不器用な父と、よく笑う娘の話
父は、ほんとうに不器用だ。
「似合う」の一言が言えない。
私が髪を切っても、父が言うのはこうだ。
「風邪ひくな」
そこじゃない。
だけど私は、その不器用さを“いつものこと”として笑ってきた。
笑っていれば、家の空気が軽くなる。
父が黙っていても、二人の暮らしがちゃんと回る。
そう思っていた。
◇
町の朝は早い。
魔法灯がまだ薄青く光っている時間に、市場の方から荷車の音がして、パン屋の煙突から甘い匂いがのぼる。
私はその匂いを吸い込むだけで機嫌がよくなるタイプだ。
「おはよー!」
寝室のドアを勢いよく開ける。
「……うるさい」
布団の中から、父の声。低くて眠そうで、いつもより二割だけ不機嫌。
「起きないと遅れるよ? 工房、朝一番は客が多いんだから」
「わかってる……」
のそりと起き上がった父は、髪が爆発していた。
いつも無造作。整えるという概念が薄い。
「それ、直す?」
「……直す」
父は渋々、手でならした。直ってないけど、本人が「直した」と言い張るならそういうことにしておく。
私は笑って台所へ回る。
昨夜のスープを温め、硬くなったパンを焼き直して、干し肉を薄く切る。
父は工具袋の紐を結び直していた。
「ほら」
父が私の皿に、干し肉を一枚多く乗せた。
「え、なに。今日だけ豪華?」
「昨日、少なかった」
「昨日もらったよ?」
「気のせいだ」
父は顔をそらした。
言わない。言えない。
だけど、してしまう。
私はその“余計な一枚”をありがたくかじった。
そして、勇気を出して言う。
「ねえ、お父さん」
「ん」
「今日、親方に言おうと思うんだ。見習い、正式に入れてくださいって」
父の手が止まった。ほんの一瞬。
でも私は、その一瞬で胸がざわつく。
「……まだ早い」
出た。父の反射。
「早くないよ。もう一年手伝ってるし」
「危ない」
「火花が飛ぶから?」
「……それもある」
父は工具袋の金具を、必要以上にいじっている。緊張したときの癖だ。
「私、ちゃんと気をつけてる。革手袋もつけてるし、髪もまとめてる」
「事故は、気をつけてても起きる」
言い方が、少し強かった。
胸の奥がつんとする。
「……わかった」
私は笑った。
場が暗くならない笑い方。
相手を困らせない笑い方。
「じゃあ今の話は後でね。遅れるよ!」
父は何も言わない。会釈だけ。
だけど私は、なぜか父の背中を見ないようにした。
◇
父は修理屋だ。
鍋釜、農具、荷車、扉の蝶番。壊れたものを直すのが仕事。
剣は持たない。
この世界では、それだけで少し目立つ。
「修理屋のくせに剣も振れねえのか」
そんなことを言う人もいる。
父は笑って受け流す。怒らない。言い返さない。
私はそれが、少しだけもどかしかった。
だけど同時に、父の“静かな強さ”の正体を知らなかった。
工房の親方は豪快な人で、父とは真逆だ。
声が大きい。笑い方も大きい。
「ミア、お前、手がいいな。目もいい。いずれ一人前だぞ!」
そう言われるたび胸がふわっと浮く。
私は笑う。親方も笑う。周りも笑う。
世界が少し明るくなる。私はそれが好きだった。
……家に帰るまでは。
家に帰ると父は変わらない。
褒めない。笑わない。否定もしないけど、肯定もしない。
だから私は、笑いながら、少しずつ父から離れていったのかもしれない。
◇
その日の夕方、私はとうとう言った。
「お父さん。私、正式に工房の見習いに入りたい」
父は鍵を開ける手を止めた。
「だめだ」
短く。はっきり。
それだけ。
胸の中で、何かがぷつんと切れた気がした。
「……どうして」
「危ない」
「危ないって、それだけ?」
「事故は起きる」
「それ、昨日も言った!」
声が上がった。
自分の声の強さに、私自身が驚く。
父は振り返らない。背中で言う。
「……お前は、笑ってればいい」
その言葉が、一番痛かった。
「私、笑ってるだけの人じゃない」
笑えなかった。
喉が震えた。
父はようやく振り向いた。
でも言葉が出ないらしい。唇が動いて、止まる。
結局、父は目をそらして言った。
「……もういい。飯だ」
逃げた。
私の目には、そう見えた。
◇
その夜、眠れなかった。
「笑ってればいい」が、頭の中で何度も繰り返される。
私は父の前でよく笑う。
父が困らないように。空気が重くならないように。
父が“言葉にできない何か”を飲み込みやすいように。
でも、その笑いが私自身の檻になっていたなんて。
隣の部屋から金属の擦れる音がした。
父が工具をいじっている音。
私は布団の中で目を閉じた。
聞こえないふりをした。
たぶん父も、私が眠れないことに気づいてる。
でも、何も言わない。
不器用だ。
不器用すぎる。
◇
翌日。交易隊が町に入った。
市場はいつもより騒がしく、荷車が何台も並び、人が行き交う。
私は工房へ向かって歩く。
胸の中の「だめだ」は、まだ消えない。
そのとき、聞き慣れない叫び声がした。
「止まらねぇ! 荷車が!」
坂の上から、荷車が滑ってきていた。
車輪がガタつき、荷が崩れかけている。前には人。子どももいる。
まずい。
体が勝手に動いた。
私は叫びながら走った。
「どいて! どいて!」
子どもを押しのけるように避けさせて、荷車の横に飛びつく。
車輪の金具が外れかけている。
工具があれば締め直せる。
でも今は何もない。手だけ。
「くっ……!」
金具は熱くて、痛くて、指が滑る。荷車は重い。速度がある。
次の瞬間、背中から強い力がぶつかった。
「離れろ!」
父の声。
父が私の肩を掴み、引き剥がすように後ろへ投げた。
私は尻もちをつく。
目の前で父が荷車に向かう。
剣は持っていない。
でも、工具袋は持っている。
父は袋から細い鉄の棒を抜き、車輪の軸に突き刺した。
てこの原理で荷車をわざと横倒しにする。
荷車が大きく傾き、荷が地面にぶちまけられ、勢いが止まった。土煙が舞う。
周囲がどよめく。
父は誰の声も無視して、外れかけた金具を手早く締めた。
金属の音が鳴る。迷いのない手。
その姿は、戦いみたいだった。
私は息ができなかった。
心臓が喉の奥で跳ねている。
人の被害は、ない。
父が振り向いた。
父の顔は青ざめていた。
怒っている。
泣きそうにも見えた。
父は私の前まで来て、腕を掴んだ。強い。痛い。
「……何してる」
声が震えていた。
「私、だって……子どもが――」
言い訳をしようとして、止まった。
父の目を見た瞬間、言葉が消えた。
父は怖がっていた。
私が怪我をする未来を、現実として見ているみたいに。
「危ないって言っただろ」
「……だって!」
「だってじゃない!」
父の声が大きくなる。
父がこんな声を出すのを、私はほとんど知らない。
父は息を吸って、吐いて、それでも止まらなかった。
「……怖いんだ」
小さく、絞るように。
「お前が怪我するのが。いなくなるのが」
父の喉が詰まった。
「母さんも……」
その言葉だけで、私は理解してしまった。
母の死。
父の沈黙。
「事故は起きる」。
「笑ってればいい」。
全部、繋がった。
私は、やっと言えた。笑わずに。
「……私だって、怖いよ」
声が震えた。
「でも、だからって何もしないでいたら……もっと怖い」
父が目を見開く。
私は続けた。
「工房に入りたい。誰かの役に立ちたい。お父さんみたいに」
父の眉が動いた。驚いた顔。
「お父さんは剣を持ってないけど、さっき、守った」
喉の奥が熱くなる。
「守ったよ。私も、ああなりたい」
父の手の力が、少しだけ緩んだ。
◇
【父の短い本音】
娘の笑い声が好きだった。
あの笑い声が家にあるだけで、世界が大丈夫だと思えた。
だから、守りたかった。
言葉を飲み込んで、先回りして、危ないものから遠ざけて。
でも、笑わせることが娘を縛るなんて、俺は考えもしなかった。
剣がなくても、直す手がある。
壊れそうな未来を、直したい。
失いたくない。
それだけだ。
◇
その夜、父は私の机の上に革の小さな袋を置いた。
中には手入れされた小さな工具。
工房で使える、ちょうどいいサイズ。
そして革手袋。新品。私の手にぴったりの。
喉が詰まった。
私は台所へ行った。
「……お父さん」
「ん」
父は振り向かない。いつもの癖。
「これ、なに」
「……仕事の道具だ」
「私に?」
「……そうだ」
父の耳が、ほんの少し赤い。
私は笑った。
でも今日は、いつもの笑い方じゃない。
泣きそうで、嬉しくて、恥ずかしくて、それでも溢れてしまう笑い。
「ありがとう」
父が咳払いをした。
「……礼はいい」
「言うよ。言いたいから」
私は一歩近づく。
「私、明日から工房に正式に入る。親方に言う」
父は黙った。
でもその沈黙は、いつもの“飲み込む音”じゃなかった。
何かを出そうとしている音だった。
「……行ってこい」
声は小さい。
「ただし」
やっぱり条件がつく。父らしい。
「帰ってこい」
胸の奥が、じんとした。
「うん」
私は頷く。
「帰ってくる。毎日。ちゃんと」
父は私の頭に手を置いた。ほんの一瞬。ぎこちなくて、でも確かに温かい。
「……髪、結べ」
「そこは『頑張れ』じゃないの?」
「……火花が飛ぶ」
「はいはい、わかりましたー」
私は明るく言って、でも心の中は静かだった。
不思議なくらい、満ちていた。
翌朝。
「いってきます!」
「……いってこい」
父は手を振らない。相変わらずだ。
私は数歩進んで、振り返った。
父が立っている。
少し猫背で、腰は空っぽで、でも――。
「ねえ、お父さん!」
私が呼ぶと、父は顔を上げた。
「ちゃんと見ててよ!」
父は一瞬だけ目を細めて、短く言った。
「……見てる」
たぶん、それが父の精一杯の「応援」だ。
私は笑った。
今度は、誰かを困らせないためじゃない。
自分が前に進むための笑いだ。
不器用な父と、よく笑う娘の話は、たぶんこれからも続く。
剣も英雄もいらない。
帰る場所があって、待ってくれる背中があるなら。
それだけで、世界は十分に大きいのだから。




