死を知って、どう思った? ……正直に教えて。……『ざまあみろ』って、心のどこかで思った? ……そう思われても仕方ないことをアタシらはしてきたし、真由美本人もきっと、そう思われる覚悟で死んだと思うから」
朋代は、逸らしたくなる視線を必死に繋ぎ止め、真っ直ぐに岸田を見つめた。
少女時代を共にした親友の最期。
その報いとしての死を、かつての被害者はどう受け止めたのか。
その真実を知ることが、自分の背負うべき「業」の一つであると彼女は確信していた。
「……『ああ、そうなんや』としか思うてません」
岸田は、感情の起伏を一切排した、凪のような声で答えた。
「そっか……」
あまりにも淡白な、けれど偽りのないその一言に、朋代は胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みを感じた。
復讐心すら湧かないほどの、徹底した無関心。
それが、真由美という人間がこの世に残した足跡の、残酷な結末なのだと突きつけられた気がした。
しかし、岸田はそこで言葉を止めなかった。
「そもそも、荼毘に付して共同墓石に納骨して、四十九日も過ぎたから。一応の区切りはついたから、後はもう私の知るところではありませんし、木村真由美と言う一人の人間がこの世を去ったという、その事実を知るっているだけです」
「え……?」
朋代は、耳を疑った。
その言葉に含まれた、幾つもの不自然な情報の断片。
「荼毘」……火葬のこと。
「共同墓石」……納骨された場所。
そして「四十九日」。
(……なんで? なんで、岸田君がそれを知ってるん?)
自分はあのお寺を見つけるのに、どれだけの時間と労力を使ったか。
住職から「四十九日を過ぎている」と聞いた時、あんなに驚いたはずなのに。
なぜ、目の前の、真由美を不採用にしたはずの彼が、まるでその儀式を見届けたかのような口調で、当たり前のようにその数字を口にするのか。
朋代の頭の中に、新たな、そしてとてつもなく大きな疑問が、渦を巻いて沸き起こっていた。
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##数珠と経典、そして沈黙の慈悲
静まり返ったオフィスの中で、朋代はふとした疑問を口にした。
「……なぁ、岸田君。なんであんた、真由美が四十九日を過ぎてるとか、共同墓石に入ってることまで知ってるん? アタシ、お寺の住職さんから聞いた時、あんたの名前なんて一言も出んかったのに」
岸田は珈琲カップを置き、事も無げに答えた。
「そりゃ、私が火葬とお寺さんでの簡易的な葬儀の手配をしましたからね。御遺体が自ら歩いて火葬場に行って、自分から火の中に飛び込むわけにはいかんでしょう」
「えっ……あんたが、やったん?」
絶句する朋代に対し、岸田はカーゴパンツのサイドポケットから、使い込まれた小さな布製の数珠袋を取り出した。
中から出てきたのは、落ち着いた色合いの木製の数珠と、表紙の擦れたポケットサイズの経典だった。
「最後の最後に関わりを持った手前、関わった者の義理を果たしただけです。これでも私は仏教者やさかいね。大学も仏教系のところへ行って、教えを頂いてましたから」
岸田は数珠を指先にかけ、淡々と続けた。
「あの時、彼女を不採用してすぐに、彼女は自ら命を絶った。警察から連絡が来た時、身寄りがないと聞いて、放っておくわけにはいかなかった。それだけのことです」
「そうやったんや……。でも、じゃあなんで、御住職は岸田君のことを教えてくれへんかったん? アタシ、必死に探してやっと辿り着いたのに」
「私がお願いしたんです。最終的に、私はもう彼女に関わらへんつもりやったさかい。『もし誰か尋ねてきても、僕のことは一切言わんといて下さい。面倒になるだけやから』ってね。西田さんが何も知らんかったんは、御住職が私との約束をしっかり守ってくれ張っただけですよ。あの御住職は誠実な人やって、私が思うた通りやったわけやね」
朋代の目から、熱い涙が溢れ出した。
かつて、自分と一緒に寄ってたかってあれだけの惨い仕打ちをし、尊厳をズタズタにした相手。
その被害者であるはずの岸田が、加害者の一人である真由美の死後の面倒を、誰に知られることもなく、義理と慈悲だけで引き受けてくれていた。
その器の大きさと、自分たちの小ささが情けなくて、そして有り難くて仕方がなかった。
「……有難う。有難う、岸田君。真由美のこと、ほんまに、有難う……」
朋代は椅子から立ち上がり、震える声で何度も頭を下げた。
岸田はそんな朋代を冷ややかな、けれどどこか試すような目で見つめた。
「正直、西田さんは責めに来たのかと思ったんですがね。『あんたが採用してたら、彼女は死なずに済んだのに』と。」
朋代は涙を拭い、真っ直ぐに岸田を見つめ返した。
「正直に言うわ。最初は一瞬だけそう思ったよ。でもな、自分の罪と向き合っていくうちに、不採用になったことは当然やって、心の底から思った。岸田君は、恨んでたから真由美を落としたわけやない。一緒に仕事をする相手として、信頼できへんから落としたんや。不採用にしたんは、あんたのプロとしての、人間としての正当な判断やったんやって。今、こうして直接話してみて、そう確信してる」
岸田は僅かに眉を動かしたが、何も言わなかった。
ただ、その沈黙は拒絶ではなく、朋代の言葉を正しく受け止めた証のように感じられた。
「改めて、真由美の死後に、あの子をお墓にまで入れてあげてくれて、本当に有難う御座います。これからの真由美の供養は、アタシが責任をもって引き継ぎます。岸田君にこれ以上の負担はかけさせへんから。ほんまに、有難う」
朋代は、かつての傲慢な自分を完全に捨て去り、一人の「人間」として、岸田に対して深く、丁寧に、最敬礼の頭を下げた。
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##響き合う法句経と再生の微笑
珈琲の湯気が細く揺れる静寂の中で、岸田がふと、独り言のように呟いた。
「……西田さん。年を重ねて、随分と成長しはったみたいですね。」
その言葉には、かつての被害者としての棘ではなく、一人の仏教徒として目の前の人間の「変化」を認めるような、静かな響きがあった。
朋代は、自嘲気味に首を振った。
「いや、大人になっても、アタシはずっと成長してへんかったよ。もし成長出来たとしたら、自分の罪をまざまざと見せつけて、気付かせてくれた恩人……というか、恩鬼? 恩お地蔵さん? まあ、そういう不思議な方達に恵まれたからかな。」
彼女は、あの摩訶不思議食堂で出会った、恐ろしくも慈悲深い者たちの顔を思い浮かべた。
「その方達から、こんな言葉を教わったんやわ。『まだ悪の報いが熟しないあいだは、悪人でも幸運に遭うことがある。しかし悪の報いが熟したときには、悪人はわざわいに遭う』って。」
朋代が、地蔵店長から授かった法句経の一節を、一音一音噛み締めるように称えた。
岸田の目が、僅かに見開かれた。
「……ダンマパダ。法句経、ですか。」
「え? あ、そっか。岸田君は仏教の大学に行ってたんやもんね。知ってても不思議はないか。」
岸田は、自分の数珠をそっと撫でながら、静かに言葉を継いだ。
「似た教えが『ウダーナヴァルガ』にもありましてね。……そうですか、それを教わりましたか。」
「……うん。そしてな、そんな大罪を犯したアタシが、これからどう生きていくべきかも、ちゃんと教えて貰った。今はな、それを毎日、逃げんと積み上げてる最中やねん。職場で後輩の仕事を手伝ったり、真由美の供養の事を考えたりな。」
岸田は、少しだけ椅子の背もたれに体を預けた。
「そうですか。それは、誠に結構な事です。」
彼の言葉は短かったが、そこには拒絶ではない、確かな肯定の温もりが混じっていた。
「……うん。」
朋代は、短く頷いた。
そして、このオフィスに足を踏み入れてから初めて、顔を上げて微笑んだ。
それは、許しを乞うための媚びた笑いではなく、自分の罪を背負い、それでも善き方へ歩き出そうとする、晴れやかで潔い「元」やんちゃおねえちゃんの微笑みだった。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上で冷えかけた2人の珈琲を、静かに照らし出していた。
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##贖罪の門出と、空へ続く誓い
オフィスに流れる静寂を破るように、朋代は意を決して、もう一度だけ岸田の目を見つめた。
「岸田君。最後にもう一つだけ、お願い聞いてくれるかな? 聞いてくれるだけでええから」
その声には、かつての自分勝手な傲慢さは微塵もなく、ただ他者の想いを届けようとする真摯な響きがあった。
「……何です?」
岸田は、数珠を袋に仕舞いながら静かに問い返す。
「岸田君を傷つけた、かつての同級生達もな……。みんな、あんたにちゃんと謝りたいって言うてるんよ。……もし、もし許されるなら、彼らに謝罪のチャンスをあげてくれへんやろか」
朋代は、祈るように両手を重ねた。
岸田は暫くの間、窓の外に広がる京都のオフィス街を見つめていた。
「……私からは会いに行きませんけど、向こうから勝手に来たいと言うなら、どうぞご勝手に。拒絶はしません。」
彼は事務的な口調を崩さなかったが、その言葉には、過去を切り捨てるのではなく、対峙しようとする者への最低限の礼節が込められていた。
「ただし、私も遊びで仕事をしてるわけやありませんさかい。仕事中だったり、外出中に来られても対応はできません。そこだけは、ちゃんと言うといてください」
「……っ、有難う! ほんまに有難う。みんなにもそう伝えとくから」
朋代は、こぼれそうになる笑みを噛み締め、深く、深く頭を下げた。
それが、岸田という一人の男が提示した、精一杯の「和解の入り口」であることを彼女は理解していた。
「ほな。仕事に戻りますさかい、気を付けてお帰り下さい。」
岸田の短い言葉に促されるように、朋代はオフィスを後にした。
カチャリ、と背後で閉まった扉の音は、かつての暗い記憶が一つ、静かに閉じられた合図のように聞こえた。
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###夕暮れの墓標
オフィス街からバスを乗り継ぎ、朋代は再び、真由美が眠る静かな寺院へとやって来た。
西に傾いた太陽が、古い墓石の群れを長く、淡い橙色に染め上げている。
ガサガサ……と、風が木々を揺らし、どこか遠くで鐘の音が響いた。
朋代は共同墓石の前に立ち、持参した花を供え、線香に火を灯した。
立ち上る白い煙の向こう側で、彼女は静かに、けれど力強く手を合わせた。
(……真由美。岸田君に、ちゃんと会って、謝って来たで)
心の中で、親友に語りかける。
(ここからがほんまの、アタシの償いや。地蔵店長に教えてもらった、善行を積んでいく修行の始まりやねん)
パチッ、と線香の火が爆ぜる音が、静寂の中で小さく響いた。
(アタシ、もう逃げへんから。過去にやってきた罪からも、これからやってくるはずの『報い』からも。……そんでな、いつかアタシがそっちに行った時、真由美に『アタシ、ちゃんと生きたで』って、胸張って言えるような生き方をしていくからね)
頬を伝う涙は、もう苦いだけのものではなかった。
それは、自らの「業」を受け入れ、それでも光の方へ歩き出そうとする魂の浄化。
朋代は、真由美の魂が「ほな、頑張りや」と、いつもの調子で笑ってくれたような気がして、ふっと口元を緩めた。
朋代は乾いた靴音を立てて、朋代は寺院の門をくぐった。
目の前には、どこまでも続く京都の街並みと、沈みゆく夕日が描く美しいグラデーションが広がっている。
彼女は、自分を導いてくれた「青い鬼火」がもういないことを確かめるように、一度だけ空を仰いだ。
そして、新しく、確かな一歩を、アスファルトの地面に力強く踏みしめた。
その背中は、もはや「やんちゃ」なだけの少女ではなく、罪を背負いながらも再生を誓った一人の女性の、気高い静寂を纏っていた。




