2 疑問
「あの女の性格が変わった?」
キャロラインが屋敷の階段から落ちた翌日。盛大に顔を顰めてクロークはレオに言った。
「はい、メイドたちの話によると、キャロライン様がまるで人が変わったかのように優しくなったと」
今までは散々我儘し放題で気に入らないメイドがいれば嫌がらせをしていびり倒していたのに、それがぴたっと止んだという。
しかも、メイドたちに優しい言葉をかけて気遣っているという。
「医師の診察の際には、頭を打って自分はひどい人間だったと気がついた。これからはもうそんなことをしたくない、みんなと平和に暮らしたいと言ったそうです」
「は?」
クロークはさらに顔を顰めて疑問を口にする。あの根性の悪いクソ女が心を改めた?平和に暮らしたい?一体、何を企んでいるのか。
「あの女は今どこにいる」
「たぶん自室にいらっしゃるかと」
レオの言葉を聞いて、クロークは執務室を出ていった。
その頃、キャロラインは自室で転生前の小説の記憶を日記にしたためていた。日記といっても、頭を打つ前は何も書いておらず白紙だった。
それぞれのキャラの特徴、性格、ストーリーの流れをざっと書き記す。
(覚えているのはこのくらいかな)
書き終わったページをジッと見つめる。クロークがキャロラインを惨殺する日時はあいまいだが、近い日に何があったかなどでいつ頃なのかは憶測できる。
(まだクローク様とヒロインはたぶん出会ってない。出会うのは私とクローク様が結婚してから三ヶ月後の社交パーティーの時だったはず)
そこでヒーローとヒロイン、そしてクロークとキャロラインも出会う。
(クローク様がヒロインに惹かれるのは決定だとして、私がヒーローに惹かれるかどうかはよくわからないわね)
正直言って、ヒーローよりもクロークの方が気になったし、何よりもキャロラインには転生前に推しているキャラがいた。
(とにかく、私がヒロインをいじめなければいいってことと、クローク様がヒロインを無理矢理自分のものにしようとしなければいいってことよね)
自分も死にたくないが、できればクロークにも死んでほしくない。
(クローク様がヒロインを無理矢理自分のものにしようとしたのは、愛の向け方を知らないからだと思う。クローク様に愛されること、愛することがどういうことなのか少しずつでも伝えられれば良いのだけれど……)
いっそのこと、ヒロインとの仲を応援してみるというのはどうだろうか?そうすれば、クロークが無茶をする前に止めるとこもできる。
我ながら良い案だ、とキャロラインがほくほくしていると、ドアをノックする音と同時に部屋に人が入ってきた。クロークだ。
「ひえっ!?」
キャロラインは驚いて急いで日記を閉じ、引き出しにしまって立ち上がると、クロークはそれを見て目を細めた。
「君は性格が変わったらしいな」
「へ?」
「何を企んでいる?」
クロークはキャロラインの前まで来ると、キャロラインの手首を掴んだ。
(へ、え?ど、どうしよう、掴まれた部分がとても熱いし恥ずかしい)
小説の中でもヒーローと一・二を争うほどの美貌の持ち主だ。そんな相手に急に手首を掴まれみつめられて、平常心でいられるわけがない。
「どうした、俺に触られるのは嫌なはずじゃないのか。呪われた人間になど触れられたくない、絶対に触れるなと言っていたのに」
クロークはそう言って真顔でキャロラインを見つめる。
「そ、それは、そうだったかもしれませんが……で、でも、とにかく恥ずかしいと言いますかなんと言いますか」
いたたまれず目を逸らし、掴まれた手首を振り解こうとしたが、クロークは手首を掴んだままだ。
「……恥ずかしい?君がか?」
そう言うクロークの顔は明らかに意味がわからないと言うような顔をしている。
「演技をして誤魔化そうとしているのかもしれないが、俺には通用しない。使用人たちを騙せても、俺やレオは騙せないと思うんだな」
そう言って、クロークはキャロラインの手首を静かに離し、部屋を出ていった。
(うう、信じてもらえなかった。それはそうだよね、急すぎるもの)
信じてもらうにしても、クロークとはまだ接点がなさすぎる。どう攻略すればいいのか検討もつかない。クロークに掴まれた手首は気づくと赤くなり痕がついていた。キャロラインは恥ずかしさのあまり痛みすらわからなかったが、クロークもおそらく無意識に掴む力が強まっていたのだろう。今になって少し痛くなってきた。
(クローク様に殺されないなんて、できるのかな……)
一抹の不安がキャロラインの心をよぎる。だが、こんなことでめげていてはそれこそ死亡フラグは回避できない。
(だめだめ、弱気になんてなってる場合じゃないわ。まだ始まったばかりなのよ)
ドキドキする胸を紛らわせるように首をブンブンと振って、キャロラインはしっかりと目の前を見つめてこれからの方針をまた練りだした。
◆
「キャロライン様、これは一体……!?」
メイドの一人、ユリアが驚いて手首を見つめる。クロークが出て行ってから少し経って、ユリアが掃除のために部屋へやってきたのだ。
「えっと、これは……なんでもないの、気にしないで」
(クローク様にされたなんて言ったらクローク様のメイドからの評判が悪化するかもしれない)
そもそも、クロークの屋敷内での評判は良くない。ひどい仕打ちをするわけではないが、普段から愛想が悪く主としてコミュニケーションも取りづらい。
そんなクロークが、悪女とはいえキャロラインの手首を掴んで赤い痕までつけたと知れたら、主としての評価はさらに落ちるだろう。
言いよどむキャロラインを見て、ユリアは複雑そうな顔をする。心配したいような、でも今までのキャロラインのことを思うと心配するべきかどうか、考えているようだ。
「掃除よね?今部屋から出るわ。いつもありがとう」
そう言って、キャロラインがふわりと微笑むと、ユリアは突然のことに驚いて思わず頬を赤くする。
「キャロライン様、よろしいでしょうか」
コンコン、とノックの音がして、レオの声が聞こえた。
「はい?どうぞ」
キャロラインが返事をすると、レオが部屋に入ってきた。キャロラインの近くまできて、キャロラインの手首に気づいて渋い顔をする。
「ユリア、すまないがここの掃除は後にしてくれるか?」
「かしこまりました」
ユリアはすぐに一礼をすると、キャロラインの方を見てまた一礼し、そそくさと部屋を出て行く。
「キャロライン様、手首は大丈夫ですか?」
心配そうにキャロラインの手首を見ながらレオが言った。
「え、ええ」
(ど、どうしよう、推しがいる、推しが目の前にいる……!)
キャロラインの転生前の推しは、何を隠そうレオだった。そのレオが、今まさにキャロラインの目の前にいて、キャロラインを心配している。
人懐っこそうな垂れ目がちな瞳がキャロラインに向けられているという事実に、キャロラインの胸は今にも張り裂けそうだった。
頭を打つ前の記憶もちゃんとあるので、別にレオと会話をするのが今回始めてというわけではない。だが、転生前の記憶を思い出した今、推しの存在を自覚した今となってはレオと話をするだけでも緊張してしまう。
「クローク様から話は聞きました。……ですが、まさかそんなに赤くなるほどとは思いませんでした。申し訳ありません。クローク様にかわってお詫び申しあげます」
そう言って、レオは静かに頭をさげた。
「そんな……!レオは悪くないでしょう。私が、その、こんな風になってしまったから突然すぎてクローク様も無意識だったと思うの、きっと。だから大丈夫、気にしないで」
眉を下げて少し微笑みながらそう言うと、レオは驚いたようにキャロラインを凝視する。
(うっ、推しに、見つめられてる……!無理!)
思わず目をそらすと、レオはキャロラインの腕をそっと掴んだ。
「えっ?」
「治療しますよ。このままでは痛いでしょう」
そう言って、片手をかざして治癒魔法をかけると、キャロラインの手首の痛みと赤みは瞬く間に消えていった。
(優しい……こういう、悪女キャロラインにさえ公平に対応する、誰にでも分け隔てなく気づかえるところが好き)
しかも、あのクロークの側に長年付き添えるだけの技量と頭脳、強かさもあるのだ。推さないわけがない。
「あ、ありがとう……手間をとらせてごめんなさい」
キャロラインが俯いたままそう言うと、レオはぽつり、と呟いた。
「……本当に別人みたいだな」
「え?」
レオの呟きはキャロラインの耳には入らず、キャロラインは首をかしげた。
「なんでもありません。それでは、俺はこれで」
そう言って一礼をすると、レオは部屋を出ていった。
(お、お、推しに手首を、手首を掴まれて、治癒魔法かけてもらっちゃった……!)
心臓はバクバクとうるさいし、絶対に顔も赤くなっている。だが、レオは夫であるクロークの側近だ。側近に対してこんな風になるのはたぶんまずい。
(いや、これは恋とかじゃないの、推しなの!憧れなの!!)
煩悩を振り払うかのように、キャロラインはぶんぶんと首を大きくふった。