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不器用な父と、よく笑う娘の話

作者: 星渡リン

父は、ほんとうに不器用だ。


「似合う」の一言が言えない。

私が髪を切っても、父が言うのはこうだ。


「風邪ひくな」


そこじゃない。


だけど私は、その不器用さを“いつものこと”として笑ってきた。

笑っていれば、家の空気が軽くなる。

父が黙っていても、二人の暮らしがちゃんと回る。


そう思っていた。



町の朝は早い。

魔法灯がまだ薄青く光っている時間に、市場の方から荷車の音がして、パン屋の煙突から甘い匂いがのぼる。


私はその匂いを吸い込むだけで機嫌がよくなるタイプだ。


「おはよー!」


寝室のドアを勢いよく開ける。


「……うるさい」


布団の中から、父の声。低くて眠そうで、いつもより二割だけ不機嫌。


「起きないと遅れるよ? 工房、朝一番は客が多いんだから」


「わかってる……」


のそりと起き上がった父は、髪が爆発していた。

いつも無造作。整えるという概念が薄い。


「それ、直す?」


「……直す」


父は渋々、手でならした。直ってないけど、本人が「直した」と言い張るならそういうことにしておく。


私は笑って台所へ回る。

昨夜のスープを温め、硬くなったパンを焼き直して、干し肉を薄く切る。


父は工具袋の紐を結び直していた。


「ほら」


父が私の皿に、干し肉を一枚多く乗せた。


「え、なに。今日だけ豪華?」


「昨日、少なかった」


「昨日もらったよ?」


「気のせいだ」


父は顔をそらした。

言わない。言えない。

だけど、してしまう。


私はその“余計な一枚”をありがたくかじった。


そして、勇気を出して言う。


「ねえ、お父さん」


「ん」


「今日、親方に言おうと思うんだ。見習い、正式に入れてくださいって」


父の手が止まった。ほんの一瞬。

でも私は、その一瞬で胸がざわつく。


「……まだ早い」


出た。父の反射。


「早くないよ。もう一年手伝ってるし」


「危ない」


「火花が飛ぶから?」


「……それもある」


父は工具袋の金具を、必要以上にいじっている。緊張したときの癖だ。


「私、ちゃんと気をつけてる。革手袋もつけてるし、髪もまとめてる」


「事故は、気をつけてても起きる」


言い方が、少し強かった。


胸の奥がつんとする。


「……わかった」


私は笑った。

場が暗くならない笑い方。

相手を困らせない笑い方。


「じゃあ今の話は後でね。遅れるよ!」


父は何も言わない。会釈だけ。

だけど私は、なぜか父の背中を見ないようにした。



父は修理屋だ。

鍋釜、農具、荷車、扉の蝶番。壊れたものを直すのが仕事。


剣は持たない。

この世界では、それだけで少し目立つ。


「修理屋のくせに剣も振れねえのか」


そんなことを言う人もいる。

父は笑って受け流す。怒らない。言い返さない。


私はそれが、少しだけもどかしかった。

だけど同時に、父の“静かな強さ”の正体を知らなかった。


工房の親方は豪快な人で、父とは真逆だ。

声が大きい。笑い方も大きい。


「ミア、お前、手がいいな。目もいい。いずれ一人前だぞ!」


そう言われるたび胸がふわっと浮く。


私は笑う。親方も笑う。周りも笑う。

世界が少し明るくなる。私はそれが好きだった。


……家に帰るまでは。


家に帰ると父は変わらない。

褒めない。笑わない。否定もしないけど、肯定もしない。


だから私は、笑いながら、少しずつ父から離れていったのかもしれない。



その日の夕方、私はとうとう言った。


「お父さん。私、正式に工房の見習いに入りたい」


父は鍵を開ける手を止めた。


「だめだ」


短く。はっきり。

それだけ。


胸の中で、何かがぷつんと切れた気がした。


「……どうして」


「危ない」


「危ないって、それだけ?」


「事故は起きる」


「それ、昨日も言った!」


声が上がった。

自分の声の強さに、私自身が驚く。


父は振り返らない。背中で言う。


「……お前は、笑ってればいい」


その言葉が、一番痛かった。


「私、笑ってるだけの人じゃない」


笑えなかった。

喉が震えた。


父はようやく振り向いた。

でも言葉が出ないらしい。唇が動いて、止まる。


結局、父は目をそらして言った。


「……もういい。飯だ」


逃げた。

私の目には、そう見えた。



その夜、眠れなかった。


「笑ってればいい」が、頭の中で何度も繰り返される。


私は父の前でよく笑う。

父が困らないように。空気が重くならないように。

父が“言葉にできない何か”を飲み込みやすいように。


でも、その笑いが私自身の檻になっていたなんて。


隣の部屋から金属の擦れる音がした。

父が工具をいじっている音。


私は布団の中で目を閉じた。

聞こえないふりをした。


たぶん父も、私が眠れないことに気づいてる。

でも、何も言わない。


不器用だ。

不器用すぎる。



翌日。交易隊が町に入った。

市場はいつもより騒がしく、荷車が何台も並び、人が行き交う。


私は工房へ向かって歩く。

胸の中の「だめだ」は、まだ消えない。


そのとき、聞き慣れない叫び声がした。


「止まらねぇ! 荷車が!」


坂の上から、荷車が滑ってきていた。

車輪がガタつき、荷が崩れかけている。前には人。子どももいる。


まずい。


体が勝手に動いた。

私は叫びながら走った。


「どいて! どいて!」


子どもを押しのけるように避けさせて、荷車の横に飛びつく。

車輪の金具が外れかけている。


工具があれば締め直せる。

でも今は何もない。手だけ。


「くっ……!」


金具は熱くて、痛くて、指が滑る。荷車は重い。速度がある。


次の瞬間、背中から強い力がぶつかった。


「離れろ!」


父の声。


父が私の肩を掴み、引き剥がすように後ろへ投げた。

私は尻もちをつく。


目の前で父が荷車に向かう。

剣は持っていない。

でも、工具袋は持っている。


父は袋から細い鉄の棒を抜き、車輪の軸に突き刺した。

てこの原理で荷車をわざと横倒しにする。


荷車が大きく傾き、荷が地面にぶちまけられ、勢いが止まった。土煙が舞う。


周囲がどよめく。


父は誰の声も無視して、外れかけた金具を手早く締めた。

金属の音が鳴る。迷いのない手。


その姿は、戦いみたいだった。


私は息ができなかった。

心臓が喉の奥で跳ねている。


人の被害は、ない。


父が振り向いた。

父の顔は青ざめていた。


怒っている。

泣きそうにも見えた。


父は私の前まで来て、腕を掴んだ。強い。痛い。


「……何してる」


声が震えていた。


「私、だって……子どもが――」


言い訳をしようとして、止まった。

父の目を見た瞬間、言葉が消えた。


父は怖がっていた。

私が怪我をする未来を、現実として見ているみたいに。


「危ないって言っただろ」


「……だって!」


「だってじゃない!」


父の声が大きくなる。

父がこんな声を出すのを、私はほとんど知らない。


父は息を吸って、吐いて、それでも止まらなかった。


「……怖いんだ」


小さく、絞るように。


「お前が怪我するのが。いなくなるのが」


父の喉が詰まった。


「母さんも……」


その言葉だけで、私は理解してしまった。


母の死。

父の沈黙。

「事故は起きる」。

「笑ってればいい」。


全部、繋がった。


私は、やっと言えた。笑わずに。


「……私だって、怖いよ」


声が震えた。


「でも、だからって何もしないでいたら……もっと怖い」


父が目を見開く。


私は続けた。


「工房に入りたい。誰かの役に立ちたい。お父さんみたいに」


父の眉が動いた。驚いた顔。


「お父さんは剣を持ってないけど、さっき、守った」


喉の奥が熱くなる。


「守ったよ。私も、ああなりたい」


父の手の力が、少しだけ緩んだ。



【父の短い本音】


娘の笑い声が好きだった。

あの笑い声が家にあるだけで、世界が大丈夫だと思えた。


だから、守りたかった。

言葉を飲み込んで、先回りして、危ないものから遠ざけて。


でも、笑わせることが娘を縛るなんて、俺は考えもしなかった。


剣がなくても、直す手がある。

壊れそうな未来を、直したい。


失いたくない。

それだけだ。



その夜、父は私の机の上に革の小さな袋を置いた。


中には手入れされた小さな工具。

工房で使える、ちょうどいいサイズ。


そして革手袋。新品。私の手にぴったりの。


喉が詰まった。


私は台所へ行った。


「……お父さん」


「ん」


父は振り向かない。いつもの癖。


「これ、なに」


「……仕事の道具だ」


「私に?」


「……そうだ」


父の耳が、ほんの少し赤い。


私は笑った。

でも今日は、いつもの笑い方じゃない。


泣きそうで、嬉しくて、恥ずかしくて、それでも溢れてしまう笑い。


「ありがとう」


父が咳払いをした。


「……礼はいい」


「言うよ。言いたいから」


私は一歩近づく。


「私、明日から工房に正式に入る。親方に言う」


父は黙った。

でもその沈黙は、いつもの“飲み込む音”じゃなかった。


何かを出そうとしている音だった。


「……行ってこい」


声は小さい。


「ただし」


やっぱり条件がつく。父らしい。


「帰ってこい」


胸の奥が、じんとした。


「うん」


私は頷く。


「帰ってくる。毎日。ちゃんと」


父は私の頭に手を置いた。ほんの一瞬。ぎこちなくて、でも確かに温かい。


「……髪、結べ」


「そこは『頑張れ』じゃないの?」


「……火花が飛ぶ」


「はいはい、わかりましたー」


私は明るく言って、でも心の中は静かだった。

不思議なくらい、満ちていた。


翌朝。


「いってきます!」


「……いってこい」


父は手を振らない。相変わらずだ。


私は数歩進んで、振り返った。


父が立っている。

少し猫背で、腰は空っぽで、でも――。


「ねえ、お父さん!」


私が呼ぶと、父は顔を上げた。


「ちゃんと見ててよ!」


父は一瞬だけ目を細めて、短く言った。


「……見てる」


たぶん、それが父の精一杯の「応援」だ。


私は笑った。

今度は、誰かを困らせないためじゃない。

自分が前に進むための笑いだ。


不器用な父と、よく笑う娘の話は、たぶんこれからも続く。

剣も英雄もいらない。


帰る場所があって、待ってくれる背中があるなら。

それだけで、世界は十分に大きいのだから。

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