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知らない相手

作者: 雉白書屋

 夜、とある古びたアパートの一室。湿った空気が漂う薄暗い洗面所で、男は手を洗い終えると、濡れた指先をタオルで拭きながら鏡を覗き込んだ。


「さすがに疲れたな……」


 鏡に映る顔はひどく淀んで見えた。蛍光灯の明かりが不規則にチカチカとちらつき、男は思わず眉をひそめた。

 男は今日、この部屋に引っ越してきたばかりだった。昼過ぎに到着し、山積みの段ボールを崩して荷ほどきをひと通り終えた頃には、外はすっかり闇に沈んでいた。手足は鉛のように重く、肩や腰に鈍い痛みが残り、全身に筋肉痛の前兆がじんわりと浮かび上がっている。

 明日は昼から友人と遊ぶ約束があるが、この疲労では起き上がるのも億劫だ。待ち合わせを少し遅らせてもらおう。男はそう決めてポケットからスマホを取り出し、通話ボタンを押した。


『もしもし……?』


「えっ……」


 だが、耳に飛び込んできたのは、まったく聞き覚えのない女の声だった。


「あ、あれ? あ、すみません。間違えました。失礼しま――」


『待って! 切らないで!』


「え、な、なんで?」


『家の中に……誰かいるの……』


「え、強盗ですか……?」


『わからない。わからないの……』


 女の声はひどく震えていた。必死に抑えているものの、怯えが伝わってくる。ただ、綺麗な声だった。そしてその弱々しい響きが、男の胸の奥に眠っていた庇護欲や英雄願望を芽吹かせた。

 男は息を呑み、彼女にかける言葉を探す。


 ――いや、待て。あいつのいたずらか? 


 疲れているとはいえ、今どきスマホで電話のかけ間違えなんてありえない。電話帳で隣同士ならまだしも、まったく知らない女だ。きっと、友人が女友達に頼んで仕掛けた悪ふざけだろう。

 そう考えた男は「バレてるぞ」と言いかけた――が、そのとき、女が声を震わせて泣き出した。


『怖い……すごく怖い……殺される、殺される……!』


 その切迫した声に、男は思わず身を強張らせた。これはいたずらじゃないのか……? ひとまず話を合わせたほうがいいかもしれない。そう思い、男は声を潜めて言う。


「あ、あの、落ち着いて。あ、一度切って、警察に電話したほうが――」


『ダメ。お願い、切らないで……今、押し入れに隠れてるの……。ああ、無理、足音がする……それに、包丁みたいなもので壁を擦ってる音も……!』


 ガリ……ガリガリ……ガリ……。

 音が頭の中に鮮明に響いた。喉がひりつき、男は唾を飲み込んだ。


『今、洗面所にいるみたい……。ああ、出た、廊下にいる……。ああ、嫌、足音がこっちに来る……』


「だ、大丈夫ですか……?」


 大丈夫なわけがないとわかっていたが、他にかける言葉が見つからなかった。


『今、立ち止まった……あ、引き返した……違う、行ったり来たりしてる……』


「え……」


『玄関に向かったみたい……お願い、そのまま帰って……ああ、ダメ、また戻ってくる……!』


 何かがおかしい――男はふと、妙な違和感を覚えた。ゆっくりとトイレのドアノブに手を伸ばす。


『……今、トイレのドアを開けたみたい』


 背筋が凍り、男は一歩後ずさった。すると、壁に背中を――


『壁にぶつかったみたい』


 再び、ぞわりと背筋を撫でられるような感覚が走った。

 やはりだ。女が語るその『何者』かの行動と、自分の動きが完全に一致している。これはいったいどういうことなんだ……。偶然? いたずら? それとも監視カメラか? 

 男は慌てて辺りを見回した。だが、どこにもカメラなど見当たらない。

 男は唾を飲み込み、ゆっくりと歩を進めた。


『来る……ああ、来る……嫌、嫌、来ないで……』


 部屋に入った。


『ああ、部屋に来た……ああ、もうダメ! 押入れの前に来た! ああ、手が……取っ手に……ダメ、嫌……!』


 男はおそるおそる押入れの取っ手に手をかけ、そっと戸を引いた――。


『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!』


 その瞬間、スマホから耳を裂くような悲鳴が響き渡り、男は思わずスマホを落とした。

 押入れの中には、何もいなかった。乱雑に積まれた段ボールが二つあるだけ。

 男がスマホに視線を落とすと、通話はすでに切れていた。


「ふううう……」


 今のはなんだったのか……。わからない。だが、忘れたほうがいい。気になるなら明日、塩でも買ってこよう。

 そう考えながら、男がスマホを拾い上げた――そのときだった。


「っ!?」


 廊下の向こうから、何かがぶつかったような鈍い音が響いた。隣の部屋だろうか――いや、違う。どす、どすと重い足音が確かに廊下の床板を踏み鳴らしている。それに混じって、まるで刃物で壁を削るような音も聞こえた。次いで打撃音、何かが割れる音、金槌のようなもので叩く音……。

 反射的に、男は押入れの中に飛び込んだ。戸を勢いよく引き閉める。闇が全身を覆い、男は戸の隙間から差し込むわずかな光を目で追った。

 次の瞬間、スマホが震えた。

 息を殺しながら男は画面を見つめ、震える指先で通話ボタンを押した。


「……もしもし?」


『え、あれ? すみません。間違えちゃったみたいで。失礼しま――』


「待って!」


『え?』


「い、今、部屋に誰かいるみたいで……」

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