第七話
「私は機織りでした」
娘は言う。
娘の名はロゼレッタ。その身は痩せていたけれど、色鮮やかな織物のマントで体を包んでいるさまは花のつぼみのようで、織物に生きる者としてのせめてもの誇りを思わせた。
「私は機織りの娘で、カッタヒルはゴーを飼う家で下働きをしていました。いつかは自分のゴーを二頭もらえる。そして村のはずれを切り開いて牧草地を作り、ゴーを飼って暮らしていく、そんなことを言っていました」
娘の周りには十頭のゴーがいる。まるまるとしたシルエットの偶蹄目の獣。牛よりは胴体が短く、牛よりなお鈍重で、湿った絨毯のような硬い毛に覆われている。
「私とカッタヒルは冬守りを任されました。私たちに残されていた食べ物は多くはなかったけれど、ゴーがいれば問題はない、ゴーがすべてを与えてくれる、カッタヒルはそう言っていました」
冬の気配が村に迫ろうとしていた。
雪のちらつく丘の上にあって、娘が話す相手は長身の男。手足は槍のように細く長く、黒の夜会服を着て、袖口や襟元は白い襞襟で装飾されている。山高帽をかぶり、白い絹の手袋をして、胸元も白のハンカチーフで彩る。そんな人物。
彼は商人だという。
永い冬を渡り歩き、あらゆるものを都合するという商人。彼に会うこの日まで、おとぎ話の存在だと思っていた。
「おお、そうですとも、ゴーは優秀な家畜です」
商人は言う。
「その毛は柔軟で空気をよく含み、また染めやすい糸となります。衣服となり絨毯となり、屋敷を飾るタペストリとなる。そのミルクも肉も豊かな味わいを備えています。性格は温順にして賢良。ああ、なんと素晴らしき人の友でしょうか」
「商人さま、私は……」
ロゼレッタはマントの下で服をぎゅっと掴み、意を決して言う。
商人はロゼレッタの訴えを柔和な顔で聞く。長身の割に顔の造作は小さく、肌に一点の日焼けも、くすみもない。若々しいと言うより少年のようにすら見える。
山高帽からはみだす黒髪は艷やかで、その目は黒真珠のような深み。そしてぞっとするほど美しい微笑み。この世の憂いのすべてを忘れそうな支配的な笑み。あどけなさと同時に妖艶な、凄絶なとすら言えそうな美貌を備えている。
「ああ、ロゼレッタさま。あなたの望みは確かにうけたまわりました」
商人は山高帽を手で押さえ、口元を横に引き結んで笑う。
「タペストリを百枚。それでお望みのものをお渡ししましょう」
「百枚……」
それはこの村。ゴーと織物の村であるラウルバンの村の数年分もの生産量。
一人で織り上げるとなれば。
それは、想像がつかない。
どれほどの工程数なのか、作業量なのか、日数なのか。想像を積み上げることすらできないほどの量。果てがあるのかも分からぬ大海原に漕ぎ出すような心地。
「用意できますか?」
「わかりました」
ロゼレッタは震える唇でそう言う。寒さのためか、あるいは己の歩むであろう道のあまりの長さのためか。
「図柄のご希望は、ありますか」
「おお、そうですね、花園をお願いいたします。それも、すべて異なる花園を描いて欲しいのです」
「花園……ですね。わかりました」
「では、完成したらまたお呼びくださいますよう。いつでも参りますとも」
商人はきびすを返し、待たせていた馬へと向かう。
それはとても大きくて立派な馬であり、待つ間に身じろぎするどころか、尻尾すら動かさなかった。だがその内側には強い力がみなぎるかのようで、体からうっすらと蒸気が上がっていた。
「商人さま、お名前は」
「アルム、と申します」
アルム。
透明で美しく、隙のない名前、そんな印象を受けた。
夏が遠ざかって久しく、冬は年を経るごとに厳しさを増す。そんな白めいた景色へと馬が歩いていく。
その姿が消えると、商人の顔の印象が薄らぐような気がした。
美しいという記憶はあったけれど、よく思い出せない。今のすべてが己の空想のような、作り事の世界だったかのような。
頭を振る。何一つ夢ではない。
タペストリを織らねばならない。ゴーを飼って、毛を刈って、ミルクを絞って、己の命も繋がねばならない。
ラウルバンの村には、もう冬守りは一人だけなのだから。
カッタヒルはもういないのだから。
※
「気温が上がらない……本当なら夏の盛りなのに」
水銀の温度計は青白い目盛りから動かない。ラウルバンの近郊にある雑木林は下生えが枯れ始め、乾いた白っぽい草ばかりになりつつある。
ゴーは寒冷に強く、冬の灰色の草でも食べるけれど、これからはそんな草すら手に入るかどうか怪しくなってきた。
まずは当面の飼い葉を集めねばならなかった。ラウルバンの村にはほかにもたくさんの厩舎があり、ゴーはいなかったけれど飼い葉や寝藁はだいぶ残されていた。ロゼレッタは己の身長よりも大きいフォークでそれらを集め、自分の厩舎の近くへ積み上げる。
ゴーは牛ほどは食べないけれど、それでも1日にかなりの飼料を食べる。水も飲む。村全体の飼い葉を集めても、当面、という言葉にも足らないようだった。
そして、いつ世界が厳冬に染まるか分からない。ゴーたちを寒さから守る場所を作る必要があった。
大量のレンガが必要だった。土を捏ねて草を混ぜ、寒風の中で干せば日干しレンガとなる。数万個ものレンガが用意され、それはゴーを飼っていた小屋の横に積まれていく。
レンガの壁というよりは土壁に近く、厚さは30センチほど、高さは2メートルほど。広さは10頭のゴーが歩き回れるほど。
屋根には木材を格子状に組んで、鉛ガラスをはめこんでいく。大工仕事もガラス作りも初めてだったロゼレッタであったが、村に残っていた本を読み、試行錯誤を重ねて作り続ける。
大型のストーブも作る。長く燃えるという黒槍樹の薪をくべて、囲われた空間を暖める。そうして生まれるのはゴーのための温室である。
だが駄目だった。火は空気を吸って燃え上がり、煙突から熱を放出する。そのため温められた空気のほとんどが煙突から逃げていくことになる。
温室の内部は空気が薄まり、出入り口から、あるいはいくつかの吸気口から冷たい風が流れ込んでくる。すでに春と呼べる季節も遠ざかり、山からは雪が消えることはない。冷たい風は身を切るかのようで、ゴーたちは温室の隅に固まってしまった。
「……取り入れる空気も温めないと」
これは温室を二重にすることで解決した。温室の隣に空気孔で繋がれた小さな部屋を作り、そこでも火を焚く。それによってゴーたちの温室に暖かな空気が得られた。
温室の中ではわずかに草が育ち、ゴーたちはのろのろと動いてそれを食べていた。
欲を言えばもっと温室を広げ、自然に生える草だけでゴーの食事をまかないたい。だがそれは、ラウルバンの村よりも大きな温室が必要だろう。
ゴーたちの食べ物はいくらあっても足りなかった。ロゼレッタは雪を踏んで森へと出かけ、まだ残っていた草などを背負い籠に詰めて戻る。
ヒイラギやナラの若葉を集め、白樺の柔らかい樹皮を削ぎ取ってゴーたちに与える。
ゴーたちはカンナくずなども食べた。柔らかいマツの木などにカンナをかけ、その紙のようなカンナくずを樽に入れ、水とゴーの乳をたっぷり入れて数週間おく。するとカンナくずが柔らかくなり、ゴーの食べ物となる。
だがそういった仕事を行っても、10頭のゴーを飼うのは大変なことだった。
ゴーがおとなしく、豚などに比べれば食べる量が少ないとしても、それでも世話をすべき事は山のようにある。
時々はブラシをかけてやらねばならない。虫がたかってないか体毛をかき分けて調べねばならない。糞尿を処理せねばならない。爪にやすりをかけねばならない。
そして年に2度、毛を刈ってやらねばならない。
それは大仕事だった。毛刈りのハサミを研ぎ直して、ゴーが暴れないように慎重にハサミを入れる。ごわごわに固まっている毛の根元にハサミを入れて、少しずつ刈り取っていく。
木製のタライに毛が山盛りになって、それでもまだ1頭の5分の1にもならない。ゴーをなだめながら毛を刈っていく。
刈った毛は不純物が多いため、大量の水で洗う。井戸は水量が下がってきた。どこかで水脈が凍り付けば枯れるだろう。
「雪を溶かして水を作らないと……大きなかまどがいるね。金属製の容器も」
そんなことをつぶやきながら毛を洗う。
洗った毛は紬車で紡いでいく。足踏み式のもので、作れる糸は一晩で一束。作った糸は染色する。染色は少量ならば台所でもできるが、村には専用の工房もあった。そこを使わせてもらう。
村には遠い街から取り寄せた染料もたくさん残っていたが、百枚のタペストリのためには足りなかった。セランの青いつる草。バショウコウボクの赤い花芯。村はずれの泥から採取できる紺色の染料。他にも虫や鉱石などを集め、染め物の本を紐解いて、糸束を1本ずつ染めていく。
その間もやるべきことは無数にあった。ゴーは何度か病気になったし、1頭が死んだかと思えばすぐに別のゴーのお産が始まったりもした。吹雪が来て村の建物が壊れたこともあり、それは補修せねばならなかった。森に黒槍樹の苗木を植えねばならなかったし、魚を捕るための壺罠も毎日設置し、毎日回収せねばならなかった。川はもうすぐ完全に凍りつきそうだった。魚は燻製にするか、雪を詰めた樽の中に入れて、氷室に保存した。
その間にも少しずつ温室を広げた。温室にはわずかに牧草も生えたが、ゴーに少しでも広い環境を与えてやるほうが大切だった。積み上げた日干しレンガは数十万個にもなり、それは時々は崩れて、その補修には数日かかった。温室に熱を与えるためのストーブは三台になり、熱を効率よく伝えるために煙突などの改良を続けた。
染め糸は少しずつ増えていった。ロゼレッタの機織り小屋には数千本もの糸束が並び、機織りのための図案と糸組みの工程図も作成する。紙が無かったため、木くずをすいて簡単な紙を作らねばならなかった。
ゴーたちの飼育は少し安定しだした。毛刈りのハサミは大きなものを作り、飼い葉おけを洗う水場も改良した。長年をともにしたゴーたちは従順で、毛を刈るときも声一つあげなくなった。乳の張った雌のゴーは何も言わずともロゼレッタに寄ってきて、ミルクを絞ってくれとねだった。
ロゼレッタはミルクを使ってチーズを作り、バターを作り、また年に一度か二度はゴーの肉を食べることもあった。数日をかけてその肉を解体し、保存のために燻製にして、内臓は塩漬けにして、皮をなめして温室の外側に貼った。
ゴーたちの厩舎の横に簡素な小屋があり、ロゼレッタはそこを寝床としていた。ゴーたちが騒ぎ出したら様子を見なければならない。温室の火が絶えそうになれば薪をくべねばならない。
温室はやがて升目を描いて何部屋にもなった。一つの部屋では青菜などを育てた。一つの部屋では漬物を作った。
森の黒槍樹を伐り倒してゴーに運ばせた。薪材として細かく砕くための道具を作った。罠で捕らえた鳥を燻製にして、羽を布袋に詰めて寝具とした。
そして、機織りが始まった。
生活をどうにか安定させ、染め糸を用意するだけで十数年が経過していたが、それでも材料はまだまだ足りなかった。ラウルバンの村で作られるタペストリは大きくて立派なもので、百枚となれば糸は小屋に積み上げるほども必要だった。
「あの商人は、花園を願っていたかしら」
アルム。
その名が思い出される。
山高帽と夜会服に身を包み、黒い大きな馬に乗っていた商人。
思い出してみれば、それはあまりにも風変わりだった。村を訪れていた行商人とはまるで違う、優雅で浮世離れした姿。丁寧な物腰と美しい声。そのことを覚えている。
美しすぎて、本当にあったこととは信じられない。だが自分は十数年をかけて用意をしてきたのだ。商人に出会った、その日から。
機を織る。ゴーの世話をして、風化していく村の建物を少しずつ補修して、己の面倒も見ながらの機織り。
糸束を右から左に、左から右にと放り投げては縦糸に編み込んでいく。とんとんと織り機を動かす音が響く。
最初の頃は1日に1時間も織れなかった。ゴーの鳴き声が気になって様子を見に行ったり、温室のストーブに薪をくべねばならなかったり、あるいは眠気のために手順を間違えたり。
作業の時間はだんだんと伸びていき、完成したタペストリも二枚、三枚と増えていく。
永い冬は、いつまでも終わらず。
本当の苦難は、これからが始まりだった。