第五章 水鏡伝承が結ぶ縁
千夏の声が夜気に溶けるように響いた。
「でも……あなたと出会えるのは、限られた時だけ。湖と月と……わたしたちの縁が重なるときにしか、私は姿を現せないのです」
その言葉に、蒼汰ははっと息を呑んだ。
脳裏に、かつて村で耳にした伝承がよみがえる。
――湖は水鏡。満ちる月を映すとき、時を越えて人と人を結ぶ。
ただしその縁は儚く、限られた夜にしか叶わぬ。
それが「水鏡伝承」と呼ばれる物語だった。
老人たちは酒席の余興のように語り、若者はただの作り話として笑い飛ばしていた。
けれど今、こうして目の前にいる千夏の姿が、その伝承を鮮やかに裏付けている。
蒼汰は胸の奥から湧き上がる感情を抑えきれず、一歩近づいた。
「じゃあ……あの話は、本当だったんだな」
千夏は小さく頷き、切なげに微笑んだ。
月明かりが彼女の横顔を淡く照らし、揺らぐ湖面と重なって見える。
「私も詳しくはわかりません。ただ気づいたら……この湖のほとりで、こうして月を見上げているんです。まるで、伝承そのものに縛られているみたいに」
その瞳は、懐かしさと戸惑いを湛えていた。
蒼汰は手を伸ばしかけて、しかし途中で止めた。
もし触れようとしても、この奇跡が壊れてしまうのではないか――そんな不安が胸をよぎったからだ。
「千夏……」
彼女の名を呼ぶだけで、喉が詰まりそうになる。
触れたい、確かめたい――その全ての思いが、胸の奥で燃え上がる。
だが、湖は静かに二人の間に横たわり、ただ水鏡のように月を映していた。
伝承の夜が、確かに今ここで息づいている。