表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

不器用な父と、よく笑う娘の話

作者: 星渡リン
掲載日:2025/12/28

父は、ほんとうに不器用だ。


「似合う」の一言が言えない。

私が髪を切っても、父が言うのはこうだ。


「風邪ひくな」


そこじゃない。


だけど私は、その不器用さを“いつものこと”として笑ってきた。

笑っていれば、家の空気が軽くなる。

父が黙っていても、二人の暮らしがちゃんと回る。


そう思っていた。



町の朝は早い。

魔法灯がまだ薄青く光っている時間に、市場の方から荷車の音がして、パン屋の煙突から甘い匂いがのぼる。


私はその匂いを吸い込むだけで機嫌がよくなるタイプだ。


「おはよー!」


寝室のドアを勢いよく開ける。


「……うるさい」


布団の中から、父の声。低くて眠そうで、いつもより二割だけ不機嫌。


「起きないと遅れるよ? 工房、朝一番は客が多いんだから」


「わかってる……」


のそりと起き上がった父は、髪が爆発していた。

いつも無造作。整えるという概念が薄い。


「それ、直す?」


「……直す」


父は渋々、手でならした。直ってないけど、本人が「直した」と言い張るならそういうことにしておく。


私は笑って台所へ回る。

昨夜のスープを温め、硬くなったパンを焼き直して、干し肉を薄く切る。


父は工具袋の紐を結び直していた。


「ほら」


父が私の皿に、干し肉を一枚多く乗せた。


「え、なに。今日だけ豪華?」


「昨日、少なかった」


「昨日もらったよ?」


「気のせいだ」


父は顔をそらした。

言わない。言えない。

だけど、してしまう。


私はその“余計な一枚”をありがたくかじった。


そして、勇気を出して言う。


「ねえ、お父さん」


「ん」


「今日、親方に言おうと思うんだ。見習い、正式に入れてくださいって」


父の手が止まった。ほんの一瞬。

でも私は、その一瞬で胸がざわつく。


「……まだ早い」


出た。父の反射。


「早くないよ。もう一年手伝ってるし」


「危ない」


「火花が飛ぶから?」


「……それもある」


父は工具袋の金具を、必要以上にいじっている。緊張したときの癖だ。


「私、ちゃんと気をつけてる。革手袋もつけてるし、髪もまとめてる」


「事故は、気をつけてても起きる」


言い方が、少し強かった。


胸の奥がつんとする。


「……わかった」


私は笑った。

場が暗くならない笑い方。

相手を困らせない笑い方。


「じゃあ今の話は後でね。遅れるよ!」


父は何も言わない。会釈だけ。

だけど私は、なぜか父の背中を見ないようにした。



父は修理屋だ。

鍋釜、農具、荷車、扉の蝶番。壊れたものを直すのが仕事。


剣は持たない。

この世界では、それだけで少し目立つ。


「修理屋のくせに剣も振れねえのか」


そんなことを言う人もいる。

父は笑って受け流す。怒らない。言い返さない。


私はそれが、少しだけもどかしかった。

だけど同時に、父の“静かな強さ”の正体を知らなかった。


工房の親方は豪快な人で、父とは真逆だ。

声が大きい。笑い方も大きい。


「ミア、お前、手がいいな。目もいい。いずれ一人前だぞ!」


そう言われるたび胸がふわっと浮く。


私は笑う。親方も笑う。周りも笑う。

世界が少し明るくなる。私はそれが好きだった。


……家に帰るまでは。


家に帰ると父は変わらない。

褒めない。笑わない。否定もしないけど、肯定もしない。


だから私は、笑いながら、少しずつ父から離れていったのかもしれない。



その日の夕方、私はとうとう言った。


「お父さん。私、正式に工房の見習いに入りたい」


父は鍵を開ける手を止めた。


「だめだ」


短く。はっきり。

それだけ。


胸の中で、何かがぷつんと切れた気がした。


「……どうして」


「危ない」


「危ないって、それだけ?」


「事故は起きる」


「それ、昨日も言った!」


声が上がった。

自分の声の強さに、私自身が驚く。


父は振り返らない。背中で言う。


「……お前は、笑ってればいい」


その言葉が、一番痛かった。


「私、笑ってるだけの人じゃない」


笑えなかった。

喉が震えた。


父はようやく振り向いた。

でも言葉が出ないらしい。唇が動いて、止まる。


結局、父は目をそらして言った。


「……もういい。飯だ」


逃げた。

私の目には、そう見えた。



その夜、眠れなかった。


「笑ってればいい」が、頭の中で何度も繰り返される。


私は父の前でよく笑う。

父が困らないように。空気が重くならないように。

父が“言葉にできない何か”を飲み込みやすいように。


でも、その笑いが私自身の檻になっていたなんて。


隣の部屋から金属の擦れる音がした。

父が工具をいじっている音。


私は布団の中で目を閉じた。

聞こえないふりをした。


たぶん父も、私が眠れないことに気づいてる。

でも、何も言わない。


不器用だ。

不器用すぎる。



翌日。交易隊が町に入った。

市場はいつもより騒がしく、荷車が何台も並び、人が行き交う。


私は工房へ向かって歩く。

胸の中の「だめだ」は、まだ消えない。


そのとき、聞き慣れない叫び声がした。


「止まらねぇ! 荷車が!」


坂の上から、荷車が滑ってきていた。

車輪がガタつき、荷が崩れかけている。前には人。子どももいる。


まずい。


体が勝手に動いた。

私は叫びながら走った。


「どいて! どいて!」


子どもを押しのけるように避けさせて、荷車の横に飛びつく。

車輪の金具が外れかけている。


工具があれば締め直せる。

でも今は何もない。手だけ。


「くっ……!」


金具は熱くて、痛くて、指が滑る。荷車は重い。速度がある。


次の瞬間、背中から強い力がぶつかった。


「離れろ!」


父の声。


父が私の肩を掴み、引き剥がすように後ろへ投げた。

私は尻もちをつく。


目の前で父が荷車に向かう。

剣は持っていない。

でも、工具袋は持っている。


父は袋から細い鉄の棒を抜き、車輪の軸に突き刺した。

てこの原理で荷車をわざと横倒しにする。


荷車が大きく傾き、荷が地面にぶちまけられ、勢いが止まった。土煙が舞う。


周囲がどよめく。


父は誰の声も無視して、外れかけた金具を手早く締めた。

金属の音が鳴る。迷いのない手。


その姿は、戦いみたいだった。


私は息ができなかった。

心臓が喉の奥で跳ねている。


人の被害は、ない。


父が振り向いた。

父の顔は青ざめていた。


怒っている。

泣きそうにも見えた。


父は私の前まで来て、腕を掴んだ。強い。痛い。


「……何してる」


声が震えていた。


「私、だって……子どもが――」


言い訳をしようとして、止まった。

父の目を見た瞬間、言葉が消えた。


父は怖がっていた。

私が怪我をする未来を、現実として見ているみたいに。


「危ないって言っただろ」


「……だって!」


「だってじゃない!」


父の声が大きくなる。

父がこんな声を出すのを、私はほとんど知らない。


父は息を吸って、吐いて、それでも止まらなかった。


「……怖いんだ」


小さく、絞るように。


「お前が怪我するのが。いなくなるのが」


父の喉が詰まった。


「母さんも……」


その言葉だけで、私は理解してしまった。


母の死。

父の沈黙。

「事故は起きる」。

「笑ってればいい」。


全部、繋がった。


私は、やっと言えた。笑わずに。


「……私だって、怖いよ」


声が震えた。


「でも、だからって何もしないでいたら……もっと怖い」


父が目を見開く。


私は続けた。


「工房に入りたい。誰かの役に立ちたい。お父さんみたいに」


父の眉が動いた。驚いた顔。


「お父さんは剣を持ってないけど、さっき、守った」


喉の奥が熱くなる。


「守ったよ。私も、ああなりたい」


父の手の力が、少しだけ緩んだ。



【父の短い本音】


娘の笑い声が好きだった。

あの笑い声が家にあるだけで、世界が大丈夫だと思えた。


だから、守りたかった。

言葉を飲み込んで、先回りして、危ないものから遠ざけて。


でも、笑わせることが娘を縛るなんて、俺は考えもしなかった。


剣がなくても、直す手がある。

壊れそうな未来を、直したい。


失いたくない。

それだけだ。



その夜、父は私の机の上に革の小さな袋を置いた。


中には手入れされた小さな工具。

工房で使える、ちょうどいいサイズ。


そして革手袋。新品。私の手にぴったりの。


喉が詰まった。


私は台所へ行った。


「……お父さん」


「ん」


父は振り向かない。いつもの癖。


「これ、なに」


「……仕事の道具だ」


「私に?」


「……そうだ」


父の耳が、ほんの少し赤い。


私は笑った。

でも今日は、いつもの笑い方じゃない。


泣きそうで、嬉しくて、恥ずかしくて、それでも溢れてしまう笑い。


「ありがとう」


父が咳払いをした。


「……礼はいい」


「言うよ。言いたいから」


私は一歩近づく。


「私、明日から工房に正式に入る。親方に言う」


父は黙った。

でもその沈黙は、いつもの“飲み込む音”じゃなかった。


何かを出そうとしている音だった。


「……行ってこい」


声は小さい。


「ただし」


やっぱり条件がつく。父らしい。


「帰ってこい」


胸の奥が、じんとした。


「うん」


私は頷く。


「帰ってくる。毎日。ちゃんと」


父は私の頭に手を置いた。ほんの一瞬。ぎこちなくて、でも確かに温かい。


「……髪、結べ」


「そこは『頑張れ』じゃないの?」


「……火花が飛ぶ」


「はいはい、わかりましたー」


私は明るく言って、でも心の中は静かだった。

不思議なくらい、満ちていた。


翌朝。


「いってきます!」


「……いってこい」


父は手を振らない。相変わらずだ。


私は数歩進んで、振り返った。


父が立っている。

少し猫背で、腰は空っぽで、でも――。


「ねえ、お父さん!」


私が呼ぶと、父は顔を上げた。


「ちゃんと見ててよ!」


父は一瞬だけ目を細めて、短く言った。


「……見てる」


たぶん、それが父の精一杯の「応援」だ。


私は笑った。

今度は、誰かを困らせないためじゃない。

自分が前に進むための笑いだ。


不器用な父と、よく笑う娘の話は、たぶんこれからも続く。

剣も英雄もいらない。


帰る場所があって、待ってくれる背中があるなら。

それだけで、世界は十分に大きいのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ