プロローグ
夜の湖は、静かに世界を映していた。
風ひとつない水面は、満ちた月をそのまま抱き込み、鏡のように澄み渡っている。
――水鏡伝承。
この村に伝わる古い言い伝えでは、月が真上に昇るとき、湖は鏡となり、ひとつだけ願いを映す。
けれど、その代償に“何か大切なもの”を水に還さねばならない。
それが「記憶」なのか、「未来」なのか、あるいは「命」なのか。
古文書に残るのは、願いを映した者が消え、あるいは忘れ、あるいは帰らぬままになったという断片だけだった。
やがて村は、ダム建設のために水底へと沈んだ。
祠も、家々も、人々の暮らしも、すべてが湖に呑まれ、伝承もまた忘れ去られていく。
――二〇〇〇年の夏。
相川蒼汰は、日課のように湖畔へ足を運んでいた。
未舗装の細い道、その両側には草が生い茂り、風に揺れる音が彼の歩みに寄り添う。
やがて湖へ辿り着くと、彼はひとり水面を見つめ続けた。
失われたものは戻らないと知りながら、それでも心のどこかで、湖面に答えを探していた。
そして、その夜――。
彼の前に現れたのは、一人の少女だった。
まるで湖面から導かれるように――。
白いブラウスに黒髪を揺らし、過ぎ去った時代をその身に宿したかのような少女。
彼女は迷いなく彼を見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「宮瀬千夏です。この村に住んでいたはず……でも、ここは……未来……なのでしょうか……、」と。
まるで、ずっと彼を待っていたかのように。
二〇年前、湖に沈んだはずの村から。
彼女は、時を越えてやってきた。
それは、誰にも語られぬ「約束」の物語の始まりだった。