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次の冬ごもりは百年  作者: MUMU
第二章 百枚の花園
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第九話



「タペストリですね、見事なものです」


越冬官のニール。最初に戸惑ったことは彼の若さだった。

どう見ても青年、ともすれば少年とも見えるが、永い冬が始まって30年あまりも経っている。彼は冬が始まってから生まれたのだろうか。それとも王都などの大きな町では多くの人々が残り、常と変わらぬ生活をして世代を繋いでいるのだろうか。


越冬官は食料庫にて腐らずのまじないを行い、チーズの保管庫や、ゴーの厩舎などを見て回る。まじないは絵本で読んだよりもあっさりしていた。祭儀などそんなものかもしれないと、何となく納得する。


「一番古いチーズはどのぐらい前のものですか」

「6年でしょうか。他に脂肪分を抜いた粉末のミルクもあります」

「よく頑張りましたね」


ニールはそう言って微笑み、ロゼレッタはぼんやりとした顔で受け止める。ロゼレッタにとっては毎日の当たり前の仕事であり、つらいと思ったことはない。タペストリの図案を考えることに比べれば、力仕事も工程の多い仕事も、ものの数ではない。


ニールはゴーたちを一頭ずつ見て回る。今いるゴーたちは皆、冬が始まってから生まれた子である。初めてロゼレッタ以外の人間を見ることに動揺するかとも思われたが、心配に反して大人しかった。ニールにされるがまま体を撫でられ、分厚い目蓋を押し上げて眼球を覗かれても動かない。


「少し鉄分が不足していませんか。飲み水に釘を一本、入れてあげてはどうでしょう」

「そう、ですか」


そういえば、とゴーたちの餌のことを考える。牧草はほとんど採れないため、主に餌となるのは立木を加工したものだ。樹木は立地によって鉄を含む量が変わり、赤土に生えている木は鉄が多いため、主にそれを使っている。


だが絶対ではない。樹木の個体差などもあるから、鉄が足りない事態も起こりうることだった。


「ゴーに詳しいのですか」

「いいえ、顔が青ざめていて、疲れやすく、クマができています。人間の鉄分不足の症状と似ていたので」

「疲れやす、く……」


その後もニールは村を見て回ったが、生活については何も不安はないと太鼓判を押された。ただロゼレッタが一人であることは気になるようだったが。


ロゼレッタの小屋は手狭だったため、村の中で比較的大きな家に案内する。ニールは色々な話をしてくれた。ロゼレッタの知らない乳の加工品について。ストーブの熱効率について。冬の長さについて。


「そうですか、この冬は百年も続くのですね……」

「ロゼレッタ。あなた一人だけでは村を維持することができないでしょう。赤い旗を出しておくことを勧めます。村に人が少なく、来訪者を求めているという信号旗です」

「信号旗……ええ、そのようなものがあるのは知っています」

「よければ、大きな街に立ち寄った時、冬守りを一人寄越してもらうように頼んでもいいのですが」

「いえ、すべて一人でやれますから」


ロゼレッタは片膝を立てて絨毯に座り、すり鉢の上で石を砕いていた。川の近くで拾える軽い石、ゴーの消化を助ける薬となる。


「それに新しい人を受け入れるのが怖いんです。この村にはカッタヒルの思い出がありますから」

「カッタヒル、あなたと共に村に残った冬守りですね」

「ええ、もういないのですが」


カッタヒルもよくこうして石を砕いていた。彼はもっと大きなすり鉢で、重い鉄の棒を使っていた。ゴーの世話をして力はついたけど、やはり男のカッタヒルには勝てないな、などとぼんやりと思う。


「ロゼレッタ、今は一人でやれていても、やがてはあなたの体にも、大いなる時の流れというものが」

「もう村は土壁で囲っています。十年のうちには、もう一回り外側にも作れるでしょう。屋根も雪が落ちやすいように作り直しています。よほど大きな吹雪でもない限り、建物はもう壊れないと思います。ゴーたちは」


厩舎の方を眺める。村のどこにいても、ゴーたちのいる方向が正確に分かる。ゴーたちが騒ぎだせば、それを聞き逃すことはない。


「閉じ込めてるわけではありません。ゴーは賢いから逃げないだけ。私がいなくなれば森へ出て、冬枯れの樹を食べて細々と生きるでしょう」

「ロゼレッタ。村のことではなく、あなたの幸福についてです」

「越冬官さま、私は疑問なのです。もし冬守りの役目が村を守ることだとしても、死んでしまった人間にどんな責任が負えるでしょうか。最低限のものは「魔法の本」に持ち込まれた。たくさんのゴーも本の中にいます。いずれ春が戻ってくるとして、村の人々に必要なのは家ではありません。ゴーなんです。ゴーさえいればきっと生きていけるでしょう」

「そうかも知れませんが……」

「それよりは、私のやるべきことをやりたいのです。ゴーの世話をすること、タペストリを織ること、それが私のすべきことです。村に人が来て、結婚して子をもうける、それは私のやるべき事ではないと考えます」

「……ロゼレッタ」


ふと、すり鉢から目を離して越冬官を見る。

彼の反応に奇妙なものを感じたからだ。ロゼレッタをあきれるでも哀れむでもなく、ただひそかに名を呼んだ。

それは何かに気づいた人間の反応だったが、ロゼレッタにはそこまでは分からなかった。人とこうして話をするのも、数十年ぶりのことだった。


「商人に、会ったのですね」


言い当てられても驚きはなかった。ニールには分かったのかと、漠然と理解しただけだ。


「はい」

「百枚のタペストリは、商人が要求したのですか」

「そうです」

「引き換えに何を与えると」

「それは、言うべきではないと考えます」


口止めされていたわけではない。

言いたくないわけでもないが、口にのぼらせるべきではないと感じた。


タペストリと引き換えに求めるもの。


それを言葉にすることが禁忌に思われた。あまりに曖昧で、不確かで、口に出してしまえば妄想に変わってしまいそうだった。あれほどに願ったことなのに。


「越冬官さまは、商人をご存じなのですか」

「長い間、私と彼は争っています」


ニールはあまり言いたくないという気配をにじませていた。暖炉の赤い日に照らされて、越冬官の赤い鎧が意識される。防寒の布飾りを何枚も張り付けた古い鎧。あちこちすり切れて、あるいは歪んでしまっている鎧。


「私と彼との争いは、広大な大陸という横軸、長い時間という縦軸、その中でのすれ違いのようなものです」

「すれ違い……」

「そうです。大陸は広大であり、時の流れはさらに莫大なのです。直接会って命のやりとりをする戦いはほとんど起こりえない。私は越冬官として、彼は時の商人として、冬守りたちの人生に少しずつ関わり合うのです」

「争わねばならないのですか?」

「彼は、冬守りたちの人生をもて遊ぶ」


ニールに、わずかに感情の色が浮かぶ。湿ったマッチを擦るような、刹那の目の輝き。


「長大な時の中で起こる悲劇や皮肉、絶望や徒労、虚無であり無為であること、あるいは取り返しのつかないこと、そんなものが彼のかてなのです。彼はこの世のすべてを己の享楽のための玩具だと考えている。この永い冬すらも」

「そんな方には、見えませんでしたが」

「私の言葉を信じる必要はありません。信じたとしても何も変わらない。あるいは信じてしまえばもっと救いようのない事態に陥る。商人が起こすのはそういう逃れられぬ流れ、百年をかけて呑み込まれる大きな渦なのです」

「……」


自分はもう、商人の言葉を疑えないだろう。そのように思う。

タペストリを織ることをやめることはできない。やめてしまえばゴーを飼う意味はなくなり、村を守る意味も無くなる。

そうなったときに自分はどうなるのか、想像する気も起こらない。


細いはりの上を歩くようだった。慎重に懸命に、脇目も振らず、何十年も細い梁の上を歩き続ける、それが商人との契約。人生を捧げて彼の望みを用意するということ。


「タペストリの図案が必要なのでしたね」


ふいに話題が変わる。ニールにとって、長く商人の話をするのは苦痛なのだろうか、そう察せられた。

ニールは首を動かし、部屋の隅に置いてある巨大な背嚢を振り返る。


「今は手持ちがありませんが、大きな町へ行ったときに植彩図絵ボタニカルアートの本を手に入れておきましょう。数年のうちにはお届けできると思います」

「いえ、大丈夫です」


ロゼレッタは答える。


「少し前までは図鑑を求めていました。でも今は違うんです。私にはもっと織るべき花があるような気がしていて、でも踏み切れなくて迷っています。迷いを断ち切るために必要なのは品質です。私の中にある創意アイデアを、本物の花に負けないほど高めねばなりません。一度も見たことのないような遠い異国の花ではなく、私の中にある花を織るべきだと思うんです」

「ロゼレッタ。私は少しだけ、あなたに会うのが遅かったようですね」


そうだろうか。とロゼレッタは思う。


少しではない。きっと越冬官と商人との争いというのは早い者勝ちなのだ。

ロゼレッタという機織りに、ラウルバンの村の冬守りに、先に関わったのは商人。だから冬守りの運命は商人の手の中にある、そういう話なのだろう。


ニールは膝立ちの姿勢になって、剣の柄に手をかける。


「この村には生活の心配はありませんね。私はもう行かねばなりませんが、その前にあなたの中にある迷いを斬っておきましょう」

「迷いを……斬る?」

「はい、それほど困難なものではありません。あなたは数年で自分の中の答えを信じられたはず。それを少し早めに実現するだけです」


刀身のない柄を、ロゼレッタの額にとんと乗せる。


「あるがままの姿を示せ」


ロゼレッタは目を閉じるべきだと思った。金属に組紐を巻いた柄は冷たく重く、額と触れている一点に意識が集中する。


「憂いの織手おりてに天啓あり、一意なる心に万象の花あり、糸の結び目に運命の交点あり、迷いの果てに導きあり。いにしえの教え、絡みつく泥、つるぎの輝きより逃れるすべなし」


目を開ける。


その一瞬。目の前に何かがいた気がする。羽の生えた蛇のような奇妙な生き物。胴が両断され、かき消えるように思えるまでが一秒ほどの出来事。


「いかがですか」

「……何だか、とてもすっきりした気持ちです。迷っていて気が重かったはずなのに。いえ、迷っていたことがもう思い出せないぐらい遠くにあります」

「多くの場合、迷うということは捨てがたいということよ」


ギンワタネコがうずくまっている。どこからともなく家に入ってくる生き物だが、ゴーの匂いを嫌うのか、あまり村で見かけることはない。


だがロゼレッタは猫は気にしなかった。なぜニールが腹話術で話しているのだろうと、内心で首をひねる。


「選ぶべき道は見えている。でももう一つの選択も捨てがたい。それは凝り固まった固定観念、伝統観というもの。あなたにはそれを打ち破れる心の強さがあったけど、打ち破るまでに数年かかったでしょう。だからニールは固定観念を斬ったの」

「そう……ですか、ありがとうございます。これで織れそうな気がします」

「ロゼレッタ、百枚のタペストリを商人に渡しても、良いことは起こらないかもしれない。覚悟だけはしておいてください」

「はい」


越冬官は村を去る。ロゼレッタはその姿が丘の丸みに隠れるより先に振り向いて、工房へと急いだ。


図案も描かず、織図おりずに起こしておくこともせず、一心不乱に織り始める。


「赤、赤、白、黄色、黄色、ここで紫を編み込んで」


完成した花のパターン。一見するとそれは奇妙な図案だった。花びらが三角形を描いており、歯車のように隣の花と噛み合っている。それをパターンに組み込んで織り進める。


これは「手を繋ぐ」という花。


カッタヒルの硬くて大きな手。ロゼレッタの柔らかく小さな手が結ばれている。二つ一組の花。


次のタペストリは黄色の花。大輪の花の周りに赤い花が並ぶ。


これはカッタヒルの「仕事」だ。

カッタヒルは力強く懸命に働いて、日々のたくさんの仕事をこなしていく。


描くべき花は、思い出の中にある。



カッタヒルのことを想う。

彼の姿を、仕草を、毎日の暮らしを花に変えて、織り込んでいく――。


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