おそれざんに抱かれて
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
トラブルを避けて、平穏に過ごしたい。
まあ、心の中でそう思う人は大半じゃないかと思います。冒険をしたい、スリルを味わいというのも、おそらくは成功が根底にあるんじゃないかと。
その場限りのハラハラドキドキを味わいつつ、最後は何事も影響がなく終わりたい、というのが理想形ではないかと。最初は話に聞いたり、映像で見たりするだけで足りていたのが、じょじょに不足を覚えてじかに肌で味わいたくなってしまう。そして実践へ……とは、よくある話です。
実際、何事もなく終えられることが続き、虜になってしまっている人もいるでしょう。そうでなければ、素人目に危うさを感じる趣味が今なお伝わっているとは思えませんからね。
しかし、本当の危うきを知らなくては、いざ緊急のときに平静を保ちづらいのも事実。楽しみのみならず、教えのような側面でもって、あえて怖さと向き合う機会を設けることも必要かもしれませんね。
実は私の地元に、少し変わった肝試しスポットがありまして。地元民は生涯に一度は訪れることを望まれる妙な場所なんですよ。できれば人生の早い段階で。
そこの話、聞いてみませんか?
あくまで地元民の話であって、外からたくさんお客がやって来るのもよろしくないようですので、本当の名前は伏せさせてもらいます。
そうですね……「おそれざん」にしましょうか。かの有名な日本の霊場の名前にのっとりました。これでも地元ではひっそりとではありますけれど、長く信仰されている対象なので。まあ、霊場のイメージを持ってもらえたら幸いかなと。
で、このおそれざんがあがめられる理由として、この山に籠っていると、そのときに自分が最も恐れている存在に出会える、と言われているのです。
心のどこかで「こうなりたくないな、あれに会いたくないな」などという心配、誰もが多かれ少なかれ抱いていると思います。
そいつが、眼前に現れる。誰もがひゅっと息が止まり、心臓をわしづかみにされるような痛苦しさを覚えずにはいられない。ときには不快が心を満たし、ときには背を向け逃げ出したいと思うかもしれません。
その正体は、個々人にしか分からない。たとえすぐ隣に人がいたとしても、その人には感知ができず、突然に相棒が錯乱しだしたようにしか思えないことがほとんどなのだとか。
十中八九、戦慄すべき幻覚に出会ってしまう場所。千差万別な内容であれば、そりゃもう対策もしきれない手合いゆえ、怖がりたくもなり「おそれざん」にもなるわけです。
なので、怖いもの知らずな若者のうちに、このおそれざんで心底ビビるものに出会い、自分が取るに足らぬものだと自覚しなおして謙虚さをはぐくむ……なんて意図があったのだと思います。
私のおそれざん入りは、10歳の時でしたね。
ひとりでおそれざんに登り、降りてくるのをおそれざん入りとされています。おそれざん入りは、遅くても小学校卒業までに一度は行くことがほぼ義務になっていまして、私は父に連れられて行きましたね。
おそれざんは私たちの地元では、陸の孤島。湖の中心に浮かんでいる小島の中央にありまして、そこに渡されている橋が一本。交代で見張りの大人たちがついていて、子供が勝手に渡ることは許されません。
湖も有刺鉄線のついたフェンスが、すき間なくぐるりと渡され、少々身軽な程度では乗り越えられない代物です。
標高およそ50メートル。山頂まで手すりが渡され、ところどころが階段になっているなど、まるで観光仕様。
先の警備体制といい、霊場とみなすにはいささか神聖さが欠けたむきではありますが、子供が定期的に登らされるとなれば、これも配慮なのかもですねえ。
私もその日にはじめて橋を渡ることを許され、山のふもとに父と立ちました。
「手すりに沿って、てっぺんまで行ってまた戻ってくればいい。途中、ビビるものに出くわしたら逃げてもいいぞ。30分経っても戻ってこなかったら、お父さんが探しにいく。草の根分けても見つけるから、安心しとけ」
「一緒についていってはくれないの?」
「錯乱して逃げ出した話の中には、隣のやつがそのビビるものに化けて見えたという場合があるらしいからな。そうなったら心臓に悪いだろう」
バカにして……と内心思いましたね。
おそれざんの話は聞いていましたが、わたしは怪談の手のものには格別の耐性があると自負してまして、どうにも怖さを感じないんですね。もし、お化けとかが現れても、平然としていられる自信がありました。
いったい、どのような手で私を怖がらせて来るのだろう……と、心の内で楽しみにしながら、私のおそれざん入りが始まりました。
標高50メートルかつ手すりつきの山。スムーズにいけば、片道10分前後くらいでしょうか。
季節は夏真っ盛り。時刻は午前中で雲一つない青空のもとで行われました。
おそれざんには緑があふれ、カンカン照りの日差しを私の代わりに受け止め続けてくれていました。そのためか、ふもととは打って変わった肌寒ささえ覚えましたが、「まあ、怖がらせるなら、これくらいでないと気が利いてない」と、足取り軽く歩いていたんですね、わたし。
山の中の景色は、およそのそれと大差ありません。山に登った経験はさほど多くないですから、いざ専門的に語れるほど知識はないですからね。まあ、さっさと往復を済ませて、帰りにアイスでも買ってもらおうか……などと、気もそぞろになりかけだったのですが。
ふと、手すりを握り続けていた右手にぶつかるもの、いや、重なる感触がありました。
見ると、人の手。わたしと変わらない大きさの手が乗っかっていたんです。
……あ、もしかして手首の先から切り取られたもの、とか思い浮かべちゃいました? たぶん、それならいい線だったと思います。そのときのわたしなら、ビビるというより、びっくりしていました。
しかし、あいにく手にはちゃんと腕がつき、肩がつき、そこから先の体もちゃんとあったんです。つまりは手すりを向こう側から握っていた人のものとバッティングをした、と……。
が、その手の持ち主、私が顔を上げた時にはもう背中を向けて逃げ出していたんです。山頂へ向かって。
しかし、逃げ出す相手の服装を見て、私は目を丸くしたあと、自分の体を見下ろします。
もう、豆粒みたいになっていた相手は、私とうり二つの背格好をしていたわけなんですね。
なにより、おそれざん入りをするときは、子どもは一人ずつしか入山を許可されません。先客の子など、あろうはずがないのです。
――ははあ、あれがわたしのビビるもの? 自分自身がビビるもの、というのは意外でこそあれ、怖いものじゃないけどなあ。もしかして、本命がいるとか?
まだまだゆとりのあるわたしは、そのわたしらしき後ろ姿を追いかけて走りますが、相手はこちらよりだいぶ速い。
たちまち見えなくなってしまい、たどりついたおそれざんの山頂。サッカーコートほどある、見晴らしのよい平地を歩き回りましたが、影も形も見当たらず。
はじめてのおそれざん体験、期待していたのにこんなもんかと、失望のため息を漏らしながら、また手すりに沿って山を下ります。
父はふもとで待っていました。
文句たらたらで歩くわたしに、「よしよし」とあやすように声をかけながら、橋を渡り、フェンスを越えておそれざんを離れていくのです。
「でさ~、そのお化けがめっちゃビビりで~」
「よしよし」
「てっぺんに着いてから、探してもいないし。向こうのほうが怖がってちゃ世話ないって」
「よしよし」
「……ね、帰りにアイス買ってよ。いつものでっかいやつ」
「よしよし」
父はそういうばかりで、ちっとも私の顔を見ずにまっすぐ歩いていきます。
妙だなと、私は父に手を握られて歩きつつも、どんどん疑惑が募っていきました。このままでいいのだろうかと。
そうしていくうち、決定的な場面に出くわします。
私の家近くの十字路。そこを左に行けば家なのに、父は右へ平然と曲がっていくのです。
アイスを買うにせよ、そこも家のすぐ近くのお店。右に曲がったら遠ざかるばかりでした。
「はあ? ちょっと、どこいくの? こっちにいったってなにも」
「よしよし」
何度聞いたか分からない、よしよし。
けれど、今回の言葉を聞くや、私の体はすとんと「真下」へ落ちてしまったんです。
夢の中で高い所から足を踏み外す感触、覚えがありません? あれとよく似ていました。
落とし穴にはまってしまったかのような景色で、私は何メートルも下へ落ち、周囲を暗闇に囲まれながら、かすかに開ける円形型の頭上の明かり。
そこから見えたのは、変わらず父が「私」と手をつなぎ、歩き去っていく姿だったのです。
――とられた! あいつに!
私は必死に手を伸ばし、のども枯れよとおめき叫んだときに。
「大丈夫か?」
おそれざんのふもと、父の真ん前に私は戻ってきていました。
父曰く、手すりに沿って降りてきた私は、数十秒ほどぼーっとしているようで、父が声をかけても肩をゆすっても返事をせず、なおも続けていたところ、急に叫び声をあげて動いたとのことでした。
自分の見ていたことを話すと、「お前はお前が好きなんだなあ」と言われましたよ。
「厳密には、お前の立ち位置といおうか。やらなきゃいけないことをやり、ごほうびにアイスを食べるなんて、なにげない一面を含めたいつもの自分。それを取られたとしても、誰もなんとも思われず世界は進み、自分は取り残されていく。まるで偽物の自分が後釜に居座っているかのごとく……それがお前の根本的に抱く怖さなのかもな」
こうして経験を積むと、当たらずとも遠からずかもですね。
まわりがいろいろ動いても、ゆるぎない自分の居場所を確立していたいと……先輩になんだかんだ話を持っていくのも、そういうポジションを大事にしたい自分がいるからかもですね。