あと何回、君と花火を観に行けるのかな
仕事帰りの金曜日、空はまだ明るかった。
熱を帯びていた風も、夕方には少しだけ落ち着きを取り戻し、駅のホームには夏の匂いが微かに残っていた。
改札を抜けると、すでに彼女が待っていた。
淡いベージュのワンピースに緩く巻いた髪。普段はどこか幼さを感じさせる彼女が、今日は少しだけ大人びて見えた。
「待った?」
「ううん、ちょうど」
そう言って微笑む彼女は、相変わらず優しかった。
だけど、その目はどこか遠くを見ているようで、胸の奥が少しだけざわついた。
付き合い始めて、もうすぐ二年になる。
社会人になってすぐの頃は、仕事終わりに何度も会っていたし、週末は当たり前のようにどちらかの部屋で過ごしていた。
「きっと、この子と結婚するのだろう」
そんな未来さえ、自然と想像できるほどだった。
しかし、最近はやりとりの頻度が目に見えて減っていた。
お互い束縛するタイプではないし、二人でいる時は会話も弾んでいた。
だから不安に思うことはない。そう自分に言い聞かせていた。
花火大会に行こうと誘ったのは、彼女のほうだった。
「来月から、しばらく日本を離れることになったからさ、なんか日本っぽいことがしたいの」
「……日本を離れる?」
「うん、仕事でね。ヨーロッパに一年くらい」
突然のことで、驚きと寂しさが胸の中を渦巻く。
隣にいるはずの彼女はもう、そこにはいなかった。
「……そっか、すごいじゃん」
ようやく絞り出した言葉に、彼女は小さく笑うだけだった。
駅前の人混みの中を、生暖かい風が吹き抜ける。
浴衣姿の人たちの裾が揺れ、遠くから屋台の匂いと太鼓の音が混ざって流れてきた。
ーーー
川沿いの会場は、浴衣や提灯の明かりでにぎわっていた。
僕たちは人混みを避け、少し離れた土手の上に腰を下ろす。
空はまだ薄明るく、川面には屋台の灯りが小さな花火のように映っている。
「来年も、この花火大会あるのかな」
彼女がぽつりとつぶやく。
「あると思うよ」
そう口にしながら、来年その場所に自分が立っている光景を、なぜかうまく思い描けなかった。
胸の奥を照らしていた光の粒が、緩やかに飛び散っていくような感覚に陥る。言葉にすれば壊れてしまいそうで、ただ黙って川面の揺らめきを見つめていると、一発目の花火が夜空に咲いた。
隣で「きれい」と漏らす彼女は少しだけ幼く、光に照らされた横顔から僕は目が離せなかった。
「……あと何回、君と花火を観に行けるのかな」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
それでも、彼女は少しだけ間を置いてから、僕の顔を見ることなく答える。
「……どうだろう」
柔らかく、それでいてはっきりとした声だった。
僕は何も言わず、ただその横顔を見つめていた。
目の前で上がった大輪の花が、僕たちの間を白く照らす。
その光の中で、僕はふと気づいてしまった。
この瞬間を、来年も同じ場所で迎えることは、もうないのだろうと。
胸の奥に響く音が、花火のせいなのか、自分の心臓の音なのか、もう分からなくなっていた。
夜空を彩る満開の花は、幾重もの色で満ちていた。
僕たちは並んでその光景を見上げながら、言葉を交わすことなく、ただ拍手の音に紛れて静かに座っていた。
最後の花火が消え、空は元の暗さを取り戻す。
風が涼しくなり、土手を降りる人々のざわめきが遠くへと流れていく。
気づけば、彼女はもう立ち上がっていた。
「行こっか」
振り返ったその笑顔は、いつも通り優しくて、だけどどこか寂しげだった。
僕もゆっくりと立ち上がり、その背中を追いかける。
手を伸ばそうと思えば届く距離なのに、なぜかその手を伸ばすことはできなかった。
——あと何回、君と花火を観に行けるのかな。
その答えを知っている自分に気づき、胸の奥の火花が静かに消え落ちた。