六長と御子【第四話】
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昼のやわらかな光が、神殿の庭園に降り注いでいた。
噴水の水音が静かに響き、風が吹くたびに花々が揺れる。
エリオットが去ってから、庭園には再び穏やかな時間が流れていた。
リューシャは花の前にしゃがみ込み、小さく可憐な青い花を見つめる。
「勿忘草…っていうんだよね」
「左様でございます」
侍女長が答える。
「花言葉は、"真実の愛"というのだそうです」
リューシャは侍女長をちらりと見てから呟いた。
「真実の愛…綺麗な花言葉だね」
風が吹き、小さな花たちが、波のように揺れる。
――そのときだった。
回廊の奥から、慌ただしい足音が響いた。
先ほど庭師を呼びに行った侍女だった。
だが様子が違う。
息を切らし、額に汗を浮かべている。
「侍女長様……!」
彼女はリューシャではなく、侍女長のもとへ駆け寄った。
そして耳元で、小さく何かを囁く。
その瞬間。
侍女長の表情が、ほんのわずかに変わった。
侍女長はリューシャの前へ進み、静かに頭を下げた。
「……御子様、旧聖堂へお越しくださいとのことです」
リューシャは目を瞬かせた。
「旧聖堂……?」
神殿の奥にある古い聖堂。
それは、神官でさえ滅多に立ち入ることを許されない場所だ。
(なにがあったんだろう)
理由はわからない。
不安が押し寄せてくるが、リューシャはその気持ちを胸の奥に押し込め、立ち上がった。
「……わかった」
侍女長が一歩前に出る。
「私がご案内いたします」
二人は庭園を後にした。
石造りの回廊を進む。
歩くたびに足音が小さく響く。
神殿の奥へ進むほど、人の気配は消えていった。
やがてリューシャが口を開く。
「侍女長さん」
「はい、御子様」
「旧聖堂に呼ばれることって……よくあることなの?」
侍女長は一瞬だけ沈黙し、躊躇ったように告げた。
「……いいえ」
短い答えだった。
それ以上、リューシャは聞かなかった。
しばらく歩き、二人は巨大な扉の前へ辿り着く。
白い大理石でできた旧聖堂。
重厚な扉が静かに佇んでいる。
侍女長は立ち止まり、深く頭を下げた。
「申し訳ありません、御子様」
「この先は、私は立ち入ることができません」
リューシャは自分よりもずっと背の高い扉を見上げる。
侍女長が、もう一度小さく言った。
「御子様」
「うん」
「……どうか、お気を強く」
リューシャは少し驚いたように目を見開いた。
けれどすぐに、侍女長に心配をかけないよう微笑む。
「ありがとう」
そう言って、一歩前へ出た。
扉に手をかける。
(一体、なにが言われるんだろう)
冷たい石の感触。
ゆっくりと押すと、重たい音を立てて扉が開いた。
扉の向こうは薄闇に包まれていた。
高い天井と古い柱が並ぶ空間には、ひんやりとした空気が満ちている。
リューシャはゆっくりと中へ足を踏み入れた。
背後で重い音を立てて扉が閉じる。
その音が、聖堂に響いた。
リューシャは数歩進み、足を止める。
そして気づいた。
聖堂の奥。
祭壇の前に――六つの人影が並んでいる。
暗がりの中で、その姿ははっきりとは見えない。
だが。
そこにいるだけで分かる。
ただならぬ存在だと。
六つの視線が、静かにこちらへ向けられている。
その重さに、胸の奥がわずかに締めつけられる。
(……この人たちは)
言葉にしなくても理解できた。
この世界の支配者――長だ。
リューシャは小さく息を整え、ゆっくりと頭を下げた。
「……リューシャ・ヴェイル=アストリアと申します」
「お呼びでしょうか」
沈黙。
誰もすぐには答えない。
ただ、六つの視線だけがリューシャを見つめている。
やがて――
その中の一人が、口を開いた。
低く、よく通る声だった。
「顔を上げてください」
リューシャは言われた通り、顔を上げる。
暗闇の向こう。
六人の姿がぼんやりと浮かんでいる。
「御子殿」
その声が続けた。
「貴女様に伝えなくてはならないことがあります」
リューシャは小さく頷いた。
「……はい」
短い沈黙。
そして。
別の声が、静かに言った。
「一年後」
その一言で、空気がわずかに張り詰める。
リューシャの心臓が、小さく脈を打った。
「御子様には――世界のため、生贄となって頂きます」
その言葉は、あまりにも無情だった。
まるで特別なことではないかのように。
ただの事実を告げるように。
リューシャは、すぐには言葉を返せなかった。
(生贄……)
意味は分かる。
この世界を守るための存在。
神の御子として生まれた以上、いつかはその役目を果たす。
――そう教えられてきた。
けれど。
「一年後」
その期限は、あまりにも近い。
胸の奥で、なにかがぎゅっと縮まる。
それでもリューシャは、静かに息を吐いた。
そして、小さく言った。
「……そうですか」
それだけだった。
泣きもせず、取り乱しもせず。
ただ受け止めた。
その反応に、六つの影のうちいくつかがわずかに動く。
やがて、別の声が続けた。
「この世界を維持するために、必要なことなのです」
(頭ではわかってる)
リューシャは少しだけ目を伏せた。
(…でも)
指先が、ほんのわずかに震える。
けれど、それを見られないように手を握りしめる。
そして、もう一度顔を上げた。
「……わかりました」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
聖堂の空気が、わずかに動く。
だがリューシャは続けた。
「でしたら」
六つの影が、わずかに身じろぐ。
「お願いがあります」
沈黙。
誰も止めない。
リューシャは一歩だけ前に出た。
「一年」
芯のある声が広い空間に反射して響く。
「一年だけ、時間をください」
「私は、この世界をほとんど知りません。神殿の外も、街も、人々の暮らしも」
胸の奥が、少しだけ苦しい。
それでも言葉を続ける。
「どうせ死ぬのなら」
そして。
「……最後に、世界を旅させて下さい」
長い沈黙が続く。
六つの影の間で、わずかに視線が交わされた気配があった。
やがて――
そのうちの一人が、口を開いた。
「僕はいいと思うよ」
軽い中性的な声。
「一年の猶予を与えよう、皆もそれでいいよね?」
別の人影が続ける。
「一年後」
「その時は、迷わず役目を果たして頂けるのならば構いません」
それが、この場の結論だった。
リューシャは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
声は、震えていない。
顔を上げたときも、表情は穏やかなままだった。
まるで、動じていないような神の御子。
だが――
誰にも見えない場所で。
彼女の指先だけが、ほんのわずかに震えていた。
彼女の指先だけが、ほんのわずかに震えていた。
一年後、自分がこの世界から消えることを思いながら。
【4話完】




