異端審問官【第三話】
◆◆◆
地下へ続く石の階段は、昼間だというのに薄暗かった。
湿った空気が壁に張り付き、古い血と鉄の匂いがわずかに残っている。
階段の上では、数人の部下たちが黙って立っていた。
誰も口を開かない。
ただ地下へ続く重たい鉄の扉を見つめている。
地下の奥から、何かが倒れる鈍い音が一度だけ響いた。
それきり、沈黙。
やがて――
ギィ、と重たい音が鳴った。地下室の扉が内側から開く。
闇の中から一人の男が姿を現した。
白い髪。
そして血のように赤い瞳。
年の頃はまだ若い。整った顔立ちをしているが、雪のように白い肌の中にある表情には感情らしいものがほとんど浮かんでいない。
男の名は――
シオン・ヴェイル=アストリア。
彼は異端者や反逆者を裁く男。人々は、彼を異端審問官と呼ぶ。手には剣が握られ、刃には赤い血が付着している。
シオンはそれを一度だけ見下ろすと、軽く剣を振った。
血が払われ、赤い雫が石畳に落ちる小さな音が静かに響いた。
彼はまるで、何事もなかったかのように剣を鞘へ収める。
若い部下たちは、恐る恐る口を開く。
「任務ご苦労様でした」
シオンはその声の方を見ない。
「ああ」
短い返事だった。
地下ではもう、誰も生きていない。
部下の一人が小さく喉を鳴らした。
「…今日は何人異端者がいたのですか」
ほんの一瞬だけ沈黙が落ちる。
シオンはわずかに視線を動かした。
だがそれは考え込んだというより、質問の意味を確認した程度の反応だった。
「さあ」
興味のない気怠げな声だった。
「覚えていない」
部下たちの背筋に冷たいものが走る。
地下には十数人いたはずだった。
異端者、反逆者、罪人。
だがその人数を覚えていないということは――
彼にとって、それは数える価値すらない存在だったということだ。
シオンはもう部下を見ていない。興味を失ったように歩き出す。
白い髪が階段のわずかな光の中で揺れた。
「ああ」
数歩進んだところで、思い出したように言う。
「片付けは頼んだ」
振り返りもしない。
ただそれだけを残して歩いていく。兵士たちは慌てて頭を下げた。
「はっ!」
重たい扉が再び開き、男たちが地下へ駆け込んでいく。
だがシオンはその音を気にすることもなく歩き続けた。
彼にとってそれは、すでに終わった出来事だった。
◆◆◆
街は昼の活気に満ちていた。
石畳の通りには人が溢れ、屋台の匂いが漂っている。
焼いた肉の香ばしい香り。果物を売る商人の声。走り回る子どもたちの笑い声。
市場は賑やかだった。
だがその中を歩くシオンの姿は、どこか浮いていた。
白い髪を隠すような黒いローブ、黒い皮の手袋。
人混みの中にいても、周囲の空気とはどこか違う。人々は無意識に彼を避けて歩く。
肩が触れそうになると、自然と道を開ける。
理由は分からない。
ただ、本能がそうさせていた。
シオンは気にした様子もない。
静かな足取りで通りを進んでいく。
やがて市場の通りを抜けようとしたときだった。
ふと、足が止まる。
視線の先には、小さな店があった。
宝石店だった。
特に目的があったわけではない。
だがショーケースの中の光が目に留まった。
青い宝石。澄んだ水のような色をしている。光を受けて、静かに輝いていた。
シオンはしばらくそれを見つめる。
やがて、心の奥に一つの記憶が浮かぶ。
(……姉さま)
リューシャ・ヴェイル=アストリア。
自分の姉。
神殿に仕える御子。
穏やかな笑顔の人だった。誰に対しても優しく、柔らかく微笑む人。
その瞳は透き通るような青色をしている。
ちょうど、この宝石のような色だ。
(姉さまなら)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
(きっと、綺麗だと言うだろう)
シオンはガラス越しに宝石を見下ろす。
青い光が静かに揺れていた。
そしてもう一つ、思考が浮かぶ。
(姉さまは……)
ほんのわずかな沈黙。
(元気だろうか)
彼の瞳に、少しだけ光が浮かんだように見えた。
店の奥から声が聞こえる。
「おや、兄ちゃん」
年老いた店主が顔を出した。
白い髭を撫でながら、シオンを見上げる。
「宝石に興味あるのかい?」
シオンは答えない。ただ青い石を見ている。
店主は気にした様子もなく続けた。
「それ、いい石だろ」
ショーケースを軽く叩く。
「最近入ったばかりなんだ」
宝石は光を受けて静かに輝く。
店主は少し楽しそうに笑った。
「実はな、前にも見てた人がいてな」
シオンの瞳がわずかに動く。
「高貴そうな騎士の兄ちゃんでな」
「背が高くて、真面目そうな顔してた」
店主は思い出すように続けた。
「大切な人に渡すみたいだったぜ」
青い石が光を受けてきらめく。
「綺麗な石だろ?」
シオンは短く答えた。
「……そうだな」
それだけだった。店主は首を傾げる。
「兄ちゃんも誰かに贈るのか?」
シオンは答えない。
しばらく宝石を見つめていたが、やがて視線を外す。
そして踵を返した。
「お、買わないのかい?」
店主が声をかける。シオンは振り返らない。
「また今度だ」
短く言って店を出る。市場の喧騒が耳に戻る。
人々の声。屋台の匂い。昼の光。
シオンは数歩歩き、ふと立ち止まった。
ゆっくりと振り返る。宝石店の窓。ガラス越しに見える青い石。
静かな光だった。
(今度来たら……)
ほんの一瞬だけ思う。
(買うかもしれない)
「大切な人に…か」
誰にも聞こえないように呟き、彼はまた人混みの中に消えていった。
【3話完】




